エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

根源的信頼を確かめ合う、という恵み

2016-02-13 11:40:51 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
今は、鏡におぼろに映ったものを見ている 改訂版
  ケダモノ以下のナチスを体験済みのエリクソンにとっては、恐怖政治が「正しいこと」の押し付けと結びついていたことは、自明のことだったでしょう。ナチスがやったのは、...
 

 

 

 

 甘いこと、甘やかすことって、大事です。

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.257の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターの根源的な貢献つて、信頼を生活の中に根付かせたことですね。この貢献の故に、ルターは第一級の神学者になれたんですからね。それと同時に、ルターは、生育歴の一番最初の生涯の課題で、一番根源的な生涯の課題と闘っていたことも、示されてもいます。ルターは自分のライフワークは、信頼と意志、宗教と律法を新たに描き直すことだ、と見ていました。というのも、組織化された宗教は、世の中の秩序に対する信頼が宗教に独占された状況では、根源的信頼を再確認することを、独断的に支配しようとする組織になるのは、明らかだからです。この根源的信頼は、根源的不信に対して新たに勝利するものですが、人間が、赤ちゃんに頃に身に着けるものなんですね。

 

 

 

 

 中世世界では、赤ちゃんの頃に身に着ける根源的信頼感を再確認するのが、カトリックに決まっていました。ほかの人がその再確認をすることが出来なかったわけですね。ルターは、根源的信頼の再確認をすることを、カトリックの独占から解放し、牧師を始め、平信徒同士の助け合い、確認し合いも認めてくれたわけです。ですから、根源的信頼の再確認、強化は、教会から解放されて、家庭や学校などの日常生活の中で自由にできるようになったんですよね。

     毎日がハッピー、の始まり始まり!!。

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信頼は、気取らす、陽気に楽しく・・・

2016-02-13 08:40:27 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
創造の翼も広がる
  虫眼鏡の向こうには、子どもと分かち合う時に、発見の悦びの世界に変わります。 『The Sense of Wonder 不思議を感じる心』から p77の冒頭...
 


 

 ≪1つにまとめる力のある生き方≫は、心の眼と心の耳を持つ生き方なんですって。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の始めに戻って、「完成版の前書き」、p.9の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 高齢者が求めることは、今まで経験したことすべてを蓄えて、頼ることですね。しかも、それは、新たな人品を携えて、気付きもあり、創造性もある生き方をし続けることでしょう。高齢者には、「不屈」と呼ばれるかもしれないものがある場合が多いでしょ。エリックは、それを「変えることが出来ない中核」だとか、「自分を確かにさせた生き方」だとか呼びましたね。それは、過去・現在・未来をまとめる力のある生き方です。それは、自分を超越すると同時に、世代間の繋がりを強調します。人間の条件の一部は、私どもが自分自身と自分が住む星について叡智を欠いていることでしよう。私どもが気付かなくっちゃいけないのは、私どもがいかにチッポケな存在なのか、ということです。たぶん、私どもは賢明に「幼子のようになりなさい」ということなのでしょう。幼子のようになれば、悦んで生き、自分と人を大事にもし、心開いて学ぶことにもなるのでしょう。これってどういうことかしらね? 人生はずっと豊かでしたね。1人の信頼豊かな幼子のように、人生の豊かさを信頼しなさいな、心の鎧を脱ぎ捨てて、気取らず、陽気で楽しくしなさいな、どなたが相手でも、遊びなさいな、何年も行っていないところに、笑いを届てあげなさいな

 

 

 

 

 

 ジョアンが言っていることは、やっぱり、≪神の国≫そのものですね。

 信頼が豊かですと、人生の豊かさに涙が出ます

 信頼が豊かですと、気取らずに、陽気で楽しくなります

 信頼が豊かですと、相手がだれでも、遊びを大事にします

 信頼が豊かですと、悲しんでいる人たちに、微笑みを届けます

 

 

 

 

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セラピーと言う名の、内省

2016-02-13 04:13:20 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
今は、鏡におぼろに映ったものを見ている 改訂版
  ケダモノ以下のナチスを体験済みのエリクソンにとっては、恐怖政治が「正しいこと」の押し付けと結びついていたことは、自明のことだったでしょう。ナチスがやったのは、...
 

 

 自分が感じている気持ちに、名前を付けることには、不思議な力があるらしい。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.234の、ブランク後の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 あなたが傷ついたら、自分に何が起こったのかに気付いて、名前を付けなくっちゃね。私はこれを自分の経験からしりました。父親が家の地下室に、様々な3才の子の罰で私を閉じ込めた時、何が自分に起きたのかが分かるゆとりがないと、私はずっと、追放され、捨て置かれたことで、胸がいっぱいになりました。幼い自分が感じたことを話すことが出来て初めて、彼が怖くて言いなりになっていたことを許すことが出来て初めて、仲間の悦びを自分でも楽しめるようになりました。気持ちは人に聞いてもらい、理解されたら、身体が変わりますよ。複雑な気持ちもハッキリと言い表すことが出来るようになりますし、自分の気持ちに気付けますし、大脳辺縁系を活気づけて、「なるほどね、と感じる時」を作り出してくれます。反対に、沈黙と無理解に出逢えば、魂が死にますね。あるいは、ジョン・ボールビーが言った通りで、「母親(ほかの人)に話せないことは、自分にも話せません」ってね。

