2/14(月) 昨夜、郷里より先輩の訃報が届いた。先輩の名は「岡宗武弘」さんと云う。元高知新聞社の記者であったが、2月11日急逝されたのこと。
岡宗先輩との出会いは高校卒業を前にした2月頃であったろう。先輩は一学年上で、大学の三島校舎から東京へと移る時期で、大学で後輩となるであろう私、は三島校舎に行くこととなった
知人からの紹介で、大学での生活や下宿についてお聞きするため帰省中(室戸市羽根町)の先輩を訪ねたのが始まりであった。先輩の実家は医院で、先輩も当初医大を目指したが断念し、新聞学科に入ったなどの話もその時に聞いた。
講座の取り方、どの教授が面白いかなど新人にとって為になる話を聞かせてもらった。
先輩が住んでいた三島の下宿を紹介して貰い、その後に入った。そして一年後、私も東京に移り本格的に交流が始まった。とはいえ、大学の近辺で出会いお茶を飲んだり、たまにアパート・下宿を訪ねて酒を飲んだりマージャンに加わったりのことであったが。それぞれに遊び代稼ぎのアルバイトで忙しかった。
私が大学三年、先輩が四年生の時に学園紛争が本格化した。私の友人達の何人かは、その活動で積極的に動いていた。岡宗先輩もそのグループの中におり、校舎をロックアウト・バリケードを築いて熱い血を滾らしていた。
そんな最中、夏休みとなり田舎から「高知新聞社記者募集」の広告が送られてきた。記者志望の岡宗先輩に届けるのが私の役目であった。
バリケードの校舎で先輩を呼び出し、募集のことを伝えた。先輩は暫し瞑目、悩んでおられた。この時のことは、何時まで経っても二人で飲み潰れながら繰り返して出てきた。
新聞記者となった先輩とは、帰省のおりや先輩が上京した時と、年に一・二度は必ずお会いして酒を飲み、談論風発気侭に論議をしてきた。大酒飲みの先輩と小酒飲みの私であったが、量は違えど酔えば同じ。一時は私もジャーナリストの道を模索したし、アルバイトでは同じように酒場での経験もあった。
新聞社のメンバーが利用する酒場によく案内をしてもらった。居合わせた同僚や後輩と云わず、先輩であろうと最後には論議を吹っかけて相手を困らせていたのは枚挙が尽きない。酔っ払った私まで悪乗り、翌日赤面汗顔が何度かあった。随分と乱暴なことを言い、行動をしてきたが、悪意や嫌味は一つもない希なる先輩であった。
こうして思い起こすと、岡宗先輩には「公」の精神が横溢していたのではなかろうか。
その先輩が或る時から酒を控えざるを得なくなった。糖尿病となりドクターストップが掛った。
そんな状況に置かれながらも、帰郷して連絡をすると「あんまり飲れんがよ、けんど今日ばあわ、ちっと飲っても構わんろ」と云って何時もの店で付き合ってくれたものだった。
行き付けの店のオバさんから「岡宗さん、あんた飲れんがやろ」等と言われていたが、「ちっとよ」などと言っていた。
そんな先輩が逝ってしまい、淋しい限りである。最後の御礼の言葉を伝えたい。
「先輩、人生の深遠と酒を教えていただきありがとうございました。これまでのご指導とご厚誼に感謝します。ありがとうございました。
先輩が長い眠りにつかれようとも、私の胸の内に何時までも生き続けております。
また来世お目に掛かり、酒を酌み交わし一緒にやんちゃができる日まで、おやすみください」 合掌