飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

お金の科学・・・! って、何か? その3

2015-02-19 11:18:35 | ビジネス

お金⇒富の科学!
と言い換えたほうが聞こえが良かもしれない・・・!
ジェームス・スキナー・・・
変な外国人?!
しかし、日本語は達者だ・・・!
大好きなコーチャーである・・・。
とにかく面白い!

⇒お金の科学・・・! って、何か? その1 その2 の続きです。


競争すれば、貧しくなる・・・。

それは、他から奪う事を由とするからだ。

これは、

禅の一転語に似て、意味深長です。

 

価値を創造し、その必要を求める他の人々に配ります。

その代価として、現在では「お金」を頂く・・・。

こうすれば、富は増加するのです。

お金が、こちらが必要とする価値となれば、

物々交換、あるいは価値交換となるのです。

 

増えるか増えないか?

富は無限か否かは、ご自由に考えて欲しい・・・。

別の記事にも書いたが、転載しておきます。

 

さて、

Aという無一文の人間が居たとする。

Aは貧乏であるが、才能がある。絵を書かせれば、人後に劣らない。

そこに絵心のある金持ちBがやってきた。

BはAの絵に惚れ込んで、100万円でその絵を売ってくれと頼み、買った。


Bは自宅のリビングに飾り、楽しんでいた。

そこにBの友人Cがやってきた。

その絵を見て、Bに売ってくれと頼み込み、1000万円で買った。

Cは絵も好きだったが、ビジネスももっと好きだった。


Cはとあるオークションにその絵を挙げた。

絵は、なんと一億円で落札された・・・。


果たして、富は減ったのか、変わらなかったのか。

それとも増えたのか?


価値の伴う富(=真の富)は、

その価値を伝達すればするほど増えるものである。

そして、

無から価値は生み出されるものである

 

そのためには、何が必要か?

それが、ジェームス・スキナーの言わんとするところであろうと思います。


<画像をクリック!

 

何よりも大事なことは、

マインドセットです。

富を嫌ったり、羨んだり、嫉妬したりすることは、

自らそれを遠ざけることであると言います。

その事に、全く同感です。

 

 

<画像をクリック!

 

豊かになることは、勝つことでも、奪うことでもありません。

他人が必要とする事を知り、

それに全力全霊で奉仕することです。


そのためのルールがあります。

そのためのステップがあります。

そのための法則があります。

法則があるということは、まさに科学という意味です。


法則があるということは、

再現性があるということです。

 

是非、学んで下さい。

無料オファーです。


 

 大富豪への道は給料が安い仕事を選ぶ事

「もっと自分の才能を活かす仕事がしたい」
「今とはもっと違う道があるんじゃないかな…」

あなたはこんなことを思った事はないでしょうか。


もしあなたがこんな風に思ったことがあれば、
この文章を最後までお読みください。

なぜなら、
あなたの今までの人生を180度変えてしまう
特別な秘訣をお伝えするからです。

これからお伝えすることを実践すれば、

・あなたが本当に就くべき仕事が明確になり
・本当に幸せな大金持ちになる事も可能

になります。


実は、世界的な成功者と言われる人たちも
「ある基準」にそった仕事を選ぶ事で、ゼロから
大きな成功を手にしてきたことをご存知ですか?


このことを教えてくれるのは
経営コンサルタントのジェームス・スキナー。

ジェームスは今まで、20年以上の
歳月をかけ、数多くの世界的な成功者を
研究してきました。

そして、

世界的な成功者達に共通する
「仕事選びの3つの基準」
を発見したそうです。

ジェームスいわく、この
「仕事選びの3つの基準」
を知ることで、普通の人でも大きく
成功することは可能だと言います。


実際、ジェームス自身も
「3つの基準」
に沿って仕事を選ぶことで
数多くの成功を手にしてきました。


例えば

・初めて出版の仕事に関わり、
初年度で100万部のベストセラーを出版。

・全く未経験の金融業界の仕事に取り組み、
初年度で600億円の売上を記録。

・わずか2年で
世界35カ国にビジネスを展開し、
売上高2000億円を達成。

・ジェームスが開催する「成功の9ステップ」セミナーは
参加費が15万円以上にも関わらず、現在までに1万5,476名が参加。

などなど。


こういった実績は全て
「仕事選びの3つの秘訣」
にそって仕事をしてきたからこそ
実現できた、とジェームスは言います。


そして今回。

ジェームスをはじめ
世界的な成功者が実践している

「仕事選びの3つの基準」

の詳細が期間限定で無料にて
公開されることになりました。



・全くのゼロから6兆4360億円の資産を作り出し、
世界一の大富豪になったウォーレン・バフェット。

・アカデミー賞やゴールデングローブ賞の主演男優賞を
受賞した俳優のダスティン・ホフマン。


といった人たちも、この「仕事選びの3つの基準」
を守る事で、世界的な成功者になったそうです。


24万8,000円で開催されたセミナー参加者のみに
公開されたこの特別な映像は

【2月23日(月)23:59まで】

の期間限定での公開だそうです。

興味がある場合には、早めに
こちらの映像をご覧ください。

https://www.truenorth.co.jp/sr/?s=s51oser&a=286


 


