桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

梶山季之さんのこと

2009年07月21日 07時49分57秒 | つぶやき

 蒸し暑い中を二日つづけて外出したので、三連休の最終日、昨日の海の日は近場の散策にとどめました。
 その散策に出ようとした折、玄関を出ようとして、思わず蹈鞴(たたら)を踏んでしまいました。廊下に玉虫がいたのです。



 よくよく見ると相当弱っているようです。肉眼では気がつきませんでしたが、画像を拡大してみると、傷だらけで、かなり老齢のようです。若くて元気なら、樹木も草もないようなところにいるわけがありません。
 そのままにして散策に出ましたが、道を歩きながら、玉虫のことが頭から離れません。

 そうして、ふと梶山季之(1930年-75年)さんのことを思い出しました。
 かつては書店に行けば、梶山さんの著作が誰よりも広い棚を占領していたものですが、いまではもうその名前すら知らない人のほうが多いかもしれません。

 なぜ思い出したのかというと、連想ゲームのようなものですが、茨城県の守谷という町に行ったからです。
 守谷と梶山さんとは直接の関係はありません。その間を結びつける人がいるのですが、ややこしくなるので、その人のことはいまは割愛します。

 梶山さんに会ったのは、もう四十年近くも前のことで、たった一度だけでした。
 そのころ、私は駆け出しの週刊誌の記者でした。お会いしたのは、確か日比谷の東宝劇場の楽屋。いまはなくなってしまいましたが、文藝春秋社が主催する文士劇があって、梶山さんはそれに出演しておられたのです。

 楽屋を訪ねると、まだヅラ(鬘)を被って舞台衣装のままの梶山さんが独りで坐っておられました。
 事前に事務所に連絡を取り、取材意図も話してあったので、話はいきなり本題に入りました。
「僕もよく知らないんだけど、西洋人というのは髪がブロンドでも、シタもブロンドとは限らないと聞いたことがあるけど、あなたはどう思いますか」
と本題の質問に答える梶山さん。
 下ネタに関しては百戦錬磨のはずの梶山さんが知らないことを、駆け出しボンボンの私が知っているはずはありません。
 かつてトップ屋として鳴らし、「黒の試走車」や「赤いダイヤ」という産業スパイ小説、経済小説で一世を風靡したかと思えば、エロ小説も書くという人だったので、私はどちらかというと、ぶっきらぼうな人だと想像していました。
 年齢は私より十七歳も上。そんな人が楽屋の隅っこに、はにかんだ表情で坐っていて、丁寧な物言いをするので、愕いてしまいました。

 前々から噂は消えては立ち、立っては消えていたのですが、銀座あたりでマリリン・モンローの陰毛を売っている男がいる、という莫迦莫迦しい企画が立てられて、私はデータ集めに駆り出されていたのです。
 私は見たことがありませんが、懐紙のようなもので丁寧に包まれたブロンドの縮れ毛が二~三本。お金持ちで好色なおじさんたちがたむろする銀座のバーに一人の男が現われて、随分高値で取り引きされているということでした。

 売っていたのは自称元帝国ホテルのルームボーイ。
 バスタブの排水孔に引っかかったモンローの貴重な毛をせっせと集めたという噂でしたが、本当にルームボーイだったかどうかは?。

 マリリン・モンローが結婚したばかりのジョー・ディマジオと来日、東京の帝国ホテルに投宿したのは1954年の二月のこと。招いたのは讀賣巨人軍です。
 招かれたのはモンローではなく、ディマジオです。
 ディマジオは野球関係のイベントで毎日外出します。しかし、行くところのないモンローは一日じゅう部屋に籠もり、次第にノイローゼになって行ったといわれていました。部屋に籠もるしかないのだから、日に何度もシャワーを浴びたかもしれない。そのおこぼれ……。
 信憑性がなくもない話です。

