桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

もう一つの桔梗の物語

2009年06月21日 19時38分20秒 | 歴史

 先週、「桔梗塚」という名の塚が取手市内にあるのを識りました。我が庵から程近いし、桔梗と名がつけられているからには行かねばなるまいと即決。土曜日に行ってきました。
 場所がはっきりしなかったので、取手市埋蔵文化財センターに道案内を請うメールを出しておいたところ、本橋さんという方から細かく目印を記載した、非常に懇切丁寧な返信をいただきました。

 新松戸から取手は近いのに、交通は不便です。朝夕を除いて直通電車がないので、柏か我孫子で乗り換えなければならないからです。電車に乗っている時間より待つ時間のほうが長くなります。



 
取手駅で関東鉄道に乗り換えます。
 発車を待っている間は気がつきませんでしたが、動き出した途端、ボウボウとイヤに音のうるさい電車だなと思ったら、電車ではなく、ディーゼルカーなのでした。
 ディーゼルカーに乗るなんて何年、いや、何十年ぶりだろう。にわかには思い出せないほど遠い昔であることは事実です。ちょっと感動を覚えました。



 取手から四つ目の稲戸井駅で下車。
 小さな踏切を横切り、国道294号線の横断歩道を渡ったところに、その塚はありました。平將門の愛妾・桔梗御前(桔梗姫、桔梗の前、とも)のお墓です。



 將門には七人の影武者がいた、といわれています。
 本物と影武者を見分ける方法はただ一つ。本物はこめかみが動く-ということだそうです。こめかみの動かない人はいないので、動き方に大きな特徴があったのでしょうが、いまのところ、どのような動き方をしたのかわかりません。
 あるいは影武者といっても、実際は人形で、息をしているのが將門本人だと教えた、という言い伝えもあります。
 その見分け方を敵の大将・藤原秀郷に教えてしまったのは桔梗御前でした。

 天慶三年(939年)二月十四日、將門は幸嶋(猿島)で秀郷軍と戦い、そのこめかみに矢を受けて討ち死にします。



 桔梗塚から500メートルほどのところにある天台宗龍禅寺の三仏堂です。
 釈迦、阿弥陀、弥勒の三仏を祀っています。室町時代の建築物で、取手市内では唯一の国指定重要文化財だそうです。

 桔梗御前はここに將門の戦勝祈願をして帰る途中、藤原秀郷に殺されたという言い伝えもあり、將門の訃報を知って逃げる途中、この地で捕まって殺されたという言い伝えもあります。
 その霊の祟りによって、この地方では桔梗を植えても、花を咲かせることがないといわれているそうです。

 桔梗御前の墓と伝えられる桔梗塚は千葉県佐倉市にもあります。
 こちらでは桔梗御前が藤原秀郷の間者となって將門を裏切ったという言い伝えもあり、將門の怨霊によって、このあたりでも桔梗の花は咲かないという伝説が伝えられているそうです。
 千年以上も前のことですから、どれが本当の話なのかわかりませんし、すべからく明らかにならないほうがいいこともあります。




 桔梗塚~三仏堂の間にある窪地にカメラを向けました。
 松戸の住人となるまで、私は城といえば名古屋城や大阪城のように、天守があり、水を満々と湛えたお濠が周りを囲んでいる、というイメージしか懐いていませんでした。
 ところが、松戸にある安土桃山時代より前に造られた小金城址や根木内城址には水堀はありません。あるのは土を深く掘り下げて敵の侵入を困難にする空堀です。それを識ってから、窪地があると、それが空堀の跡ではないかと思ってしまうようになりました。
 されど多分、この窪地はたんなる窪地であって、空堀跡ではないでしょう。

 桔梗塚~三仏堂の道は途中まで住宅が並んでいます。目を配りながら歩きましたが、言い伝えが忠実に守られているからなのかどうか、桔梗らしき花を庭に植えている家はありませんでした。



 三十分後の列車で取手に戻り、今度は本多作左衛門重次の墓所を訪ねました。丁寧な道案内をもらっていたのにもかかわらず、二度も道を間違えてしまいました。おかげで取手二高の前を通ることになりました。

 夏の甲子園優勝という偉業を達成したあと、春夏通じて出場がありません。あれから二十五年が経過しています。



 台宿というところにある本多作左右衛門重次の墓所です。。
 台宿という地名から推し量って、高台だろうと考えていたのに、途中は谷のようなところを歩かされます。
 また道を間違えたか、と訝り始めたところに、急な上り坂が見えてきました。短いのですが、傾斜30度はあろうかと思われる急坂でした。息が切れそうになって上り切ったところを右に曲がった突き当たりに墓所がありました。

 本多作左右衛門重次は平將門から遙かに時代を下った安土桃山時代末期の人、徳川家康重臣の一人です。長篠の戦いの陣中から妻に送ったとされる、おそらく日本一著名な手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」 の主です。

 秀吉は家康の臣従と上洛を促すべく、生母・大政所を人質として差し出しましたが、家康上洛のおり、大政所の世話役を任されたのが作左右衛門でした。
 彼は大政所のいる建物の周辺に薪を大量に積み上げ、家康の身に変事があれば、ただちに大政所を焼き殺す、と秀吉を牽制しました。
 あとでこのことを大政所から聞かされた秀吉は非常に立腹して、「重次のような無礼者は家臣の座から放逐してしまえ」と家康に命令。大政所事件以外にも、重次には主君を思うあまり、秀吉にしてみると頭にくるような所行が多かったようです。

 家康も重次の所行はいくらなんでもやり過ぎと思ったし、いまのところは秀吉の命に背いても仕方がないと考えたのでしょう。駿河から江戸に移ったあと、重次を上総国古井戸(現在の君津市)に蟄居させました。その後、どういう理由からか、変更された蟄居先が下総国相馬郡井野-この墓所のあるところです。
 家康が天下人となるのを見ることなく、秀吉存命中の慶長元年(1596年)七月十六日、六十八歳で死去。

 最後に長禅寺を訪ねました。こちらは取手駅東口から至近距離なので、迷うことなく辿り着きました。承平元年(931年)、平將門が祈願寺として創建したと伝えられる臨済宗妙心寺派のお寺です。
 その落慶式の日、見物人の中に妙齢の女性がいるのを、將門はすかさず見初めました。それが桔梗御前でした。



 長禅寺三世堂です。
 將門の守り本尊とされる十一面観音が祀ってありますが、このお堂が建てられたのは宝暦十三年(1763年)ですから、將門とは関係がありません。
 外見は二層ですが、内部は三層になっており、往路復路が交わることなく一方通行で巡拝できる、さざえ堂様式という建築様式です。
 ただ、拝観できるのは毎年四月十八日の一日限りだそうです。

↓参考マップです。
http://chizuz.com/map/map56249.html 



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1 コメント

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Unknown (にゃん)
2009-06-27 09:19:48
お久しぶりです(・ω・)/

今年も 桔梗さんの通勤路にある
怪しげな お寺があるマンション角に 朝顔が咲き出しましたね☆

毎日 暑いですが体調に気を付けて下さいねo(^▽^)o
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