飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

4 愛の法則から見たパートナーとの関係1

2015-02-10 19:03:28 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その4


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

 

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。

そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

 

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

 

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

 

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。

でも、

 

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


さて、

いつもの蛇足ながら・・・。

真理を求める人間は、

玉ねぎの皮を一枚一枚はぎ取りながら、

それを求める。


最終的に取り除くと、そこは虚空に至るわけである。

見えない。

触ることも感じることも出来ない世界がある。

真理は、

形を持って現れてはくれないのである。


天啓でなければ、真理に到達し得ないジレンマがある。

見る、触る、感じる世界にこそ、

真理は存在するからである。

 

【転載開始】

4 愛の法則から見たパートナーとの関係1

 

愛の法則から見たパートナーとの関係

 
*人が不幸に感じる最大の要因の一つが、パートナーとの関係であるように見えます。相手が見つからないと悩む人もいますし、自分たちの関係が不幸せなために苦しむ人もいます。パートナーとの関係で、幸せでない人たちがこんなに多いのはどうしてですか?

 それは二人の間に、本物のパートナーの愛の感情というものが存在していないからだ。または、エゴの欠点が愛の感情を抑えつけたり、あるいは、その二つのことが同時に起こるからだ。

*パートナーとの関係では、どうしたら二人が幸せになれるでしょうか?

 パートナーとの関係で完全に幸せになるには、二人の内面が完璧に似通っていて、両想いで、自由な、真の愛の感情が存在している場合に限られる。しかしこのケースは、君たちの世界ではほとんどお目にかかれない。

*それはなぜでしょうか?

 それはパートナーとの関係において、エゴや必要性が勝ってしまっているからだ。また大半の人が、自分と似た存在をはっきりと認識できるほど愛の能力を発展させていないので、その人に対する愛情を自覚して目覚めさせ、そのために闘う勇気を持たない。
*自分と似た存在を認識するというのは、双子の魂のことを指しているのですか?
 
 
 そうだ。もっとも、双子の魂というよりも相似の魂と呼んだ方が正確なのだが。

*それは、どうしてですか?
 
  なぜなら、君たちは双子という言葉から全く同じものを連想しがちで、双子の魂はすべてにおいてそっくりの瓜二つだと思ってしまうが、そうではない。双子の 魂、つまり相似の魂は、あえて定義するならば、「霊的な出産」となる同じ創造の時を共にした存在だ。それらは、愛で結びついていられるように同じ瞬間に誕 生した、お互いを完全に補い合える魂なのだ。だが同時に生まれても、そっくりな魂であるわけではない。

*同じ時に創造されても、そっくり同じとならないのはどうしてですか?

 なぜなら、似通った魂といえども同一の自由意志を共有しているわけではないからだ。どの魂も自分で決断できるため、個々の魂の進化のプロセスが必ず違ってきて、それぞれが独自の個性を持つこととなる。そうして、全部の面において差異が現れててくる。

*進化のレベルが同じでない、ということですか?

  似ていることが多いが、全く同じというのは不可能だ。個々が独自の自由意志を持ち、異なる体験をしていくからだ。たいていの場合はあまり大きな差はつかな いが、一つがもう片方の魂より進歩が速かったり、一方がある面で他方より成長していても別の面では反対だったり、そのようなことが各々の霊的な人格や進化 のレベルの違いとなって現れるのだ。まあ違いがあるとはいえ、似ているのだがね。

*それでは、カップルとして結びつく人が双子の魂同士の場合は、パートナーとの関係で、完璧に幸せになれるのでしょうか?

  お互いへの愛情が欠点を克服できるほど進化していれば、完全に幸福になれるだろう。相似の魂同志だから完璧だということではない。愛する能力があまり発展 していなければ、それぞれのエゴが台頭してきて、お互いの愛情や相似性が発揮できる障害となってしまう。そして、本当に幸福になるのを妨げてしまうのだ。

*自分の双子の魂が同時にこの世に生まれ出ていない、ということもあり得ますか?

 そういうこともある。

*それが本当なら、どうしてそういうことが起こり得るのか理解できません。つまり、同時に転生できない場合は、二つの魂がカップルとして結びついて幸せになる可能性を奪ってしまっていることになりませんか?

  そう言うのは、転生する人生の部分だけを見ているからだ。肉体の命というものは真の命の一瞬に過ぎないので、離れ離れでいるのは一時的なのだと思い出して おくれ。転生して過ごす人生というものは、魂の本当の生の一部に過ぎない。しかも、進化した魂たちは、転生と転生との間隔を空けるものなので、彼らにとっ ては非常に短い時間なのだ。

*でも、同時に生まれ変わることのない状況を選ぶのはなぜですか?

