打越通信

日記ふういろいろ

休日の過ごし方

2015-02-07 20:54:39 | 日記ふう
土曜日曜と祭日は病院は休みになる、回診も無いわけで当然診察も無い。
例のごとく外出届を出し(でもスタッフ詰め所ではまたか!ってな感じだ)冷たい視線を看護士に向けられながら病棟を出て病院を抜け出し、人参畑が続くあぜ道を歩くのだ。
広大な畑から一気に風景は変わり新興住宅街になる。
真新しい家が続く中を、上下黒色の防寒服に同じく黒の手袋に白のランニング用の帽子といった感じだ。
マスクまでしているので、どこらかで小学生が殺された事件の犯人のような怪しい人に間違えられるのかも知れないと思いながら、ミスドを目指す。
しかしどこで道を間違えたのかミスドが見当たらないのだ。
右手は痛いし、着替えの入ったリックがその痛い右手を圧迫しさらに痛いのだ。
ケータイがなり、妻からもうミスドに着いたと連絡があった。
通り過ぎていたようで、来た道を戻りやっと妻と合流した。
コーヒーを2杯飲み、初めてクルマを運転した。
運転していて気付いたが、インパネに時計が無いのだ。
妻とそういう話をしていると買いに行こうと街中に行った。
無印良品が目的だったがクルマの中に置ける小型の時計は無かった。
上通りを歩く、歩くと体が振動する、すると右手の付け根辺りから右手全体に痛みが走るのだ。
昼飯何を食うか、妻に振るが答えは何でも良いよとしか帰ってこない。



右手の痛みに耐えながら目の前にお好み焼き屋の看板が出ていたのでそこに入った。
時間はまだ昼食には早い時間だったがお店はほぼ満席に近かった。
私たちが最後に席に着き、後からの人は名前を書いて行列に並ぶ。
壁にかかったメニューを見て、特別メニューのようなものがありC(魚介類)のお好み焼きにした。
妻は肉焼きそばを頼んで、店で焼いて出してもらうように注文をしていた。



右手が痛い私に代わって、妻が出て来た具材をかき混ぜて焼いている。



その間に焼きそばが出来上がり、鉄板の上に置かれた。
海苔に鰹節、マヨネーズをかけ食べる。



痛みも忘れ箸が進む。
お好み焼きと焼きそば食って、家に戻りソファーで一時間ばかりゆっくりとして病院へ戻ったのだ。

落し物

2015-02-06 20:35:01 | 日記ふう
昨日は夜八時過ぎから眠たくてしょうが無かった。
同室のおしゃべりのオヤジにもイヤホンを耳にテレビを見るふりして返事もしなかった。
実はその前日の夜、そうだ2時半(夜中)頃にあまりに痛くて目が覚めてしまったのだ。
右手の筋を痛めてしまってもう3週間を過ぎた。
最初は肘から手首辺りに痛みが出て、食事もままならない状態で左手でスプーンを持って食事をしてた。
していたといっても今も痛みが激しいときは左手で食っている。
人間っていざ食事となるとなんとかなるものだ、3週間以上そういう状態なのですっかり慣れてしまった。
だんだん痛みも取れてその夜は痛み止めの薬を飲まずに寝てしまったのだ。
いざという時に備えてナースセンターで薬はもらっていたのだが、夜中の2時半に痛みが出て、薬を飲んだが効き始めるまで30分くらいかかるので、すぐには眠りにつけず、起床はいつも通りの5時半だったのだ。
つまり昨日は朝から睡眠不足状態で一日ボーっとした状態で過ごしたのだ。
おまけに木曜日の午前中は近くの温泉に行く日と決めている。
一緒に行っていた脚の悪いオヤジは、病院から外出許可が出ないため行くことは出来ない。
帰棟の時間があるので風呂には30分程度しか浸かれないし、着替えも右手の痛みでままならない。
時間がかかるし新しい下着との交換も必要だし、時間との戦いなのだ。
病室に戻りジュースでも買おうとジャンパーのポケットに入れたくまモンの小銭入れを探すが無いのだ。
確か入浴料を買うときその小銭入れから出したので、多分脱衣場でポケットからこぼれたのだろう。
朝から散歩がてら物産館の中にある温泉の受付に行き状況を説明した。
なんと落し物としてフロントに預けられていたのだ。
なんとも嬉しいことなのだ。
しばらく公園のベンチに座り、本でも読もうと思ったがリックを忘れてしまった。
立春の過ぎたというのに朝夕はとても寒い。



