*1)、今期の国立博物館・平成館での田中一村展で、なぜ、田中一村が芸大をやめたかの話が出てくるかどうかは、疑問がある。田中一村にとって、それが、マイナスになると、主催者が、考えれば、あいまいにされる可能性が高い。
しかし、私が想像するに、教官のひいきがあり、そのひいきの目は、豊かな家の子息たちに向けられていたと、考える。一村の父親の職業、仏師というのは、明治政府の方針(廃仏毀釈)で、すでに浮かばれない職業となっていた。で、一村がこれから先、富裕になる可能性はないと、みなされていたのだろう。。。。。
ウィキペディアでは、こう書いてある。
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- 1926年 - 東京市港区の芝中学校を卒業する。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾らがいる。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。:::::::::
NHK 日曜美術館によると、最近、各家庭に、一点とか数点という形で、保存をされていた田中一村の作品が、千葉県美術館に集合しているそうで、その作品人生が、とても、充実してきていると、見える。気の毒な人生を送ってきた天才に、光が当たって、うれしいと思う。
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*2)、ここで、文体を変えて、私は、自分のことを弁明します。
それはね。父が、旧制中学の美術教師から、「君は、お父さんが早くなくなっていて、お兄さんに面倒を見てもらっているのだから、美校(今の芸大)にすすんではだめだよ。食えないから、卒業後もお兄さんに面倒を見てもらってはダメだろう?」と、言われたので、美校受験をあきらめて秋田鉱山専門学校へ入ったと、語ってきています。
その秋田鉱専が、明治や、大正生まれの男子にとっては、魅力的な大学(専門学校だが、校長は、ぜひ大学にと懇願したが、文部省が、単科大学を認めなかった)で、隈研吾氏の、父君=「三菱マテリアル勤務」も絶対にここを卒業している筈で、・・・・・それが、隈研吾氏の母君には、癪の種であり・・・・・ というのも頭がいいし、立派な家の育ちなのに、東大卒の人に負けるからです。どうしても東横線沿線に住んでいる様な奥様連中にとって、秋田鉱専は、聞きなれぬ名前だからです。で、隈研吾氏の母君は、子供が絶対に東大を卒業する様に努力をした人で、それが、隈研吾氏の、二重性格を生んだと、考えているから、東大へ入学させる母親のあれこれについて、分析していきたいからです。
わたくしの母は絶対に父を、秋田鉱専卒ゆえに、いじめたり、阻害したりは、しませんでしたよ。でも、私は、隈研吾氏の母君と同じく、もっと、ブランド力の高い名前の大学を卒業してくれていたらよかったなあと、考えた時はあります。だから、隈研吾氏の母君の、田園調布小学校への越境入学もよくわかるのです。
しかし大卒新卒時に、いろいろな偶然が重なって、私は東大へ勤務することとなります。教授の秘書みたいな役目で、入所するのですが、
入所した後で、教授が、(私が)、非常に頭がよいということを認めてくださって、教務職(末は、東大教授にまでなれる種類の職種)に、入れて下ったのでした。でも、私は、自分は東大卒ではないし、博士号や、修士号を取っているわけではないから、いずれ、辞めなくてはいけないだろうと、感じていました。事務職ではない。だから、かえって長続きはできないのです。いわゆる職場の花みたいな立場です。
ただね。そういう不安定な立場であっても、自分の人間的な本質は失わないので、・・・・・今、思うと、勇敢至極ですが(苦笑)・・・・・教授が間違っておられると、思うことには、「先生、こういう風になさった方が、長いめで見たら、得だと思います」と、ことあるごとに申し上げていたから、「この子は誠実で、かつ、頭がよい」と、認めてくださっていったのです。
