妙法寺。
山門をくぐると、正面に見上げるばかりの大きな祖師堂があります。
祖師堂は明和六年(1769年)の大火で、他の堂宇とともに焼失。
元和年間(1615年-23年)、真言宗寺院だったのを日蓮宗に改宗したのをもって寺の開創とするそうですが、火災に遭った際に記録も失われているので、実際の歴史は不明のようです。この祖師堂は文化九年(1812年)の再建。
祖師堂と御成の間を結ぶ回廊越しに本堂が見えるはずだったのですが、残念ながら修復工事中でした。
御成の間とは徳川将軍が野遊の際、妙法寺に立ち寄ると、その御座所として使用された座敷です。
修復工事が終わるのは来年四月の予定。何も早まって断言することもないのですが、真盛寺ともども私が見ることはないと思います。
日朝上人の像を祀る日朝堂。
日朝上人は久遠寺十一世法主。寝る間を惜しんで勉学に励んだのがたたって両目を失明。されど、厚い信仰の力で病を克服し、眼病で苦しむ人がいたら、守護して平癒させたいという願を立てました。
日朝堂横に建てられている有吉佐和子さん(1931年-84年)の碑。
前回のブログで紹介した修行寺近くに、妙法寺の裏口に当たる入口があり、境内を縦に通り抜けることができます。近くに住んでいた有吉さんは妙法寺に親しみを持ち、境内を歩く姿が見られたそうです。
ただ、有吉さん自身はキリスト教信者で、墓地は小平市の小平霊園。
妙法寺門前の商店街は環七通りを越すと、和田帝釈天通りと名を変えます。環七からこの帝釈天まで200メートル余。
あまり広くない道ですが、この先はクネクネと曲がりながら鍋屋横丁で青梅街道に合流します。江戸から妙法寺に参詣する人たちはこの道を通ったようです。
今日のお寺巡りはこれで終わりましたが、確かめたいことがあったので、東高円寺駅に戻り、しばし青梅街道を歩くことにします。
毎月真盛寺に参詣していたころ、参詣のあとは青梅街道沿いの国島書店という古書店を覗いてみるのが常でした。その書店がどうなっているか確かめてみたかったのです。
古書店でなければ手に入らぬような本を、予期しなかったところで偶然見つける、というのは私にとって無上の喜びでした。
いまは感受性も稀薄になって、その種の喜びとは無縁になりつつありますが、まだ四十代で好奇心も旺盛だったころ、そのような本に出会えると、本当に飛び上がりたいほどうれしかったものでした。
そういう本の一つ、誠信書房で出ていた中村宗一師訳の「正法眼蔵」全四巻を見つけたのはその書店でした。
その当時、岩波文庫の「正法眼蔵」は絶版中。新版(水野弥穂子校注版)が出始めていましたが、まだ全巻の刊行を見ていなかったので、全巻手に入れたいと思えば、古書を捜すほか手に入れる方法がなかったのです。
ほかに、成島柳北の何冊か、梶山季之さんの「松田重次郎(マツダ創業者)伝」などを手に入れたのもこの書店でした。
環七通りの交差点から東高円寺の駅までの間、すでに古書店はありませんでした。
新しい建物もあったので、建て替えられたかもしれませんが、なんとなくここではないかという気がしたので、カメラのシャッターを切りました。
私が四十代だったころ、店主はいまの私ぐらいの年齢でした。元気で過ごされているとしても、恐らく八十代なかば……。
ふっと溜め息を漏らして、このあとはどうしようかとしばし考えた挙げ句、かつて私が暮らしていた近くでもあり、仕事で何度も近くを通りながら、行く機会のなかった宝仙寺に参詣して帰ることにしました。
鍋屋横丁近く、青梅街道に面して慈眼寺がありました。
目指す宝仙寺と同じ真言宗豊山派の寺院で、天文十三年(1544年)の創建と伝えられています。中央に見えるのはパゴタ、右は鐘楼です。
中野新橋入口近くで見つけた看板。冷やしメロンパンというのを食べたことがあるので、そのたぐいかと想像して一度は通過。
ところが、通常のメロンパンは常温だから、冷やせばオツかもしれないが、たい焼きは温かくてなんぼ、のはず。それを冷やしたら? オットット、話の種に食べてみるべし……と戻りかけたのに、あいにく休業日だとさ。
青梅街道と環七通りの交差点・高円寺陸橋下から徒歩三十分弱で宝仙寺に着きました。
宝仙寺本堂。
創建は平安時代後期の寛治年間(1087年-94年)で、源義家が建立したと伝えられています。義家は後三年の役を平定して京に帰る途中でした。
寺が竣工したとき、地主稲荷の神が出現して、義家に一顆の珠を与え、「この珠は希世之珍宝中之仙である。是を以って鎮となさば、則ち武運長久、法燈永く明らかならん」といい、白狐となって去ったということです。
創建の地は現在地から少し離れた阿佐ヶ谷。室町時代に現在地に移転。
明治二十八年から昭和初期まで、境内に中野町役場が置かれていました。
石臼塚。
江戸時代、神田川には水車が設けられて、蕎麦粉を挽いていました。中野は全国から蕎麦の実を集め、江戸じゅうの蕎麦店に蕎麦粉を供給する一大拠点であったのです。ところが、やがて機械化が進むと、使われなくなった石臼は道端に放置されるようになりました。
それを見た宝仙寺第五十世住職・富田敦純(宝仙学園創立者)師が境内にこの塚を建てて供養するようになったものです。
三重塔。戦災で焼失。戦後復元されました。
帰りは中野坂上から地下鉄に乗りました。何年も乗らなかった間に事故防止の可動ステップが設置されていました。
行きに国会議事堂前で丸ノ内線に乗り換えたときから可動ステップには気づいていましたが、国会議事堂前はプラットホームの幅が狭く、カメラを充分に引くことができなかったので、撮影できなかったのです。
東京を離れて七年……。隔世の感、というのはいささかオーバーですが、段々おのぼりさんになって行くワイ、とちょっぴり慨嘆しつつ電車の人となりました。