「2020年最初の関西旅行記 #4-5」のつづきは、1月25~28日に決行した関西旅行記の完結編です。
途中、蓮華王院三十三間堂の正門とおぼしき朱塗りの門の前を通り、
と、左手にちょっと変わった門がありました。
いわゆる「竜宮門」という様式で、入口の正面に「旧御陵正門」と刻まれた石柱が立っています。
傍らの説明板によれば、
法住寺
天台宗の寺で、永祚元年(989)右大臣藤原為光が、その夫人と娘・忯子(花山天皇女御)の菩提を弔うため建てた。当時は、北は七条通、南は八条通、東は東山山麓、西は大和大路に及ぶ広大な地域を占めていた。しかし、のち火災にかかり荒廃した。
保元3年(1158) 後白河天皇は、法住寺の地を院の御所と定められ、上皇となって住まわれた。その後、当寺の寺域内に蓮華王院(三十三間堂を本堂とする)や長講堂を造営された。
明治維新後、後白河天皇陵が宮内庁所管となったので、御陵と寺域を別にして大興徳院と改め、渋谷(しぶたに)より親鸞上人自作の阿弥陀如来像と自刻彫像(そば喰い木像))を移したが昭和30年に法住寺の旧号に復した。
とあります。
つまり、「#4-3」で書いた「法住寺殿(ほうじゅうじでん)」の法住寺がここで、石柱の「旧御陵正門」の御陵とは後白河天皇陵のことでした。
後白河天皇陵は後回しにして、まずは蓮華王院南大門
豊臣秀頼が方広寺大仏殿の門として建てただけあって、立派な門です。
門の西側には、筋塀の「太閤塀」が三十三間堂の南の壁として現役でした。
太閤塀の軒丸瓦には豊臣家の「五七桐紋」がくっきりです。
蓮華王院南大門は、国の重要文化財に指定されているのですが、一方通行ながら普通乗用車
とライトバン
は通れるようになっています
東京・芝の大門もクルマが通れますが、こちらは、「昭和12年に東京市が市民の寄付を募って従来の意匠のまま高さを1.5倍の5.25mにし、コンクリート造りで改築したもの(Wikipedia)」ですから問題はないでしょ。
最後に門の下から旧参道を眺めて、七条通に戻りました。
そうだそうだ、後白河天皇陵にお参りしていきましょ
上に転記した法住寺の説明板にあったように、後白河天皇陵は、その敷地と管理が法住寺から宮内庁に移されていて、お役所(宮内庁)のワーキングアワーしか参観できなくなっていました。
法住寺の伽藍を迂回するように、5本の定規筋の塀に挟まれた参道を歩いて行くと、天皇陵ではお馴染みの案内板
があり、
そして、お馴染みの柵と門がありました。
他の天皇陵と違うのは、鳥居が無いこと。
その辺りは、「法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)」という陵墓名と共に、宮内庁が気を使ったのでしょう
ちなみに、法住寺の軒丸瓦と鬼瓦は、「十六菊紋」でした。
以上をもって、今回の旅行の「観光の部」をお開きとして、博物館三十三間堂前
から路線バス
に乗って京都駅に戻りました。
そして、京都駅地下街ポルタで昼食。
「京料理 万重」さんでいただいたこちらのメニューは、天ぷらかふろふき大根を選べるようになっていまして、私は迷わずふろふき大根を選択
結果、1500円+taxというお値段ともども、大満足
でございました
このあと、京都駅八条口の「551蓬莱」で豚まんを買い、コインロッカーからバッグとビニール傘
を取りだし、予約していた東海道新幹線
に乗りました。
東京駅には定刻の16:23に到着
この時間帯は、夕方の帰宅ラッシュ前ですので、東京駅から自宅最寄り駅までは楽々です
平日の移動には、この辺は重要だと考えております
そして、17時ちょい過ぎに自宅に無事帰着しました。
今回の関西旅行は、いつも以上に「行き当たりばったり」でしたが、それでも、「あんなところに行くんじゃなかった…」なんてスポット
は一つもなく、逆に何度もLucky
と思ったのは、我ながら大したものだと思ったりして…
メインの「Misia Soul Jazz Big Band Orchestra Sweet & Tender」大阪 2 Daysも、初日の座席位置を除いて大満足
だったし、ホント、充実した3泊4日の旅行でございました。
めでたしめでたし