 それが、これらの魂たちが―この場合は相似の魂たちのことだが―自分たちの取り組みたい試練や使命に応じて選択したことだからだ。それでも、まるっきり引き離されているわけではない。転生した魂は、寝ている間に霊界に戻り、霊的次元に残った愛する者たちと多少なりとも再会できるからだ。出会えるのは相似の魂に限られず、同じ時に転生しなかった他の愛する者たちにも会える。
 実際には二人がそれぞれ別の次元から協力して、任務を遂行することになるのだ。

*生まれ変わった人は、寝ている間のそのような出会いを覚えているのでしょうか?

 大部分の人が自覚してはいないだろう。

*肉体を持たない自分の双子の魂と出会った時のことを覚えていられなければ、一体何の役に立つのでしょうか?

 体験したことを意識して覚えていられなくても、その人の内面は元気づけられるのだ。

*でも、少なくとも転生している者にとっては、そういうふうに生きるのはフラストレーションになりませんか。

 愛する者と暮らした後にその人が死ぬのを見て、物理的な次元に取り残されてしまう人のケースと同様、これも難しい試練ではある。だが我々が話しているケースでは、自分と相似の魂が別世界にいることに完全に気づくことはないので、大きな苦悩とはならない。

*そのことに気づける人はいるのでしょうか?

 敏感な人ならね。意識的にコンタクトすることも可能だろう。

*それなら、その人はもっと苦しむことになりますね?

 それはその人の進化レベルと、そのような状況を受容する心の準備がどれほど整っているかによる。
 そ れに同時に生まれ変わったとしても、相似の魂同士が永続して一緒にいることはたいそう難しいのだと知っておく必要がある。知り合うまでに、かなり時間がか かることもある。また、出会うことができたとしても、断固として愛情を守り抜く勇気がなかったり、まだエゴの方が優勢であるがために、多くの場合に一緒に いる努力をしないものなのだ。
 また、肉体を置き去る時が別々で、時間差があると、一人が霊的世界に戻っても、もう一人が物質界に残されてしまう。だが、この別離期間の間に、各々が自分の目標を果たすことができると、二人の再会は素晴らしいものとなる。

*霊界に戻った時に、自分の双子の魂がまた生まれ変わってしまったとしたら、どうなるのですか?

 転生というものはそれほど素早く起こるものではない。再び生まれ変わるまでに、アストラル次元でかなり長い時間を過ごすものだ。通常、物質界に戻る前に、相似の魂と再会して霊的次元で一緒に暮らす時間があるものだ。

*自分の双子の魂が別の次元にいると自覚すると、物質界でパートナーを作る障害となりますか

 いや、伴侶を失った者が新しい相手と一緒になるのと同じで、霊的な法則には何の違反ともならない。この世に生きる者は、自分の自由意志で決断できるので、パートナーを持つべきかどうか、自己の人生に関して良いと思うことをしていいのだ。

*別次元に残っている魂は、自分の双子の魂が地上で別の相手と一緒になっても、嫉妬しないのでしょうか?

 霊的世界では地上にいる時よりもずっと視野が広いので、嫉妬することはない。霊界の魂も状況を理解していて、相似の魂により幸せになれる決断をしてほしいと願っている。自分もその人との再会を望んでいるのは、もちろんのことだがね。

*でも、その人はそのパートナーとの関係で幸福になれるのでしょうか?

 それは、二人の類似性による。似ていれば、ある程度幸せにはなれるだろう。だが、満たすことのできない心の領域があることは確かだ。その人と完全に似通っているのは別の次元にいる相手なので、パートナーとの関係で文句なしに幸せになるのは無理だろう。

*では、両方の愛情をどのように共存させるのでしょうか。言いたいのは、つまり、霊界のパートナーとこの世でのパートナーとに感じる気持ちをどのように両立させるか、ということですが。解決策のないジレンマではないでしょうか?

 解決策は、状況を理解することにある。いずれにせよ、霊界で待っている、あるいは先に霊界に戻ってしまった霊的なパートナーに対する想いを苦しまないために忘れようとするのは、とんでもない誤ちだ。感情を否定すると余計に苦しむことになるからだ。
  また、地上のパートナーに、相似の魂に対してと同じ想いを抱かなければならないと思い込むことも、二番目の人に最初の人と同じ気持ちになれないがために罪 悪感を覚えることも間違いだ。なぜなら、愛の感情は完全に類似している時に生まれるもので、そうでなければ無理なのだ。これは誰のせいでもない。
  だが確かに、相似の魂との愛を知り、それを体験したことのある大変進化した魂たちは、他のどんな関係でも満たされないことを知っているので、別の相手と約 束をすることは少なく、再会の時を待つものだ。それに彼らは能力が高く敏感なので、二人がそれぞれ別々の次元に暮らしていても、連絡を取り合うことが可能 である。

*双子の魂が同時には転生する場合は、いつもカップルになろうとして生まれ変わるのでしょうか?
 
 それが普通だが、常にカップルとして結びつこうとして転生するわけではない。

*双子の魂は、この世では同じような年齢でなければならないのでしょうか? それとも、30歳以上離れていることもあり得ますか?