16 愛の法則から見た隣人愛

2015-02-19 11:18:17 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その16


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


いよいよ、隣人愛である・・・。

愛の極みは際限がないが、

せめて、隣人愛の片鱗には近づきたい・・・、と言うのが、

本音である。


イエスもそれを説いたし、

爾来、争いの絶えない世情は、

どこかでそれを置き忘れたか、

取り違えたかに要因がある。


又、

上手く取り入って、

宗教を手繰り、諸法をすり替えて来た歴史も見逃せない。


それが闇の権力と呼ばれている・・・?!

 

【転載開始】

16 愛の法則から見た隣人愛


愛の法則から見た隣人愛

 
*これまで、パートナーとの関係や子どもたちとの関係など、個人的な関係を集中的に見てきましたが、無条件の愛というのは、そういう個人的な関係よりも、もっと奥が深いものだと思うのです。

 もちろんだ。愛に限度はない。もっと沢山の人を愛することのできる魂の能力が増すにつれ、血の繫がりがあるかどうかにこだわらずに愛せるようになる。最終目標は、分け隔てせずに、創造の全存在を包括する無条件の愛に行き着くことだ。
 イエスが「汝の隣人を自分のごとく愛しなさい」、「汝の敵を愛せよ」と君たちに伝えた時には、このことに言及していたのだ。

*進化するのは、どうしてこんなに骨が折れることなのでしょう? イエスが言ったような、無条件に愛せるようになる進化レベルに、もっと早く辿り着く方法はないのですか?
 
 これは、これまで我々が話してきたことの中核である。
  イエスのレベルまで進化するためには、エゴを排除して愛の感情を発展させることに大変な力を注がねばならないのだが、それは、たやすいことではないのだ。 一度きりの人生での仕事ではない。何千もの転生、何十万年もの歳月がかかる。しかも、すべての魂がこの目的のために生まれ変わってきているにもかかわら ず、一度肉体を持つや、何のために生まれてきたのかを思い出せないでいる。
  大多数の人びとは、肉体生があるところまでしか意識を向けておらず、物的な福の神が笑っている限りは、物欲を満たすことに人生を費やしている。そして、実 存に関する内省はどれも無意味なたわ言であり、時間の無駄だと考える。彼らは、気ままな生活をやめたくないので、何の変化も起こしたくないのだ。
 物質主義的な科学教育の下で知性を発達させて、自身の心の危惧を回避しようとする人たちは、存在に関わるあらゆる疑問を嘲り、無益だと見なしている。

 また、霊性と宗教とを混同している人もいる。特定の儀式を模倣しさえすれば、「天国」での特権的な地位を獲得できると考えて、宗教というたやすい方の道に引き込まれる。そして、神も喜ぶだろうと自分を偽ることによって、霊的な努力を宗教的な熱狂に置き換えてしまうのだ。

  実存に関する疑問を、心の中ではっきり自覚できる人たちも、確かに存在する。目覚めが起こるのは、人生でひどい逆境を体験しながらも、諦めずに説明を見出 そうとした結果である場合が多い。人生の意義について、宗教や物質至上主義の科学がもたらす、偏った不完全な説明では納得しなかったのだ。しかし、質問に 対して満足のいく答えが得られないので、絶望してしまう。

  無関心、無知、不信感、熱狂や絶望から大多数の人びとが人生の真の意味を見出すことができずにいるというのが、以上の総合的な結論である。したがって、人 生を理解しないまま生きており、そこから学べないので、人生において進化することができない。つまり、エゴをそぎ落として愛の感情を育む努力が、ほとんど なされていないということだ。

*僕が理解したところでは、仏教では、人間の諸悪の根源が願望であり、願望をなくすことで心の平安と魂の成長がもたらされると教えているそうですが、これに関してはどうお考えでしょうか?
 
