飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

23 愛の法則から見た十戒 5

2015-02-24 12:52:11 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その23


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


ここまで読み進めて来た方で、

我が意を得たり、

と感ずる方も少なくないのではなかろうかと思う。


人間の霊性は、等しく天賦のものである。

その目覚めの高低は差があるとしても、

内在するものは等しい。

発露するには縁が必要であるから、

生まれた環境と地域により、

宗教に別があろうが、

その目指すものは一つであろう。


そこに人間の知と意が加わり、

差異が強調されているとしたら、

それに翻弄される必要はない。

多くの宗教は些細な差異を強調して対立する。

ISIS(イスラム国)等は、

その典型であるが、

その動機は、ほとんど政治的陰謀である。


そんなものに一喜一憂する必要は全くない。

何処とは言わないが、

宗派性に捉われる必要などないのである。

真実と真理に軸を置いて、

天賦の霊性に生きることが、

普遍の道であると納得した次第である



【転載開始】

23 愛の法則から見た十戒 5

 
*霊的な観点から見ると、霊性を職業化するのは正しくない、と言われるのですか?

  その通り、正しいことではない。君の言うところの霊性を職業化したことによって、宗教や聖職者が存続することになったのだ。聖職者たちは、霊的な仕事らし きもの(儀式や崇拝に時間を割くことは霊的に無駄なことなので、実際には仕事とも呼べないが)をすることで世俗的な仕事を免れて、自分たちで稼げないお金 を信者や信徒から貰って食べていく必要があると人びとに思い込ませ、彼ら自身もその気になってしまった。
  繰り返すが、霊的な仕事に専念できるように実際的な仕事を免除されることがあるなど、誰も信じてはならない。


*カトリック教会は、イエスやその使徒たちの例を見習ってそうしなければならない、と理屈をつけることでしょう。

  一体どのような手本があるというのだ? イエスは大工の息子であり、一緒に住んでいる間は、父親の仕事場で働いていた。多忙な使命に取り組むと大工をする時間がなくなったのは事実だが、霊的なことで一度きりともお金を取ったことはないし、養ってほしいと頼んだこともない。
  彼の使徒たちも、そんなことはしたことがない。各々が持っている物を提供し、家族や職業上の義務を投げ出した者はおらず、世俗的な仕事と霊性とを両立させ ていた。注目すべきは、使徒の中に一人としてユダヤ教の司祭がいなかったことだ。当時働いていなかったのは、ユダヤ教の聖職者だけだったのだ。
  使徒たちは生存中、教会を組織することも、聖職者を名のることも、扶養してほしいと人に頼んだことも、一度もなかった。ただ質素に暮らし、持っている物を分かち合っていた。
  イエスと使徒たちがユダヤ教の僧侶たちにそれほど睨まれたのは、彼らの宣教によって、ユダヤの聖職階層に最も収入をもたらす商売であった、動物の生贄のために寺院に行く人の数が随分減ってしまったからだ。


*この場合はカトリックのことですが、教会は何を間違って、創始者たちが行ったことや宣教したこととは裏腹に、ユダヤ教会と同じように成り果ててしまったのでしょうか? 

  すでに話してあるが、イエスもその使徒たちも、教会など一つとして設立していないし、そうする意図もなかった。そのような機関を創り上げたのは、先駆者たちが伝えてくれたメッセージを悪用した、後からやって来た者たちである。
  君もまるで教会に独自の命があるかのような質問の仕方をするが、それを見ても、君たちが宗教機関というものをいかに重要視しているのかが伺える。実際に は、教会というものは存在していないのだ。教会独自の意志も良心も存在しないのだから。それゆえ、教会が善を成すこともなければ、悪を成すこともない。そ れは、ただ、特定の人間によって組織され、運営されている構造上の枠組みに過ぎない。内部の人びとは時代と共に移り変わるが、幸いなことに人の一生は短い ので、せいぜい何十年かしか権力にはしがみついていられない。
  だから、違う質問をしたらどうか。人間はどうして、霊的な成長に役立てるために授けられた真の霊性のメッセージを、それと正反対のもの、つまり、自分が隷 属させられるドグマに変えてしまったのだろうかと、質問してみたらどうか。そのような教義は、人に自己の意志と自由を放棄させ、搾取や狂信、格差を増長し ている。
  教会は、自己のエゴに流されてしまった者たちによって企てられ、組織され、歴史において存続してきた。実のところ、それは、霊性を求める人びとの潮流に よって手放さざるを得なくなった指揮権を力づくで奪い返して、以前の抑圧形態を再度導入したものに過ぎず、徐々にコントロールに成功したのだ。


