きのうの記事「埼玉県立近代美術館の企画展は今回も当たり(前編)」のつづきです。
100年前の原田直次郎の「個展」が開催されるにあたって中心人物となったのが、留学先のミュンヘンで、ミュンヘン美術アカデミー
に留学だった原田直次郎と会い、以降、終生「親友」だった森鴎外です。
というのは、医師、それも陸軍軍医総監にして、文学者にして、帝室博物館(現在の東博・奈良博・京博)総長にして、
(上の写真は東博・平成館前にある鴎外の肖像写真)、帝国美術院(現在の日本芸術院)の初代院長にして、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の講師まで務めたという、あの大文化人の森鴎外(林太郎)です。
左の写真は、鴎外がベルリン留学中に住んでいた下宿だそうで、私がベルリンに行ったときは休館
でした…
鴎外は、22歳のとき(1884年)、陸軍派遣留学生としてドイツに渡り(ちなみに鴎外は19歳で医学校本科を卒業)、ライプツィヒ⇒ドレスデン⇒ミュンヘン⇒ベルリンで医学を修めたわけですが、1886年3月~翌年4月まで滞在したミュンヘンで原田直次郎と出会い、意気投合したようです。
当時の写真がこちら。
中央が原田直次郎で、右のすましたポーズをとっているのが鴎外、左の固そうな方は岩佐新さんという方(お医者さんらしい)。
原田直次郎と鴎外とは1歳違い(直次郎さんが年上)で、年齢を上にごまかして医学校に入学した鴎外にとって、ドイツの地で、同世代の、しかも軍医の卵の鴎外とはまったく分野の違うアーティストの友人を得たことはうれしかったことだろうなと思います。
後に鴎外が、アートの世界と縁を持ったのは、原田直次郎との出会いとその後の交友が影響したのでしょう。
「前編」で、
それはそうと、「騎龍観音」と「靴屋の親爺」の印象から、原田直次郎って、ゴツい イメージを持ってしまいます。
と書いたのですが、原田直次郎さんは、上の写真を見ても判るとおり、イメージとは裏腹の容貌をしていらっしゃいます。
また、もう一つ思い違いしておりまして、私は原田直次郎の作品としては「騎龍観音」しか思い浮かばなかったのですが、この作品は観たことがありました
森鴎外の「文づかひ」の挿画
です。
これが原田直次郎の作品だったんですかぁ~
さらに、こちら、師匠・高橋由一の肖像も、
原田直次郎の作品でした。
知りませんでした…
いつの間にか目にはしていたんですねぇ…
でも、やはり、「騎龍観音」と「靴屋の親爺」のインパクトには負けますなぁ~。
なんとも中途半端ですが、きょうはこれまで
あすで完結させます。
つづき:2016/03/06 埼玉県立近代美術館の企画展は今回も当たり(後編)
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