遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

本日Yアトリエで

2012-03-07 19:10:45 | 絵画

クレパス画を描きたいね

集まれたのは

3人だった

Yさんの アネモネ

Img_0371

ルドンのような

幻想的な雰囲気で

ステキ

サキコさんが

この アンニュイな雰囲気がいいのよ

とやたらアンニュイという

覚えたてで連発だなあと

からかったが

そうだな

そういう 魅力があるんだな

私の

120307_2


皆が言うには

私の絵は 年相応じゃないんだって

若い人の絵みたいだと言うんだが

そっか

Yさんは大人の魅力か

D120121

この絵が

私に似ているっていうんだが

私って こんなにかわいい?と聞いたが

そういうことではなく

やっぱり 年相応の絵ではないということらしい

いいもんね

次回は大人の魅力を描けるようにしよう

さて

サキコさんもアネモネも描いたんだが

未完成

Yさんのこの絵を真似して描いていた

Img_0287

Img_0369

下地を作った後

スプレーで止めて

上から塗りつぶして

ひっかいて下の色を出す

これが面白いし

同じアイディアの絵でも

人によって違う絵になるところが面白い

色々表現を変えることができる

はまるねえ

これ

次回これみんなでやろうか

と言う話になった

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歎異抄のこと

2012-03-07 06:43:52 | 日本の本

饒舌になったので時々記事に移した

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歎異抄のこと

2012-03-07 06:40:25 | 非西洋

親鸞の生きた時代を考えると

歎異抄についていろいろ書いた安富歩氏が「東大話法」を出したのも

関連が見えてきた

 

親鸞は日野家のボンボンで

政治的にはきわどい 危険な立ち位置にあるお家柄だったように思う。

O0456077510205577901

親鸞の祖先が建てた法界寺の阿弥陀如来

この像と 柱の絵を見に行ったことがある

ここが幼い親鸞の遊び場だった とは想像しなかった

また行きたいな

親鸞の兄弟がすべて 比叡山に いわば当時の東大みたいなところに行ったわけだ

そこで修行を重ねた結果

親鸞は飛び出して法然のところに行くのだけれど

当時の比叡山の蓄積された叡智と腐敗ぶり

本当に 似たことはいつの時代にもあるのだなと思った

 

子供のころは 念仏を唱えれば 悪人だって阿弥陀様の元へ

浄土に行ける

すでに 皆救われている

それが 阿弥陀様の本願である

って

 

意味不明 ご都合主義 としか思わなかった

 

その底に流れている思想を考えるのが

これほど興味深いというのが 面白い。

遠藤周作のキリスト教のとらえ方って

仏教的ではないか?って前に書いたけど

http://yuukoubo.blog.ocn.ne.jp/yuu/2011/09/post_1159.html

遠藤周作を異端ととらえ バルバラを無神論と非難する

そういうキリスト教って

頭固いな

救済ということを

キリストもブッダも親鸞も

あまねく 人々の上にもたらしたいと思ったところは

そっくりではないかと言う気がする

苦悩の時代

それはいつもだけれど

これから日本は 大変な苦悩の時代に突入するだろう

もしかすると世界が かもしれない

どういう風にそこから人々が救われるのか

親鸞の自力作善と言う考え方が

不遜な科学者 不遜な政治家に重なって見える

ともかく人間の手でどうにかできるようなスケールではない自然を前にして

畏敬の念を持って

なんやらかんやらするというようなことが

念仏 と言うことなのかもしれない

カラマゾフの兄弟の中では. スメルジャコフ 「神がいなければ、全てが許される」. こういうセリフがあるらしい

と前に書いたけれど

そういう発想って 日本人はあまり持たないな

もともと神がいない人が多いからかな?

 

西洋の場合

神があるのが前提だから

罪を犯した 罪なのかもしれない

そういう苦悩が 神とともに(いないという前提に立っても)

湧いて出てくるのだな

子供のころ 教会に通っているクリスチャンのお友だち

悪さをすると 神様に叱られる

というので

この子 本当にそう思っているのか?

と思ったっけ

日本人の場合

おてんとうさまが見ているよ

と言う言い方をする

仏教について

何も知らないけれど

どこぞの王子だったシッダルタが人々を救おうと

バラモンに合流し 修行したけれど

それでは救えないと バラモンを離れて

菩提樹の元で悟りを開いた

と聞いてきた

菩提樹ってもともとの名前ではなく

菩提 って 悟りを開いて光明を開く

そういうような意味があるらしい

菩提を弔う という言葉しか知らなかったが

いずれにせよ さまざまな宗教は時代とともに

言うことも言葉も いろいろ変わる

そういう変遷に耐えられるようなものが

(いろいろな解釈を生み出せるということでもある)

宗教として残ったのかな

奥の深い 詩みたいなものだな

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