*霊性を求める人びとの潮流によって手放さざるを得なくなった指揮権を力づくで奪い返して、以前の抑圧形態を再度導入したものに過ぎない、とはどういう意味ですか?

  つまり、イエスの死後、継承者たちがその教えをあらゆる場所で普及させることに尽力したので、イエスの無条件の愛のメッセージは急激な広がりを見せた。そ のうちに、その無条件の愛のメッセージに賛同する人びとの数も、飛躍的に増えていった。イエスの教えは、人間同士の平等や兄弟愛を訴えていたので、それに よって自分たちのやり口がバレてしまうと思った時の権力者たちは脅威を感じ、幾人ものローマ皇帝が大規模な迫害を行った。しかし大虐殺にもかかわらず、キ リスト教徒と呼ばれることになった人たちの数は、止まることなく増え続けた。そこで、この流れを外圧で撲滅するのが不可能だと見た権力者たちは、内部に浸 入することで舵取りをして、進路を変えてやろうと決意したのだ。
  この新しい戦略で最も際立つものの中に、コンスタンティヌス帝の治世のものがある。彼は自らキリスト教に改宗したとして、ローマ帝国全体の強制的な改宗を 布告したのである。しかし、これによって、すでに時の経過と共に作り変えられていたキリスト教は、それ以後は、より一層改変されてしまった。もう貧困者や 奴隷の信仰であってはならず、富と権力と相容れるものである必要があったが、そうではなかったので、丸ごと改造されてしまったのである。
  このように、我々は、再び人類の諸悪の根源に行き着くことになる。一番の問題は、人間の利己心なのである。道徳の権威者だと自称したこれらの者は、そうい う利己的な魂であり、教会を維持して強大にするのが大事だと人びとに思わせ、神が喜ぶからと、そのために命を捧げたり他者の命を奪うことを奨励したのだ。 だがそれは、霊性の面で進化の乏しい人びとの無知、怖れ、狂信だけに支えられる大嘘である。
  本当のことを知りなさい。君たちが教会と呼ぶ枠組みは、神にとっても霊的世界にとっても、何の意味もなさない。霊界にとって大切なのは、霊的な生命を有す るものだけなのだ。一言で言えば、神にとって意義があるのは人間であり、教会ではない。それゆえ、宗教的または霊的な組織を拡大しようと努めて、人生を無 駄にしてはならない。またそこに富を貯えたり、信者の数を増やそうとしてはならない。これらのことは、霊的な視点からは無意味な努力であり、君たちの進化 にとっても全く役に立たない。
 それよりも、自分たちの心の中のエゴを根絶して、愛の感情を発達させるように努めなさい。それだけが唯一、奮闘する甲斐のあることで、霊的な進化の階段を昇らせてくれるものだ。

*けれど、そうならないように回避できたであろう特定のエゴがありますか? つまり、具体的にはどのような事柄が、教会のような機関を創るのに貢献してしまったエゴ的な行為と見なせるのでしょうか?
 
