【梶原得三郎・新木安利編、『松下竜一未刊行著作集1/かもめ来るころ』】
『歌との出会い、そして別れ』(p.18) が随所に語られる。「表現を求めて喘いでいた」(p.19)。鳥肌が立つ。『『豆腐屋の四季』決算の記』(p.27)。「・・・主人公緒形拳さんと、現実の私とを混同して思い描いている・・・」(p.27)。当然未見なのだが、松下センセの歌人としての繊細さはドラマでは再現されていないだろう。センセも拳さんも望んでいたであろうが、拳さんには蜂ノ巣〝城城主〟の役が似合うはず。『私に転身を迫った〝衝撃〟』(p.34)。石牟礼道子さんの『苦海浄土 ――わが水俣病』がもたらした松下センセと水俣との出遭い、因縁。翌年夏、センセはペン一本の生活へと転身。
長い病臥の読者からの『書きかけの手紙』(p.43)。朝日歌壇の詠み人でもあった。めい御さんから、読者である叔母の死を知らされる・・・。「・・・叔母はベッドで・・・『吾子の四季』を読んでいました。・・・疲れが激しく、ほんの少しずつ読んで・・・。・・・手術中に亡くなりました。戻ってきてまた読み続けるつもりだったのでしょう、本は三分の一程の頁を残してベッドに伏せられていました。・・・その本を、形見としていただきました。・・・松下さんに宛てて書きかけた手紙が出てきました」(p.44)。
『足かけ三年』(p.65)。「・・・まるでろうあ児童の実態を知らなかった・・・その不幸は、はかりしれない。・・・私には強烈なショックであった。・・・この難しい作品をおクラにしてしまった」(p.66)。一方で、臼杵市風成の漁民闘争の記録小説に没頭し始める。「・・・自分が大分県の作家であることの意識が芽生え始めていた。郷土に根をおろしていた作家として、郷土の問題を追及し記録していくことを自分の責務として考えはじめていた。・・・連日徹夜を重ねて『風成の女たち――ある漁村の闘い』を書きあげ、出版社に送稿した」(p.67)。報道までされ、出版が内定していた講談社からボツにされ、毎日新聞の記者からの誘いをヒントに、朝日新聞からようやく出版にこぎつける (pp.78-79)。
『拳さんの手紙』(p.76)。「・・・テレビのドラマはもう貴兄の手をはなれて独自に走り出してしまったのです。・・・でも私は俳優として、この仕事が出来たことを誇りに思っております」(p.76)。「俳優緒形拳の手紙文は中々いい。字も太くて、いかにも彼らしい。・・・私と拳さんは、共に昭和十二年の生まれである」(p.77)。拳さんもこの夏に亡くなってしまった。
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『自費出版作家』(p.92)。「・・・自費出版した時、理論社社長小宮山量平氏が、「このようなお仕事こそ本当の意味での出版文化でしょう。自費出版などといわずに、自主出版だと胸を張ってください」と励ましてくださった」(p.92)。
『親友』(p.94)。山口県仁保事件救援運動支援、岡部保さんとの出遭い。「二千署名と二十万円を一カ月で達成してほしいという要請」(p.95) が・・・。「私は悩み抜いた果てに、全国の読者に訴えるしかないと決断・・・もう辛くてならなかった。・・・私は、その行為に作家生命をかけていた・・・。私の手元には、実に三千の署名と三十万円のカンパが集まった」(p.95)。この話にはオチがある。「・・・救援本部に届けた時、本部の人たちは唖然としていた。「松下さん。あなたに割りあてたのは二万円でしたよ!」 私は単位を読み違えていたのである。あわて者も、時には役に立つ。・・・思いつめて、最後の手段として作家生命をかける悲愴さで全国の読者に訴え、思いもかけぬ三十万円のカンパを達成できたのである。・・・「よくもこんな大金を短期間に集めたものですね。どんな方法でした?」という問いに、私は誇らかに答えた。「親友からですよ。私は全国に沢山の親友を持っていますからね」」(pp.95-96)。『勝利』(p.142)。「広島高裁は、・・・仁保事件被告岡部保さんに、無罪の判決を出した」(p.142)。死刑台からの生還。「いち早くラジオ速報で無罪判決を知った各地の読者から、次々と私の留守宅に電話がとどいているというのだ」(p.143)。「・・・非力な私もまた、真の連帯の中のひとつの力となれば、ついに官権の不正暴戻 (ぼうれい) を糾弾させることができるという、その確かな証明を必ず最終回で書ける・・・私は、そこまで自分を賭けて・・・書き続けました。・・・夜汽車の窓辺でこれを書いている私を、誰だと知る人もいません。私は無名な作家です。しかし今日、しあわせな作家です」(p.144)。