 その願望がどこに由来するものかで、区別する必要がある。利己的な願望と愛の感情に裏付けられる願望とは、異なるものである。
 利己的な願望を排除することとすべての願望を捨て去ることとを混同し、自身の意志を放棄しなければ霊的な進歩は望めないとの結論に達する人もいる。これは大きな勘違いなのだが、他者を意のままに操ろうとする者たちにつけ込まれる要因となる。
  君たちが仏陀と呼ぶ者は、人間の諸悪の根源がエゴであると見抜き、霊的に進歩するにはエゴを根絶すべきであると知っていたので、人が幸せになるために心か ら排除すべき衝動などの、利己的な願望のことを指していたのである。しかし、いつものことだが、歳月の経過と共に仏陀の言葉と教えも誤って解釈されてし まった。霊的な進化が不充分な者にとっては本物と偽物とを見分けるのが困難なので、スピリチュアルな様相を呈しているだけで、歪曲された教えを正しいもの だと思い込んでしまうのだ。

*具体例がありますか?
 
  性に対する姿勢である。多くの宗教で教え込まれているように、性的な願望は、それが願望であるがゆえに、進化したければ排除すべきものだと考えて、どんな 状況でも自身の性願望を抑圧せねばと躍起となる人がいるが、これは大きな誤ちである。性的な願望は男女の愛の表れとして目覚め、幸福をもたらしてくれるの で、それを拒むのは間違っているのである。
  よく理解している者なら、闘って克服していかなければならないものは、情欲や色欲から生じる性的願望、つまり、利己的な性欲であると気づくであろう。悪癖 が顕現した欲望としてではなく、性欲を愛の感情と一致させることに進歩があるのである。したがって、エゴ的な性欲の表れである情欲や色欲を排除すること と、性欲すべてを不潔だと見なす純潔主義とが同じであると思ってはならない。
 性欲がパートナーへの愛の反映、愛情の表れであることは、前にも話したろう。純潔主義は神聖なものではなく、偏見と抑圧に満ちている。他人をとやかく言う者ほど、先入観と鬱積したものを隠し持っているのである。

*先ほど、霊性と宗教とを履き違える人がいると言われましたが、霊性と宗教とはどう違いますか? 同じことだと思っている人がいます。

 同 じではないよ。霊性は、魂独自の資質と能力で、回を追うごとに強く進化の後押しをしてくれる。進化とは、自由に愛する能力を発達させていくことを意味し、 そうすることによって、感情、感性、意識、理解、叡智、幸福の、より高度な段階へと徐々に達していけるのだ。それは、いろいろな理由があるが、自分や自分 を取り巻くものの存在意義を知り、自分と他の創造物たちや神との絆を深め、自己を内包する宇宙の仕組みを、それを司る法則も含めて、知るためである。
  宗教とは、人間が創った階層構造を持つ組織で、一連の教義上の信念の周りにしがみついている。これらの信念は、的を得ていようがいまいと議論が認められ ず、権威者の見解次第である。つまり、その階層構造で一番権威を持つ者に、皆が信じるにふさわしい真の信仰を決める権力があるのだ。

*隣人愛は、大概の一神教の基本を成すものですし、神を信じる人たちも世界には沢山いるのに、どうして、こんなにもエゴだらけで愛のない世の中なのでしょうか?
 
  そのことは前にも話した筈だ。多くの宗教では、愛という言葉は死語に等しく、人を惹き付ける呼び水として使われているだけで、実践して見せることも、手本 を示すこともない。しかも、愛は、それより重要視されている他の多くの規則や信仰の陰に、隠されてしまった。だが、これらの規則や信仰は、愛そのものやや 「魂の法則」と矛盾するものなのだ。たとえば、議論の余地を与えることなく、一連の教義を信者に押しつける者は、信仰の自由を妨げるので、自由意志の法則 に違反する。
  宗教は、人間のエゴと結びついた現象である。少数の者の利己的な便宜によって、人の霊性が操られているからだ。過去の時代においては、支配的な宗教の権威 者たちが自らの信条を力づくで課し、それに従わなかった者たちは抹殺された。彼らの権力は非常に強かったので、異議を唱えることは不可能だったし、しかも それは命懸けであった。現在では勢力が弱まったとはいえ、宗教はまだ多くの国々で、人の自由を弾圧するくびきとなっている。

*人が愛に向かって進化する上で、宗教が障害になると言われるのですか?
 
 愛に向けて進化する上で障害になるのは、人間のエゴであると言いたいのだ。エゴは大変巧妙に人の霊性に忍び込み、それを歪めて操作をし、その霊性とエゴが混ざって出来上がったものから、宗教が生じる。
  多くの宗教の起点が、真の霊的な教えを説いて人びとの心に浸透させることができた、高次の存在たちの活動にあったことは話したろう。だがその教えは時間の 経過と共に、目立ちたがりで野心家の未進化の魂たちによって、彼らの権力と富への野望を満たすために、偽造されて歪曲されてしまった。本物の「魂の法則」 は、エゴによって突き動かされたそのような者たちの影響を被り、儀式や式典で飾り立てられ見せかけの霊性で覆われた、「エゴの諸法」に置き換えられてし まった。

