ゴマシオ頭にしゃくれたアゴ。八の字眉が細い目に垂れ下がり、時折、小柄な体を大きく揺すりながら笑うと、真っ黒に日焼けした顔がクシャクシャになる。ねじり鉢巻き姿で、刻み煙草を長いキセルに詰め、手のひらに落とした火を器用に着け、いかにもうまそうに煙をくゆらすがさまになっていた。
善良でちょっと間の抜けたお人よしのこの老漁師を人々は、親しみを込めて「徳ドン」と呼んでいた。
この「徳ドン」実は私にとってはとても大切なお人であったのだ。
なぜならば、当時小学校生であった私に、釣り鈎の結び方から、小舟の操り方まで、まさに文字通り手取り足取り海釣りに関するノウハウ一切を、教えてもらった「お師匠様」であって、私は畏敬の念をもって「徳爺や」と呼び、慕っていたのである。
熊本県南、芦北郡から水俣へ至る海岸は典型的なリアス式海岸で、複雑に入りくんだ入り江が多くなっている。
その海岸線の中ほどに、U字の下方を大きく膨らましたような、大きな入り江がある。三方を切り立った山に完全に囲まれ、ほとんど平地はなく、隣の集落とは山で遮断されており、村人は鉄道のトンネルを利用して行き来をしていた。
U字の下辺の当たるところが美しいなぎさになっていて、山懐にへばりつくように二百戸ばかりの家が建ち並んでいた。正面には不知火海をはさんで天草の島々が遠望された、風光明媚で長閑なゆっくりとした村のたたずまいであった。
「徳爺や」の家は、村の中央部の最も山が海にせりだした海と山の狭間にあった。
六畳三間古びたわらぶきのとま屋で、土間や庭には所狭しと色んな漁具が積んであり、家の前にはリヤカーがやっと通れる位の細い道で、道下には小石混じりの砂浜が広がり、緑の松とともに美しい渚が弓状に走っていた。
村人の話によると、この海はすり鉢状のドン深で、藻場が多く、色々な魚の産卵場所になっているとのことだった。
事実、秋近くになるとヒタヒタと波打つ渚には、五~十センチ位のチヌゴやタイゴが無数に群れており、腰まで海に入り、足で砂をかき混ぜて濁りを出せば、チヌ独特のツーツーとした泳ぎで、手の平を超す四、五匹のチヌがすぐに寄って来るといった状態が日常的に見られた。時にはクロの集団がワーッと湧きあがって乱舞するも良く見られ、海が時化た後では大型のミズイカが生きたまま浜に打ち上げられており、それを朝早く拾いに行ったものである。
小学校に勤める父の転勤で、この村に住むようになったのは、日米開戦の前年であった。それまで山村地区に住み、川釣りばかりをやっていた私にとって、海の風景はとても新鮮で、海釣りの技を磨く恰好のステージとなったのである。
家が近い関係で「徳爺や」とはすぐ仲良しになり、いつも家に呼ばれては囲炉裏を囲みながら、鈎談議をしてもらったものである。道具の作り方や仕掛け、海に関するあらゆる知識、潮の読み方、ポイントの選定、実際海に出ての実技指導など、学校の勉強よりはるかに面白く、次第にのめり込んでいったのである。
チヌ釣りもその中の一つであった。
この海で多くのチヌを釣ったが、竿釣りの記憶は全くない。すべて海に入りながらのニゴシ釣りである。
仕掛けは至って簡単。今様に言えば、ハリス一~二号を約一ヒロ、渋柿で染めた道糸を木製の糸巻き、
鈎は二~三号、エサは渚で採れるヤドカリを使った。パンツ一つで海に入り、腰から胸までの深さで、両足または片足を使い海底をかき混ぜて濁りを出し、仕掛けを確実にその中に落とした後、糸を送りながら岸に引き返し、右の人指し指で糸をもち、アタリを待つのである。
アタリは指先にジワーッと来るので、そのときは抵抗のないように糸を送り、次のアタリでピシャとアワせる。それが唯一のコツであった。かけた後は、チヌの大きさにもよって両手の弾力をうまく使いながら、取り込みをするのであるが、キロ近くになるとスリリングなやり取りにになる。最初の頃は取り込みを焦り、かなりのバラシがあった。
続く・・・。
上記の文は、釣りが大好きだった親父が1992年の1月号の釣り雑誌「釣春秋」に投稿した文章。
何度も投稿し掲載されているうちの一つだ。
親父の釣りの原点だろう。
親父が小学生時代に「徳爺や」と暮らした海辺の町(芦北町海浦)に行ってみた。
