十八番の銅線に木切れを直角に結びつけ、釣ったチヌのエラから刺して泳がせ、数が増せば、さらにひもをつけて大きな石にくくりつける等、色んな工夫をしたものである。
食いが立っている時は、岸に戻る途中でアタる事があり、釣ったチヌ共々泳ぎながら岸にたどり着くこともしばしばあった。とにかく、この方法で面白いように型の良いチヌを数多く釣り上げたが、さらに大きなチヌを求めて沖目を狙うようになった。
入り江の南側に小川があって、その打ち出しの沖を「徳爺や」の舟で通った時『ここには太かチヌのおるバイ』と「徳爺や」が言った言葉がしばらく私の頭から離れなかった。
ある日曜日、ボラ釣りに連れて行ってもらった。舟からのボラ釣りはイカリを打って舟を固定し、ハリをたくさんつけた仕掛けに練りエサを盛ったいわゆる「吸い込み釣り」である。
「徳爺や」にこの練エサの作り方を教えて欲しいと言ったら
『これは秘密じゃかなナ、どうしても教えられんばい』
と堅く拒否された。
その夜、夕食を済ませてから、ソッと「徳爺や」の家をのぞいたら、エサを練っているところであった。
『お前、何に使うんじゃ』
と聞くので
『これでチヌを釣ろうと思うとる』
と答えた。
『これじゃチヌは食わんゾ』
と打ち出しの事を相談すると
『そんならやってみい』
ということになり、やっと練りエサの材料とその配分の仕方を教えてもらい、出来上がった練りエサを半分もらう事に成功した。
翌日、それを使って、例の打ち出しを攻めてみたが、以外に水深があり思うようにいかない。何度やっても、練りエサのダンゴを落とした位置と、仕掛けを落とした位置が大きくずれてうまくいかないのだ。最後には潜ってダンゴのそばに仕掛けを落としてみたが、流れのためにどうしても駄目だった。
その夜、「徳爺や」に再び教えを乞うた。
『仕掛けをダンゴで包めばどうじゃろう』
練りエサを野球ボール大のダンゴにして、ヤドカリをつけたハリを包み込み、水中メガネで確認しながら落としてみた。かなりの水深であるが、小さな濁りを出して、かけ上がりの根にうまく着底したようである。
しかし、岸に上がってアタリを待ったが、なかなかアタリは来ない。
ボラのように、うまく練りエサを吸い込むのか、あるいはこのダンゴにチヌが寄るのか、迷っていたところに、不意を突く大きなアタリが来た。チヌの二段引きなんてものではなかった。
立ち上がって取り込みにかかるが、引きが強くて寄ってこない。そうこうするうちにパッと軽くなってしまった。かけ上がりの石に擦れて、道糸が切られたのだ。
夜、いろいろと考えた。
結論はウキを中通しのフリーにして、道糸を浮かせたらということになった。
早速、ウキを作り、この方法で挑戦した。何度も失敗を繰り返し、キロを超えるチヌを仕留めた時の感激は、格別のものであった。
春、海辺の桜の開花は早い。早朝の浜を歩いていたら、「徳爺や」が舟を出そうとしていた。
『今からハエナワを上げに行くが、お前も一緒に行かんか』
と誘うので、ついていく事にした。
ハエナワ漁は数百メートルもある幹糸に多くの枝バリを付け、シャコやエビ等の餌を刺して、海底に仕掛けを這わせる方法であり、夕方遅くに仕掛けを入れて、朝早くに取り込みをする。
漁場に着くと、私がろをこぎ、「徳爺や」が次々に取り込んでいく。その朝は大チヌが数えきれないほどヒットしていた。
『ウーン、今日は大漁じゃネ』
と言うと、大きくうなずきながら、満面クシャクシャである。
取り込みを終えて、舵先をわが家の方に向け、こぎ出そうとすると、大きな声で
『ちょっと待たんかい』
と言う。
『今から何ばするとネ』
と聞き返したら、一方のイケスからチヌを一匹出して
