桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

栃木・蔵の街探訪記(2)

2010年08月16日 15時43分58秒 | 歴史



 八重葎の庭に移し替えた桔梗が一輪だけ開花しました。買ってきたとき(四月四日)の花が終わったあと、七月十八日につづく第三陣です。

 さて、蔵の街・栃木市探訪の〈つづき〉です。

 内陸にありながら栃木が栄えたのは、巴波(うずま)川を利した水運で、直接江戸と繋がっていたからです。同時に、日光例幣使街道の宿場町でもありました。
 この街道は中仙道の倉賀野宿(群馬県高崎市)から日光西街道の楡木宿(栃木県鹿沼市)までを結ぶ街道で、間には十四宿あり、栃木宿は十二番目の宿に当たります。

 


 蔵の街大通りは拡幅されて車の通行量も多いので、旧街道の面影はまったくありませんが、万町交番のある交差点を鍵型に曲がると、クネクネと曲がる道が北に延びています。



 二階にバルコンのついた舘野家店舗。
 いつごろ建てられたものか、何を売っていた店なのか、史料がないのでわかりませんが、石岡で見たような看板建築です。



 雰囲気のある理髪店。
 栃木では一番古い理髪店だそうですが、すでに閉鎖されています。店内には当時の理髪用具が保存、展示されていて、見学できるようですが、この日は開いていませんでした。

 

 岡田記念館。
 栃木市内屈指の旧家・岡田嘉右衛門邸です。江戸時代初期、この地に移住して荒れ地を開墾し、徳川家康じきじきに嘉右衛門新田村という名を賜り、いまでも町名は嘉右衛門町。



 畠山陣屋跡石碑。
 元禄元年(1688年)、奥高家・畠山家は都賀郡内に拝領した一千石の領地を管轄するために、岡田邸内に陣屋を構えました。岡田家当主が代官を兼ねました。

 


 翁島。
 大正時代に建てられた岡田家の別邸です。釘は一本も使われていないそうです。杉、檜、欅などの銘木が用いられ、とくに廊下には長さ六間半、幅三尺、厚さ一寸という欅の一枚板が使われています。

 


 翁島から巴波川に沿って下って行くと、薄緑色の洋館が見えてきました。栃木市役所別館です。
 栃木町(当時)は明治二十六年まで栃木県の県庁所在地でした。その跡地に建てられた(大正十年)町役場です。建物の周囲には県庁堀と呼ばれる堀が巡らされおり、巴波川から舟で乗り入れることができました。



 このあたりを入舟町といいます。町名は舟が入ってきたという名残でしょう。次の横山郷土館の荷揚げ場であったようです。

 


 横山郷土館。
 明治期の豪商の建物。両袖切妻造りといって、中央の建物(画像下)を挟んで、左右に切妻造りの石蔵があります。右半分は麻問屋、左半分は共立銀行の店舗に使われました。



 塚田歴史伝説館。
 江戸末期創業の木材回漕問屋で、ここから江戸の木場まで木材を運んでいました。八棟の白壁土蔵を遺しています。



 蔵のまち直売所。



 右から人形店、不明、紙店。

 まあ、確かに蔵のいっぱいある街でした。博物館や美術館のようになっているところもいっぱいありましたが、一つ一つ見て行くには時間が足りなかったし、入館料としておおむね五百円~七百円見当が入り用と、全部見た日には出費も莫迦にならない。
 私が写真を撮ったところだけでも、あだち好古館、山本有三ふるさと記念館、蔵の街美術館、岡田記念館、横山郷土館、塚田歴史伝承館の六館がそのたぐい。



 カフェなずな ― 。
 蔵の街大通りに出て、駅へ戻ろうと歩いていたら、こんなカフェが目に入りました。
 なずなは春の七草の一つですから、食べ物屋や喫茶店にこのような名がついていてもとくに感ずるところはなかったかもしれませんが、店名に加えて猫のシルエットがあったので、感ずるところがあってカメラに収めました。

 去年、であったか、今年になってからか。
 通りすがりのどこかで棲息する野良の仔猫殿に「なずな」という名前をつけた憶えがあります。が……ハテ、どこだったか? と思い出そうとしても思い出せない。
 市川大野のオフグ、フキ、ツワノを初めとして、新松戸の於京(おけい)まで、野良の猫殿に滅多矢鱈に名前をつけるので、いつも見る機会のあった猫殿たちは姿と名前が一致しますが、「なずな」とはどこの誰であったやら、記憶は茫漠としておりますが、こういう名をつけた憶えがあります。

 足早の探訪でありましたが、グルッと一巡りして、栃木駅に戻るまでにふと懐いた感想……。

 この街は「小京都」とも「小江戸」ともいわれています。
 いわれています、というより、そう呼んでほしいと思っているのです。
 しかし、人間に喩えるなら、有名な誰かに似ている、といわれて真底うれしいのだろうか? と、私は思います。
 若いうちなら、美人女優や美男俳優に似ているのはうれしいかもしれないし、得をすることもあるかもしれない。けれども、いつも有名な誰かに似ている、といわれつづけることは、アイデンティティがない、ということではないか。

 小京都とも小江戸とも呼んでほしがっているこの街で生まれた、山本有三の「路傍の石」に次の有名な言葉があります。
「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない人生を……」

 蔵のあることが、たとえば江戸の蔵前あたりと似ているので、「小江戸」というのであれば、それは全然違う。歴史を感じさせる巴波川が、京都の鴨川を思い起こさせるので、「小京都」と呼んでほしい、というのであれば、これも全然違う。
 よそ者だから思うのかもしれません。私は栃木は栃木であり、小さな京都でも、小さな江戸でもない、と思うのですが、どうでしょうか?

 帰りは東武線で新越谷へ出て、武蔵野線に乗り換え、南越谷~新松戸~北小金と乗り継いで帰ってきました。
 武蔵野線の南越谷~越谷レイクタウンの間で夕暮れの富士山を見ることができました。夏に見えるのは非常に珍しいことです。


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