「結局、僕は人から聞いた話しか知らないのです」と梶山さんはすまなさそうにはにかみ、「浪越さんには会わないんですか?」とまた丁寧な口調です。

 浪越さんというのは浪越徳治郎さんのことで、指圧の大家です。
 胃を悪くしたモンローに招かれて指圧を施し、日本人でただ一人モンローの裸身を見たことがある人だといわれていました。

 しばらくすると、梶山さんは内線電話の受話器を取ってダイヤルを回し、誰かと話し始めました。
「あなたのところは○○の信号をどっちへ行けばよかったんでしたっけ?」
 などと喋っているので、私は何かの仕事の話が始まったのだと思って、素知らぬふりを装っていました。
 やがて「あなたはモンローの裸を見ているんだから、毛も見たんじゃないの? 僕の後輩の○○君という人があなたを訪ねて行きますから……」という声が耳に入ったので、私はハッとしました。

 梶山さんが電話をかけたのは浪越さんで、電話口を通して独特の「ワッハッハー」という笑い声が聞こえていました。
 電話をしながら、梶山さんはメモ用紙に何かを書いていました。あとで手渡されてみると、手書きした浪越さんの家の地図と電話番号でした。
「では……」と辞去しようとすると、「お金はありますか?」と訊かれました。
「?」
 首を傾げましたが、梶山さんが訊ねたのは、これから浪越さんを訪ねて行くタクシー代を持っているのか、という意味でした。
 私がいくら若造だったとはいえ、初対面で、しかもこちらが押しかけて行っているのに、そこまで心配してくれた人は、前にもあとにも私は知りません。

 梶山さんの死後、梶山さんの周囲の人から、梶山さんはこのように気を遣う人、面倒見のいい人というより、良過ぎた人だと聞かされました。

「一度事務所へ遊びにおいでなさい」
 去り際、そう声をかけられました。私は所謂外交辞令だと思いましたが、そうでなかったことは、経験を積むのに従ってわかるようになりました。

 その晩は浪越さんを訪ねませんでした。というより、翌日以降も訪ねたかどうか、記憶がはっきりしないのです。
 それからずっとあと、浪越さんにはモンローとは関係のない取材で会ったことがあり、モンローと梶山さんの話をしたような記憶があります。

 モンローの陰毛というのは与太話ですから、話の真偽はどうでもいいこと。そのときにはモンローもすでに死んでいたし、棺桶まで持って行くような話ではないのですが、「腰からシタはバスタオルを巻いていたし、ワッハッハー。ベッドに俯せになっていたから、オッパイすら、ワッハッハー」と浪越さんには煙に巻かれてしまいました。
 ただ、それが別の機会に会ったときの話だったのか、まさにモンローの取材で会ったときの話だったのか。とんと記憶がないのです。

 私がお会いしたその年、梶山さんは三十一歳のときに患った結核が再発。
 入院加療を経て元気になられたかと思いましたが、三年後の五月、取材先の香港で客死されてしまいました。

 梶山さんの事務所は新宿・曙橋にありました。
 駆け出しの私はテレビ局廻りが多く、そのころは市ヶ谷河田町にあったフジテレビに繁く通っていたので、ときおり事務所の前を通りがかることがありました。確か三階建てのビルだったと思いますが、いつも煌々と灯りが点いていました。

「一度事務所へ遊びにおいでなさい」
 その都度、その言葉が耳の中にこだまして、私はビルを見上げるのですが、ついに訪ねることはありませんでした。

 梶山さんが亡くなってもう二十四年……。いまさら悔やんでも詮無きことなれど、一度事務所を訪ねればよかった、と年を追うごとに後悔の念が募ります。



 新松戸のキョウチクトウ通りではキョウチクトウの花盛りでした

※このブログを書いた時点ではユリノキだと思い込んでいたので、そのように記していましたが、後日誤りに気付いたので訂正しています。

 道路の中央分離帯に何十本と植えてあって、よってキョウチクトウ通りと呼ばれるのですが、何千何万という花が咲いているのに、私には物悲しい花としか見えませんでした。

 我が庵に戻ったとき、玉虫は姿を消していました。元気を恢復してどこかに飛び立って行ったのならよいのですが……。