 それは様々だ。年齢差がとても大きい場合も、少ないこともあり得る。転生の時期や状況は生まれ出る前に決めるものだが、すべてに理由があるのだ。

*歳の差は、カップルになる障害とはならないのですか?

 一方が大人で、もう片方がまだ子どもである場合には問題となろうが、二人が大人になれば関係なくなる。

*双子の魂は、絶対にカップルになれない状況で、つまりお母さんと息子とか兄弟姉妹として、生まれ変わることもありますか?

 そう、親子であったり、兄弟姉妹だったりと、無数のケースがあり得るものだ。

*そういう状況では、別の相手が見つけられなくなりませんか?

 もちろんそんなことはない。だが、人生のパートナーとして選んだ人よりも、家族の一員として生まれた自分の相似の魂と、より相性がいいのは確かだ。

 


3.『愛の法則』「愛の法則」

2015-02-10 17:13:59 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その3

 

言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

 

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。

そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

 

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。

 

でも、

 

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

 

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ユ(ヨ)ッキーさんより※これからヨッキーさんに改>


さて、

今回は、天啓とは何かということを少し書いてみたい。

不必要な方は、転載記事に飛んで下さっても一向に差し支えない。


天啓とは、読んで字のごとく、天から授けられる知恵のことである。

スピリチュアルメッセージと同じようなものだ。

方法はいろいろあるが、

何れにしても、まさに天からのものかは吟味する必要があるが、

インスピレーションから、

霊言や、自動書記や、様々だ。


これなくして真理は無いと思っているが、

偉大な発明発見、芸術etc.もほとんどがそれに依っている。

気づかないだけである。


この「愛の法則」もまさにそうである。

そう判断しているだけかも知れないが、

これは転載者のインスピレーションである。

ご判断は、ご各位に委ねたい。


そして、最後に一言・・・。

真理は、人間が考えたり、作ったりするものではなく、

在るものだからである。

すべての真理は、天より啓かれる。



 

【転載開始】

3『愛の法則』「愛の法則」


「愛の法則」

·        魂の目的は、自身の自由な決断で、無条件の愛の経験を通して、幸福になることである。

·        愛なくして進化はなく、愛なくして叡智はなく、愛なくして幸福はない。 

·        愛は、霊的宇宙を調和し躍動させる力である。



*あなたから見て、人間にとって最も大事な志は何ですか?

 永続的な真の幸福に至ることだ。
 
*その幸福に達するための秘訣は何でしょうか?
 
 愛することだ。だが、これは何も秘密ではない。それぞれの魂は、つまり誰もが、幸せになるためには愛が必要なことを直感的に知っている。進化の行程は初めから終わりまで、幸せになるために愛の能力を高めるという目的のためにある。

*どのような道を辿ればいいのでしょう? つまり、愛において成長したければ、どこから手がければいいのでしょうか?

 道はまず自分から始まり、そして他者へと続いている。要は、他の人びとを愛することができるためには、自分自身を愛さなければならないということだ。

*誰もが辿るべき道を知っているのだとしたら、僕たちがまだ目標に達していないのはなぜでしょう? 僕の印象では、幸福だと言い切れる人は世界にほとんどいないようなのですが。

 たやすく短い道だと思ってはならない。自分自身を愛し他者を愛するプロセスでは、最終目的地に到達するために幾つもの段階を通らなければならない。ゴールは、自分を愛するように無条件でどんな人でも愛することだ。
 イエスは「汝の隣人を自分のごとく愛しなさい」という簡潔だが深遠なメッセージに、このことを要約してみせた。それは、無数の転生を繰り返して多くの経験を積むこととなる道程だ。
 これは二重の修行となる。一方では、愛の感情を発達させねばならず、もう片方では、エゴ(我欲)の一掃に努めねばならない。
 前作では、霊的な視点から見たエゴの様々な段階-虚栄心・自尊心・自負心―に ついてと、それぞれの段階でエゴがどのように顕現するかについて説明した。だが、今回は、愛の感情について深めて話してみたいと思う。愛というものが、ど のように自己から他者へと少しずつ広がっていくかだ。他者とは初めは一番身近な人たちであるが、最終的には我々と全く縁のない人たちへと向かうのだ。
 カップルの愛や家族内(親子間)の愛、人間関係と社会における愛について話そう。また、エゴというものがどのように愛のすきまにつけ入り歪め、人を惑わせて愛と幸福の道から逸らせてしまい、甚大な害を及ぼすのかについても分析するとしょう。
 愛を育むにあたっての最大の敵がエゴであるが、エゴは多くの様相を有している。それらをよく把握しておかなければ、私たちは進化から外れてしまい、羊の皮を被った狼のような、愛を偽ったエゴに流されているだけなのに、愛しているのだと思い込むに至ってしまう。 

*でも、自分を愛するとはどういうことですか。

 自由な愛の感情に基づいて行動するということだ。つまり、人生における重要な決断を心で感じることに従って下すことができるように、自分の愛情の欲求と感情とを認めて、それらを人生の牽引力となるように発展させていくことだ。

*では、他者を愛するというのは?