*本物の「魂の法則」が「エゴの諸法」に置き換えられてしまった例を示してください
 
 そうだね、君たちの世界では、「霊的裁きの法則」を利己的な「漏斗の法則」と入れ替えてしまった。つまり、自分たちには許容間口を広くし、他の者には狭くしているのだ。
  人は、自分が得することは公平だと思い、他者を得させることは不公平だと見なす。同じことでも、それをするのが自分自身なのか、それとも他者なのかによっ て、違う目で見る。君たち自身の利己的な言動は正当化するくせに、他人であれば、同じことをしていても熱烈な批判をする。そして、影響力の強い者の規則 が、他の者たちに強要される羽目になる。
 たとえば通常権力を握っている者たちは、法外な給料、不相応な年金、税金の免除など、他の者たちが持たない特権を享受しているが、その一方で、他の市民にはずっと厳しい規則を守るように強いている。

 
 君たちは「愛の法則」と「富と成功とを充足させる利己的な法則」とを入れ替えてしまったために、個人の興味や物的な願望を満たして、成功や名声、気紛れで便利な快適な生活を手に入れようとすることが良いことだと理解し、そのためには仲間を苦しませようが意に介さない。そして反対に、そのようなものがほんの少しでも奪われてしまうと悪いことだと思うのだが、それは違うのだ。
 きちんと理解してさえすれば、良いことをするというのは「愛の法則」と調和した行動をとるということで、悪いことをするとは「愛の法則」と反する行為、一般的には苦悩や不幸を引き起こすエゴ的な行為、を意味するとわかる。

 
 さらに「自由意志の法則」は、「強者の法則」に置き換えられた。それはつまり、一番強い者が一番弱い者に自分の好き勝手を押しつけている、ということである。
  だから、君たちの世界では、発言者が重視されるのだ。その人がどういう役職、タイトル、身分なのかが見られ、話の真偽は問いただされない。質素な者は本当 のことを話しても聞き入れられず、権力者、有名人、成功者、その他人間が発明した地位やタイトルに昇りつめた者は、何を言おうと一目置いてもらえるので、 好き勝手が言える。そのような有名人の多くが、一般人を操り狂信的にさせる偽りのメッセージを発信しているのだが、なおかつ、他の人びとよりも優れている と見なされている。
  「強者の法則」が幅を利かせ「自由意志の法則」が軽視されているのは、宗教の権威者に関しても明らかだ。自らを霊的に進化していると見なす者たちが、実は 最も不寛容で理解がなく、頑なで、規則や儀式を厳密に守ることだけに熱心だというのは、なんたることか! そして従わない者を強く非難し、他者の行為や行 動を安易に告発するのだが、自身の利己的な悪癖を直すことには力を注がない。霊的な美徳とは、他者の考えに対する寛容と理解ではなかったのかね? 彼らの どこにその美徳があるのかね?

*でも僕は少なくとも今日では、大勢の人たちが、そのような利己的な態度や教会の中で霊性が操作されていたことに気づいて、真の霊的な知識を探し求め始めていると思っています。
 
  それは肯定的なことだが、知るだけでは不充分だ。真実を見分け、虚偽と区別することが必要だ。なぜなら、霊的な知識を多少なりとも身につけていたとして も、それらがすべて本物だとは限らないからだ。最も大事なのは、愛の感情とエゴについて自分が学ぶことを実践に移すことだ。そうしなければ進歩もあり得な い。
  私が言っておきたいのは、特定の霊的な知識を得ることと霊的に進歩することとを混同してはならない、ということだ。愛の感情を発達させて前進するのに役立 てるべき学習知識が、上品に取り繕って霊性を装ったエゴを野放しにするために使われたら、教会の高位神官が陥ったのと同じ罠に落ちてしまう。

*それは、どういうことですか?
 
  様々な出処の霊的な知識を知りたがり、それらを勉強することに非常に熱心な人たちが沢山いる、ということだ。しかし知り得た知識を、利益をあげるためや名 声・ファンの獲得や自己顕示の手段として利用して、他の人たちより優れていると思い込めば、実は、愛の感情を育む代わりに、自己の虚栄心の奔放を許すこと になる。だが、自分自身を見失うだけに留まらず、それを真似て後に続く者たち混乱させてカオスをもたらし、他の人びとを霊性の道から逸脱させてしまうこと が、もっと罪深いのだ。
  イエスは正にこのことを告発し、当時のユダヤの聖職者たちを「盲人たちの盲目の導き人」と称したのである。それゆえ、他者に布教しようと勇む前に、最初に 自分自身をよく見ることが非常に大切となる。なぜなら、初めに自分を見ないせいで自己のエゴに気づかず、エゴを排除しようと努めない者は、奉仕の行為にお いて、他の人びとの手本になる資格がないからだ。