マイmy巷話

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世田谷・池尻稲荷神社の謎の水準点標石

2024-03-03 | 街歩き・歴史散歩
今回も都会の裏路地でふと見つけた不思議な石のはなしをしたいと思います。
再び、マイマイ🐌ネタはお休み。すみません。。


こちらは、渋谷から続いた国道246号沿いに鎮座する池尻稲荷神社👀

ここ、目の前の大きな国道とその上を走る首都高速の喧しさと威圧感からか?、日頃からついつい足早に通り過ぎてしまいがちだったのですが、、



先日、前を通りかかった際、この裏手に戦前あった駒沢練兵場の排水路が、今も神社脇に暗渠として残ることを思い出しまして、鳥居の横から経路に入った矢先、標石らしきものを見つけたのです。


大きな記念碑の裏側に横たわっている石は、1m近くはありそうな立派な花崗岩で出来ています。
おまけによく見れば、BM No-12とも刻まれていますね👀


一旦神社の敷地に入って、見えにくい記念碑の隙間から標石の表側を観察してみると、家紋らしき彫刻が入り、おまけに石のあたまには丸い出っ張りもありますね。。これは⁉️


ますます興味が沸いてきたので、境内をざっと眺めてみると、すぐにこの家紋らしきものは、神社の社紋だとわかりました。


BMの刻み文字。。
上部には球分体。。
そして、国道沿いの神社に社紋入りの立派な花崗岩の標石。。

このヒントから、これは昔の、おそらく戦前に作られた水準点標石じゃないか⁉️と思い始めました。

水準点とは明治維新後に海外から導入された技術を用いて、国土の高さを測るために各地に設置された基準点のことでして、当初は標石ではなく、内務省の管理下で国道沿いの既存の不朽物に几号を彫ったものを基準にしたそうです。例えば、神社の鳥居や石造りの構造物などなど。。いま見つけたらマニアなら堪らないレアものでしょうね。

その後、国土の測量は陸軍下の陸地測量部に移り、戦後は国土地理院へと続いているんですねー。
つまり、戦前の日本国土のデータは軍が全てを掌握していたってわけか。。🤔


そんな現在の国土地理院の地図を見ると、神社に水準点の記載はなく、一番近くの水準点は、神社から500メートルは先。
もしかして、以前はここに水準点が設置されていたものの、なんらかの事情で移されて、廃点になったのでしょうか❓❓

結局、地理院の測量担当の方に伺ってみたところ、池尻稲荷神社に該当する水準点の資料は見つかりませんという返事をいただきました。
やはり、水準点ではないようです。。


ではどうしてこんな立派な神社の社紋入りの水準点標石もしくは、似たものがつくられて、またその後、記念碑裏に隠されてしまったのでしょうか。。❓

もしかして、この記念碑になにかヒントはないか🤔❓と裏面をなんとか読んでみたところ、鎮座300年祝賀事業として、昭和38年9月に神社を改修、造営した際の記念碑だとまでは、わかりましたが、水準点のことはさっぱり分からず💧💧

最後は、神社の方に伺ってみることにしたのですが、やはり当時を知る氏子の方々は皆いなくなってしまったため、何故作られたかはわからないそうです。
それでも、唯一わかっているのは、昭和38年に、翌年のオリンピック開催に向けた高速道路建設のための国道拡幅工事で神社の敷地が今の場所までセットバックされた際に、あの石も移されて、いまのように記念碑裏手に置かれてしまったのだとか。。


いやー謎ですよね。
謎ではあるが、この土地がかつては駒沢練兵場をはじめ陸軍施設が集まる、軍人が住む町だったこと、その町の鎮守が池尻稲荷神社だったこと、そして、土地の測量を管理、設置したのが陸軍の管轄部署だったという因子から、ある日あるとき、あの標石がひょこりと誕生したのかもしれません。

それが、戦後の東京オリンピックを期に誰もが夢中になった新しい街づくりの陰で、ひっそりと失われて、また忘れ去られてしまったたくさんの旧いモノらの仲間入りを図らずもしてしまった、、、

最後はそんなプロットがふとアタマを過ぎってしまいましたが、まぁ今回も見慣れた町でふと見つけた石から、楽しい妄想を膨らませてしまいました笑


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