 他 者を自分のように感じることだ。相手を自分自身のように思えると、その人の幸せを自分のことのように喜ぶことができ、その人の痛みを自分のもののように感 じるものだ。他者を愛すると、自分に対して願うように、その人にも幸せになってほしいと思い、幸福になる手助けをするものだし、自分の行為によって相手が 苦しんだり傷つかないように努めるものだ。
 
*苦しみはどこで生まれるのでしょうか?

 苦 しみは他者のエゴ的な行為が原因であることも、自分自身のエゴに起因する場合もある。つまり、他者の利己的な行動で傷つけられて苦しむ時もあるし、我々自 身のエゴが相手の行為を誤って裁いてしまい、実際には我々の要求や期待通りに動いてくれなかっただけなのに、それを自分の苦悩のせいにしてしまう時があ る。
 また、自己の感情を抑圧して素直に生きられない場合に苦しむこともあるが、これは、より激しい苦悩の原因ともなる。

*どうしたら他者の行為が原因となって苦しんでいるのか、それとも自分の姿勢が原因なのかを見分けることができるのですか?

 自分に正直になってみるのだ。正直にならない限り、進歩はできない。現実をありのままに受け容れて、認めた通りに自分を変えようとする代わりに、自分のエゴ的行為や他者のエゴ的行為を正当化したり、自然な感情を抑圧する口実として、現実を歪曲してしまうからだ。 

*では、他の人たちが僕たちの行為で苦しんでいるのかは、どうやって知ることができるのですか? 傷つけようなどと思っていなくても他の人を苦しめてしまう場合もありませんか? このような場合はどうしたらいいのでしょう?

 原因が、我々自身のエゴ的な行為なのか、他者のエゴによるのか、それとも感情を抑えつけているためなのかを決めつける前に、苦しみがどこから生じているのかを見極めなければならない。
  自分の愛する者でも、避けてあげることのできない苦しみというものもある。それらは彼ら自身のエゴが誘因となって人生に現れ出るもので、過去の自己のエゴ 的な行為の代償と向き合っているケースだ。このような場合に、私たちがしてあげられる最善のことは、ひょっとすると彼ら自身のエゴ的な行為が原因で苦しん でいるのかもしれないとわかるように上手く気づかせてあげ、他の人に同じような苦痛を味あわせないようにその経験を活かしてもらうことなのだ。
  生まれる前に彼ら自身が選んだ、厳しい試練に直面したために出現する苦悩というのもあるのだが、これらの逆境も霊的な学びのプロセスの一部である。このよ うな場合には、そういう経験をしている人を元気づけて、上手く関門を通過できるように勇気と希望を与えてあげて、その試練には意味のあることと、乗り越え られたら霊的に成長できることを気づかせてあげる。

*第三者から、僕たちがその人を苦しめていることを伝えられた場合には、どう対処すべきですか?

 正直にありのままを見るのだ。最初に、その人に対する我々の態度を分析してみて、自分のエゴを認識できるかどうかを見てみる。
  もし相手に痛手や苦痛を与えるような我々自身のエゴ的な態度に気づいたならば、そのエゴ的な態度を修正するのは我々の方だ。我々自身の利己的な言動を認識 するということは、霊的な学びの一環である。なぜなら人は多くの場合に、他者を傷つけていることも知らずに、利己的な行動を取ってしまうからだ。だから、 相手に与えてしまった苦痛を感受するためにも、自分の行為の結果を体験することが必要となる。
 その人に対する自分の愛情を抑えているがために相手が苦しむというケースもある。感情を抑制することは、自分自身を傷つけるだけではなく、他の人をも傷つけることになるからだ。これはつまり、愛が与えられないので、苦しんでいるのだ。
  相手の苦悩が我々のエゴによるものではなく、その人自身のものであること、つまり、その人の現実の受け留め方が間違っている可能性も検証してみる必要があ る。このような場合は、その人にとって物事が思い通りにいかなかったり、我々がその要求や期待を満たさなかったために、その人自身のエゴ的な態度が、不当 にも、我々の行動を利己的に見せているのである。

