桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

向島を歩く

2009年05月11日 00時53分06秒 | 歴史

 五月だというのに、ストーブを点けるか、となかば本気で思ったほど不順な天候のあと、一転して夏の陽気になりました。
 昨十日、向島を歩いてきました。もっとディープな向島散策を考えていたのですが、目的地近くの駅に降り立ったときから暑さでへばってしまっていて、北端をかすめて歩いただけに終わりました。

 目的地は多聞寺、正福寺、木母寺、隅田川神社、その他もろもろ……とあったのですが、当初、地下鉄で南千住まで行き、そこからスタートして、東武線の鐘ヶ淵から帰ろうと考えていたものが、北千住で乗り換える際、地下鉄ではなく東武線のプラットホームに出てしまったので、急遽逆コースを辿ることになりました。

 頭に叩き込んできている地図は南千住からのものです。
 逆コースは考えていなかったので、頭の中でクルリとひっくり返すわけにもいきません。木母寺のあとに訪ねるつもりだった多聞寺と正福寺は端折ることにして、梅若伝説の木母寺に直行しました。

 もともと地理不案内な土地であることに加えて、逆コースというハンディを背負っています。
 ただ、隅田川に出れば迷うこたぁない、という程度の土地勘はあります。このあたりは初めて、といっても、かつては隅田川対岸の浅草に棲んでいたのですから……。
 目印とするのは墨田区のホームページでチェックしておいた都立墨田川高校でした。その隣に木母寺があります。

 しかし、首都高速下の道を行けども行けども校舎らしいものが見えてこない。暑いので喉の渇きを覚え始めましたが、自販機が見当たらない。人通りもない。
 消防庁管理と明記された広大な空き地を過ぎても、学校らしい建物は見えません。おかしいなぁと思い始めたとき、小さなお寺が目に入りました。
 うろ覚えの地図ですが、確か周辺には木母寺以外にお寺はなかったはずです。なんというお寺なのかと訝りながら近づいてみると、なんと「木母寺」とありました。



 なんたるこっちゃ!
 家に帰ってから識るのですが、墨田川高校(正式には同校堤校舎)は六年も前に本校に統合されて消滅していたのです。消防庁管理と書かれた空き地がその跡地でありました。
 都立高校なので、区には直接関係がないとはいえ、六年も前になくなった施設をホームページの地図に載せたまま気づかないという感覚はなんだろうと思ってしまいます。

 謡曲「隅田川」で知られる梅若丸が人買い・信夫の藤太に置き去りにされて、この地(現在の埼玉県春日部という説もある)で死んだのは貞元元年(976年)といいますから、平安中期です。
 千年も前の話……私は歴史には大いなる興味を懐く一人ですが、室町期以前となると、体温が感じられなくなります。
 さらに、もともとの木母寺があったのは、徒歩二分とはいえ、ここから離れたところ。諸事情があって現在地に移築されました。
 だから仕方がないとはいえ、寺の建築物はすべて鉄筋コンクリート造り、路面はアスファルト舗装になっているので、隔絶の感はますます抑えがたくなってしまいました。



 木母寺境内にある「天下之糸平」こと田中平八の碑です。没後七年の明治二十四年(1891年)に建立されたものです。
 この人には絶大なる興味があり、今回の向島散策も、この石碑を見るのが第一の目的だったのですが、私の思い入れを書き始めたら、際限なく取り留めもなくなりそうなので、詳しくは後日。
 揮毫は伊藤博文です。碑の建立発起人には高島嘉右衛門、雨宮敬次郎、茂木惣兵衛、渋沢栄一、大倉喜八郎、福地桜痴、原善三郎という文明開化期の錚々たる顔ぶれが名を連ねている、とのみ記すのにとどめておきます。



 糸平の碑の右手にあった梅若堂。
 消防法だかなんだか知らないが、近辺は木造建築が認可されない地域だとかで、剥き出しの木造建築は許可されません。耐熱強化ガラスに覆われていて、よく見えません。
 そのガラスが反射して、カメラでは上手くとらえられませんが、中に弁天様を思わせる梅若の立像があります。
 弁天様を思わせたのは、ここが芸事向上祈願のお寺だからです。祈願受付所がありましたが、縁のない私は足早に通り過ぎるのみ。



 梅若に因んでか、木母寺裏手には小さな梅林がありました。

 明治期、このあたりは近代日本を象徴するような一画で、もくもくと黒煙を吐く工場が建ち並んでいました。
 鐘紡発祥の地はすぐ近くです。いまは名残は何もありません。跡地北端近くのビルの屋上にカネボウ化粧品の広告塔がありましたが、皮肉にもカネボウ化粧品は名前は鐘紡であっても、すでに鐘紡ではない。



 隅田川を渡って、荒川区側から撮影した水神大橋です。この橋の下流(右手)にあった水神の森が橋の名の謂われです。橋の向こう側、左手が鐘紡跡地です。

 江戸時代初期はこの橋のあたりまで海だったそうです。隅田川(江)が海に注ぐところ(戸)というので、興った地名が江戸です。つまり、川のこちら側と同様に向こう側も江戸の発祥の地ということになるのに、江戸の人からは「川向こう」などという蔑称を与えられています。



 急に訪れた暑さに気息奄々としながら辿り着いた隅田川貨物駅です。
 貨物列車牽引用の電気機関車が整然と並んでいる光景を見られると思っていたのですが、見えるのはコンテナばかりでした。
 このあと、南千住駅へ歩き、遅めの昼に天ざる+もり一枚を食べて帰りました。