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『タツノオトシゴ』(p.96)。上野英信さん、前田俊彦さんらによる「松下竜一氏を励ます会」。「・・・その席で上野さんが巧みなことをいわれた。「・・・まるでこわれてしまいそうなほどひ弱で、とても龍どころか、むしろタツノオトシゴという感じ・・・。水底で子を愛し妻を恋い、『人魚通信』などという本を嫋嫋 (じょうじょう) と書いているタツノオトシゴであります」」(p.97)。『師と決める』(p.129)。「次に私に言葉をかけてくれた作家が、上野英信さんだった。・・・下界に降りてきて、一番先に君の家に寄ったよといわれて私はおろおろと感動していた。・・・わざわざ立ち寄ってくれたのである。「どうかね、食っていけそうかね。食えなくなったらぼくにいいたまえ。なあに、僕も金はないが、借金の名人だから」といってくれたのである。・・・入門式は数日後のことであった。・・・作家たるもの「文闘」、「武闘」、「酒闘」の徒であらねばならぬという英信先生に入門するには・・・筑豊文庫で、私は真剣に酒を飲んで酔っ払った。・・・吐き続ける私の背を、ほとんど眠らずにさすらせることになってしまった」(pp.130-131)。テキーラの経緯は朱さんの書に。
『氷砂糖』(p.106)。「「お前、本当に作家でやっていけるんか」とも、父は問わない。・・・私の不在中に嫌がらせ電話がかかってきた。周防灘開発反対の私に、・・・たまたま電話をとった父が、「わしん息子は、正しいことをしちょります」といって、ガチャリと切ったと、あとで妻に告げられた時、私にはこみあげるものがあった」(p.106)。
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『生存権の変質』(p.147)。「国立岡山療養所の重症結核患者朝日茂氏・・・厚生大臣を相手取って訴えた〈朝日訴訟〉・・・」(p.147)。
『タタカイは一篇の笑い物』(p.160)。「荒野の七人」による訴訟ものの一編。「「あんた〈笑い物〉を書くんが似おうちょるごたる」。笑い物! ああ、その一語こそ啓示となった。ユーモア物などと上品ぶらぬ、何やらナマナマしき語感が滅法私の気を引いた・・・豊前火力建設反対運動の中に、この笑い物の精神が馥郁 (ふくいく) と醸成されはじめていた・・・原告わずかに七名、弁護士からも見放されて本人訴訟で建設阻止請求という至難な裁判に取り組む我らの姿は、外見上いたく悲愴とみえるらしいのだが、どっこい、この七原告の楽天ぶりときたら呆れるほどである。」(p.160)。「法第何条という文言は一行も出てこぬ」すごい準備書面。裁判長に「適当な法律をみはからって適用」してもらおうという前代未聞のもの。裁判所書記官は、呆れて絶句したらしい。「あはは、負けた、負けた」の一審判決時の旗へ。
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『蜂ノ巣砦に起つ室原知幸 昭和の阿蘇山中に咲いた大正デモクラシーの花』(p.166)。「人の一言が人を烈しく動かすほどに〈言葉が力を持っていた〉時代を」(p.166)。勁過ぎる老人、蜂ノ巣城主の物語が簡潔に25頁程にまとめられている。必読である。「だが彼を訴訟狂の如く呼んではなるまい。彼は国家の権力行為に抗する武器として法を最大限に活用した最初の国民であったのではないか。・・・国とはなんと便利なものであろうか。この老人に弱点を衝かれて困り果てる度に、法を好都合に改「正」していけばよかった。土地収用法が改「正」され、河川法が改「正」されていった」(p.176)。「・・・この両ダムが公共性をいうに足らずと見抜いた・・・電力資本はしばしばダムを国に造らせて、不当に安い分担金でそれに水力発電所を附設していくのであり・・・九州電力の不当利益の莫大さを、知幸は計算してみせる。元来、治水の為であればダムは常時空・・・発電の為には満湛がのぞましいという相反する機能を両立させうるのかという技術的疑問もある」(p.178)。「――室原さん、あなたは敗れた。