桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

藤代から我孫子へ

2009年07月19日 07時13分47秒 | 歴史

 十七日の土曜日、我孫子の天王台という駅近くに所要ができたので、所要を済ませたあと、そこから二駅先の藤代というところまで足を延ばしました。
 相馬神社という社があって、立派な彫刻の奥院があると知ったからです。


 
 藤代駅から十分ほど歩くと、道はT字路になり、突き当たりに小さな鳥居が見えてきました。鳥居のすぐ後ろに社殿があり、近づくまでもなく小さな社だというのがわかります。
 
地図上ではT字路の突き当たりに相馬神社の鳥居のマーク。まさか、この小さな社ではないだろうな、と思いながらさらに近づくと、鳥居に掲げられた神額には「相馬神社」とあるのが読めました。

 途中の道路際に、間もなく執行される例祭では交通規制が行なわれるという注意書きが出ていたので、さぞ大きな神社で、盛大な祭があるのだろうと想像をふく
らませてしまっていたのです。
 社殿には人が上がり込んで、何事か議論をしているようでした。想像するに、祭礼の打ち合わせをしていたのでしょう。 

 社殿の背後に廻りましたが、奥院というのはありそうもない。物置みたいな建物がヤドカリの貝みたいに拝殿にくっついているだけです。
 間違えたかと思って、もう一度正面に戻ってみました。神額をとくと見上げてみれば、間違いなく相馬神社です。奥院の沿革を記した標示も鳥居の横にありました。
 もう一度背後に廻って、物置みたいな建物に近づきました。なんと……笑ってはバチが当たると思いましたが、それが奥院だったのです。
 雨除けの屋根と高い木の柵で囲ってあるので、近づかないと中が見えません。近づいても暗いので、よく見えません。



 柵の間から手だけ突っ込んで写真を撮りました。カメラのモニタを見る限り、大きめの神輿が置いてあるのかと思ってしまいます。神輿でない証拠は石造りの台座の上に鎮座して、担げそうもないことです。

 この神社の建立はいまから七百年前の元享元年(1321年)。
 現在、鎮座ましますのは火災に遭ったあと、慶応三年(1876年)に再建されたものだということです。



 相馬神社に隣接している高蔵寺です。



 高蔵寺の薬師如来(坐像)です。
 寄木造りの坐像で、室町時代以降の彫刻。かなり大きな仏像です。天正末期、由良国繁という人が岡見家滅亡の将兵供養のため、配下の諸将に命じて七観音八薬師を祀る深堂を建てたとされています。この藤代薬師堂はその一つで、落成は天正二十年(1592年)。
 背中を丸めて覗き込むと、ガラス戸越しに拝むことはできましたが、カメラに収めることはできませんでした。よって、画像は取手市のホームページから寸借しました。



 行きには気がつきませんでしたが、帰りに駅に近づいたとき、伽藍の屋根が見えたので、寄ってみました。
 浄土宗信樂寺(しんぎょうじ)。まだ真新しい朱色が特徴的で、奈良か京都にあるお寺を思い起こさせるような境内です


 藤代駅からもう一度天王台に戻りました。

 天王台へ行くことになったとき、藤代行も決めたので、地図を用意しましたが、天王台付近の地図や案内図は持ってきていませんでした。近くに城趾でもあれば、と思ってあらかじめ調べましたが、それらしきものがなかったからでもあります。
 城趾関連のホームページやブログも検索しましたが、私の興味を惹くような城趾もありません。あるブログには「我孫子市は城趾の保存に関して熱心ではない」ということも記述してあり、市のホームページを見ても、城趾を含む史跡というものに関してはお世辞にも至れり尽くせり、とはいえない状況でした。

 近くに手賀沼があります。せっかくだから、そこだけ見てみようと思い、天王台に戻ったのです。天王台の駅からは徒歩でおよそ二十五分の距離です。



 沼と池の違いは何か。河童がいるかどうかだ、というNTTドコモのテレビCMがありました。そのCMでは答えは示されなかったと思いますが、推測するに、河童がいるほうが沼でしょう。
 とすると、手賀沼は沼ではない。河童が住むのにはあまりにも広過ぎます。かといって、池でないことは確かです。

