「約1年ぶりの関西旅行記 #3-2」のつづきも飛鳥資料館から始まります。
飛鳥資料館に入館すると、真正面で「#3-1」でも書いた「石人像」が抱き合っていて、その奥に、飛鳥のジオラマがありました。
真ん中手前のゆったりと建物が建ち並んでいるのが、天武&持統天皇の宮だった飛鳥浄御原宮で、この地区は、飛鳥板蓋宮のあった場所でもあるらしいです。
その北に空き地のようになっている部分を挟んだところにあるグレーの屋根の一群が飛鳥寺で、その左のこんもりしたところが甘樫丘。蘇我氏エリアですな。
このあと、飛鳥寺に行く予定にしていましたから、飛鳥寺の往時の姿をしっかりと目に焼き付けました。
ちなみに前回(2007年4月)の飛鳥探訪では、甘樫丘に登り、「大和三山」を眺めたのですが、今回は素通りです。
せっかくですので、その時の写真を載せておきます。
まず畝傍山。
話を飛鳥資料館に戻しまして、飛鳥資料館にあったもう一つの魅力的なジオラマがこちらでした。
川原寺のジオラマだそうな。
薬師寺西塔のように傾斜のゆるい屋根を持つ五重塔が印象的ですが、さて、川原寺とはあまり聞かない名前の寺です
説明板によると、
川原寺は、天智朝の近江遷都以前(662~667年)に、飛鳥川原宮の地を寺としたのが始まりとされている。天武天皇9年(680)、官司が治める寺が定められると、川原寺はその一つとして、四大寺に数えられた。
発掘調査の結果、一塔二金堂に三面僧坊をめぐらした壮大な伽藍が明らかになった。中金堂には大理石製の礎石が使われ、複弁八弁蓮華文軒丸瓦が屋根をかざっていた。現在は発掘調査にもとづいて堂塔の基壇が整備されている。
だそうで、注目するべきは、その伽藍配置だとか。もっと古いお寺、「大化の改新」以前に建てられた飛鳥寺、四天王寺、山田寺は左右対称の伽藍配置になっているのに、この川原寺や法隆寺西院伽藍など天智朝以降のお寺は(本薬師寺を除いて) アンシンメトリーです。
右に載せた「日本の伽藍配置」の説明板の下には「朝鮮半島の伽藍配置」が掲げられていました。
ものの見事にそろって左右対称の伽藍配置です
つまり、天智朝以前の伽藍配置は朝鮮風で、以降は日本独自の伽藍配置に変わったということのようです。
ちょっとここで、「法隆寺はもっと古いんじゃないの?」と疑問をお持ちの方もあろうかと思います。
確かに、法隆寺は推古天皇15年(607年)に聖徳太子が創建したと伝えられていますが、現在の西院伽藍は7世紀末~8世紀初に建てられたというのが定説になっています。
それでは初代の法隆寺ともいえる若草伽藍の伽藍配置はどうだったのかというと、Wikipediaによれば、発掘調査の結果、
この伽藍は現存する西院伽藍(塔と金堂が東西に並ぶ)とは異なり、南に塔、北に金堂が南北方向に配置される「四天王寺式伽藍配置」であること、堂塔が真南に面しておらず、伽藍配置の中心軸が北西方向へ20度ずれていることがわかった。
だそうです 予想どおり、左右対称の朝鮮風伽藍配置だったんだぁ
見事に話が繋がった
でも、その後の薬師寺とか東大寺とかの伽藍配置はどうなんだ? なんて突っ込まないでいただきたい
で、川原寺があったのは、飛鳥板蓋宮/飛鳥浄御原宮の跡地の南西すぐの場所で、このあと私は、石舞台古墳から高松塚古墳に向かう路線バスの車窓から川原寺跡をチラ見しました。
飛鳥資料館の第2展示室は、山田寺関連の常設展示室になっています。
山田寺といえば、その跡地は飛鳥資料館のすぐ近くです。
山田寺の説明リーフレットから転記
しますと、
蘇我入鹿のいとこ蘇我倉山田石川麻呂が641年(舒明天皇13年)に建てはじめた寺院。このころ、各豪族がさかんに造った氏寺の一つである。
石川麻呂は、入鹿殺害のクーデターに加わり、右大臣に任ぜられたが、649年(大化5年)、反乱の疑いをかけられて、この寺で自殺した。しかし、その後、彼の疑いは晴れ、皇室の援助で寺の造営が続けられて、7世紀の後半に完成した。
発掘調査で中門・塔・金堂・講堂を南から北にならべ、回廊が塔・金堂を囲むという伽藍配置が明らかになり、金銅の風招や、磚仏・鴟尾・鬼瓦・瓦などがみつかった。また、1982年からの調査では倒れた東回廊の建物が土に埋もれた状態で残っていることがわかり、古代建築の貴重な資料となっている。
というもので、発掘された東回廊は、「世界最古の木造建築である法隆寺西院伽藍より古」いというのですからただごとではありません
でも、わたし的に山田寺といえば、、、、、この仏頭です
国宝
に指定されているこの仏頭(展示されているのは複製)、現有している興福寺では単に「仏頭」と表記されていますが、飛鳥資料館は「山田寺の仏頭」と明記していました
説明板を転記します。
山田寺講堂の本尊として685年(天武天皇14年)に完成した如来像は、1186年(文治2年)に興福寺東金堂に移されたが、のち火災にあって頭部だけが残った。
明るい表情、童顔、大きな弧をえがく眉、切長の目などは、初唐の影響を受けた初期の白鳳仏の特色である。いま興福寺東金堂本尊の左右にある菩薩像は、もとこの像の脇侍であった。 (以下略)
この説明では「興福寺東金堂に移された」とあっさりしていますが、その実はなんとも酷い話
で、こちらで書いたとおりです。
約1時間にわたって館内を楽しんだ私は、もう一度屋外展示を拝見
しようと、外にでました。
と、背の高い花
目鼻立ちのくっきりした(?)、紫色の花です。
これは何という花なんだろ? と説明板を探しましたが、ありませんでした
そこで、この記事を書くにあたり、「背の高い紫の花」で検索すると、簡単に見つかりました
その名も、畏れ多くも「皇帝ダリア」
名前のとおり気高い花だし、しもじもの者を見下ろす
態度もデカい
このあと、庭園に置かれた石造物のレプリカをもう一度見物し、次の目的地・飛鳥寺を目指して歩き始めたのでありました。
あ~楽しかった
つづき:2022/01/08 約1年ぶりの関西旅行記 #3-4
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