k係長
生意気盛りの25~6歳、僕は、K係長の下にいた。両国にある〇〇公社の現場管理機関が職場、係長と僕の二人だけの係。仕事は、職員の訓練・研修担当である。上部機関からの研修計画に基づく、研修派遣者の調整、研修案内通知等のルーチンワークの他、管内の新任管理職・監督者研修の計画・実施等。比較的に暇な日常。
K係長は当時、43~4歳。お酒が好きだった。当時の僕は余り飲めない。それでも、一緒に酒場の暖簾を潜る回数は多かった。Kさんは、飲めば飲む程、飲む。当然、酔う。それでも飲む。(飲み方が、相棒のヒロさんに似ているかもしれない)
〇〇公社は、給料が安かった。当然飲みに行く店は、大衆酒場、居酒屋。(立ち飲みはなかった)何時も何時も、大衆酒場。ばあさんか、じいさんがやっている店である。
時々、僕は言う「係長、たまには若い娘がいる店に連れって下さいよ」。そんな時、たま~に(10回に1回ぐらい)連れて行ってくれるのが、「民謡酒場」であった。確かに、此処には若い娘もいた。民謡唄っている、店の歌い手。唄っていないときは、酒や料理を運んでいる。
若い娘と云っても民謡を唄う歌い手さん、K係長にとっては若いが、僕からすればチットモ若くなかったが・・・。
「係長、若い娘がいる所」と言うと、民謡酒場。錦糸町や亀戸の裏通り、吉原、よくこんな場所を知っているなと思うぐらいに知っていた。そのはず、Kさんは、声に艶・張りがあり唄が上手だった。唄は、民謡。僕も教わった、「ぼ~しゅう白浜、あの磯伝い・・・」あの時の白浜音頭が懐かしい。
飲んで、飲んで、飲んで、酔っ払て、唄って。また飲んで、更に酔っ払うぐらいにお酒が好きな人だった。でも、いい酒飲みだった。愛すべき酒飲みだった。
お酒と唄の他に、釣りが好きだった。休みには、房総の海にいつも出かけて釣り三昧。初めて、海釣りに連れて行って貰うことになり、両国の駅前で安い道具を仕入れ、夕方から、職場の前にある震災祈念堂の広場で、竿の持ち方、リールの巻き方から錘を付けての投げ方、仕掛けの作り方ときめ細かに気永に教えて貰った。
怒らない、叱らない、人だった。優しい人だった。逆らわない人だった。大人だった。
僕は転勤し、その後、結婚。結婚式に出て頂いた。それ以来、お会いしていない。
毎年、年賀状を頂いた。僕の子供達の名前を全部書いて、「〇〇チャンは元気でいますか」等と気遣ってくれる方だった。
来年から、あの年賀状を見ることはない。読むこともない。
あれから、36年が経つ。僕はあの時の係長のような大人に未だ、なれない。なっていない。