写真を撮った。
その頃の風景とはずいぶん変わったのだろうが、不知火海の先に見える天草諸島の風景は変わっていないはずだ。
善良でちょっと間の抜けたお人よしのこの老漁師を人々は、親しみを込めて「徳ドン」と呼んでいた。
この「徳ドン」実は私にとってはとても大切なお人であったのだ。
なぜならば、当時小学校生であった私に、釣り鈎の結び方から、小舟の操り方まで、まさに文字通り手取り足取り海釣りに関するノウハウ一切を、教えてもらった「お師匠様」であって、私は畏敬の念をもって「徳爺や」と呼び、慕っていたのである。
熊本県南、芦北郡から水俣へ至る海岸は典型的なリアス式海岸で、複雑に入りくんだ入り江が多くなっている。
その海岸線の中ほどに、U字の下方を大きく膨らましたような、大きな入り江がある。三方を切り立った山に完全に囲まれ、ほとんど平地はなく、隣の集落とは山で遮断されており、村人は鉄道のトンネルを利用して行き来をしていた。
U字の下辺の当たるところが美しいなぎさになっていて、山懐にへばりつくように二百戸ばかりの家が建ち並んでいた。正面には不知火海をはさんで天草の島々が遠望された、風光明媚で長閑なゆっくりとした村のたたずまいであった。
「徳爺や」の家は、村の中央部の最も山が海にせりだした海と山の狭間にあった。
六畳三間古びたわらぶきのとま屋で、土間や庭には所狭しと色んな漁具が積んであり、家の前にはリヤカーがやっと通れる位の細い道で、道下には小石混じりの砂浜が広がり、緑の松とともに美しい渚が弓状に走っていた。
村人の話によると、この海はすり鉢状のドン深で、藻場が多く、色々な魚の産卵場所になっているとのことだった。
事実、秋近くになるとヒタヒタと波打つ渚には、五~十センチ位のチヌゴやタイゴが無数に群れており、腰まで海に入り、足で砂をかき混ぜて濁りを出せば、チヌ独特のツーツーとした泳ぎで、手の平を超す四、五匹のチヌがすぐに寄って来るといった状態が日常的に見られた。時にはクロの集団がワーッと湧きあがって乱舞するも良く見られ、海が時化た後では大型のミズイカが生きたまま浜に打ち上げられており、それを朝早く拾いに行ったものである。
小学校に勤める父の転勤で、この村に住むようになったのは、日米開戦の前年であった。それまで山村地区に住み、川釣りばかりをやっていた私にとって、海の風景はとても新鮮で、海釣りの技を磨く恰好のステージとなったのである。
家が近い関係で「徳爺や」とはすぐ仲良しになり、いつも家に呼ばれては囲炉裏を囲みながら、鈎談議をしてもらったものである。道具の作り方や仕掛け、海に関するあらゆる知識、潮の読み方、ポイントの選定、実際海に出ての実技指導など、学校の勉強よりはるかに面白く、次第にのめり込んでいったのである。
チヌ釣りもその中の一つであった。
この海で多くのチヌを釣ったが、竿釣りの記憶は全くない。すべて海に入りながらのニゴシ釣りである。
仕掛けは至って簡単。今様に言えば、ハリス一~二号を約一ヒロ、渋柿で染めた道糸を木製の糸巻き、
鈎は二~三号、エサは渚で採れるヤドカリを使った。パンツ一つで海に入り、腰から胸までの深さで、両足または片足を使い海底をかき混ぜて濁りを出し、仕掛けを確実にその中に落とした後、糸を送りながら岸に引き返し、右の人指し指で糸をもち、アタリを待つのである。
アタリは指先にジワーッと来るので、そのときは抵抗のないように糸を送り、次のアタリでピシャとアワせる。それが唯一のコツであった。かけた後は、チヌの大きさにもよって両手の弾力をうまく使いながら、取り込みをするのであるが、キロ近くになるとスリリングなやり取りにになる。最初の頃は取り込みを焦り、かなりのバラシがあった。
続く・・・。
上記の文は、釣りが大好きだった親父が1992年の1月号の釣り雑誌「釣春秋」に投稿した文章。
何度も投稿し掲載されているうちの一つだ。
親父の釣りの原点だろう。
親父が小学生時代に「徳爺や」と暮らした海辺の町(芦北町海浦)に行ってみた。
写真を撮った。
その頃の風景とはずいぶん変わったのだろうが、不知火海の先に見える天草諸島の風景は変わっていないはずだ。