「2020年最初の関西旅行記 #4-1」のつづきです。
京都国立博物館(京博)で「京博のお正月」を楽しんだあと、ミュージアムショップの裏手にある喫煙所で一服
と、濃いピンクの花が咲いています。
近づいて見ると、梅でした
今シーズン初めての梅です
詰まった鼻がとおるような梅の香り、イイですなぁ~
この後の行動が決まっていない状況下、久しぶりに京博の「西の庭」を見物しながら、今後の計画を立てることにしました。
紅梅が多い中、
白梅を探すと(私は紅梅より白梅が好み) 、、、
ありました
あ~~、梅、好き です
京博の「西の庭」には、
日本の石仏や礎石、石の橋柱などをそこここに野外展示してあります。
ということで、その「石の橋柱」がこちら。
直線的なストーンヘンジみたいですが、説明板を転記しますと、
この三本の柱と二本の石材は、京都の五条大橋の橋脚と橋桁です。中央の柱に「津国御影天正拾七年五月吉日」という文字が刻まれています。(中略)
この五条大橋の石材は摂津国の御影、現在の兵庫県神戸市から運ばれてきた花崗岩です。石の橋桁の切り込みに、桁と直角に木の梁をわたし、その梁の上に踏み板をしきつめました。橋桁の長さは約7m半ありますので、橋の幅はほぼそれくらいあったと推定されます。
だそうです。正真正銘の「御影石」
さらにこちら
五条大橋の橋脚石柱(2本)と、「天正拾七年津国御影七月吉日」と刻まれている三条大橋の橋脚石柱です。
五条大橋と三条大橋について、ちょいと調べてみると、Wikipediaの「三条大橋」の説明によれば、
橋が架けられた時期は明らかではないが天正17年(1589年)、豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。
だそうで、安土桃山時代から石造りの橋だったんですねぇ
牛若丸と弁慶の対決で知られる五条大橋と、東海道の起点であり終点でもある三条大橋が、安土桃山時代から石造りの橋だったとは…。
と、ここで思い出すのは、歌川広重「東海道五拾三次」の掉尾を飾る「京師 三条大橋」です。
この作品、「広重は京都に行かずにこの絵(原画)を描いた」という見方があるそうで、その理由の第一が、三条大橋が木橋として描かれていることなんだそうな
さらに、この角度から見えるはずのない比叡山や清水寺が描かれていたりもします
こちらのサイトによれば、
(東海道五拾三次で)リアルに描かれていたのは「三島」あたりまでで、以降の宿場は想像や他の資料に基づく図が多くなっていることから、広重が八朔御馬進献に同行し京へ上洛したとの説を疑問視するむきもある。
だとか。
「フェイク」の可能性が高いということですか
話題を変えましょ
お次、というか、最後はこちら
直方体の石に、深さ15cmほどの溝がU字型に彫られています。
説明板を転記しますと、
東海道車石
京都市東山区九条山付近出土 江戸時代 18~19世紀
「車石(くるまいし)」とは江戸時代に「輪石」とも呼ばれ、牛馬車の通行の便をよくするために道に敷かれていた凹状の石材のこと。京都では東から東海道、南からの竹田街道などに敷設されていた。もともとは二列で連なっていたもの。
だそうです
へぇ~~~~~~ です
こんな石造りの「軌道」があれば、道が雨でぬかるんでも、楽々
ですよねぇ~。上にリンクしたこちらのサイトによれば、
江戸中期には、峠道で四つの足を泥に取られてあえぐ牛の姿や旅人の難渋を見かねた木食正禅上人が、浄財を募り、日ノ岡峠道(亀の水不動尊辺り)の急勾配の緩和や敷石舗装などに取り組んだ(1737年)。
のち、いつ、誰の発案か不明ながら、規格化された車石が、東海道と竹田街道、そして鳥羽街道に敷設されたのだそうな。
こんな「車石」が、京都だけ(私が知らないだけかもしれないけど)に敷設されたのか(江戸と大坂は海運が便利そう)、また、ゲージ(クルマでいうトレッド)はどうやって「規格化」したのか、など、「謎」が深まってきます
この「謎」を解明できないまま、私は京博から退出し、「#4-2」もおしまいです。
つづき:2020/02/16 2020年最初の関西旅行記 #4-3