・・・あなたが負けながら残したものははかり知れず大きい。・・・川辺川ダムが十年を超えてなお着手出来ない程に・・・慎重であるのも、あなたが残した教訓の重さゆえでしょう。・・・三里塚空港での一坪地主、鉄塔共有運動も、あれは室原さんが編み出した闘争記念樹林の共有運動の巧みな伝承だと聞いています。・・・なによりもあなたのような人が居たということを想うだけで、いかに多くの人々が励まされ続けることでしょうか。あなたを想う時、私はかろうじて今の敗北に耐えられるのです。・・・私は周囲から、売名の徒だとか社会の敵だとか罵られています。ともするとくずれおれそうな時、私は、あなたの孤影を想うことで立ち直ります」(pp.182-183)。「維新後、人民が築いた抵抗の砦としてこれほど壮大なものは無かったはずである。・・・デモクラシーの花・・・蜂ノ巣城はその象徴的具現であったろう。・・・国の公共事業とは、理に叶い、法に叶い、情に叶うものでなければならぬと」(p.187)。
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【梶原得三郎・新木安利編、『松下竜一未刊行著作集1/かもめ来るころ』】
さらに、『闘いの哀しみ 蜂の巣城主の妻の視線』(p.190)。「私の『砦に拠る』が完結した時、ヨシさんは告げるのだった。「・・・初めて・・・ひとつひとつ、ああ、あれはこういうことだったのかと納得できました」と。その一言が、筆者への何よりのねぎらいとなった」(p.197)。
『優しさということ』(p.250)。「豆腐を土間にぶちまけ・・・一人で地団太踏んで暴れ狂う。・・・絶望と、疲労と、倦怠で始まる毎日」から、「三十一字の表現形式」に目覚め、「百八十度の転回・・・感動に出会う」毎日へと (pp. 257-258)。「それが私には耐えられなくなってきた。・・・なぜ自分はこんなに模範青年として頭を撫でられるのか。・・・「・・・世の中にどんな不満があろうと黙々と耐え忍んで、豆腐屋の分際を守って・・・これこそが美しい庶民の姿じゃありませんか」という言われ方であった・・・そのようにしか生きられなかった・・・連帯のしようもなかった。また、私に声を掛けてくれる人もいなかった」(pp.161-162)。「・・・優しさの世界を守ろうとして、ある時は激しく闘わなければならん、という時が現実にあるんです」(p.267)。「・・・「瞳の星」という文章を・・・悪童たちになぶられて泣いてばかりおりました。・・・母親は、私に強くなれとは少しも言いませんでした。瞳の星は優しさの印なんだと。・・・そういう優しさに徹していくことで、遂にある時気が付いたら、それが勁さであっということになれたらな、ということを思い続けております」(pp.272-273)。
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『いのちきセンセ奮戦の半生記抄』(p.274)。「・・・豊前火力反対運動をネタに、何冊の本を書いたろうか。『暗闇の思想を』、『明神の小さな海岸にて』、『環境権ってなんだ』、『五分の虫、一寸の魂』・・・松下センセは、はっきりと運動を喰い物にすることを公言してはばからなかった。・・・松下センセが住民運動をネタにしてしぶとくいのちきして・・・かつがつながらいのちきしてきたからこそ、豊前火力反対運動は十年を超えて続いてきたのである。・・・反対運動の同志たち・・・いずれ劣らぬいのちき下手という点では、みごとに似たもの同志なのだ」(pp.284-285)。「・・・研究室という、本来造る側の学問に身を置きながら、造らせまいとする住民運動に深くかかわってしまった彼は、そこから巧みに身をかわすという器用さをもたなかった」(p.286)。「しかし、松下センセの周辺でいのちき下手ということでは、梶原得三郎さん以上の者はいないだろう。いのちきオンチを自認している松下センセですら、彼のいのちきぶり(『小さな魚や奮戦記』)にはらはらさせられ続けてきたのだから」(p.286)。
解説の山田泉さん『天国からの手紙』(p.371)。「いのちの授業」で有名な山田さん。この解説は2008年4月に書かれたもの。『草の根通信』にも寄稿しておられた山ちゃん、残念ながら11月に亡くなりました。
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