  一番の問題は、イエスが宣教した霊的な教えを基盤として、教会や宗教を創り上げてしまったということだ。先にも言った通り、イエスはいかなる教会も創ろう としたことなどない。そうではなく、ただ人類に、ごく単純な次のメッセージを伝えようとしたのだ。「愛の感情を育み、エゴを排除しなさい。これは、一人ひ とりの仕事であり、物理的な組織の設立を一切必要としない」

*将来、同じことを繰り返さないで済むように、アドバイスをください。
 
 いかなる旗印の下にも結束しないこと。なぜなら人間というものは、すぐに自分のグループの者とそうでない者とを分け隔てして、仲間を優先し、他の者を差別する傾向にある。信仰や政治に関してであろうと、愛国心であろうとである。これが集団的なエゴの姿なのだ。
 霊的な真相を知れば、そのお陰で、人類は皆兄弟であると気づけるようになる。人それぞれにレッテルを貼るのは違いを生み出すだけで、時が経つと、争いや不和の口実として利用されてしまう。


*どういう意味かわかりません。

 人間はお互いの違いを見出すために信仰を利用してきたので、宗教のために対立してきたし、今でも仲間を殺しあって敵対する羽目になっているということだ。
  実のところ、これまでになかった組み合わせは残っていないほどだ。つまり、ユダヤ教徒対イスラム教徒、キリスト教徒対イスラム教徒、キリスト教徒対ユダヤ 教徒といった始末だ。しかも、キリスト教徒の中では、カトリック対プロテスタントとなり、同じイスラムでも、シーア派対スンニ派となる。
 不思議なことに、これらの宗教はどれも同一の神を信じており、アブラハムを始祖とし、モーゼを、民に与える戒律を神から授かった預言者だとしている。
  社会から離れることを試みたり、世間から孤立した共同体を創るのはやめなさい。むしろ、その反対のことをするように。世の中が少しずつ「魂の法則」-特に 愛の法則―と調和したものとなるように、社会を変えようと努めるのだ。すべての人には、自由で幸福になる権利があるので、誰からもこの権利を奪ってはなら ない。世間から離れて閉ざされた共同体を創れば、他の人たちは、君たちが成し遂げた成果の恩恵にあずかれなくなってしまう。


*でも俗世間と交われば、協調した行動がとれなくなり、霊的な悪習に染まる危険を冒しはしませんか? 初期キリスト教徒も、またそれ以前にはエッセネ派の人たちも、他の人たちから離れたコミュ二ティーに集まりませんでしたか?

  初期キリスト教徒やエッセネ派の者たちがその時代の町から離れた場所に隠れたのは、度重なる迫害から身を守るためであり、社会から遠ざかりたいわけではな かった。同じ理念を追う人たちの協力を求めるのは何も悪いことではないが、それを口実にして他の人たちと距離を置いてはならないし、同じ考えや信仰を共有 しない者を排除するのもよくない。
 自分の信念をしっかりと持っている者は、他の人の信念にそう簡単になびくことはない。引きずられるとするなら、それはそれほど確固たるものではなかったということだ。
 また、自分と違った信仰や文化を知ることも、決して悪くはない。そうすることによって人間的な幅が広がり、自分自身の考えや信念を形成する上で、さらに多くの情報が得られるからだ。
 カトリックの信仰者は、カトリック教国に生まれたからそうなっただけだ。また、イスラム教徒の者はイスラム教の国に生まれついたからであり、自分の信仰を自由に選べだわけではない。他に選択肢がなかったのだ。

*ですが、物理的な機関を何も創れないとなると、隣人愛のメッセージと矛盾することになりませんか? 教育や医療の現場や困窮者の保護施設などの、物的な支援をするプロジェクトの実現を妨げることになりませんか?
 
