2010年5月18日-3
分類とパラディグマ(範例)/範型的混同
渡辺慧『認識とパタン』に、パラディグマ的象徴という節がある。われわれが物事を捉えるときの基本的用語のうちでも、パタンまたはパターンは、最も基本的なものでである。では、パターン(pattern;様式、模様、型、型紙、模範、手本、図案)とはなにか?
仏語のpatronは、英語のpatronとpatternになった。パトロンとは、守護者であり、お手本になるもので、型紙つまりパタンも一つのお手本であり、典型であり、われわれはそれに倣って次のものを作るのである(渡辺慧 1978: 10-11頁)。
その後、中心とか主人という意味は消えていって、「それを倣った多数の実例の集団的な観念になった」(渡辺慧 1978: 11頁)。「現在では、……一つの類似なものの集団ということが、パタンという概念の核心になりました」(渡辺慧 1978: 11頁)。したがって、「或る集団[ルビ:クラス]の一員としての個体」(渡辺慧 1978: 11頁)といってよかろうという。
「「これは何か」という問に対する答になるものはパタンだともいえましょう。それはそういう問に対する答として、普通、類概念をもってくるからです。「猫です」……とかいう答は、まさにその個体の属するクラスを指定していることになります」(渡辺慧 1978: 12頁)。
この記述は、まさにタクソン学の根本を言い当てている。それはわれわれの概念作用(思考作用の一つ)であり、言語は基本的に類概念の体系である。われわれは世界を、類的個体(概念)として分節化して捉える。
「パタンを認めるということは、すべての思考の共通地盤にある、最も基本的な心の働きだということがわかります」(渡辺慧 1978: 15頁)。
パタン認識の二種:
1. 類の創造 〔=タクソン新設〕
2. 既成の分類の再認識 recognition 〔同定と分類体系の改訂〕
概念の外延的定義なるものは実行不可能である。
「犬という概念を定義するのに、すべての犬、過去現在未来に生きていた、または生きている、または生きるであろう犬のすべてを数えあげなければなりません。……これではパタン認識の役には立ちません」(渡辺慧 1978: 27-28頁)。
したがって、生物の系統(再)構築なぞしても、科学的認識には何の役にも立たない。空想小説を楽しむといった効用はあるかもしれないが。分岐分類cladistic classificationでは、偶蹄類や爬虫類は側系統paraphylyだからといって、タクソンとして認めない。やれやれ。
んじゃ、地球人のごく一部が火星に移住し、その子孫が地球人とは異なる種に属する生物体と同定されるようになったとしよう。するとその時点で、われわれ地球人は、種的に共通な形態的形質や生理的形質がなんら変わらなくても、側系統になり、分岐分類ではタクソンとして認定しなくなる。池田清彦『分類という思想』や馬渡峻輔『動物分類学の論理』が指摘する通りである。Michael Ruseも同様に、分類の根本を指摘している(文献失念)。
むろん、分岐分類者はこの不都合をさけるために、生物体の集合(たとえば『個体群 population』、これは生物体を種的に同定できてから構築できる概念である。マーナ・ブーンゲ『生物哲学の基礎』を見よ)は問題とせず、種だけを問題とする。(脱線した。)
しかしまた、概念の内包的定義は、困難であると渡辺慧は言う。しかし実践的には問題無い。実際、生物分類学研究者(biotaxonomist、biological taxonomist)は、検索表を作成して同定可能とする。そしてタクソンを創設することもやっている。
「実際、お母さんが子供に「犬」とは何かを教えるときにどうするでしょうか。それは実に簡単で、実際の動物を見せて、「これは犬ですよ」「これは猿ですよ」「これも犬ですよ」と二、三回繰り返せばそれでよいのです。その次に一つの動物を見せれば、子供は間違いなくそれが犬だかどうだかを言い当てるでしょう。……大人でもたいていの概念は、実例、もっともっともらしくいえば、「範例」(パラダイム=paradigm)を通して学ぶのであって、内包だとか外延などなどは学者の無用な産物にすぎません」(渡辺慧 1978: 29頁)。
しかし範例を通して学ぶことができるのは、すでに分類体系ができているからである。分類学者は神様である。レッテル貼りは、なかなか効果がある。(だから同定理由、つまり相手の言い分を尋ねよう。)
われわれは定義することから物事を始め(世界を構築し)、そのようにしてすべての認識は始まる。そして定義を改訂し、定義された事項間の関係を定義し、再定義つまり改訂する。
(探しあぐねて脱線ばかり?)結局、「この本の最初の章で……一応「パタンとは類の一員としての個体」であると申しました」(渡辺慧 1978: 179頁)という箇所がどこなのかわからない。
「パタンが個物であるか類であるかという混乱は、実はプラトンがすでに気がついていたのです。プラトン流の形相、エイドスすなわちイデアというのは一方では類を規定するものでありますが、一方それはイデアの世界に実在する個物でもありました。その後者の見解を取れば、n個の類のメンバーがあるとすれば、形相はn個の上に立つが、やはりそれは一つのものであるから、(n+1)個の集合を形成します。そうすると、その(n+1)個のメンバーを持つ類のまた形相が必要になる。そういうことを繰り返し行〔な〕えば、限りなく形相が必要になって、これは実在とはいえなくなります。」(渡辺慧 1978: 180頁)。
ならば、階層的に考えればよい(集合論では階型type)し、無限でもいいじゃないか。現実は無限かもしれないし。問題は、制御の上位下位を定義することで、レベルlevelの階層hierarchy(入れ子構造nested structureではない)を定めることである。層はstratumとしておこう。layerという語もあるな。
[W]
渡辺慧.1978.1.認識とパタン.v+191+5pp.岩波書店.〔380円〕
分類とパラディグマ(範例)/範型的混同
渡辺慧『認識とパタン』に、パラディグマ的象徴という節がある。われわれが物事を捉えるときの基本的用語のうちでも、パタンまたはパターンは、最も基本的なものでである。では、パターン(pattern;様式、模様、型、型紙、模範、手本、図案)とはなにか?
