生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

まつもとやすこ展/海岸通ギャラリー・CASO Y室

2010年04月09日 23時07分45秒 | 美術/絵画
2010年4月9日-9
まつもとやすこ展/海岸通ギャラリー・CASO Y室

 まつもとやすこ展/海岸通ギャラリー・CASO Y室


<床面部分>(実際はもっと白い)
 床面に組作品、壁面に要素集合的な立体的平面作品(あるいは平面的立体作品)。面白い。和紙、蝋、白は、好みの素材だし。ねらいについてあえて答えてもらうと、水だとのこと。
 床面に律動的に要素が並んでいる。一つの要素は、和紙をちぎって、中央付近に円弧状に破いて、全体を蝋に浸したもの。それをたくさん並べて一つの単位にしている。それが5列。白い和紙が蝋で異なる風合いになる。
 数cm幅の細い和紙を立てるために、四角い断面の白い樹脂に縫いつけている。蝋の面を接着するのは困難だとのこと。


<壁面部分>
 壁面は、同じ作り方の和紙の葉っぱ的形状のものが要素。それをピンで壁面に留めている。それらが壁面に1.5mほどの幅で下端から上端まで斜めに並んでいる。照明によって、葉っぱの影も生じている。それも効果的。

 (画像での)「昇華」2008(これもふわふわしていそうで面白そうだが)よりも小さい要素で最小数で構成して存在感のある小さな立体を作ると、面白いかもしれない。さらにそれを単位に大きなものを試みたものを見てみたい。(画像での)「漂う」2006は、好み。
 作家さんに聞くと、色のついたものも前には試みているとのこと。

 入り口で聞いたが、CASOでは撮影してもよいが、それをwebに載せるのは不可とのこと。ここでの掲載は作家さんの了承済み。(平面作品もだが)立体作品についてはまだ感想ないし批評用語を構築しておらず、気の利いた言葉が使えない。他にもいろいろと教えていただいた。ありがとうございました。


海岸通ギャラリー・CASO訪問

2010年04月09日 22時54分49秒 | 美術/絵画
2010年4月9日-8
海岸通ギャラリー・CASO

 訪れようと思っていたことを、ふと思い出した。今日は休館ではなかった。CASOの最寄り駅は大阪港駅で、サントリーミュージアムのと同じだったとは。大阪港駅に CASOの案内はなかったのかな。

  前期 2010年6月30日(水)~7月11日(日)
  後期 2010年7月14日(水)~7月25日(日)
で、現代美術 インディペンデント CASO展/海岸通ギャラリー・CASOがある予定になっている。

2010年4月9日
 海岸通ギャラリー・CASO、いずれも無料。
 中嶋雄二展。片岡健二展。Food for the senses(中屋敷智生、田中秀和、国谷隆志、松村晃泰)展。
 立嶋滋樹 「あたらしい言葉」展。生カンヴァスか、地塗済みカンヴァスを裏返したものに、まるでクレパスで描いたような感じ。やはりDMに使われた「Shigure」(DMではShi gu reとなっていた。そうだったっけ?)が良い。実物の色はもっと良い。

 2階に資料室もあり。

世間は虚仮なり

2010年04月09日 11時46分27秒 | 生命生物生活哲学
2010年4月9日-7
世間は虚仮なり

  世間は虚仮なり
  唯仏のみ是真なり
      (〔聖徳〕太子のお言葉。中宮寺拝観のしおりより)

 大辞泉によれば、虚仮とは仏語で真実でないこと、とある。
 また、世間とは仏語で、「生きもの(衆生世間)と、それを住まわせる山河大地(器世間)、および、生きものと山河大地を構成する要素(五陰世間)の総称」だとある。
 世界の分類カテゴリーとして、生物と自然を構成する要素を、生物と非生物的自然とは別扱いしているのはなぜなのか。


レイヨニズム/立体主義/加藤一の風

2010年04月09日 11時38分41秒 | 美術/絵画
2010年4月9日-6
レイヨニズム/立体主義/加藤一の風

  「レイヨニズム宣言は……1913年になって発表された。その主張によれば、さまざまな物体から発する反射光の放射は互いに遮断し合い、交叉する。それらの物体間は放射線の交錯する空間であるが、そこに画家によって再創造される空間的形体が生れる。……「レイヨニズムのねらいは……純粋に絵画的な法則によって絵画の生命を方向づけてやることである」(二見 1994: 80)。

 放射線とおぼしきものは面的になっており、それは立体主義を総合したということなのか。総合というのは、なんでも取り入れるということを含意しない。立体主義の成果としての絵画はほとんどが美しくなく、そのことは立体主義の方法によると思う。したがって、立体主義的側面は捨てるべきだったのだ。そうすれば、画面は余計な煩雑物を除くことになり、美しくなっただろう。要は、立論がまちがっていたのだろう。
 一部似ている加藤一(1925- 2000)の作品は、画集(加藤 2003)からは美しいように思う(実物は未見)。


[F]
*二見史郎.1994.1.抽象芸術の誕生:ゴッホからモンドリアンまで.206pp.紀伊国屋書店.[ISBN10 4314006404 / 1,748円+税].〔大阪市図〕

[K]
*加藤一.2003.6.加藤一画集 風の翼に乗って.求龍堂.[ISBN10 4763002287 / 12,000+税].〔公式サイトがある:http://hajimekato.com/gallery.html〕