 

 

 

 

 

 人に話しているようで、実は自分に語り掛けている、ということは、思っている以上に、現実にある話ではないですか? 面接で、クライアントがセラピストに話すことも、実はクライアントが自分自身に語ることでもあり分けですね。つまり、セラピーは、クライアントは内省を、セラピストを相手に、言語化してやっている訳ですね。 

 

 

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心の眼と心の眼で穏やかに聴いたらば、あら⁉ 不思議!

2016-02-13 01:15:11 | エリクソンの発達臨床心理




 

 

 

 ブルース・ペリー教授の翻訳のアクセス数の多さに驚かされますね。邦訳が紀伊国屋書店から出ているはずてすよね。邦訳は全く当たってないので、その仕上がり具合は知りません。でも、昨日翻訳した部分は、「最後まであと少し(2ページ弱)」ですので、このまま、最後まで、ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog を翻訳することといたしました。へへへ…。p.245。

 

 

 

 

 この心の眼と心の耳を傾けて、聴くことを大事にするやり方で、1人の子どもと関わる時、子どもから返って来る反応は、事がどう運ぶのか、事をどう収めるのか分かっていると思い込んでいる時とは、全く異なるものになりますよ。たとえば、私が、小さな部屋ないしは小屋にいたジャスティンに初めて会った時、前に彼を訪ねた人らとは全く違う反応に出逢いましたからね。と言うのも、心の眼と心の眼で穏やかに聴いたらば、ジャスティン(「犬」はジャスティンです)が、人もビックリするような行動をする背後には、恐れとひもじさがあると分かったからでした。悪いことをしたのが自分の子どもで、特に、怒られる様なことや、気分が動転するようなことをその子がすれば、一歩下がった態度で接するのは、難しいに決まっています。だけれども、世間を子どもの立場から見ようとすればするほど、また、子どもに安心と安全を感じてもらおうとすればするほど、その子どもの行動はそれだけ良くなるみたいですし、その子どもの良い行動をさらに良いものにする方法も、それだけ見つけやすくなりますよね。

 

 

 

 

 

 ミラーリングって、面白いですね。子どもは悪いことをするだろうと、大人が怒ったり、ことを収めようとするような態度で接すると、子どもはますます悪くなる。反対に、一見「悪いこと」の中に、「良いこと」があることを見る心の眼と心の耳をもって接すれば、子どもは不思議に良くなるんですからね。

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心の眼と心の眼で穏やかに聴いたらば、あら⁉ 不思議!

2016-02-13 00:30:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
弱さの強さ
  弱さの強さ。形容矛盾に見えますね。何を言いたいのか分かりません。不思議! バイブルには、こういう不思議な言葉がたくさんあります。 これは、パウロの手紙...
 


ブルース・ペリー教授の翻訳のアクセス数の多さに驚かされますね。邦訳が紀伊国屋書店から出ているはずてすよね。邦訳は全く当たってないので、その仕上がり具合は知りません。でも、昨日翻訳した部分は、「最後まであと少し(2ページ弱)」ですので、このまま、最後まで、ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog を翻訳することといたしました。へへへ…。p.245。

 

 

 

 

 この心の眼と心の耳を傾けて、聴くことを大事にするやり方で、1人の子どもと関わる時、子どもから返って来る反応は、事がどう運ぶのか、事をどう収めるのか分かっていると思い込んでいる時とは、全く異なるものになりますよ。たとえば、私が、小さな部屋ないしは小屋にいたジャスティンに初めて会った時、前に彼を訪ねた人らとは全く違う反応に出逢いましたからね。と言うのも、心の眼と心の眼で穏やかに聴いたらばジャスティンが、人もビックリするような行動をする背後には、恐れとひもじさがあると分かったからでした。悪いことをしたのが自分の子どもで、特に、怒られる様なことや、気分が動転するようなことをその子がすれば、このような、冷静で一歩下がった態度で接するのは、難しいに決まっています。だけれども、世間を子どもの立場から見ようとすればするほど、また、子どもに安心と安全を感じてもらおうとすればするほどその子どもの行動はそれだけ良くなるみたいですし、その子どもの良い行動をさらに良いものにする方法も、それだけ見つけやすくなりますよね

 

 

 

 

 

 ミラーリングって、面白いですね。子どもは悪いことをするだろうと、大人が怒ったり、事を何とか収めようとするような態度で接すると、子どもはますます悪くなる。反対に、一見「悪いこと」の中に、「良いこと」、あるいは、「そうせざるを得ないやむを得ない事情」があることを見る心の眼と心の耳をもって接すれば、子どもは不思議に良くなるんですからね。

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