  我々がここで問題視する機関の創設とは、それ自体の存続を図ることを主目的とした物質主義的な機関のことで、それを設立することで、権力と富とを肥やそう とするもののことだ。富と権力は、利己的な願望を叶えてくれる特権的な地位を狙う、欲望と野心に満ちた者を引き付け、現状を一層ひどくしてしまうのだ。
 寄る辺ない人たちを助けたいのであれば保護センターを創ればいいし、病人を看護したいのであれば病院を創ればよく、子どもたちを教育したいのであれば学校を創ればよいのだ。
  大切なのは、単に儀式を執り行ったり聖遺物を貯える機関ではなく、相互扶助に役立つものにすることだ。そうでなければ、人びとの助けとなるべく設立された 筈なのに、当初の機能を果たせなくなってしまう。君たちは、あまり利用されていない既存の機関を活用して、社会的な機能を持たせることができるし、まだな ければ新しいものを創り上げることで、ここでのアドバイスを実行できる。
  私が批判しているのは、物的な手段を利用することではない。それらは正しく使用すれば、公正で気高い理念である、公共の福利に役立てることができる。そう ではなく、これと正反対のこと―つまり、エゴ的な利益を満たすこと―をしようとして、物的な手段を悪用することを非難しているのだ。私欲は、多くの貧しき 者の犠牲の上に成り立つ、少数の富める者を生み出す社会格差の元凶となる。

 


22 愛の法則から見た十戒 4

2015-02-24 11:56:46 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その22


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


真実は単純である。

大げさに祀り上げられたものは、

ほとんどが人為的に必要に駆られた結果である。


大袈裟と言う言葉自体が、

それを彷彿させられる。

袈裟と言うのは、僧侶の衣服に過ぎないが、

それを大々的にしたのが大袈裟である。


通常、

誇張するという意になる。

総じて、

宗教は誇張する傾向になるのものである。

その事を如実に指摘されており、

溜飲の下がる思いがする。


とまれ、

必要なのは真実であり、真理である。



【転載開始】

22 愛の法則から見た十戒 4

 
*そうですね、では十戒の二つ目を見てみましょう。「神の名をみだりに唱えてはならない」ということですが、これについて教えてください。

  これは申命記にも記載されているが、訳に誤りがある。ヘブライ語を逐語訳すると、「神の名を、欺くために使ってはならない」となる。つまりこの掟の問題 は、戒律自体が間違っていることではなく、その意味の解釈の仕方にあり、そうなったのは、もともとのヘブライ語の翻訳を改変してしまったためである。この ことは前にも話したかもしれないが、とても重要なことなので、ここでも掘り下げて見てみることとする。
  多くの人は、「神の名をみだりに唱えてはならない」ということは、世間で一般的に使われる下品な表現の中で、神の名を用いてはいけないことだと思ってい る。そして、誰かがそのような表現を口にするのを聞くと、発言者でさえ文字通りの意味で言っていないことを考えてみようともせず、神への冒涜だとして腹を 立てる。しかし実際には、そのような言い回しは通俗的で粗野であるかもしれないが、無害なもので、霊的には何の問題ともならない。
 しかしながら、この戒律が真に意味するところは、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」である。人類はこれまでにもこの掟を平然と破ってきたし、今も破り続けている。
  最もひどい残虐行為も神の名において行われてきた。その中には、聖なるものへの儀式に人間を生贄に捧げることから、異教徒の殺戮、宗教戦争や十字軍、改宗 の強要、異端者の迫害・拷問・殺害などや、宗教権威のエリート層を肥やすための搾取、信徒を操るための教義の改ざん、人びとの間に不和や争いを生み出すこ とまでが含まれている。このようなことすべてに、大変有害な利己的な意図があるのだが、人間が神の名のもとに犯したのである。これは本当に由々しきこと で、霊的には致命的な結果をもたらす。本当は自分たちのエゴのせいなのに、神がそのようなことを命じたと皆に信じ込ませるのはペテンである。
  聖典でさえも改変し、神がイスラエルの民に他民族の殺戮を命じたと信じさせようとするのは許しがたい。また、神、あるいは神の遣いとされるモーゼが災いを 招いて、兄弟であるエジプト人を殺し、イスラエルの民をエジプトから解放するようファラオに迫ったとすることも看過できない。もし、それが本当であるな ら、神とモーゼは、そこら辺の人殺しや暗殺者、人類の殺戮者などと同じように残酷で、命を粗末にするのだと認めないわけにいかなくなる。

*話が逸れてしまいますが、モーゼやファラオのお話で好奇心が刺激されてしまいました。実際はそうでなかったのなら、本当に起きたことは何だったのでしょう? エジプトの災いについては、宗教でも絶対に確かなこととされていますが。
 
 当時は二人の関係が良かったので、イスラエルの民を解放してもらえるように、モーゼがファラオを説得したのだ。

*では、ヘブライ人(古代イスラエル人・ユダヤ人の別称)たちは、彼らを殺そうとするフォラオの軍に追われなかったのですか?
 