『ここに来てみろ。このチヌは何か分かるかい、よう見てみい。腹太チヌじゃ。この海に卵ば生みに来た大事なからだじゃゾ。うんと良か卵ば産んでもらわにゃいかんとタイ』
と説明する。
ろを操りながら気がついていたのだが、魚を取り込む時に魚体を見ながら、二つのイケスに仕分けをするように入れていた理由がこの時初めて分かった。
タモでチヌを一匹一匹すくっては
『こいつは一貫メなしじゃナ』
『おーっ、こいつは一貫メあるぞうー』
と独り言をブツブツ言いながら、いたわるように腹太チヌを海に返している「徳爺や」の姿を見て、少年期後半に差しかかっていた私は、いい知れぬ感動を覚え、胸が熱くなっていた。
進学のため、その年に村を離れた私は、父の転勤もあって、その後再び「徳爺や」に合う事はなかった。しかし、今自分がその年齢に達し「徳爺や」のことがたまらなく懐かしく思い出され、今年八月末、車を走らせて久ぶりにその地を訪れてみた。
当時、自動車一台もなかった村は三号線が村の中央を走り、車があふれていた。わらぶきのとま屋は跡形もなく、敷地は埋められ、海岸線は高いコンクリート擁壁で固められて、広々とした道を大型車が唸りをあげて走っていた。
松の緑はすでになく、ただ昔と変らぬ渚だけをヒタヒタとさざ波が濡らしていた。
階段を降りて波打ち際を歩いてみたが、小魚が波と戯れる姿は全くなく、ズボンを脱いで海に入り、底を濁してみたものの、チヌゴ一匹も寄ってこなかった。
台風が九州西岸をかすめた後であったが、浜には水イカの代わりに無数のゴミが打ち上げられ、寂寥(せきりょう)の風景がそこにあった。
1992年 寿々木 誠吾
寿々木誠吾とはもちろんペンネームだ。魚のスズキとセイゴから名前をもらったといっていた。
1992年というとちょうど20年前だ。親父も定年退職して釣りに没頭していた時代だ。そんな父も今年7月16日に他界した。海の日だった。潮が引くように亡くなった。そして今日は、生きていれば85回目の誕生日。
食いが立っている時は、岸に戻る途中でアタる事があり、釣ったチヌ共々泳ぎながら岸にたどり着くこともしばしばあった。とにかく、この方法で面白いように型の良いチヌを数多く釣り上げたが、さらに大きなチヌを求めて沖目を狙うようになった。
入り江の南側に小川があって、その打ち出しの沖を「徳爺や」の舟で通った時『ここには太かチヌのおるバイ』と「徳爺や」が言った言葉がしばらく私の頭から離れなかった。
ある日曜日、ボラ釣りに連れて行ってもらった。舟からのボラ釣りはイカリを打って舟を固定し、ハリをたくさんつけた仕掛けに練りエサを盛ったいわゆる「吸い込み釣り」である。
「徳爺や」にこの練エサの作り方を教えて欲しいと言ったら
『これは秘密じゃかなナ、どうしても教えられんばい』
と堅く拒否された。
その夜、夕食を済ませてから、ソッと「徳爺や」の家をのぞいたら、エサを練っているところであった。
『お前、何に使うんじゃ』
と聞くので
『これでチヌを釣ろうと思うとる』
と答えた。
『これじゃチヌは食わんゾ』
と打ち出しの事を相談すると
『そんならやってみい』
ということになり、やっと練りエサの材料とその配分の仕方を教えてもらい、出来上がった練りエサを半分もらう事に成功した。
翌日、それを使って、例の打ち出しを攻めてみたが、以外に水深があり思うようにいかない。何度やっても、練りエサのダンゴを落とした位置と、仕掛けを落とした位置が大きくずれてうまくいかないのだ。最後には潜ってダンゴのそばに仕掛けを落としてみたが、流れのためにどうしても駄目だった。
その夜、「徳爺や」に再び教えを乞うた。
『仕掛けをダンゴで包めばどうじゃろう』
