「2020年最初の関西旅行記 #4-2」のつづきです。
「#4-2」の最後に
この「謎」を解明できないまま、私は京博から退出し、「#4-2」もおしまいです。
と書きましたが、退出直前から始めさせていただきます
京都国立博物館(京博)の次はどこに行こうかと考えながら、団体用出入口と一般用出口に使われている正門付近をしばし見物。
旧方広寺大仏殿の石垣は、低めで、ちょっと変わった組み方ですが、巨石です
旧本館の明治古都館とピッタリの正門は、
その両脇に、中世ヨーロッパ風の制服&兜を着用し、槍を携えた衛兵が立ってたら似合いそう…
実際は、紺色の制服&制帽+マスクを着込んだ警備員さんが一人だけいらっしゃいましたけど…
さて、ホント、次はどこに行きましょうか?
このときの時刻は11:40で、帰りの新幹線(予約済み)まで2時間半しかない…。
昼食の時間も考慮すれば、あまり離れたところには行けそうもありません
それならば、お隣の三十三間堂(蓮華王院)を拝観しよう ということに決めました。
三十三間堂は、高校の修学旅行のときが初めてで、その後、記録は残っていないのですが、一度だけ拝観したことがありました。
京博には何度も来ていながらも、三十三間堂を拝観しなかったのは、千体千手観音立像のうち数体を寄託先の東京国立博物館で、ほぼ360°からしげしげと拝見したからかもしれません。
京博の正門からこちらで書いた大仏前交番の前を左折して、京博の南門前で七条通を渡り、さぁ、三十三間堂
だったんですが、目に入ったのは、三十三間堂前の道の先にある蓮華王院南大門でした。
そういえば、そもそもは方広寺大仏殿の南大門として建てられたという蓮華王院南大門を間近に観たことがありません
それじゃ、まず、蓮華王院南大門を拝見してから三十三間堂を拝観しよう ということで、連子窓を通して三十三間堂をチラ見しながら蓮華王院南大門に向かいました。
ところで、蓮華王院三十三間堂は、当時の後白河上皇が、自らの超広大なお屋敷・法住寺殿の敷地内に1165年に創建したもので、初代のお堂は1249年に焼失
こちらの日経の記事によれば、
このとき千体仏のうち124体が救出された。焼失後も堂の再建、うしなわれた観音像877体の復興を急ぎ66年に完成する。
だそうで、1266年に復興されたのが現在のお堂。
Wikipediaによると、
洛中にある建物の中では大報恩寺本堂に次いで古く、洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟のみである。
というのはビックリです
8世紀末から19世紀央まで都だった京都、洛中(ここでの「洛中」とは「北大路通、東大路通、九条通および西大路通の内側」と思われ…)には12世紀以前の建物は残っていないとは…
やはり、地元で「先の大戦」といえばこれを指すとの都市伝説があるとかないとかいう応仁の乱のせいなのかなぁ…
そうやって考えると、奈良の法隆寺とか唐招提寺とか新薬師寺とか、東大寺の一部建造物(正倉院、転害門、法華堂など)、薬師寺東塔などの貴重さが身に染みます…
ところで、上に「超広大なお屋敷」と書いた法住寺殿、現在の地図でその敷地を示すと、こんな感じらしい…。
冗談じゃありませんな
さて、蓮華王院南大門に向かって歩いていると、ふと目に止まったのが、
桃山御殿 血天井
俵屋宗達筆
杉戸絵(白象・唐獅子)
襖絵(松図) 当院
というインパクトのある立て札でした。
予習もなにもまったくしていない状態で、「血天井」だ「俵屋宗達」だと見てしまったら、こりゃ、足が引き寄せられるのも無理ありませんって
ということで、「#4-4」は、「当院」こと養源院の見聞録です。