あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その23
言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。
翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。
訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、
敢えて転載する理由は、
一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。
それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。
そして、
共感する拙ブログの願いでもあるからだ。
既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、
魂の法則 | |
ヴィセント・ギリェム | |
ナチュラルスピリット |
是非とも、手に取ってお読み頂きたい
尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。
でも、
一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、
座右の一冊となるだろう・・・。
<ヨッキーくんより>
ここまで読み進めて来た方で、
我が意を得たり、
と感ずる方も少なくないのではなかろうかと思う。
人間の霊性は、等しく天賦のものである。
その目覚めの高低は差があるとしても、
内在するものは等しい。
発露するには縁が必要であるから、
生まれた環境と地域により、
宗教に別があろうが、
その目指すものは一つであろう。
そこに人間の知と意が加わり、
差異が強調されているとしたら、
それに翻弄される必要はない。
多くの宗教は些細な差異を強調して対立する。
ISIS(イスラム国)等は、
その典型であるが、
その動機は、ほとんど政治的陰謀である。
そんなものに一喜一憂する必要は全くない。
何処とは言わないが、
宗派性に捉われる必要などないのである。
真実と真理に軸を置いて、
天賦の霊性に生きることが、
普遍の道であると納得した次第である
【転載開始】
23 愛の法則から見た十戒 5
その通り、正しいことではない。君の言うところの霊性を職業化したことによって、宗教や聖職者が存続することになったのだ。聖職者たちは、霊的な仕事らし きもの(儀式や崇拝に時間を割くことは霊的に無駄なことなので、実際には仕事とも呼べないが)をすることで世俗的な仕事を免れて、自分たちで稼げないお金 を信者や信徒から貰って食べていく必要があると人びとに思い込ませ、彼ら自身もその気になってしまった。
繰り返すが、霊的な仕事に専念できるように実際的な仕事を免除されることがあるなど、誰も信じてはならない。
*カトリック教会は、イエスやその使徒たちの例を見習ってそうしなければならない、と理屈をつけることでしょう。
一体どのような手本があるというのだ? イエスは大工の息子であり、一緒に住んでいる間は、父親の仕事場で働いていた。多忙な使命に取り組むと大工をする時間がなくなったのは事実だが、霊的なことで一度きりともお金を取ったことはないし、養ってほしいと頼んだこともない。
彼の使徒たちも、そんなことはしたことがない。各々が持っている物を提供し、家族や職業上の義務を投げ出した者はおらず、世俗的な仕事と霊性とを両立させ ていた。注目すべきは、使徒の中に一人としてユダヤ教の司祭がいなかったことだ。当時働いていなかったのは、ユダヤ教の聖職者だけだったのだ。
使徒たちは生存中、教会を組織することも、聖職者を名のることも、扶養してほしいと人に頼んだことも、一度もなかった。ただ質素に暮らし、持っている物を分かち合っていた。
イエスと使徒たちがユダヤ教の僧侶たちにそれほど睨まれたのは、彼らの宣教によって、ユダヤの聖職階層に最も収入をもたらす商売であった、動物の生贄のために寺院に行く人の数が随分減ってしまったからだ。
*この場合はカトリックのことですが、教会は何を間違って、創始者たちが行ったことや宣教したこととは裏腹に、ユダヤ教会と同じように成り果ててしまったのでしょうか?
すでに話してあるが、イエスもその使徒たちも、教会など一つとして設立していないし、そうする意図もなかった。そのような機関を創り上げたのは、先駆者たちが伝えてくれたメッセージを悪用した、後からやって来た者たちである。
君もまるで教会に独自の命があるかのような質問の仕方をするが、それを見ても、君たちが宗教機関というものをいかに重要視しているのかが伺える。実際に は、教会というものは存在していないのだ。教会独自の意志も良心も存在しないのだから。それゆえ、教会が善を成すこともなければ、悪を成すこともない。そ れは、ただ、特定の人間によって組織され、運営されている構造上の枠組みに過ぎない。内部の人びとは時代と共に移り変わるが、幸いなことに人の一生は短い ので、せいぜい何十年かしか権力にはしがみついていられない。
だから、違う質問をしたらどうか。人間はどうして、霊的な成長に役立てるために授けられた真の霊性のメッセージを、それと正反対のもの、つまり、自分が隷 属させられるドグマに変えてしまったのだろうかと、質問してみたらどうか。そのような教義は、人に自己の意志と自由を放棄させ、搾取や狂信、格差を増長し ている。
教会は、自己のエゴに流されてしまった者たちによって企てられ、組織され、歴史において存続してきた。実のところ、それは、霊性を求める人びとの潮流に よって手放さざるを得なくなった指揮権を力づくで奪い返して、以前の抑圧形態を再度導入したものに過ぎず、徐々にコントロールに成功したのだ。
*霊性を求める人びとの潮流によって手放さざるを得なくなった指揮権を力づくで奪い返して、以前の抑圧形態を再度導入したものに過ぎない、とはどういう意味ですか?