でも日中は太陽の日差しを浴びてポカポカだった。
しばらく公園に座り親子で遊んでいる情景を見ながらゆっくりとした時間を楽しんだ。

あか牛丼

2015-02-04 20:17:08 | 食事
40分ほどてくてく歩いてミスドに入る。
「とんび」も最終章に入り、あと数ページになった。
2杯目のコーヒーを注ぎに店員さんが来てくれ、2杯目を半分くらい飲んだところでクラクションが鳴った。
鳴った方向に目を移すと白い新車に嬉しそうな顔が見えた。
午前は完全にフリーの時間、だから昼は外で食べれば4時間半ほどの時間が作れるのだ。
新しいクルマの助手席に座り、どこに行こうか2人で悩んだ。
「内牧のいまきん食堂に行こうよ」
と妻が言うのでそれで決まりだ。
前回行ったときは2時間待ちということで断念したところだったので、平日のこの時間(ミスドを10時半)だったら空いているかも知れない。
大津町を旧道に沿って阿蘇を目指す。
運転を代わろうと言うが<私のクルマ>ということで妻のテンションはかなり高い。
国道57号線に入り、目の前には噴火が続く中岳が見える。
立野を過ぎ赤水から内牧温泉への道に入る。



近くで見る噴煙はかなり高いところで西からの風で大きくたなびいている。
内牧温泉街に入りいまきん食堂の駐車場にクルマを置き食堂に入る。



店の中は意外と狭く、普通のどこにでもあるような食堂だった。



店内には懐かしいLPレコードとプレイヤーが置いてありその音楽が流れていた。
この時間(11時半くらい)でもあいている席は2つくらいしかないのだ。
なんとか席は確保でき、妻がメニューも見ずに<あか牛丼、2つ>などと言っている。



メニューをみるとあか牛丼とちゃんぽんや数種類しかないのだ。
あか牛丼は1360円と少し高い気がするがせっかくだから頂くことにした。
2階にも席があるようで店員さんが運んでいるのはどんぶりなので多分あか牛丼だろう。



少し待たせれて出て来たどんぶりを見てビックリ、10切れ以上はあるあか牛の肉だ。
さあ食え!と言わんばかりの丼だ。
最初は肉を一切れ食ってみた。
口の中でじわりと肉汁が出てくるようで旨いのだ。
次に真ん中の温泉玉子を割りそれとご飯を食うと玉子かけご飯だ。
あか牛の肉にわさびを少し乗せ頂くと、これまた絶品の味だった。
2人で無言で食う。
ご飯には肉味噌らしきものがあり、これがまたあか牛肉とご飯にあうのだ。
食べ方を工夫すれば何種類かの味が頂ける。
味噌汁のお替りは出来ないのだろうか、と妻に言うと笑っていた。
それだけ味噌汁もたいした味なのだ。
満足して店を出たら、平日だというのに行列が出来ている。
さすがにあか牛丼、また食べようと思わせる味だった。