 追われたのだが、それはファラオとその軍によってではなく、ファラオの決定に不満を持ったエジプトの支配層による。彼らが出発することを知ると、追っ手の傭兵隊を組織した。ファラオに歯向かうことを避けて、エジプトの手の届かないところで捕らえようとしたのだ。

*それで、何が起きたのですか? 聖書には、モーゼが聖なる力を借りて紅海の水を断ち割り、ヘブライ人が渡れるようにした後、エジプト兵に水が押し寄せたので、彼らは溺れ死んでしまったとありますが。
 
  実際に起こったことは違うのだ。まず、モーゼが水を断ち割ったというのは本当ではない。モーゼが考えたルートは、通常水に覆われている地域を通らなければ ならなかったが、時折、気候と潮の状況により、場所によっては渡れるほどの水準にまで、一時的に水が引くことがあった。モーゼの顧問役たちはこのことを 知っており、彼にそれが起きる日時を教えたので、単に、潮が引く頃まで待って出発したのだ。ファラオに仕えている者たちも、通り道に当たる地域を整えてく れていた。2~3日遅れてそこに追っ手が到着した時には、もう潮が満ち始めていた。中に入って行けば海に飲まれてしまうことは明らかであったから、常識が あれば渡ろうとはしなかった筈だ。だがそうしてしまい、渡っている途中で水かさが増して、溺れ死んでしまったということだ。
  これでわかっただろうが、実際には、何も超自然的なことは起きていない。信じられているように、神の怒りに触れて死んだわけではない。死んでしまったの は、彼ら自身の憤りのせいだ。ヘブライ人に追いついて殺したいという欲求の方が、自分たちの命を守ろうとする良識よりも勝っていたということだ。

*それでは聖書には、なぜ別の話が書いてあるのでしょう?
 
 利己的な関心のためなら、すべてが歪曲されてしまうと言っただろう。当時は聖なる書物というものは、司祭職しか手にすることができなかったのだ。だから、実際に体験した人たちが死んでしまうと、自分たちに有利になるように事実を変えてしまうことは割と簡単だった。
  どの宗教でも同じだが、ユダヤ教の支配者たちは、人民に神の存在を怖れさせて従順にさせることで、彼らの権威に逆らわないようにしておきたかった。そのた めに、裁きの神と執行者モーゼ、というイメージを創り上げたのだ。ひと度そのような神話を作りあげれば、人民を意に従わせようとする場合は、神の言葉を モーゼが代弁していると言いさえすれば、人びとを震え上がらせ、怖れから言いなりにさせることができたからだ。

*なんてことでしょう! その時代の歴史に、本当に起きたことをもっと知りたいです。人類の宗教観に多大な影響を与えてきたことですから。
 
  それは、我々が見ている大事なテーマから外れてしまうので、今は不適切だ。君に話したことを、人間がどういうものであるかを示す一例としてほしい。自分の 一時のエゴを満たすためになら、何でも改ざんしてしまうのだ。霊的な教えもしかり、また、捏造された間違いだらけの神や使者の概念さえも伝えようとするの だ。

