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江戸は埋め立て地(その3)

2010年01月28日 | エコでボランタリーな江戸の町
江戸時代の絵師で戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)は、江戸っ子を「水道の水を産湯につかい、曳窓から金の鯱を見て育ち、宵越しの金を軽蔑する人種」と定義しています。金の鯱とは明暦の大火で消失するまであった江戸城の天守閣のことで、宵越しの金を待たないとはよく言われていることなので理解できると思いますが、「水道の水を産湯につかい」とは何のことでしょうか。

江戸は埋め立て地のため井戸を掘っても良い水に恵まれまれず、飲料水は人工的な水道に頼らざるを得ませんでした。ですから、テレビドラマで見る長屋の井戸は、実は水道なのですが、ほとんどの方は掘り抜き井戸だと思っています。

家康は江戸に入ると直ぐに、江戸城下に供給するための飲料水の確保に着手しました。始めは、目白台下で神田川の水を分けた水路を設けましたが、これが小石川水道です。その後、人口が増えるに従って拡張されて、井の頭池や善福寺池を水源とする神田上水となっています。地中に埋められた木樋(配水管)の総延長は67㎞とのことですから、当時の土木技術はとても高かったことが分かります。因みに、神田上水は神田川の上を懸樋(かけひ)で渡していますが、これが水道橋といわれる所以です。

江戸の人口は更に増え続けて需要に追いつかなくなると、幕府は多摩川の羽村に新しい水源を求めました。これが玉川上水ですが、承応2年(1653年)に着手してわずか7ケ月で四谷大木戸までの全長43㎞の水路を完成させてしまったということですから、驚くほかはありません。何しろ、シャベルカーは疎か馬車もなかった時代の工事なのですから。

その後も、亀有・青山・三田・千川の4上水を開削していますが、この4上水は享保7年(1722年)に一斉に廃止されています。上質な水が得られる掘り抜き井戸の普及などによるものとも言われていますが、理由はよく分かっていないようです。

このような事実を知ると、「恐るべし江戸時代」などと唸ってしまう私は単純なんでしょうかね。




「地図・グラフ・図解でみる 一目でわかる江戸時代」より
(竹内誠江戸東京博物館館長監修、市川寛明江戸東京博物館学芸員編)

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