ただね。わたくし自身は、教授がどんなにほめてくださっても・・・・・というのは結婚退職しなければ、将来東大教授に必ず、なれるよ。あんたはね。思いがけず、統合力があるからね。現在の東大は、入試があまりに難しくなったので、分析の能力は高いが、演繹とか、統合の能力が低いのだ。それにあんたには、いささかの政治力もあるからね・・・・・と、言っていただいても、・・・・・有頂天になることはなく、・・・・・私は、ここではよそ者だ・・・・・と、言う意識は失うことはなかったのです。
で、一番下手の人として、その意識も崩さないでいながらも、その60年後の、今では、このブログとNHKニュースとの関連を詳細に、分析すると、自分の、入力一つで、世界ニュースを左右するほどの人になっているわけで、当時から、頭は良くて、冷静なので、修士号を取って、次の職場を待っている方とか、博士号をとったうえで、次の職場を求めている方が、どうなっていくかを、ひそかに観察をさせていただき、世の中の本当のところがどうなっているかを、知ることとなります。
結局明治以降、東京在住であり、広いお屋敷を持ち、父親が、社会的地位が高い人が、最終的に東大教授になっていきます。つまり、東大教授って、現在の日本社会の地位としては頂点だと、言うことです。国会議員なんて、競争相手ではないと、言うほどの、優位な席です。そして、建前と本音があり、内心で、どんなに高い自負を持っていても、結局は親次第で、決まるということです。祖父が経団連の何とかさんですとか、父が東大教授ですとか、慶応の教授ですという方が、東大教授になっていくのです。田舎の出身では、無理です。東京に、建物は、平屋(重い書庫が必要なの)で、200坪程度の庭(敷地)のある家を持つ、そういう方が、東大教授になっていきます。
それから、深くものをかんがえる人も、怖いと教授が考えるのか、嫌われます。私も深くものを考える方ですが、考えた結果を、言葉に出して、教授に伝えました。当時は怖いもの知らずで、上司といえども勇敢に、いわゆる忠告めいたことをしていたのです。本当に大切な方向に行っていただきたかったから、です。しかし、私は当時20代です。生意気な女だと、思われたでしょうが、それでも、はっきりとモノを言う態度には、理解が下りました。二年目ぐらいからは、嫌われてはいないと、感じていました。ところが、先生と10歳くらいしか年が違わないで、しかも寡黙な方は、嫌われて、大変不利な場所に飛ばされていました。お気の毒だと思いましたが、私風情に何かができるわけでもないです。
私は結構、教授に直言ができる人でしたが、それは、分野としては、英語の表現にかかわる分野であり、人事に等、口を挟める立場ではありません。でもね。ああいう難しくて、神経をすりへらし切る場所から、人生を始めたのですから、比較すると、この山のご近所様など、手のひらで、泳がせているほどの、単純人間ばかりです。やることなすこと、なんとばかげていることだろうと、いつも笑っています。相手には、何も言いませんけれど。
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*3)、
上の節で、弁明をしたいといっています。それはね。父が、教師に「美校に入ってはだめだよ。お兄さんに、生活費を面倒を見てもらっているのだろう?」と、言われた件ですが、
その貧乏という語彙ですが、井上ひさしが考える様な貧乏ではないといいたいのです。井上ひさしは、敗戦と同時に、父親が行方不明になったので、母親が、困窮して、カソリック系の孤児院に預けるのです。そして猫を焼いて食ったという様な生活を送ることとなります。どうして、ここで、井上ひさしが出てくるかというと、
彼は、非常に昔から、私の思考の分析官を担っているからです。私が電話で語ること、また、手紙で語ること、それから、メルマガを始めたら、メルマガで語ること、ブログを始めたら、ブログで語ることの、分析官の役目を果たしていたのでした。
そして、彼はサマリー(要約)を作って上奏します。上奏する相手は誰かというと、CIAエージェントのトップクラス10人ぐらいと、警察庁内、公安のトップクラス五人ぐらいにです。その謝礼として、大金をもらっているでしょうから、自分が不利になる様なことは、上奏しないのです。