*第二の戒律(神の名をみだりに唱えてはならない)に最も違反したのは、特に過去の時代における宗教権威者だったようですね。
 
  過去の宗教権威者だけでなく現在の宗教権威者もだ。現在はより巧妙に行われているとはいえ、まだ神の名が利己的な目的のために使われている。霊的には偽り で、人間の魂の進歩を妨げる宗教上のドグマを正当化するために、未だに神の名が用いられる。高位聖職者たちは、その地位がもたらす権力を利用して、ありと あらゆる搾取や犯罪を犯し続けている。今では多くのことが秘密裡に行われているが、それは首謀者が明るみに出ると、法廷に引き出されるからだ。
  政治権力者たちも、都合のいい時には宗教を利用して、利己的で侵略的な目論みを市民に納得させようとする。たとえば、市民を戦争に送り込みたい場合などに は、犠牲を要請しているのは神であると言いくるめ、神が味方についているから、戦闘中も守ってもらえると思い込ませる。
  だが、一番の影響力を持っていた宗教や政治の権力者たちが最も有害だったとはいえ、この戒律を破っているのは、彼らだけではない。個人的なレベルにおいて も、見せかけの正統宗教や霊性の下に人間の自由や意志を制約したり、私欲に基づいて他の人たちをコントロールしたり操作するなど、偽善的で利己的な行動 は、この掟に背くものである。
 同様に、自己の利益のために、人の宗教及び霊的信心を利用する者も、この戒律を破っている。したがって、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」ということを我々が正しく応用するのなら、「霊性で商売をしてはならない」ということに繫がるという結論に至る。つまり、霊性を商売にして儲けようとする人も、この戒に背いていることになるのだ。

*「霊性で商売をする」とは、具体的に何を意味するのですか?
 
 霊性とは、魂が存在するだけで元来生まれ持つ特性である。進化を促す力となり導き手となるために、霊界から個々の魂に授けられた資質であり、天賦の才なのだ。
  したがって、霊性というものは、特定の人に属するものではなく、皆が平等に有するものだ。我々には無償で与えられているのであるから、それを使用する時に は無料とせねばならない。それゆえ、霊性を金儲けのために使ってはならない。そうするのなら、それは、誰かが空気を私物化して、呼吸をする権利と引き換え に、人からお金を取るようなものだ。我々の持つ霊的な能力と知識を、思考に忍び込むエゴに占有させてしまえば、無私の志ですべき他者や自己の進化に役立つ 霊的な仕事も、利潤や儲けを引き出す物的な商売に変わってしまう。
  様々な霊媒能力も、すべて霊界から授かった才能なので、どれも商売の対象としてはならない。この中には、エネルギーの伝授も含まれるが、お金と引き換えに 霊界からの助言や交信を受け取るのもダメである。霊媒能力は、我々の進化を助けるために与えられたのであり、取引のための商品ではない。霊的な才能の使い 方を誤れば、霊的な援助が貰えなくなろう。高次の霊たちは、私欲を肥やすことに協力的でないのだ。

*でも、「お金持ちになりたいのではなく、霊性に天職を見出したのでそれに従事したいと思っている。他の仕事をする時間がないけれど、何かで暮らさないといけないので、スピリチュアルなことでお金を取る必要があるんだよ」と言う人がいますが、これについてはどうですか?
 
 誰から、物質界での仕事を免除されていると言われたのかね? 我々は全員、霊的な進化と関係があるのだから、「霊的なこと」に従事するために皆が仕事を辞める決意をしたとしたら、この世界は何で生きていくのだろうか? 
  現在、多くの人たちが、スピリチュアルな変化を遂げるということは、世俗的な仕事を辞めて、彼らが霊的な仕事と呼ぶことに専従することだと思い込んでい る。そして、世俗的な仕事からの収入がなくなるので、霊的な知識を伝えたり助言を与えたりして、お金を貰っても構わないと正当化しているが、そうではな い。
  霊的な成長は、物質界の仕事と完全に両立させることができる。しかも、病気、老体、肉体的または精神的に不適合な場合を除いて、誰もそれを免除されること などない。肉体を持って生まれた者の生きる上での義務-たとえば仕事だ―を回避する口実として、霊性を持ち出してはいけない。なぜなら、すでに霊的な仕事 をしているからと言い訳をして働かない者は、楽をしようとする怠け者であり、霊的に進化はしない。誰もが生計を立てるために働かねばならず、皆がそれにふ さわしい対価を受け取らねばならない。霊的なことを物質界の職業にすることは、正当化できない。