仏語のpatronは、英語のpatronとpatternになった。パトロンとは、守護者であり、お手本になるもので、型紙つまりパタンも一つのお手本であり、典型であり、われわれはそれに倣って次のものを作るのである(渡辺慧 1978: 10-11頁)。
その後、中心とか主人という意味は消えていって、「それを倣った多数の実例の集団的な観念になった」(渡辺慧 1978: 11頁)。「現在では、……一つの類似なものの集団ということが、パタンという概念の核心になりました」(渡辺慧 1978: 11頁)。したがって、「或る集団[ルビ:クラス]の一員としての個体」(渡辺慧 1978: 11頁)といってよかろうという。
「「これは何か」という問に対する答になるものはパタンだともいえましょう。それはそういう問に対する答として、普通、類概念をもってくるからです。「猫です」……とかいう答は、まさにその個体の属するクラスを指定していることになります」(渡辺慧 1978: 12頁)。
この記述は、まさにタクソン学の根本を言い当てている。それはわれわれの概念作用(思考作用の一つ)であり、言語は基本的に類概念の体系である。われわれは世界を、類的個体(概念)として分節化して捉える。
「パタンを認めるということは、すべての思考の共通地盤にある、最も基本的な心の働きだということがわかります」(渡辺慧 1978: 15頁)。
パタン認識の二種:
1. 類の創造 〔=タクソン新設〕
2. 既成の分類の再認識 recognition 〔同定と分類体系の改訂〕
概念の外延的定義なるものは実行不可能である。
「犬という概念を定義するのに、すべての犬、過去現在未来に生きていた、または生きている、または生きるであろう犬のすべてを数えあげなければなりません。……これではパタン認識の役には立ちません」(渡辺慧 1978: 27-28頁)。
したがって、生物の系統(再)構築なぞしても、科学的認識には何の役にも立たない。空想小説を楽しむといった効用はあるかもしれないが。分岐分類cladistic classificationでは、偶蹄類や爬虫類は側系統paraphylyだからといって、タクソンとして認めない。やれやれ。
んじゃ、地球人のごく一部が火星に移住し、その子孫が地球人とは異なる種に属する生物体と同定されるようになったとしよう。するとその時点で、われわれ地球人は、種的に共通な形態的形質や生理的形質がなんら変わらなくても、側系統になり、分岐分類ではタクソンとして認定しなくなる。池田清彦『分類という思想』や馬渡峻輔『動物分類学の論理』が指摘する通りである。Michael Ruseも同様に、分類の根本を指摘している(文献失念)。
むろん、分岐分類者はこの不都合をさけるために、生物体の集合(たとえば『個体群 population』、これは生物体を種的に同定できてから構築できる概念である。マーナ・ブーンゲ『生物哲学の基礎』を見よ)は問題とせず、種だけを問題とする。(脱線した。)
しかしまた、概念の内包的定義は、困難であると渡辺慧は言う。しかし実践的には問題無い。実際、生物分類学研究者(biotaxonomist、biological taxonomist)は、検索表を作成して同定可能とする。そしてタクソンを創設することもやっている。
「実際、お母さんが子供に「犬」とは何かを教えるときにどうするでしょうか。それは実に簡単で、実際の動物を見せて、「これは犬ですよ」「これは猿ですよ」「これも犬ですよ」と二、三回繰り返せばそれでよいのです。その次に一つの動物を見せれば、子供は間違いなくそれが犬だかどうだかを言い当てるでしょう。……大人でもたいていの概念は、実例、もっともっともらしくいえば、「範例」(パラダイム=paradigm)を通して学ぶのであって、内包だとか外延などなどは学者の無用な産物にすぎません」(渡辺慧 1978: 29頁)。
しかし範例を通して学ぶことができるのは、すでに分類体系ができているからである。分類学者は神様である。レッテル貼りは、なかなか効果がある。(だから同定理由、つまり相手の言い分を尋ねよう。)
われわれは定義することから物事を始め(世界を構築し)、そのようにしてすべての認識は始まる。そして定義を改訂し、定義された事項間の関係を定義し、再定義つまり改訂する。
(探しあぐねて脱線ばかり?)結局、「この本の最初の章で……一応「パタンとは類の一員としての個体」であると申しました」(渡辺慧 1978: 179頁)という箇所がどこなのかわからない。
「パタンが個物であるか類であるかという混乱は、実はプラトンがすでに気がついていたのです。プラトン流の形相、エイドスすなわちイデアというのは一方では類を規定するものでありますが、一方それはイデアの世界に実在する個物でもありました。その後者の見解を取れば、n個の類のメンバーがあるとすれば、形相はn個の上に立つが、やはりそれは一つのものであるから、(n+1)個の集合を形成します。そうすると、その(n+1)個のメンバーを持つ類のまた形相が必要になる。そういうことを繰り返し行〔な〕えば、限りなく形相が必要になって、これは実在とはいえなくなります。」(渡辺慧 1978: 180頁)。
ならば、階層的に考えればよい(集合論では階型type)し、無限でもいいじゃないか。現実は無限かもしれないし。問題は、制御の上位下位を定義することで、レベルlevelの階層hierarchy(入れ子構造nested structureではない)を定めることである。層はstratumとしておこう。layerという語もあるな。
[W]
渡辺慧.1978.1.認識とパタン.v+191+5pp.岩波書店.〔380円〕