流山に天形星(てんぎょうせい)神社という珍しい名前の神社があるのを見つけました。
天の形をした星とは何か、と辞書に当たってみましたが、こういう語彙は収録されていません。「日本の神様読み解き事典」(柏書房)にもありません。
インターネットで検索すると、「天刑星(てんけいせい)」ともいう中国・道教の神で、木星のことであるとわかりました。この神は疫病を広める神や疫鬼などを食べてしまう神なので、疫病の蔓延を防いでくれる神として信仰されてきたのだそうです。
疫病の守護神としては、八坂神社系で祀られている牛頭天王がありますが、日本に伝えられて、素盞嗚命と習合したという説もあり、大国主命の荒魂が牛頭天王だという説もあります。
天形星神社の祭神は素盞嗚命(須佐之男命)。
素盞嗚命を祭神として祀るのは出雲大社、氷川神社、熊野本宮大社など数々あるのに、この神社はなぜに天形星という名であるのか。
しかも、インターネットで調べた限りでは、こういう名前の神社はここ一社だけのようなのです。まずは行ってみようと思いました。
一昨日がとんでもない莫迦陽気だったので、それに較べるといささか風が冷たく感じられましたが、昨日も好天で、暖かい日でした。
富士川右岸には草かき隊が出ていました。向こう岸は流山市。私が歩いていたほうは左岸で、松戸市です。
この日のスノーマンはいつものベンチコートふうのウィンドブレーカーではなく、革ジャンを着て、肩にトートバッグを提げているので、シルエットは羊の革でつくった水袋を持ち、砂漠を放浪するベドウィンのようです。
わりと大ぶりの尾花がありました。
パンパスグラスではありませんが、普通見かける尾花よりは大型です。野生ですから、もしかしたら交配しているのかもしれません。
流山市長崎あたりの里山風景です。東漸寺の紅葉とは趣が違いますが、これも秋の景色。
苦節五十数年、千葉県に移住するまで、里山があるような土地に棲んだことがないので、こういう景色に接したことはありませんでした。
庵を出てからおよそ四十分で天形星神社に着きました。
流山市の説明板が建てられていましたが、字数が限られているため、私が知りたいような記述はありませんでした。天形星という字面、「てんぎょうせい」という耳慣れぬ音感から、日本の神ではなく、異世界の神を祀っているような印象が否めません。
森と林、畑が多く、いまでこそ建て売りの住宅が増えていますが、かつてはあまり人が住んでいなかったのではないかと思われる土地にしては立派な拝殿です。
神額も純和風。異世界の神とは思えないが、私の頭の中からは「てんぎょうせい、てんぎょうせい」という響きが消えません。
拝殿手前には石見様を祀る祠がありました。
石見様とはなんぞや? と思ったら、祠の左側に石碑がありました。
寛政年間、房総三牧の野馬方総取締役だった岩本石見守という旗本がおり、この地域(長崎、野々下地区)は農業のかたわら牧の管理をするという野付村であったのですが、村人たちがかねて願っていた新田開発を認めてくれたので、村は豊かになった。それも石見守のおかげだとして祀ることになった、と記されています。
牧とは軍馬を育てる放牧地のことで、小金牧、佐倉牧、嶺岡牧(現在の鴨川市)の三つを総称して房総三牧といったのです。
石見様の姓が「岩本」だと知って、うにゃうにゃ? と感じることがありました。石碑には旗本・岩本石見守を神として祀ったとあるだけで、諱(いみな)はわかりません。
岩本というのは珍しい姓ではありませんが、武家にはあまりない姓です。取り立てて有名な人も思い当たらない。
うにゃうにゃ? と感じたのは、私が再三ブログで取り上げてきた一橋治済(はるさだ)の側室であり、十一代将軍・家斉の母が岩本富子であることです。
富子の父・岩本正利は田沼意次の父・意行の友人で、富子が年ごろを迎えたのに、縁づく先がなくて困っていた。なぜ縁がなかったかというと、富子は飛び切りの醜女(しこめ)であったから、と伝えられています。
相談を持ちかけられた意次は大奥に上げてはどうだろうかと提案します。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった意次にしてみれば、女一人を大奥に上げることぐらい屁の河童だったであろうし、岩本親娘にしてみれば、誰憚ることなく、終生独身を貫ける職場なのですから、この提案に飛びつきました。
一件落着と思われたところに、治済がとんでもない考えを持ち込んできました。すこぶるつきの醜女である富子を一橋家の御部屋様(側室)に迎えたいというのです。
この申し出には治済の深慮遠謀が隠されている(としか思えぬのですが)のですが、岩本親娘も意次も腰を抜かすほど愕いたであろうと思います。
