Activated Sludge ブログ ~日々読学~

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●『口きかん ~わが心の菊池寛~』読了(1/4)

2009年01月05日 08時02分45秒 | Weblog

『口きかん わが心の菊池寛~』、12月に読了。矢崎泰久著。表紙イラストレーションは今は亡きナンシー関さん。飛鳥新社。20034月刊。

奥付の矢崎さんの紹介。「・・・65年、雑誌『話の特集を創刊し、952月まで30年間にわたり、編集長と社主を兼務」。

「はじめに 菊池寛と私」(p.2)。「私の両親は菊池寛の仲人で結婚した。・・・秘書の佐藤碧のたった一人の妹が、私の母・・・」。二人の『フィクション』(p.1)。「無口だった菊池は「口きかん」というあだ名で呼ばれた。・・・物集高量 (もずめたかかず) は、大変なおしゃべりで、「歩く饒舌」と揶揄された人物・・・」(p.7)。「物集は・・・「・・・大変な無口ざんすね。キクチカンじゃなくて、これじゃ、クチキカンだね。あっはっは」と、・・・甲高く笑った」(p.62)

「そこで漱石から受けた仕打ち・・・未熟な新参者扱いをされた。・・・気分屋・・・何様かと思うほど横柄・・・西洋コンプレックスは拭い難い・・・人物としては矮小な人・・・」(p.67)
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●『口きかん ~わが心の菊池寛~』読了(2/4)

2009年01月05日 08時00分56秒 | Weblog
【矢崎泰久著、『口きかん わが心の菊池寛~
「言論および思想の弾圧に直結するという理由で「治安維持法」は帝国議会で反対され続けてきた。それを、加藤高明内閣が「普通選挙法」と抱き合わせることによって、強引に成立させたのである。このことは恐ろしい時代の幕開けを実は意味していた」(p.98)。「・・・気鋭作家の自殺・・・本人さえ定かではないのだろうが、芥川の「ぼんやりした不安」が、その社会情勢と共鳴していた・・・。大杉栄 [伊藤ルイ] らを惨殺した甘粕事件に顕著な社会運動への弾圧があり、そうした弾圧を合法化するための治安維持法成立があった。・・・芥川は、いち早くそれを察知、・・・彼のやり方で拒否したのかも知れない」(p.111)

「・・・佐藤碧や梶山季之は川端の新聞小説を二人でほとんど執筆している。・・・『東京の人』は駆け落ちしている伯母の家に身を寄せていた矢崎泰久夫妻がモデル・・・。誰もが代作を認めていたのである」(p.136)

菊池による「芥川賞・直木賞」の創設の経緯 (p.168)
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●『口きかん ~わが心の菊池寛~』読了(3/4)

2009年01月05日 07時59分31秒 | Weblog
【矢崎泰久著、『口きかん わが心の菊池寛~
「君子豹変す。自由主義者、平和主義者を自認してきた菊池寛が突如として・・・。『文藝春秋』の紙面もまるで衣替えしたようにすっかり変貌を遂げてしまった。・・・菊池はジャーナリズムとしての批判精神をたちまちかなぐり捨ててしまったのである。戦争を礼賛し、平然と軍部の後押しを積極的にやり始めた」(p.201)今日の同社の遺伝子 (123) はそこら辺からか? 「菊池の戦争への加担は強まっていった。・・・ついには、「国家から頼まれたことは何でもやる」と何の躊躇いもなく宣言するまでに至った。・・・菊池の行動は戦争一色になる」(p.203)。様々な経緯を経て、心ちりぢり・・・、「菊池はGHQによってB級戦犯にされ、公職から追放・・・屈辱的だった」(p.229)。「菊池は苦虫を噛みつぶしたように、さらに無口となった。・・・悶々としていた・・・ようやく『文藝春秋』を廃刊することを決意・・・菊池にとっては、『文藝春秋』は何としても廃刊しなくてはならない雑誌だったから」(pp.246-247)。「菊池自身の決意としてせめて『文藝春秋』とはきっぱりと決別したかったのである」(p.248)
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●『口きかん ~わが心の菊池寛~』読了(4/4)

2009年01月05日 07時55分30秒 | Weblog
【矢崎泰久著、『口きかん わが心の菊池寛~
「甲府は・・・B29が・・・焼夷弾を雨霰と降らせた。・・・最初に逃げたのは軍隊だった・・・方面へ走り去った」(p.212)キャプテンファースト。「支那の人民が日本軍によって虐殺されている実態に菊池は胸を痛めていた。非戦闘員を殺すことに対する疑問を感じていたのである」(p.215)

「エピローグ
物集高量翁百歳の独白」(pp.250-263) にて、「・・・私は今でも、菊池さんの大いなる矛盾、八方破れの人生のありように、拍手喝采したい。・・・ね、愉快ざんしょ。人ってみんな変なんで・・・・・・変だから人なんざんすよ、ああた」。「あとがき」(pp.264-265) にて、「テレビ朝日「徹子の部屋」に三回も招かれ、大いに饒舌ぶりを発揮して、黒柳さんにほとんど発言を許さないほどだった。・・・当時は東京の男性で最も長寿・・・」。著者は「三十年間作り続けた『話の特集』を廃刊して時間ができたので、菊池先生のことだけは書いておきたかった」。
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