だから、警察も伊藤玄二郎も同じポイントで、失敗ばかり重ねています。今回の病院を舞台にして、私を殺そうとする作戦も二回目です。おんなじことを再びやってきているのです。
少し、脚本が複雑になっています。だけど、4日目には、真(=罠の全貌)がわかっていました。
でね。井上ひさしが間違ったサマリーを上奏するので、それを訂正しておきたいと思います。その一つが、父の父(=祖父)が早死にをしたので、父が美校へ、行くことができなかったという点です。無理を通して行こうとすればいかれたのですよ。
これから、NHKは、(坂の上の雲)を再放送するそうです。あの中に松たか子が出てきます。大変活発な女性として出てきます。佐々木すみ江が、「ひい様、ひい様」と言って、追いかけて、注意をしようとするが聞かないお姫様です。
もし、明治維新がなかったら、私も自分の家に、家来がいたそうで、松たか子級に、「ひいさま、ひい様」と、呼ばれる階級にいたのです。ただし、松たか子が演じているのは、直臣みたいですね。私の家は、陪臣と言って、毛利家の家来です。
でね。明治維新のころは、まだ、貯蓄があったので、武家屋敷を離れて、山を一つ買ったのです。で、橙を栽培していたので、旧制。萩中学校の、校長先生との兼業で、結構お金持ちだったのです。叔母は津和野藩、ご家老様の娘だし。
一時期は、ご家老様、きくや、我が家と、三名家の一つと言われていたのです。でもね。明治維新を経験しているでしょう。毛利藩の上級士族は、一般の藩の、サムライ族より、ずっと、ずっと、精神的に苦しいのですよ。昨日までメッセンジャーボーイとして使っていた、伊藤しゅんすけが、明治維新以降、内閣総理大臣です。山縣有朋だって、不動産をたくさん持って、京都や、椿山荘を、開いていますね。
我が家の会話、特に萩に寄留をさせてもらっていたころに感じたことですが、(四歳ですよ。それでも感じたのは)、どこかにある諦めの感情です。ものすごく、言葉遣いは丁寧です。でも、言葉の端端にある、悔しいという感情が、隠されている。だけど、それを音声で出すと、自分がみじめになるから、絶対に出せない。複雑微妙にシニカルなのです。
子供の耳に、明治維新の元勲が、どれほどに、ずるい人たちだったかを聞いているのです。従って、大礼服の胸に勲章をじゃらじゃらつけている上流階級に対する深い、深い嫌悪感があるのです。だから、上流階級にはなりたくないと、いつも思っているのです。
明治維新って、フランスのバスティーユから、始まったフランス革命に似ているのですが、あっちでは、王制を一旦停止してナポレオンという、血脈上は、違う系統の大統領ができたのです。
で、日本では、天皇というお名前は生きているのですが、血統上は、まったく違う方が、明治維新を統制していたのですよ。
これは、私自身も、10年ぐらい前までは、誤解をしていました。明治維新での、悲劇のヒロイン、和宮の、兄君、孝明天皇のお子様が、明治天皇だと。違うのです。今日=24-11-16に初めてグーグルマップで田布施町を調べると、広島県に近い、瀬戸内海側なのです。そこで、ひそかに暮らしていらっしゃった、(だから、萩の上級士族でもなくて、多分、農業をなさっていた)、そういう方が、南朝の子孫だということで、明治天皇におなりになったのです。当時は山陰本線もないし、山陽本線もないし、車もない時代です。馬車だってないです。しいて、乗り物と言えば、馬ぐらいでしょう。駕籠で、移動するにしては、萩と田布施は、遠すぎます。間に、低いけれど、大量の山があるので、駕籠なんかで、移動しようとしたら、四日はかかるでしょう。今は、その山塊を通り抜ける車の道ができているけれど、江戸時代は、田布施と、萩なんて、東京と、大阪以上に遠かったと思います。
新幹線を使うのだったら、広島と、東京ぐらいの距離感があったと思います。萩の侍たちにとっては、まったく知らない人たちが、突然に現れて、自分たちの地位と月給を奪っていったという感じです。シニカルになるのも当然です。
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*4)
わたくしが上の節で、言った様なことを田中一村もすでに感じていて、だから、奄美諸島へ渡ったのではないかしら?