*この最後のケースでは、相手の欲求を満たすべきでしょうか? 苦悩を回避してあげるために、その人の期待しているものを与えてあげるべきか、ということですが。

  常識を使って、相手の求めているものが公正で誠実なものなのか、そして実際にそれを叶えてあげることが君たちに可能なのかを判断してごらん。いずれにせ よ、強要されるべきではない。なぜなら、何かを要求するという行為自体が利己的であるからだ。少なくてもお願い事という形を取ってもらわないといけない し、ノーと答えても根に持たれてはならならい。でないと、自由意志の侵害となってしまう。
 どんな場合においても、他者を悦ばせるだけのために、したくもないことを義務としてするのはよくない。自分の意志や自由を放棄しても自己成長できないし、相手の成長を助けることにもならないので、無駄に苦しむだけだ。相手のエゴを満たしてやっているだけになる。
 たとえるとすれば、ちゃんと歩けるくせに足が不自由なふりをしている人を背中にしょってやるのと同じで、無益な努力なのだ。独りでできることをやってあげたとしても、それは不必要に骨を折って、その人を満足させているだけだ。

*でも、好きな人のためには犠牲を払いなさい、という意見の人もいますよ。自分の幸せよりも愛する人の幸福を優先すべき、ということですが、これについてはどう思われますか?

  そういうふうに考えてしまうのは間違いだ。人の幸せというものは、別の人の犠牲の上に成り立つものではないからだ。天が幸福になる権利を放棄しなさいと誰 かに言ったとしたら、それは不公平だろう。すべての霊的な存在は幸せになる資格があるが、そのことによって他の人の権利が減ってしまってはならない。その ため、他者のために自分の幸せを諦めることも、自分が恩恵を得るために他の人に犠牲になってほしいと求めることも、どちらも公正ではない。幸せになる権利 を損ねてしまうものは、愛とは言えずにエゴなのだ。
  混乱してしまうのは、君たちが愛という概念を誤って解釈しているからだ。君たちの愛し方というものは、ほとんどの場合においてエゴまみれなので、そのた め、他の人が幸せになるためには君たち自身の幸福の権利を放棄すべきだと考えたり、自分たちの幸せのためになら、他の人にそれを断念させる資格があると 思ってしまう。
 だから、真実の愛の感情とエゴが顕現したまがいものとを見分けることができるように、我々がどのように愛しているのかをよく分析してみることが大事である。そうすれば、不必要な自己犠牲や断念をしたり、またそれらを他者に要求したりという勘違いをしなくなる。

*でも、愛する人のためには、時にはある物事を断念することが必要だ、というのも正しいのではないでしょうか?

 それは、断念という言葉が君たちにとって何を意味するのか、ということによる。愛のためにエゴを放棄することは善いことである。だが、愛によって愛を放棄するのには意味がない。

*あなたの言われることがよくわかりません。わかりやすく例を挙げてくださいませんか?

 子どもを持とうか考えている夫婦を想像してごらん。この二人には子どもを持つということが、物的な気紛れを放棄したりレジャーに費やす時間を断念することに思われる。今後は子どもの扶養にお金がかかるし、時間も割かれるからだ。
  彼らがこの状況を自己犠牲的に感じるのは、愛よりもエゴが勝ってしまっているために、物の所有や安楽さを重視してしまい、愛情を大事にできないからだ。だ が、自分たちの子どもへの愛によって、気紛れを減らせれば、失うものはエゴであるので、彼らにとっては良いことになる。

  これと全く違うのは、別の男性を愛しているのに、ある男性との間に子どもがいるために、その子のために愛してもいない人と我慢して一緒に暮らして、人生を 犠牲にしてしまう女性の場合だ。このケースが、間違って、愛によって愛を放棄してしまっているのだ。なぜなら、自分が我慢すれば、子どもがもっと幸せでい られると思い込んでしまっていて、自分の自由な感情を棄ててしまっているからだ。

*今お話しくださったようなケースでは、事情の違うありとあらゆる状況があり得るのだろうと考えさせられます。それらのすべてを鮮明に検証して、愛とエゴとを混同することなく、それぞれの場合でどう対処すべきなのかを知るのは難しいだろうと思います。
  あなたは、夫婦の関係について、それから子どもとの関係について話されました。個人的な人間関係で生まれるこのような状況を詳しく分析してみることは、特 に僕にとって、そして皆にとって有益だと思います。なぜなら、これはほぼ全員に関係していることですが、明晰な霊的意識でどう対処すべきなのかがわからな いので、多くの人が悩んでいると思うのです。これだけで本が一冊書けそうですね。

  そのようなことをはっきりさせようとして、今話しているのだよ。確かに人間の感情的な苦悩の大半が、パートナーとの関係や家族関係(親子間、兄弟間など) といった個人的な人間関係と結びついている。だから、人間関係を集中的に取り扱ってみるのはいいことだ。では、どこから始めるとするかね?

