新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

埼玉県立近代美術館の企画展は今回も当たり(中編)

2016-03-05 22:27:46 | 美術館・博物館・アート

きのうの記事「埼玉県立近代美術館の企画展は今回も当たり(前編)」のつづきです。

100年前原田直次郎「個展」が開催されるにあたって中心人物となったのが、留学先のミュンヘンで、ミュンヘン美術アカデミーに留学だった原田直次郎と会い、以降、終生「親友」だった森鴎外です。

 というのは、医師、それも陸軍軍医総監にして、文学者にして、帝室博物館(現在の東博奈良博京博総長にして、

(上の写真は東博平成館前にある鴎外の肖像写真)、帝国美術院(現在の日本芸術院)の初代院長にして、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の講師まで務めたという、あの大文化人森鴎外(林太郎)です。

鴎外のベルリンでの下宿左の写真は、鴎外ベルリン留学中に住んでいた下宿だそうで、私がベルリンに行ったときは休館でした…

鴎外は、22歳のとき(1884年)陸軍派遣留学生としてドイツに渡り(ちなみに鴎外は19歳医学校本科を卒業)、ライプツィヒドレスデンミュンヘンベルリンで医学を修めたわけですが、1886年3月~翌年4月まで滞在したミュンヘン原田直次郎と出会い、意気投合したようです。

当時の写真がこちら。

中央が原田直次郎で、右のすましたポーズをとっているのが鴎外、左の固そうな方岩佐新さんという方(お医者さんらしい)。

原田直次郎と鴎外とは1歳違い(直次郎さんが年上)で、年齢を上にごまかして医学校に入学した鴎外にとって、ドイツの地で、同世代の、しかも軍医の卵の鴎外とはまったく分野の違うアーティストの友人を得たことはうれしかったことだろうなと思います。

後に鴎外が、アートの世界と縁を持ったのは、原田直次郎との出会いとその後の交友が影響したのでしょう。

    

「前編」で、

それはそうと、「騎龍観音」「靴屋の親爺」の印象から、原田直次郎って、ゴツい イメージを持ってしまいます。

と書いたのですが、原田直次郎さんは、上の写真を見ても判るとおり、イメージとは裏腹の容貌をしていらっしゃいます。

また、もう一つ思い違いしておりまして、私は原田直次郎の作品としては「騎龍観音」しか思い浮かばなかったのですが、この作品は観たことがありました

森鴎外「文づかひ」挿画です。

これが原田直次郎の作品だったんですかぁ~

さらに、こちら、師匠・高橋由一の肖像も、

原田直次郎の作品でした。
知りませんでした…

いつの間にか目にはしていたんですねぇ…

でも、やはり、「騎龍観音」「靴屋の親爺」インパクトには負けますなぁ~。

なんとも中途半端ですが、きょうはこれまで

あすで完結させます。

つづき:2016/03/06 埼玉県立近代美術館の企画展は今回も当たり(後編)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 埼玉県立近代美術館の企画展... | トップ | 埼玉県立近代美術館の企画展... »

コメントを投稿

美術館・博物館・アート」カテゴリの最新記事