練りエサを野球ボール大のダンゴにして、ヤドカリをつけたハリを包み込み、水中メガネで確認しながら落としてみた。かなりの水深であるが、小さな濁りを出して、かけ上がりの根にうまく着底したようである。
しかし、岸に上がってアタリを待ったが、なかなかアタリは来ない。
ボラのように、うまく練りエサを吸い込むのか、あるいはこのダンゴにチヌが寄るのか、迷っていたところに、不意を突く大きなアタリが来た。チヌの二段引きなんてものではなかった。
立ち上がって取り込みにかかるが、引きが強くて寄ってこない。そうこうするうちにパッと軽くなってしまった。かけ上がりの石に擦れて、道糸が切られたのだ。
夜、いろいろと考えた。
結論はウキを中通しのフリーにして、道糸を浮かせたらということになった。
早速、ウキを作り、この方法で挑戦した。何度も失敗を繰り返し、キロを超えるチヌを仕留めた時の感激は、格別のものであった。
春、海辺の桜の開花は早い。早朝の浜を歩いていたら、「徳爺や」が舟を出そうとしていた。
『今からハエナワを上げに行くが、お前も一緒に行かんか』
と誘うので、ついていく事にした。
ハエナワ漁は数百メートルもある幹糸に多くの枝バリを付け、シャコやエビ等の餌を刺して、海底に仕掛けを這わせる方法であり、夕方遅くに仕掛けを入れて、朝早くに取り込みをする。
漁場に着くと、私がろをこぎ、「徳爺や」が次々に取り込んでいく。その朝は大チヌが数えきれないほどヒットしていた。
『ウーン、今日は大漁じゃネ』
と言うと、大きくうなずきながら、満面クシャクシャである。
取り込みを終えて、舵先をわが家の方に向け、こぎ出そうとすると、大きな声で
『ちょっと待たんかい』
と言う。
『今から何ばするとネ』
と聞き返したら、一方のイケスからチヌを一匹出して
『ここに来てみろ。このチヌは何か分かるかい、よう見てみい。腹太チヌじゃ。この海に卵ば生みに来た大事なからだじゃゾ。うんと良か卵ば産んでもらわにゃいかんとタイ』
と説明する。
ろを操りながら気がついていたのだが、魚を取り込む時に魚体を見ながら、二つのイケスに仕分けをするように入れていた理由がこの時初めて分かった。
タモでチヌを一匹一匹すくっては
『こいつは一貫メなしじゃナ』
『おーっ、こいつは一貫メあるぞうー』
と独り言をブツブツ言いながら、いたわるように腹太チヌを海に返している「徳爺や」の姿を見て、少年期後半に差しかかっていた私は、いい知れぬ感動を覚え、胸が熱くなっていた。
進学のため、その年に村を離れた私は、父の転勤もあって、その後再び「徳爺や」に合う事はなかった。しかし、今自分がその年齢に達し「徳爺や」のことがたまらなく懐かしく思い出され、今年八月末、車を走らせて久ぶりにその地を訪れてみた。
当時、自動車一台もなかった村は三号線が村の中央を走り、車があふれていた。わらぶきのとま屋は跡形もなく、敷地は埋められ、海岸線は高いコンクリート擁壁で固められて、広々とした道を大型車が唸りをあげて走っていた。
松の緑はすでになく、ただ昔と変らぬ渚だけをヒタヒタとさざ波が濡らしていた。
階段を降りて波打ち際を歩いてみたが、小魚が波と戯れる姿は全くなく、ズボンを脱いで海に入り、底を濁してみたものの、チヌゴ一匹も寄ってこなかった。
台風が九州西岸をかすめた後であったが、浜には水イカの代わりに無数のゴミが打ち上げられ、寂寥(せきりょう)の風景がそこにあった。
1992年 寿々木 誠吾
寿々木誠吾とはもちろんペンネームだ。魚のスズキとセイゴから名前をもらったといっていた。
1992年というとちょうど20年前だ。親父も定年退職して釣りに没頭していた時代だ。そんな父も今年7月16日に他界した。海の日だった。潮が引くように亡くなった。そして今日は、生きていれば85回目の誕生日。