*選べるのでしたら、パートナーとの関係からにしたいです。

 それなら、始めたまえ。質問を注意深く聞いているから。

 


2.愛の法則-プロローグ-

2015-02-10 16:19:08 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その2

 

言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

 

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。

そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

 

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい。

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。

でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。



さて、

初版本「魂の法則」もそうであるが、

幽体離脱乃至は、天啓を受けて書かれたものであるということだ。

信じるか信じないかは別にして、

その意味は、実に大きい。


一粒の麦は、地に落ちて芽を出し、実り、多くの麦となる。

あの小さな麦の一粒に、

全ての情報が込められているからだ。

それをDNAと呼ぼうがなんと言おうが、

全ての情報である。

DNAは、最近発見されたった一つの真理であるに過ぎない。


それ以外の真理が無いということは、考えられない。


ましてや、

人間が数多くの可能性を秘めているとしたら、

麦の比ではあるまい。

それが魂という存在である。


いくら学問が進んでも、

解き明かすことができない存在は魂の法則である。

それが明かされるのは、

天啓以外にない。

人間は創られた存在であるからである。


麦はDNAから始めるのもよかろうが、

肝腎の人間は、自ら謙虚に魂の存在に気づくことが先決である。

そして、

それは解き放たれる・・・。


麦一粒すら、創ることは出来ない人間は、

自らを先ず知らなければならない。

それは、

ここに一端が啓(ひらか)れているからだ。

天啓とはそういうことである。

天から啓(ひらか)れた書が、「魂の法則」そして、「愛の法則」である。


信じる信じないに関わらず、その内容を吟味してみる価値がある。

 


【転載開始】

2『愛の法則』プロローグ

 

プロローグ

  君は幸せだと言い切れるだろうか?
 いや、まだ答えないでほしい。明るく答えられるような質問じゃないし、自分に正直に答えてもらいたいからだ。僕が期待する返事は何だろうと考えながら、うわべを取り繕った回答をする必要はない。
 それに、正直になってほしいというのは、僕に対してではない。僕のことは簡単に騙せるだろうし、そうしたとしても何の問題はない。自分を偽らずに本当のことを答えてほしいのは、この問いかけへの答えで、君の人生全体が左右されてしまうからだ。
 なぜ、そんなに大事なものなのか、だって?
 それは、僕が、すべての人の願いは真に幸せになることだと思っているからだ。それとも、君は幸せになりたいとは思っていないのだろうか。
 でも注意して見てみると、大多数の人が幸福そうには見えない。幸せ感が溢れ出ていないからだ。それはなぜだろうか? もしかしたら僕たちは、どうしたら幸せになれるのかを知らないのかもしれない。
 一体、幸せになることなどできるのだろうか? できるとしたら、どうやって?
 どうしたら幸福になれるのだろうか? という問いは誰もが一度はしたことがある筈だ。人は感覚的に、幸せになることは愛を経験することだと思っている。それはカップルの愛という意味だけれど、僕たちは、自分を幸せにしてくれる愛に出会うことを夢見がちだ。
  でも中には、 そんなことはない、愛が幸せをもたらしてくれることなどない、と反論する人もいると思う。自分はすごく愛したことがあるけれど、その愛によって苦しんだか ら、と。このような人たちは愛を苦悩と結びつけて考えてしまって、苦しまないで済むために愛さないようになってしまう。
 だけど、一体、愛とはなんだろう? また、苦悩とはどういうものだろうか? 僕たちは本当に愛というものを理解しているのだろうか?
この本を読みながら、このことについて考える時間はたっぷりあると思うので、これらの疑問を投げかけておいて、話を変えたいと思う。