新しいクルマ

2015-02-03 19:40:35 | 日記ふう
新水俣からの帰り、新幹線で熊本駅に着き、ケータイで妻に連絡を入れると駐車場にいるという。
駐車場に行くと妻と息子が乗った白いクルマが目に止まった。
私が入院中に妻が息子を連れて見に行き気に入ったクルマだ。
以前乗っていたクルマは1月29日を最後に下取りに持っていかれたため、しばらくの間は代車だった。
そのクルマは軽だったが新車のようで内装もなかなかだったし、後部座席も広く、後部のドアはスライド式のヤツでボタンを押すと自動ドアのように開閉するのだ。
しかも信号などで停車するとエンジンが自動で止まるアイドリング・ストップなど装備していた。
病院から自宅までの往復に助手席に乗ってみたが、これが軽なのかという走りと快適さだった。
ただタイヤが小さいからか車重が軽いせいか知らないが、路面のデコボコをもろに拾うのが気にかかった。
そして今日、契約した白色のコンパクトカーなのだ。
私が入院している間にパジェロioの車検を通すか新しいクルマに買い換えるかいろいろと話し合った。
妻と息子は現在売り出しているクルマの雑誌を何冊か買ってきてくれ、検討しようとしたが、これが欲しいというクルマは無かった。
ただ、できれば男心をくすぐるようなクルマが欲しいとおぼろげながら考えていた。
しかしそんな思いもどこかに吹きとばすような妻の懇願が始まったのだ。
グレードの中にスタイルというのがあって、基本車に16インチのアルミホイールやハンドルにクルーズコントロールやパドルシフトがついていたりフロントがUVカットのガラスだったり付いた特別仕様のクルマだった。
ナビやマットなどのオプションをつけた見積もりなどを見せてもらった。
「君が好きなクルマを選べばいいよ」
と言ったのが本格的になってきた感じでヤバイと思った。
男なら絶対に選ばないクルマだ、せっかく息子がついて行きながら何でこんな選んだのか理解に苦しんだ。
ただし条件をつけた、色は白(ホワイトパール)、ナンバーは今までと同じナンバー。
それで病院を抜け出して試乗してみた。
スタイルとかは別にして、走りは良いしハンドリングもなかなかなモノだった。
契約時にさらに値引きをいれ、ETCまで付けてくれたクルマなのだ。
早速、自宅への帰り藤崎八幡宮へ安全祈願のお払いを受けに行った。
私も息子も冷めた感じだったが、妻だけは最高潮の上機嫌だった。
まあ、妻が喜べばそれで良しとしよう。
でもまだ私にはハンドルを握らせてくれないのだ。

外出

2015-02-02 16:42:00 | 日記ふう
昨日は疲れた。
朝から明日(日曜日)の事を看護士に伝えた。
明日は告別式に出席するので、昼食と夕食を止めたい。
しかしなかなか院側からの返答が無い。
昼食時にも看護士と話をするが主治医との連絡が取れないと言う。
夕食後、行動予定表(病院から熊本駅まで妻の送り迎え、何時の新幹線に乗るなど)を作っているとき、看護士がやってきて我が妻に連絡し確認が取れたそうだ。
それで初めて許可がおりた、なんとも情けない話だ。

さて当日は朝の8時半ちょうどに妻が迎えに来た。
今日は2つの事が重なり、私は実家の近くにある葬儀会場へ、妻と息子はあるものの受け取りに行く。



上熊本駅前を通ると、在来線の高架事業が進んでいて、新しい駅が完成間直だった。
確か3月には高架の上を在来線が行き来する予定だったと思う。



久しぶりの熊本駅、そして新幹線、新幹線で博多まで通勤していた以来の熊本駅の新幹線のホームだった。
9時47分の下りのさくらだった。
25分で新水俣駅に着く。
そこからは葬儀会場までは歩いて15分程度、式場には10時半には着いた。
受付を済ませ式は滞りなく進み、喪主の幼馴染の挨拶だった。
ご母堂様(享年90歳)の母の話を落ち着いた様子で坦々と語っていた。
式が終わり、実家の近所の人たちと状況の交換だ。
入院していると言うとビックリした様子で、暮れから正月も病院生活だったことを報告したら、皆さんビックリしていた。
会場から実家まで歩く途中にファミレスがあり、そこで食事をする。
右手が痛むためカレーにし、起用に左手でスプーンで頂く。



実家に様子見に帰ると、庭は勢い良く伸びた草が枯れて哀れな状況、鍵を開けて仏壇に手を合わせ、室内をチェックする、異常が無いことを確認し時計を見るとちょうど良い列車がある。
実家には5分もいなかったようだ、急いで新水俣駅に行きキップを買いホームへ駆け上がる。



13時27分の新幹線で熊本駅へ到着した。
妻と息子が迎えに来ていて自宅に戻り、喪服から普段着に着替え、父と母の遺影に今日の報告をし予定通り帰棟した。

入院中の生活と違い、水俣までの新幹線(片道25分の旅)、熊本駅での待ち時間、実家の状況確認などでかなり疲れが出たのだろう。
右手の痛み(鎮痛剤で解決)もあり疲れているのに、同室の話好きのおっさんは容赦しない。
いい加減にして欲しかったが眠薬を飲んでさっさと眠りについたわけだ。

わずか25分の実家までの距離、何ヶ月かぶりなのに懐かしく感じた。