八日は薬師如来の縁日だったので、葛飾区にある木下川(きねがわ)薬師というところへ行ってきました。
毎月八日の縁日には薬師詣でをすることにしましょうと、今年一月から始めて六か所目……ともなると、できるだけ近いところを捜しているつもりですが、段々遠くなるとともに、電車の乗り換えも面倒になってきます。
今月はどこにしようかと、数日前から地図その他と睨めっこして、木下川薬師か、江戸川区一之江の妙音寺か、印西市の松虫寺か、と候補を三か寺に絞り込みました。
一番心惹かれたのは松虫寺です。通称・姫寺といい、本尊はもちろん薬師如来です。
姫寺という名の起こりは聖武天皇の第三皇女・松虫姫と関係があります。
あるとき、姫は重い病気にかかりましたが、夢に下総萩原郷の薬師如来が現われて、下総に下って薬師仏に祈れば病が治る、というお告げがありました。姫がはるばる下総まできて祈ると、果たして病は治りました。聖武天皇はおおいに喜ばれ、行基に命じて建てさせた寺が松虫寺だというのです。
ただ、松虫寺は我が庵からは非常に行きにくいところにあります。最寄り駅となる北総鉄道の印旛日本医大駅へ行くのには二度も乗り換えを強いられる上、そこから二十分は歩かなくてはなりません。
二十分という距離なら私にとってさほどのものではありません。問題は、滅多に行けないところへ行くのだから、もう一か所寄りたいところ(ひょんなことから御縁のできた東祥寺という曹洞宗のお寺)があり、それは松虫寺とは北総鉄道の線路を挟んで正反対の方向-歩くと三十数分というところにある、ということなのです。
どちらを先にするにせよ、印旛日本医大というまだ見たことのない駅に降り立ってから、再びその駅に戻ってくるまで、二時間近く歩かなければならないので、いつもの薬師詣でに比して、少し早めに出ることに致しましょう、と早めに床に就きました。
前日七日時点での天気予報は曇のち晴でした。
ところが、翌朝目覚めてみると、雨です。十時ぐらいまでに熄んでくれれば、と思っていましたが、完全に熄んだのは午後一時過ぎでした。
で、行き先は急遽変更ということになりました。
常磐線を金町で降りて京成電車に乗り換え。
京成金町から出る金町線には京成高砂行の電車しかなく、どこ行きに乗ればいいのかと迷う暇もありません。京成金町からわずか二つ目で終点の京成高砂です。
次に乗るのは京成本線。同じ京成電鉄なのに、一度改札を出て入り直すという、けったいなことがあります。
私が降りる予定の駅は各駅停車しか停まりません。時間によっては各駅停車がこないので、次の青砥まで行ってまた乗り換え。金町からわずか五つ先の駅へ行くだけだったのですが……。
四ツ木駅で降りました。
木下川薬師に向かう道の右手は綾瀬川と荒川の高い堤防と首都高速の高架に遮られ、左手は家が建て込んでいるので、まったく見晴らしが利きません。
四ツ木駅から歩くこと十数分。そろそろのはずだが、と思ったところに、こんな看板が目に飛び込んできました。
木下川と書いて「きねがわ」とルビが振ってありますが、「江戸名所圖会」などを見ると、木毛川、あるいは亀毛川という表記もあるので、もともとは「きけがわ」だったのが、いつの間にか訛ったのでしょう。
調べてみると、昭和七年に葛飾区が誕生したとき、すでに「きねがわ」と呼ばれるようになっていたので、表記を「木根川」と改めたのだそうですが、町名はその後、四ツ木と改称されて、かつての地名は小学校や橋にその名を残すだけとなっています。
なかなかに荘厳な仁王門です。
寛文三年(1663年)につくられた金剛力士像。像の高さはともに275センチ。
「江戸名所圖会」には広々とした境内の様子が描かれていますが、そのころ、寺があったのは別の場所(現在地から西北へ約600メートル)です。大正八年、荒川放水路の開削工事のため、現在地に移転しました。
木下川薬師の本堂であり、薬師堂です。縁日だというのに何も催しがなく、境内は無人というのにも私はすっかり慣れてしまいました。ただ、黙々と(見えぬ)薬師如来に手を合わせるだけです。
この薬師さまのことをもう少し早く知っていれば……。
この寺のホームページがあります。年中行事を見ると、先の四月八日には薬師如来大縁日というものがあったようです。ただ、薬師如来の開帳は十一年後とも記されているので、四月にきても拝めなかったかもしれませんが……。
広智という僧侶がこの地にあった草庵に薬師像を安置したのがこの寺の始まりといわれています。
時は嘉祥二年(849年)といわれていますが、広智が薬師像を持っていたのは、伝教大師最澄から託されたからです。
ことの次第は最澄が東国の教化を願って薬師像を彫り始めたことにあります。ところが、途中まで彫ったところでお告げがあり、像は未完成のまま、比叡山から下野の国に帰ろうとしていた広智に託されることとなったのです。
……と、そこまではいいのですが、腑に落ちないのは薬師像が安置された年と最澄が生きていた年とのギャップです。
最澄が亡くなったのは弘仁十三年(822年)ですから、亡くなる直前に薬師像を託したとしても、広智は嘉祥二年までの三十年近く、何をしていたのだろうと考えてしまうわけです。
視界を塞いでいた堤防に上ってみると、首都高速の通称ハープ橋が望めました。右は荒川、左は綾瀬川。
東京スカイツリーも間近に見えました。
前日七日に開業日と料金が決まっていました。ニュースを視ていたら、料金がちょっと高い、という人が大半。だけど、一度は上ってみたい、という人が大半。そして一度上れば二度目はいい、という人が大半。
私は常磐線の跨線橋を渡るときですら眩暈が起きそうなほど高所恐怖症がひどくなってきていることもあり、開業が来年というのならなおさら……鳴り物入りの東京新名所ですが、まず行くことはないだろう、まして上ることは、神に誓ってもないと思います。
京成電鉄の高架をくぐり、真言宗西光寺を訪ねました。創建は嘉禄元年(1225年)。
この寺は鎌倉幕府初期の重臣・葛西三郎清重(1161年?-1238年?)の居館跡に建てられたと伝えられています。
古くからあるらしき商店街(マイロード)を、四ツ木から立石にかけて一駅ぶんだけ歩いてみました。結構古い(といっても、せいぜい昭和か)建物が残されています。
遙か昔、仕事で本田(ほんでん)警察署(現在は葛飾警察署)を訪ねたことがあります。確か立石で降りたはず……と思いながら歩きましたが、景色はそれほど変わっているとは思えないのに、まったく記憶にない景色でした。
立石駅近く、公園があったのでブラリと入ってみると……。
葛飾区セルロイド工業発祥記念碑なるものがありました。大正三年、千種稔という人がこの地に玩具工場(千種セルロイド工業)をつくったのが嚆矢。
記念碑には、「いまや(記念碑が建てられたのは昭和二十七年です)関係業者数万を超え、生産額は我が国輸出総額の過半数を占める」とありました。
いつもならもう少しお寺巡りをするところであるし、途中には寅さんで名高い柴又の帝釈天もあるのですが、雨のせいで出発が遅くなったので、この日は二か寺を巡っただけでおしまいにしました。