  初めての幽体 離脱を経験して霊的世界とコンタクトできた後、抑えがたい郷愁が僕の中で目覚めると同時に、僕は、現実の世界への興味を失ってしまった。世の中と人生とに 対する僕の視点がものすごく変わってしまったのだ。以前はわからなかったが、初めて体外に出る経験をした後では、この世界というものが、その中で生まれて から死ぬまで同じ役を演じ続けされる、一種の劇場のように思えてきた。人はあまりにも長いこと同じ作品ばかりを繰り返しているので、しまいには自分が作品 中の人物であると信じ込んでしまい、それ以外の現実は存在しないと思ってしまうのだろう。
  改めて眺めて みると、僕たちは皆、真の現実に気づけずに俗っぽい雑事にとらわれて、機械的に動いているだけのロボットのようだった。重要視していることは、今生でいか に成功を収めるか、ということで、それはどうやって社会的に認められて、名声、評判、富、権力などを得るかということだった。
 大半の人は、幸せになれるかがこれで決まってしまうかのごとく、それらを手に入れることに全力を費やす。でも他の人が夢中になっていることはすべて、僕には何の意味もなかった。どれも、霊的な世界で感じたような幸せを与えてくれそうになかったからだ。 
  一方、これと は別な心配が僕を落ち着かない気分にさせていた。それは、霊的な世界で体験したことを全部細部に至るまで、完全に記憶していられるだろうか、ということ だった。なぜなら、覚えていたことはすべて記録していたものの、体験したこと全部を完璧に思い出して、書き留めておくことは不可能だったからだ。そのた め、体の外に抜け出すためにリラックスしようとしても、できなくなった。完全にリラックスする必要があるのに、頭に浮かぶとりとめのない思考に邪魔されて しまうのだ。僕の意識が、体外離脱を可能にしてくれるほど、落ち着いて寛いではいなかったからだ。僕は途方に暮れ、余計に神経質になってしまった。
 こんな状態で、僕はリラックスの努力を重ねていた。ある日、真っ暗で静まり返った部屋に独り閉じこもって、頭に浮かぶ雑念を払いながらベッドに横たわっていると、はっきりと「心配するな」という声が聞こえた。
 寝ていて突然起こされた時のように、びっくり仰天した。ギョッとして、目を開けて周りを見回したが、暗いままだった。手探りで明かりをつけてみても、誰もいなかったし、何の異変もなかった。ドアを開け閉めする音も聞こえなかったし、他の音も一切していなかった。
 それなら「思い過ごしだろうか」と考えて、もう一度電気を消して、またベットに横になった。そして、呼吸法によって再度リラックスしようとしていたのだが、それほど経たずに、またはっきりと「心配するな」と聞こえた。
  二回目はそれ ほど驚かずに済んだので、起き上がりはしないで、身を固めたまま、次に何が起こるのかを待ってみた。今回は、その声が、実際には僕の耳の中で聞こえていな かったことに気づいたからだ。明瞭な思考のように、むしろ頭の中で話しかけられたのだったが、僕自身のものではなかった。
 「誰ですか?」と、声には出さずに訊いてみた。答えが返ってくるとは思わなかったが、試してみたのだ。返事はすぐに戻ってはこなかった。2~3分経っても何も起こらなかったので、脱力した瞬間、
 「疑い深い性格だね。あんなにいろいろ体験したのに、まだ疑うのかね? 一体、私を誰だと思うのかい?」と聞こえた。
 「まさか、イザヤ?」と口にした。
 「私に訊かないで、自分で答えてごらん」
 「あなたのテレパシーの声だとわかります。でも、あなたを見ることができないので、疑ってしまうのです」
 「考えようとしないで感じ取るように。そうすれば疑いも晴れるだろう。私を見ることができないのは、君が身体に結びついたままだからだ。でも、私のことがちゃんと聞こえるようだから、それで君がしたいことには充分だろう」
 「僕がしたいことですって? 何のことだかわかりません」
 「君があることを心配していたから、心配しなさんな、と答えたのだ」
 「本当ですか? なんで僕が心配していないといけないのですか?」
 「自分で考えてごらん。それとも、なぞなぞをして遊ぶとするかね。
そうしても、私が勝つことは確かだよ。なにしろ私は思考を読めるからね。でも有利な条件を貰うのは好きではないので、また別の機会にしたいね」
 「ええと、幾つか思い悩むことがあるんです。一つには、人びとが苦しんでいるのを見ると、それが気掛かりです」
 「人の苦しみは今に始まったことではないが、以前はそれほど気に留めていなかったね」
 「以前は気づかなかったのです。正確には、今ほど意識することがなかったのです」
  「もちろんだ とも。なぜなら、今は君の感受性が目覚めているので、目にしなくても、感じ取って自分のことのように思うのだ。人びとは前から苦しんでいたのだが、君はそ れに気づけないでいたので、影響されなかったのだ。でも今は意識しているので、動揺している。それが普通だ。しかし、君が悩んだところで、人びとの苦しみ がなくなるわけではない」
  「それはそうなのですが、何か役立つことをしたいのです。でも、無力に感じるのです。ベスタとジュノーと一緒にいた時にこの話が出たことは覚えているので すが。つまり、この世の中が実際にどのように機能しているのか―霊性についてとか、人が進化して幸せになるためには愛する能力を高めなければいけないこと など―を皆に伝えることを言っているのですが、どこから手をつけたらいいのか見当がつかないのです」
 「それなら、初めから始めることだよ、はっはっは」
 笑われると、僕が大真面目に話していることをイザヤにからかわれた気がして少しムッとしたけれど、イザヤはすぐにそれに気づいて、