 梅雨明け宣言が出されたばかりだというのに、雨こそ降らないものの、朝から曇り空で、かなり蒸し暑い。

 手賀沼を見渡していたら、あろうことか雨が降ってきました。
 右も左も田んぼと畑で、
身を隠せるようなところはどこにもありません。きた道を引き返すとしても、雨宿りのできる喫茶店や食堂のたぐいは、かなり戻らなければならない。
 エエイッと肚をくくって、手賀沼添いに歩くことにしました。
 水生植物園があり、長い藤棚がありました。強い雨でなければその下でしばし雨宿り、と考えていたら、幸いにして雨はやがて上がりました。



 そのまま手賀沼に沿って歩いて行くと、尖塔を持った建物が見えてきました。
 連れ込みホテルかと思いましたが、手前に広い駐車場があるのが見え、わりと頻繁に車が出入りしているところを見れば、こんなあからさまな連れ込みホテルはないと思えます。

 やがて「鳥の博物館前」という交差点の交通標識が目に入るようになりました。駐車場には手賀沼周辺で観察できる野鳥の絵看板もありました。
 そういえば、山階鳥類研究所が渋谷から引っ越してきて、我孫子は一躍野鳥観測のサンクチュアリみたいになったのでした。
 入場料金次第だが、ちょっと覗いてみるか、と思いながら歩いていたとき、実際は右手にあった博物館前を通過してしまっていたのです。尖塔が博物館だろうと早合点して、左手ばかり見ていたので気づきませんでした。

 尖塔の正体は手賀沼親水広場の「水の館」でした。てっぺんのドームはプラネタリウムらしい。博物館を行き過ぎてしまったこともあり、あまり興味も湧かなかったので、近づいただけで素通り。

 親水広場を通り抜けて交差点を渡ると、「→志賀直哉邸跡」という標識が目に入りました。
 志賀さんは日本の小説家の中で、私がもっとも敬愛する人です。
 そういえば、志賀さんは結婚したばかりのころ、我孫子に住んだ(大正四年から七年半)ことがあったのでした。
 標識に従って交差点から路地に入ると、すぐ村川別邸がありました。村川堅太郎氏の著作は一冊だけ(確か中公文庫)読んだ記憶がありますが、内容も題名も憶えておらず、まして別荘など興味もないので、高みにある建物に一瞥をくれただけで通過。

 その先で道は二股に分かれます。さあ、どちらの道かと思案して周りを見渡しましたが、どちらが志賀邸か、と示す標識はありません。
 志賀さんのことだから山手だろうと勝手に決めて、ちょっと胸を突くような坂道を上りました。

 坂を上り切ったところで、我が選択は失敗であったと悟らされました。
 門を二つも持つ、かなり豪勢な邸宅がありましたが、あとはとくにどうということのない住宅地で、志賀邸らしきものはありそうもない。
 それでももしや、と期待しながら歩みを進めましたが、交通量の激しい道に突き当たって、完全に失敗だったと自覚。

 手賀沼から噴き出していた汗は、もはやとどまることを知りません。自販機で飲み物を買うだけでは、喉の渇きは癒されても身体が癒されない。涼しいところに坐りたい。そういう気持ちが勝っているので、引き返そうという気にはならない。
 住んだ家なんか見ても仕方がないと思いながら、どこへ向かっているともしれぬ道を黙々と歩くだけです。
 家を見ても仕方がないというのは負け惜しみ。奈良・高畑の志賀邸跡はわざわざ見に行ったことがあるのですから……。

 ほうほうのていで我孫子駅に辿り着きましたが、いっぺんに力が抜けてしまいました。駅前(南口)を見ただけですが、腰を落ち著けて涼めるような場所がない。小腹も空いていましたが、狭そうなラーメン屋が一軒あるだけ。それも、店を開けているのかそうでないのか、微妙な暖簾の出し方。
 北口に廻ってみても、やはり狭そうなラーメン屋が一軒だけ。無駄な彷徨などせず、早々に電車に乗ったほうが得策でした。

 庵に帰ってもろもろ調べてみれば、我孫子にも將門伝説の残るところがありました。ただそこは成田線の湖北駅まで行かねばならず、ついでに行くにはチト遠かった。事前に知っていても行ったかどうか。
 今日の藤代~我孫子行の自己採点は20点。大きいこと、広いことが寺社の価値を決めるものではない、ということは当然ですが、トップバッターの相馬神社で拍子抜けしてしまって、あとは挽回不可能でした。

 うかつなことに庵に帰るまで、土・日・月と三連休ということを知りませんでした。知っていれば、JRのツーデーパスを買って、もっと遠くまで行ったのに、と悔やんでもあとの祭り。

↓今回の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map56250.html