つまり、イエスの死後、継承者たちがその教えをあらゆる場所で普及させることに尽力したので、イエスの無条件の愛のメッセージは急激な広がりを見せた。そ のうちに、その無条件の愛のメッセージに賛同する人びとの数も、飛躍的に増えていった。イエスの教えは、人間同士の平等や兄弟愛を訴えていたので、それに よって自分たちのやり口がバレてしまうと思った時の権力者たちは脅威を感じ、幾人ものローマ皇帝が大規模な迫害を行った。しかし大虐殺にもかかわらず、キ リスト教徒と呼ばれることになった人たちの数は、止まることなく増え続けた。そこで、この流れを外圧で撲滅するのが不可能だと見た権力者たちは、内部に浸 入することで舵取りをして、進路を変えてやろうと決意したのだ。
この新しい戦略で最も際立つものの中に、コンスタンティヌス帝の治世のものがある。彼は自らキリスト教に改宗したとして、ローマ帝国全体の強制的な改宗を 布告したのである。しかし、これによって、すでに時の経過と共に作り変えられていたキリスト教は、それ以後は、より一層改変されてしまった。もう貧困者や 奴隷の信仰であってはならず、富と権力と相容れるものである必要があったが、そうではなかったので、丸ごと改造されてしまったのである。
このように、我々は、再び人類の諸悪の根源に行き着くことになる。一番の問題は、人間の利己心なのである。道徳の権威者だと自称したこれらの者は、そうい う利己的な魂であり、教会を維持して強大にするのが大事だと人びとに思わせ、神が喜ぶからと、そのために命を捧げたり他者の命を奪うことを奨励したのだ。 だがそれは、霊性の面で進化の乏しい人びとの無知、怖れ、狂信だけに支えられる大嘘である。
本当のことを知りなさい。君たちが教会と呼ぶ枠組みは、神にとっても霊的世界にとっても、何の意味もなさない。霊界にとって大切なのは、霊的な生命を有す るものだけなのだ。一言で言えば、神にとって意義があるのは人間であり、教会ではない。それゆえ、宗教的または霊的な組織を拡大しようと努めて、人生を無 駄にしてはならない。またそこに富を貯えたり、信者の数を増やそうとしてはならない。これらのことは、霊的な視点からは無意味な努力であり、君たちの進化 にとっても全く役に立たない。
それよりも、自分たちの心の中のエゴを根絶して、愛の感情を発達させるように努めなさい。それだけが唯一、奮闘する甲斐のあることで、霊的な進化の階段を昇らせてくれるものだ。
霊的な真相を知れば、そのお陰で、人類は皆兄弟であると気づけるようになる。人それぞれにレッテルを貼るのは違いを生み出すだけで、時が経つと、争いや不和の口実として利用されてしまう。
*どういう意味かわかりません。
人間はお互いの違いを見出すために信仰を利用してきたので、宗教のために対立してきたし、今でも仲間を殺しあって敵対する羽目になっているということだ。
実のところ、これまでになかった組み合わせは残っていないほどだ。つまり、ユダヤ教徒対イスラム教徒、キリスト教徒対イスラム教徒、キリスト教徒対ユダヤ 教徒といった始末だ。しかも、キリスト教徒の中では、カトリック対プロテスタントとなり、同じイスラムでも、シーア派対スンニ派となる。
不思議なことに、これらの宗教はどれも同一の神を信じており、アブラハムを始祖とし、モーゼを、民に与える戒律を神から授かった預言者だとしている。
社会から離れることを試みたり、世間から孤立した共同体を創るのはやめなさい。むしろ、その反対のことをするように。世の中が少しずつ「魂の法則」-特に 愛の法則―と調和したものとなるように、社会を変えようと努めるのだ。すべての人には、自由で幸福になる権利があるので、誰からもこの権利を奪ってはなら ない。世間から離れて閉ざされた共同体を創れば、他の人たちは、君たちが成し遂げた成果の恩恵にあずかれなくなってしまう。
*でも俗世間と交われば、協調した行動がとれなくなり、霊的な悪習に染まる危険を冒しはしませんか? 初期キリスト教徒も、またそれ以前にはエッセネ派の人たちも、他の人たちから離れたコミュ二ティーに集まりませんでしたか?
初期キリスト教徒やエッセネ派の者たちがその時代の町から離れた場所に隠れたのは、度重なる迫害から身を守るためであり、社会から遠ざかりたいわけではな かった。同じ理念を追う人たちの協力を求めるのは何も悪いことではないが、それを口実にして他の人たちと距離を置いてはならないし、同じ考えや信仰を共有 しない者を排除するのもよくない。
自分の信念をしっかりと持っている者は、他の人の信念にそう簡単になびくことはない。引きずられるとするなら、それはそれほど確固たるものではなかったということだ。
また、自分と違った信仰や文化を知ることも、決して悪くはない。そうすることによって人間的な幅が広がり、自分自身の考えや信念を形成する上で、さらに多くの情報が得られるからだ。
カトリックの信仰者は、カトリック教国に生まれたからそうなっただけだ。また、イスラム教徒の者はイスラム教の国に生まれついたからであり、自分の信仰を自由に選べだわけではない。他に選択肢がなかったのだ。
寄る辺ない人たちを助けたいのであれば保護センターを創ればいいし、病人を看護したいのであれば病院を創ればよく、子どもたちを教育したいのであれば学校を創ればよいのだ。
大切なのは、単に儀式を執り行ったり聖遺物を貯える機関ではなく、相互扶助に役立つものにすることだ。そうでなければ、人びとの助けとなるべく設立された 筈なのに、当初の機能を果たせなくなってしまう。君たちは、あまり利用されていない既存の機関を活用して、社会的な機能を持たせることができるし、まだな ければ新しいものを創り上げることで、ここでのアドバイスを実行できる。
私が批判しているのは、物的な手段を利用することではない。それらは正しく使用すれば、公正で気高い理念である、公共の福利に役立てることができる。そう ではなく、これと正反対のこと―つまり、エゴ的な利益を満たすこと―をしようとして、物的な手段を悪用することを非難しているのだ。私欲は、多くの貧しき 者の犠牲の上に成り立つ、少数の富める者を生み出す社会格差の元凶となる。