  「怒りなさん な。私にとって大事でない、などと思わないでほしい。大事だから、今ここに来ているのだ。君の緊張がほぐれるように、少し笑わせてみたかっただけだ。ユー モアと愛との結びつきを知らないのかね? 笑いというものは、愛と同じく、内面の至福と悦びが顕れ出たものだ」
 「すみません、少し過敏になっているので」
 「構わんよ。君の力になるためにここに来ていると言っただろう」
  「馬鹿げたこ とに思われるかもしれませんが、このメッセージをどのように伝えたらいいのかわからないのです。それに、体験したことを思い出せなくなることも心配なので す。しかも、人が必要としていることを全部教えてあげられるほど自分が充分に理解していないとも感じています。僕にはまだ準備ができていません。僕自身、 疑問だらけなんです。自分がはっきりわかっていないのに、どうやって他の人たちに説明してあげることができると言うのでしょうか?」
 「私が手伝うのだから、できる筈だよ」
 「僕が言いたいことがわかってもらえないのだと思います。助けていただいたとしても、その後で僕が身体に戻ってきた時に、教えたもらったことを覚えていられるかどうかが心配なのです」
 「言いたいことはわかるよ。でも、圧倒されているのをみると、君が私をわかっていないようだ。前にも言った通り、そのことは心配しなさんな。どんな問題にも解決策はあるし、この時代であればなおさらだ。ところで、話はできるかね?」
 「何ですって? 意味がわかりません。なんで、今僕が話せるかどうかなんて訊くのですか? 一緒に話しているではないですか」
 「わからないかね。メンタルな会話のことを指しているのではない。今、私たちはテレパシーで交信しているのだよ。私が言いたいのは、君が自分の声を使って話ができるか、音声を出せるかどうかだ。今は君が身体に繫がったままでいることを忘れないでほしい」  
 「わかりません。試してみませんでした」
 「では、やってごらん。でも、気を逸らさないように」
  そこで、イザ ヤに言われた通りにしようとしたけれど、その時になって初めて、イザヤに指摘されたことに気づいた。意識していなかったので忘れていたが、まだ身体の中に いたのだった。イザヤが僕に声を出すように言った時になって初めて身体を感じたが、ほとんど感覚がなく、僕の言うことなど聞き入れそうになかった。全身が 麻痺し、しびれているようだった。しゃべろうと口を開けたが、声が出なかった。自分の身体の中にいたのに、動かすことができなかったのだ。
 「だめです」と、頭の中で伝えた。
 「ちょっと待ってごらん。少し手を貸してみるから」
  少しすると、 頭のてっぺんからむずむずしてきて、頭部に広がっていったが、それは柔らかな感触で心地よかった。そのくすぐったい感覚は、徐々に頭の中心から首の方へ降 りてきた。ボルテージの低い放電のようだったが、不快を感じるどころかともていい気持ちだった。それには、強くなったり弱くなったりする波があって、頭の 上部から首にかけて流れていった。このお陰で、他の身体の部分はまだ完全に麻痺したままだったが、頭部のしびれ感はなくなった。
 「これでどうだい」イザヤが言った。
 まだ口を動かすのは大変なことで、音も出せなかったが、今度はなんとか少しだけ動かせた。つばを飲み込むのがやっとだった。
 「とてもしんどい」と思った。
 「そのままやり続けるのだ」
 何の進展もないまま、そのまま5分ほど口や舌を動かし続けていたが、ようやく最後に聞き取れないほど小さい声を出すことができた。それは囁きというよりは、のどを鳴らしたようなかすかな音だった。
 「まだ私のことが聞こえるかね?」
 「ええ」と頭の中で答えた。
 「今日のところはこれで充分だ。また機会を見てこの練習をしていこう」
 「で、この練習の目的は何でしょうか?」
 「頭の中で私の声を聞きながら、君が話せるようになるためだ」
 「何のために?」
 「私が君に言うことを録音できるためにだ」
 「録音ですって?」
 「もちろんそうだ。君たちは声を記録する器具を持っていなかったかね? それを使うのだ。そうすれば、私たちが話すことを詳しく記録しておくことができるし、君がそれを覚えている必要もない。どうだい、君の問題はこれで解決だ」
 「録音してどうするのですか?」
 「どうするかまで教えなければならないのかね? 想像力というものを使えないのかい。君たちの世界では、伝えたいことがあってそれを人に知ってもらいたいと思う場合にどうするのだろうか?」
 「本と書くということですか?」
  「たとえば、 そういうことだ。皆の役に立ちたいと思っていたのだろう? この世の仕組みの実相を知ってもらって、幸せになってもらうために愛する能力を発達させてほし かったのではないのかね? 私もそれを願っているのだ。だから、自己の内面を覚醒させて何のために生まれてきたのかを思い出してもらう-それは他でもな い、愛の度量を大きくすることだが、それによって今よりも幸福になれるのだ-のに必要となる知識を君が皆に教えてあげられるように手伝おう。もっとも、た だ一つの本では不充分かもしれない。何冊か必要となるだろう。だが、物事には順番というものがある。よければ、今日は手始めに題名を考えてみよう。さあ、 覚えていられるだろうか。タイトルは『魂の法則』だ」
 「えっ!なぜ『魂の法則』というのですか?」
 「それに答えるのは、君がしゃべれるようになって録音ができるようになってからとしよう。後で忘れられてしまっては困るからね。君のトラウマの原因となるのは沢山だ。はっはっは」
 「全然面白くありません」
  「さて、前 もって伝えておきたいことがある。『魂の法則』の中の一つが『愛の法則』だと知っているかね? これが一番重要な法則だ。宇宙に内包されるものはすべて愛 を中心に存在しているからだ。そのため、この法則については話すことが沢山ある。『愛の法則』に関しては、一冊以上書き著すことが必要になるだろう」