桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

杉並真盛寺から妙法寺へ

2011年06月15日 22時26分30秒 | 寺社散策

 昨六月十四日は明智日向守光秀公の祥月命日でした。
 東京・目白で暮らしていたときは、毎月十四日には杉並区梅里にある天台真盛宗のお寺・真盛寺へお線香をあげに通ったものですが、目白を引き払うとともに行かなく(行けなく?)なっていました。
 何年ぶりになるのか。にわかには思い出せないほど久しぶりに、杉並の真盛寺へ行ってきました。

 なぜ日向守殿=真盛寺なのかというと ― 。
 天台真盛宗の総本山・西教寺(滋賀県大津市坂本)には日向守殿のお
墓があって、毎年六月十四日には明智光秀公御祥当法要が行なわれています。
 西教寺に参拝したことはありますが、法要とは関係のない日だったので、一度はその法要に参列せねば、と思いながらも、遠隔の地でもあるので、志を果たすことができません。そこで、西教寺の東京別院である真盛寺を見つけたのを機に、家で焼香するよりは多少なりとも効き目(?)があるだろうかと愚考して、毎月十四日に参詣することにしたのです。



 我が北小金駅からは常磐線(地下鉄千代田線)の国会議事堂前で丸ノ内線に乗り換え、悠に一時間以上かけて東高円寺に到着しました。



 地下鉄の階段を上がると、蚕糸の森公園です。
 いまから九十九年前、ここに農商務省原蚕種製造所(農林水産省の蚕糸試験場)がつくられました。つくば市に移転したあと、約3万平方メートルが杉並区立公園に。

 公園西側に遊歩道を思わせるような道があります。400メートルほど歩くと、環七通りに出ます。そこがちょうど真盛寺の真ん前です。




 環七通りとの合流点直前にあった日蓮宗蓮光寺。詳細は不明。幾度となく前を通っているはずですが、まったく記憶にありません。



 広い環七通りの向こう側に目的の真盛寺を眺めながら、横断歩道のあるところまで行って渡ると、日蓮宗の宗延寺があります。
 ちょっとだけ中を覗かせてもらって……いよいよ真盛寺です。



 長い参道。
 入口から山門まで70メートルほどもあります。山門から本堂前までは100メートルほど。

 


 こういう標識は私が毎月通っていたときにもあったものかどうか……。
 参道入口にも同じ内容の標識があったので、ちょっと臆した気分になりましたが、断わろうにも境内には人の姿はなく、かといってここまできて引き返すわけにもいかず、無断でズイズイと足を踏み入れました。



 本堂。安永五年(1776年)の建築。
 お寺そのものは寛永八年(1631年)、江戸湯島に創建されたのが始まり。谷中、本所と二度の移転を挟んで、大正十一年に現在地に移転。
 三井財閥の祖・三井高利が越後屋を創業して以来の菩提寺として知られており、俗に三井寺と呼ばれています。



 元三大師堂。文政三年(1820年)の建築。



 墓所入口の門。
 この手前に地蔵があり、そこへ香華を手向けにきていたのですから、毎回墓所に入ったわけではありませんが、こういう門があったかどうか、記憶にはありません。



 三井家墓所入口。広い墓地は森閑と静まり返っていました。

 目白の住人であった八年間、毎月通っていたのですから(出張で東京にいないときもありましたが)、百回近く通ったことになります。その都度、地蔵様に焼香したはずですが、広い境内に人影を見たことはほとんどなく、見ても、見とがめられるようなことはありませんでした。
 しかし、この日は他人の家に無断で入って歩き回っているような罪悪感があって(実際、入るなという標示があったのですから、まさにそのとおりなのですが)、お線香を携帯していたのですが、火も点けずに持ち帰ることとなりました。

 真盛寺を出たあと、堀之内の「おそっさま(お祖師様)」と慕われている妙法寺に行ってみることにしました。
 昔から人々に慕われてきたとはいえ、日蓮宗の寺ですから、まかり間違っても私が慕うことはありませんが、著名な寺でもあり、前にきてから二十年近くも経っていて、記憶も定かではなかったし、真盛寺で肩すかしを食ったような気分になっていたので、行ってみることにしたのです。



 真盛寺から妙法寺に行くには環七通りを通って行くのが普通ですが、なんとなく奥のほうには寺のある気配が感じられたので、宗延寺と真盛寺の間の小径を歩いて行くと、日蓮宗の本佛寺がありました。
 寛永八年(1631年)、谷中三崎町に創建。
 江戸時代は中山法華経寺、雑司ヶ谷鬼子母神堂と並び、江戸三大鬼子母神の一つとして人々の崇敬を集めたそうですが、いまも鬼子母神はあるのでしょうか。昭和十七年に現在地へ移転。



 日蓮宗修行寺。
 寛永三年(1626年)、麹町に開創されましたが、八年後には赤坂一ツ木へ移転。さらに明暦の大火(1657年)後は市ヶ谷谷町に移転ののち、大正元年に現在地へ移転。
 江戸時代は我が庵近くにある本土寺の貫首が江戸に滞在する際の住居となっていたそうです。



 日蓮宗妙祝寺。
 この寺の開基・日栄大姉は伊予西条藩の初代藩主・一柳(ひとつやなぎ)直盛の正室です。寛永五年(1628年)、麻布桜田町にあった藩邸内に創建したのが始まり。大正三年、現在地に移転。
 西条藩一柳家は直盛の孫・直興(なおおき)の代に、改易されていますが、分家(播磨小野藩と伊予小松藩)は明治維新までつづきます。
 この墓は播磨守一柳直方之墓とあり、もう一つ別の墓には一柳主税直長とありましたが、私の手許にある一柳三家の系図では、いまのところ該当する名を見つけることができません。



 妙法寺の背後をグルリと廻る形で門前に到着しました。
 山門に当たる仁王門です。天明七年(1787年)の建立。



 妙法寺の門前には三匹の野良殿がいました。
 おやつを与えながら、近くに坐って私も持参の握り飯と冷たい緑茶で腹ごしらえです。腹がふくれたところでおもむろに腰を上げ、妙法寺の山内に入りますが、〈つづき〉は明日のブログで。