ところで、田中一村は、芸大を、数か月で、退学しています。別に別離の宣言をしたり、先生に、「講義の仕方に不満があります」と、訴えたりしたわけではなくて、自然にいかなくなってフェイドアウトをしたのでしょうね。
でもね。「芸大に入りました。しがみついてました。そして、卒業をしました」というのが児島百代先生です。百代先生は、田中一村などとは、まったく違った生き方と、育ち方をした方なのです。
百代先生の自伝を読むと、祖父が最高裁の判事だったと書いてあります。だから、百代先生は、エリートとして自信満々な方でもあるのです。だから、鎌倉合唱連盟の理事長などを長くなさっておられます。
しかし、意地悪な方なのです。これは、パターンがあって、ああ、あのパターンかと、自伝を読んでも納得しましたけれど、お父さんが働かなかったそうです。これは、私は、ほかにも三つの家族を知っているのですが、お父さんがお金を家に入れない家庭があるのです。私は、その奥さんとか、子供と知り合いで、お父さんを実際に見ています。すると、立派な体格で、優しそうな面立ちの男性ですが、外に決まった時間に出ていくということがないのです。で、サラリーマンではない。だけど、独立事業主で、何かをやっているという風情でもない。
一軒はニューヨークで借りたアパートの持ち主のお孫さんの父親で、祖父から、生活費が出るから大丈夫なのですが、
児島百代先生のご実家では、百代先生が、高校時代から、パン屋でアルバイトをしていたそうです。これはね。芸大音楽学部に進む、女性たちの中では、ひときわ変わった経歴の持ち主となると思います。で、当然、劣等感が生まれるはずですが、田中一村とは違って、百代先生は頑張ったのです。四年間。だけど、無理があったはずで、ほかの芸大音楽部在学の学生に対してひそかな怨念を、燃やしていらっしゃったでしょう。それが、いじめとなって、後刻現れるのです。
あの、「ビブラートがかかっているから、あなたの声はだめよ」と、満座の中で、いじめられた時、まだ、先生の自伝は読んでいなかったのですが、この人は何か、内心で、つらいことがあるから、人をいじめるのですねと、理解していたので、別にーという形で、やり過ごしたのですが、
今、考えてみると、酒井先生(関東学院で、教師をなさっていた男性、どこの大学卒かは知らない)とか磯部和先生(作曲家、早稲田のグリーを長年指導していた磯部俶氏の夫人)にも長年コーラスの指導を受けていますが、こんな注意を受けたことはないのです。松前澄子先生には、コーラスの指導と個人指導の二重のご指導を受けていますが、注意されたことはないです。伊藤玄二郎から、讒言を聞いていたとしても、音楽の先生としては変ですよ。こんなぎすぎすした先生が、音楽の指導者であるなんて、おかしいです。
しかも、本日、パソコンが一台クラッシュして壊れました。児島先生については、昨日のブログ(あと註1)で初めて書いたわけではないです。初出の苛め人間としては、小倉裕君に触れたのですが、彼について、戸塚混声合唱団に入るのを阻止されたといっているだけで、
パソコン、一台壊れるなんて、おかしいです。彼は、もっと、強く伊藤玄二郎と結びついているのかもしれませんね。たとえば、鎌倉市の吏員として、松尾崇市長の秘書をしているとか? で、伊藤玄二郎が、対・わたくしいじめの諸所の発案をするのですが、それを取り持っているとか?
正解は、わかりません。今のところ、わかりません。
なお、東戸塚の話は、別の日に語ります。既に午前三時を過ぎたので、寝ないといけません。 わたくしが昼間寝ていて、主人が外出する日が、二日ぐらいあったので、補聴器、231マン六千円とか、合計50万円を超えるものが盗まれています。もう、買うことなど絶対にできない母の形見のオパールのチョーカーなど。
で、
チェーンを掛けないのは、絶対にダメなので、ここで、ネマス。東戸塚の話は、とか、隈研吾問題とか、私の偽、肺病、問題とかは、また別の日に語ります。
あと註1,