そういういわくつきの岩本家となんらかの関係がある人物ではないか、と閃いたのが、うにゃうにゃ? の原因でした。
とはいえ、寛政年間といっても、とっさのことではいつごろなのか見当もつかないし、庵にいてパソコンを前に坐っているわけではないので、調べようがありません。
すべては庵に帰ってからです。天形星という異な名前に惹かれて行ったのに、天形星が付録のような形になってしまいました。
神社の正面にはカトリック教会がありました。こちらは参道とはいいませんが、教会に到る道は道路を挟んで神社の参道と一直線に繋がっています。この教会があったために、異世界の神を祀る神社ではないか、という思いはますます強くなりました。
拝殿を背に参道を戻って行くと、前の道路を白っぽい野良猫殿がゆったりと歩いて行くところでした。チョッチョッと舌を鳴らし、バッグからミオを入れたプラスチックケースを取り出して振ってみましたが、遠過ぎて気づかなかったのかどうか、そのままトコトコと歩き去ってしまいました。
せっかく……と思ったのに、なんたるこっちゃと思って振り返ると、思わぬ方向から、こんなんが出て参りました。
早速ミオを食べてもらうことにしました。私の手のひらにくっついていた一粒が遅れて落ちて、黒野良殿の項(うなじ)のあたりに……。食べるのに懸命で気づかぬようです。
食べ終わるとしばらく私についてきて、食った食ったとばかり身体を伸ばしてみせたり、私の近くで寝転んでみせたり……。
私はまだ充分に研究を尽くしておりませんが、一匹だけで暮らしているのは♂猫ではないかと思うのです。
昨日のように暖かい日、日なたにいると極楽です。そこへ思ってもみなかったベドウィンのおぢさんが現われて、ご馳走にありつけるという余録もあるが、夜になれば、きっと冷え込むでしょう。翌朝も寒いでしょう。身をこごめ、フーッと毛を逆立てても、寒くて寒くてたまらないのに違いありません。それより何より独りぽっちで寂しくないのだろうかと思ってしまいます。
園芸農家があったので、ちょっと失礼してハウスの中を覗かせてもらいました。どれほどの広さがあって、何鉢あるのか即座には見当もつきませんが、ハウスの中はすべてシクラメンでした。
さて、庵に帰って、懸案の岩本家を調べてみました。旗本は何家ぐらいあるのか、手許には「寛政重修諸家譜」がないのでわかりません。岩本石見守をキーワードにインターネットで検索してみましたが、天形星神社がヒットするばかりで、はかばかしくありません。
諦めかけかけたところ、豊四季にある諏訪神社のホームページのうち、兼務社というページに天形星神社の境内社として石見神社が紹介されていました。
抜粋すると、
祭神岩本石見守正倫命は、甲斐の国岩下村(現韮崎市)岩本家の出にして、徳川幕府に仕え、知行二千石の岩本正利を父とし、長姉お富の方は、一橋中納言治済卿に仕えて、第十一代将軍家斉の母である。正倫は将軍の信任篤く、重職を経て寛政五年(1793年)に、小金、峯岡、佐倉三牧の取締支配に任ぜられた。三牧の支配役の際には各地で善政を施し、よって各所に報徳碑がある。長崎には文化九年(1812年)、岩本大明神の碑とともに、野々下字内宿に社殿を設けて徳をたたえた。昭和六十三年、この地を譲渡して天形星神社社殿を改築、また現在地に石見神社を新築遷座した。
と、あります。
まさしく富子の弟であったのです。
私の先祖や親類の家系というわけでもなし、大騒ぎすることでもないのではありますが……。いずれ八柱にある千葉県立西部図書館へ行って、「寛政重修諸家譜」を調べてみようと思います。
今日の残念賞。
明早戦でメイジは15対31と早稲田に完敗。知らず知らず期待が膨張し過ぎていたと気づかされました。
去年は負けた筑波に勝ち、慶応にも勝ち、完膚無きまでに打ちのめされた帝京大にも勝ち、すわ十八年ぶりの全勝対決かと思われたところ、早稲田が慶応に負けてしまいました。全勝対決が幻に終わって、メイジの諸君が残念がっていると知ったときから、コリャ、早稲田には負けるなという予感がしました。
予感どおり炎のタックルがない。
今季の戦績だけでいえば無敗のチームですが、去年は5位、一昨年は6位のチームなのです。横綱みたいな気分で構えていては、こすっからい早稲田に勝てるわけがないのだ。
でも、去年一昨年と、低迷の中でも超低迷という時期があったのにしては予想外に早く立ち直ったと、私としては満足しております。栄光の時も近い ― と思わせておいて、ズッコケルのもメイジなのではありますが……。
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