安部清明神社/結界

2010年04月09日 11時18分35秒 | 生命生物生活哲学
2010年4月9日-5
安部清明神社/結界

2010年4月8日
 調べものをしていると、安部清明神社というのがあった。それは(京都ではなく)大阪にあり、五芒星(神社の紋章)が出てくるサイトによれば、阪堺上町線東天下茶屋駅下車、東南へ徒歩5分とある。路面電車にも乗りたかったので、出かけた。
 五方守護札の五方とは、東西南北(青龍・白虎・朱雀・玄武)と天(北斗七星)だとある。
 五芒星は、守りの形。ペンタゴンは五角形だが、なぜなのか? 人の四肢と頭とで、五角形だから?
 安倍晴明は京都に守護魔方陣の結界を張ったとのこと。今でも有効なのだろうか? 
 道教護符は、地縛霊成仏にも使われるらしい。

具象/非具象/非対象/抽象/超抽象-1

2010年04月09日 10時41分04秒 | 美術/絵画
2010年4月9日-3
具象/非具象/非対象/抽象/超抽象-1

具象と非具象/抽象
 具象と抽象は、対極的なものであるが、いつくかの軸があるだろう。具象の直接的対極は文字通り、非具象である。方向としては、具象的なものからの逃走または脱却であり、画面からの具象的なものの追放あるいは不在化である。
 では具象的なものとは何か。実際の或る絵画が具象的かどうかは、観者または鑑賞者の同定能力に依存する。たとえば超拡大した物は、すぐには何かがわからない。見慣れないからである。例:オキーフ作品の花。
 立体主義的な加工によっても、物の同定は困難になる。
 また、焦点をぼやかしても、物の同定は困難になる。
 と、具体物を描くところから出発して、非具象に向かう画面作成法はいろいろと考えられる。
 カンディンスキーやモンドリアンのように、歴史的にも、具象から非具象に向かった。しかし、どちらにおいても、非具象から飛躍して抽象に至った。そこにおいて、抽象が自律的なものとなった。したがって問題は、そこにおける考え方である。

非対象
 もう一つ検討すべきは、非対象という言い方である。これも対象という意味に依存する。対象とは具体物を指すと解釈すると、非対象=非具象になる。しかし、対象を(通常の)広義に解釈すれば、何も描かない絵画ということになる。その具体例は、カンヴァスだけのものということになるだろう。あるいは、白いカンヴァスを照明する。しかし、照明していれば、光で描いているとも受け取れる。

空気を彫刻する
 あるいは、白いカンヴァスを前にして、音をスピーカーから発する。この場合でも、音による空間彫刻だと解釈できる。たとえば、スピーカーを向かって左と右に配置して、あたかも空気を殴っているように強い音列を流す。まさに空間彫刻であろう。

超抽象絵画へ
 抽象芸術の核心は、非具象ではない(とわたしは、規定または策定する)。抽象は抽象である。したがって、さらに、超抽象を考えることができる。

観者とは?

2010年04月09日 10時40分25秒 | 美術/絵画
2010年4月9日-2
観者とは?

 観者という語があちこちの文献に出てきて、気になっていた。viewer(観察者、見物人)がその英語かと思っていた。
 googleと、観者はbeholderだった。暮沢剛巳は、
http://www.artgene.net/dictionary/cat80/post_488.html
で、
  「英語の「beholder」が単に「眺める者」という程度の意味に過ぎないことを思えば、「観者」という語にはいかにもブルジョワ的、前近代的な含意が漂う。ある意味では、「観者」の更新、新しい造語の定着が今後の現代美術の課題かもしれない。」
と言う。beholdは注視するという意味があり、眺めるとは反対の含みがあるように思うが、欧米の美術関係者はbeholderを眺めるというほうの意味で使っているのだろうか。
 研究社新英和中辞典では、beholderは見る人である。
 大辞泉では見者は、見る人、見物人である。
 見者と言うと、アルチュール・ランボーの「見者の手紙 Lettres de voyant」が思い浮かぶ。voyantは、ここでの見者は、clairvoyance透視をする(ランボーでは未来を見透す)clairvoyantという意味に使われているようだ。

 受け身的含みがこの観者beholderに入っているとすれば、撮影はご遠慮ください式の美術館展覧方式での見る人は、観者なのだろう。著作権や作品保護が関係するが、現代美術は触わったりもできる作品がある。
 →視覚による同定と触覚による同定。ドット・パターンか。

光線主義

2010年04月09日 10時39分25秒 | 美術/絵画
2010年4月9日-1
光線主義 Rayonism, Rayism

 「抽象絵画としては、最初期の作品の部類の1つ」(ウィキペディア)で、「光線と呼ばれる斜線が強められている事に特徴がある」(ウィキペディア)とされる光線主義のミハイル・ラリオノフは、
  「レイヨニズム絵画は具象的事物からの解放であり、それは色彩の組合せ、彩度、深み、きめなど絵画自身の法則によって個性されなければならないと彼は主張する。」(二見 1994: 80)。

 実物は見ていないが、少し面白そう。ラリオノフの画集は?
 一つ画像が出てきたが、美しくない。(ウィキペディアのミハイル・ラリオーノフ事項からOnline gallery of Larionov paintingsへのリンクが張ってあるが、リンク切れだった。)

[F]
*二見史郎.1994.1.抽象芸術の誕生:ゴッホからモンドリアンまで.206pp.紀伊国屋書店.[ISBN10 4314006404 / 1,748円+税].〔大阪市図〕