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桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

深川寺巡り(2)

2011年03月21日 20時13分38秒 | 寺社散策

 先日の地震で柱から飛ばされた掛け時計でモニタが破壊され、パソコンが使えなかったために、〈つづく〉としておいた深川のお寺を巡った日から十日以上も経ってしまいました。
 十日も経つと、すっかり間が抜けてしまいますが、画像だけ配置して保存しておいた下書きを、日の目を見せぬままに削除してしまうのも惜しいように思えるし、今日は彼岸の中日でもあるので、間抜けを承知で更新しました。

 さて、前回の最後にした阿茶局のお墓がある雲光院から淨心寺までは歩いて五~六分の距離です。
 阿茶局のお墓はヒョロリとして背が高いので、地震で崩れてはいないか、と心配するコメントをいただきました。アイヨ、と請け合って見に行ける近さではないので、確かめられないのが残念ですが、代わりに我が庵近くの清瀧院の墓所に行ってみました。

 墓石の中には倒壊したり、ずれたりしているものがありましたが、歴代住職の墓石は、古いものだと三~四百年も経っているのに、被害を受けた様子はありませんでした。



 卵塔という僧侶の墓独特の、いわば頭でっかちの形をしていますから、見た感じは長方形が多い一般の墓石より不安定な気がします。しかし、倒れないのです。つくづく昔の墓(技術)は偉いものだと思いを新たにしました。



 さて、〈つづき〉は浄土宗の良信院からです。創建されたのは日本橋ですが、振袖火事として知られる明暦の大火(1657年)後に現在地へ移転。



 龍光院も浄土宗の寺院。創建の地は馬喰町。天和二年(1682年)、現在地に移転。深川七福神の一つ毘沙門天があります。




 今回の深川探訪のお目当てである淨心寺にきました。ここには江戸時代末期の勘定奉行・矢部駿河守定謙(さだのり・1789年-1842年)の墓があるのです。
 二年前にきて捜し当てることができず、近々再訪しようと思いながら、いつの間にか二年も経ってしまっていたという次第です。

 墓域は決して広いとはいえませんが、通路が非常に狭いので、おびただしい数の墓石が林立しています。
 矢部さんを川路聖謨(かわじとしあきら)、岩瀬忠震(いわせただなり)とともに幕末の三俊と称えた、明治から昭和にかけての新聞人・川崎紫山(1864年-1943年)は、墓石の並んでいるさまを「累々たる大碑小碑、碁の如く羅列したるが中に、二個の花崗石、石径の一端に立てり」と書き、寺僧の案内がなければ見つからなかったといっています。
 花崗石といっても、没後百七十年も経っているのですから、黒ずんでいるかもしれませんが、法名は晴雲山院殿秋月日高定謙大居士とわかっているので、念入りに見て回ったつもりでしたが、結局この日も矢部さんの墓を見つけることはできませんでした。
 今度くるときは前もってお寺に電話を入れることにします。



 代わりに旧洲崎遊郭の供養塔を見つけました。
「元洲崎遊郭無縁精霊之墓」「洲崎廓追善墓」と彫られた二基の墓石があります。説明板のたぐいがないので、どのような歴史があるものかわかりませんが、縁故がいるのかどうか、樒(シキミ)が供えられていました。

 洲崎遊郭は明治二十一年から昭和三十三年まで、深川洲崎弁天町(現・江東区東陽)にあった遊郭です。
 根津にあった遊郭近くに大学南校医科(現在の東京大学医学部)が設置されることになり、学問の府近くに遊郭とはこれいかに、という理由から、当時は海だったところを埋め立て、根津遊郭をそっくり移転させてできたのが洲崎遊郭です。
 永井荷風は「断腸亭日乗」に「洲崎大門前に至るに燦然たる商店の燈火昼の如し」と記していますが、最盛期は三百軒近くの店があり、二千人以上の従業婦がいたようです。

 淨心寺から洲崎遊郭跡までは歩いて二十五分ほどです。古い建物も遺っているようなので、行ってみたい気はありましたが、足を延ばしてしまうと、お寺巡りを切り上げねばならぬので、日を改めて行くことにします。



 淨心寺の西参道前にある円珠院です。
 かつては淨心寺の塔頭でした。深川七福神の一つ・大黒天が祀られています。開基は永井讃岐守直允(なおちか)という旗本の妻女(後室)です。
 いまのところ、この女性の名も生年も不明ですが、享保十五年(1730年)十二月二十日に没し、この寺に葬られたということだけがわかっています。浜松町近くにある円珠寺という寺の開基でもあるらしいので、よほど信心が篤く、お金持ちでもあったようです。
 永井讃岐守直允という人物についてはまた県立西部図書館へ行って、「寛政重修諸家譜」で調べてみなくてはなりません。



