親鸞の生きた時代を考えると
歎異抄についていろいろ書いた安富歩氏が「東大話法」を出したのも
関連が見えてきた
親鸞は日野家のボンボンで
政治的にはきわどい 危険な立ち位置にあるお家柄だったように思う。
親鸞の祖先が建てた法界寺の阿弥陀如来
この像と 柱の絵を見に行ったことがある
ここが幼い親鸞の遊び場だった とは想像しなかった
また行きたいな
親鸞の兄弟がすべて 比叡山に いわば当時の東大みたいなところに行ったわけだ
そこで修行を重ねた結果
親鸞は飛び出して法然のところに行くのだけれど
当時の比叡山の蓄積された叡智と腐敗ぶり
本当に 似たことはいつの時代にもあるのだなと思った
子供のころは 念仏を唱えれば 悪人だって阿弥陀様の元へ
浄土に行ける
すでに 皆救われている
それが 阿弥陀様の本願である
って
意味不明 ご都合主義 としか思わなかった
その底に流れている思想を考えるのが
これほど興味深いというのが 面白い。
遠藤周作のキリスト教のとらえ方って
仏教的ではないか?って前に書いたけど
↓
http://yuukoubo.blog.ocn.ne.jp/yuu/2011/09/post_1159.html
遠藤周作を異端ととらえ バルバラを無神論と非難する
そういうキリスト教って
頭固いな
救済ということを
キリストもブッダも親鸞も
あまねく 人々の上にもたらしたいと思ったところは
そっくりではないかと言う気がする
苦悩の時代
それはいつもだけれど
これから日本は 大変な苦悩の時代に突入するだろう
もしかすると世界が かもしれない
どういう風にそこから人々が救われるのか
親鸞の自力作善と言う考え方が
不遜な科学者 不遜な政治家に重なって見える
ともかく人間の手でどうにかできるようなスケールではない自然を前にして
畏敬の念を持って
なんやらかんやらするというようなことが
念仏 と言うことなのかもしれない
カラマゾフの兄弟の中では. スメルジャコフ 「神がいなければ、全てが許される」. こういうセリフがあるらしい
と前に書いたけれど
そういう発想って 日本人はあまり持たないな
もともと神がいない人が多いからかな?
西洋の場合
神があるのが前提だから
罪を犯した 罪なのかもしれない
そういう苦悩が 神とともに(いないという前提に立っても)
湧いて出てくるのだな
子供のころ 教会に通っているクリスチャンのお友だち
悪さをすると 神様に叱られる
というので
この子 本当にそう思っているのか?
と思ったっけ
日本人の場合
おてんとうさまが見ているよ
と言う言い方をする
仏教について
何も知らないけれど
どこぞの王子だったシッダルタが人々を救おうと
バラモンに合流し 修行したけれど
それでは救えないと バラモンを離れて
菩提樹の元で悟りを開いた
と聞いてきた
菩提樹ってもともとの名前ではなく
菩提 って 悟りを開いて光明を開く
そういうような意味があるらしい
菩提を弔う という言葉しか知らなかったが
いずれにせよ さまざまな宗教は時代とともに
言うことも言葉も いろいろ変わる
そういう変遷に耐えられるようなものが
(いろいろな解釈を生み出せるということでもある)
宗教として残ったのかな
奥の深い 詩みたいなものだな