 松林院。もとは霊巖寺の塔頭。



 松林院と背中合わせの勢至院(浄土宗)。ここは寺域いっぱいに本堂と庫裡が建てられています。道が細いので、こんなアングルしかカメラに収めることができません。

 
 


 淨心寺の西参道前を東西に走る細い道。短い距離の間に向かい合わせで六か寺も並んでいます。いずれも日蓮宗の寺院です。その道の南側。淨心寺に近い東から善應院、本立院、玉泉院。
 善應院は詳細不明。本立院には間宮林蔵の墓があるらしいのですが、入りにくそうだったのでパスしました。玉泉院は明暦年間(1655年-57年)の創建とわかっただけ。

 
 


 今度は北側。東から一乗院、唱行院、圓隆院。
 由来がわかるのは唱行院だけで、元禄八年(1659年)、京橋に創建。江戸時代末期に当地へ移転とぞ。

 以上六か寺の中で、わずかながらも空間があるのは唱行院だけでした。あとは敷地目いっぱいに伽藍が建てられていて、眺めて歩くだけで肩が凝るような思いがしてしまいます。

 


 圓隆院と唱行院の間の道を霊巖寺に向かって北に歩くと、右に圓通寺、左に法性寺があります。ともに浄土宗のお寺ですが、詳細は不明。



 雄松院。寛永四年(1627年)、霊巖寺の開山堂として創建。紀文と並ぶ豪商・奈良屋茂左衛門の過去帳があるそうです。

 一、二、見残した寺院がありますが、そろそろ家路を辿ることにします。門前仲町の駅へ向かう道すがら、締めくくりに富岡八幡宮と永代寺を巡れば、今回の寺社巡りは終了です。

 最初に歩いた清澄通りは通らず、路地を歩くことにしました。とうに昼は過ぎて、折角握り飯持参できていたのに、歩き食いをするわけにも行かず(実際はするのですが、人通りがあれば慮ります)、かといって腰を下ろせるような場所もありません。
 それほど人通りがあるわけではないけれど、さすがに松戸や流山の田園地帯とは違って、人通りがない、というところはありません。
 パタッと人影が絶えたと思ったら、首都高深川線の高架下でした。ここでようやくパクリ。



 かつては富岡八幡宮を囲んでいた八幡堀跡につくられた遊歩道と旧弾正橋。
 明治十一年、京橋付近を流れていた楓川(もみじがわ・現在は首都高都心環状線)に架けられた橋です。鉄橋では日本最古のものといわれ、国の重要文化財に指定されています。
 大正二年、新しく弾正橋が架橋されたため、「元弾正橋」と改称され、同十二年には廃橋となりましたが、その由緒を惜しまれて現在地に移設、八幡橋と呼ばれています。いまでも現役です。



 八幡堀跡を通ったので、先に富岡八幡宮に寄りました。
 社伝によると
、創建は寛永元年(1624年)。長盛という僧侶が京から八幡の神像をもって江戸にきたところ、当時、海岸は永代島という小島を中心に埋立て工事中で、その埋立地にあった祠に八幡神像を奉安して、のち(寛永四年)に立派な社殿を建立したと伝えられています。



 八幡宮境内の横綱力士碑。縦3・5メートル、厚さ1メートル、重さは20トンという白御影石製。
 裏面に初代横綱・明石志賀之助から第六十九代横綱・白鵬翔までの四股名が刻まれています。もみあげの三代朝潮太郎以降は別の碑。横綱以外で名が刻まれているのは雷電為右ェ門だけ。



 最後の最後に永代寺にやってきました。



 本堂の左手。
 まだ工事中のようですが、護摩札という掲示があり、宝籤売場のような窓口がズラリとあるところを見ると、新しい寺務所でしょうか。黒っぽいところに金色の線が二本、と見えますが、一つ一つは梵字なのです。



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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あっしも、 (とんだりはねたり)
2011-04-27 12:53:48
何回もお伺いしてますが発見できていません。また政敵となる鳥居忠耀の吉祥寺のお墓も見失いました。
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矢部定謙は (土師柿丸)
2011-10-25 01:47:42
墓地に入って右側壁を背にして父・矢部定令夫妻(勇健院殿・勇信院殿)に合祀されているようです。寺側の説明によると大正の震災と戦災で墓地が縮小移転された時に不明になったそうです。
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土師柿丸殿 (桔梗おぢ)
2011-11-16 17:31:21
ご教示ありがとうございました。
すぐ行くことはできませんが、近々確かめに行こうと存じます。
前にコメントをくだすった「とんだりはねたり」殿のためにも、是が非でも見つけて写真の一つも撮ってやらずばなるまいと考えております。
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