今は、27日の夜9時です。外出から帰ってきました。それで、@@@@@罫線以下の文章の推敲と加筆を再開します。途中で加筆した部分にはアンダーラインを敷き、重要な部分には、青字フォントを使っております。今は、夜の10時半ですが、5000字程度加筆をしました。すごい話が、また、加わっていますよ。
副題1、『青山学院は、立地がいいのと、都心回帰を果たしているので、人気が高い。ところで、そのトイメンに在った、国連大学のビルって、今は、どうなったのだろう? その広壮なビルの一部は、子供の城という施設だと、聞いている。雅子さまが愛子さまを連れて、子供の城をご訪問をなさっていると、聞いているが、その子どもの城は、無くなったと、聞いているが。・・・・・・
ところで、私はそのビルの前庭(とてもひろい場所)で、すさまじい秘密を握ってしまった。朝日新聞が内包する秘密である。
そこから、さらに、東に向かったところに在る、ウィメンズプラザでも、もう一つ、すさまじい秘密を見聞してしまった。ご本人の態度で判ったのだが、福島瑞穂さんは、在日の出自を持っている人物だった。したがって、CIAエージェント(=井上ひさしとか、成岡庸司君)からの、連絡だったら、唯々諾々と、聞くわけであり、2018年4月20日の黒服も、21日の卵色のスーツも、すべて、計算づくでの衣装であることが私にはわかって居る。何のための計算であるかと言うと、今般の何でもない問題を、大炎上をさせて、その上で、麻生大臣を追い出そうとしている案件を、あたかもとても大切なモノの如く、見せつける作業にである。
その、青山で得られた知識の、両方ともに、今、永田町をにぎわわせている、いわゆる文書改ざん問題と、セクハラ問題の両方について、大きな解明を与えてくれる知識なのだ。したがって、私は、今は、徹夜明けで、体調が悪いし、前報(後注1)を、読者の皆様に、26日、いっぱい、読んでいただきたいので、この新稿を書きたくないのが、本音だけれども、これから先、を書いておこう。』
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副題2、『朝日新聞について、或る事を語った紳士を、仮名で、L氏と呼ぼう。年下だが、洗練をされた極めつけの紳士で、絵も上等である。尚、念の為に言うが、Lは、イニシャルではない。<<<立教大学とか、立命館大学などをローマ字で書く際には、r(アール)を使うと、思うので、Lがイニシャルに成る人は、居ない筈だ>>>と、思うので、却って安心して使おう。
しかし、あくどいあくどい井上ひさし達が、この人をいじめるといけないので、二人の間で、交わされた会話は、正確を期して語りたい。
しかし、中途半端な、説明では、一般の読者が納得をされないと思うので、バックグラウンドは、書いておきたい。その紳士も私も国際基督教大学の卒業生である。
私は渋谷駅から、宮益坂を上がって、そこに差し掛かった時に、内部から出てきた彼と出会った。そして短い会話を交わした。もし、この時に、私の本当の目的が青山のウィメンズプラザで、開かれた、日本ペンクラブ主催の、雨宮処凛と、福島瑞穂の対談の日で、それに向かう事だったら、後注1、後注7を、傍証づける考察を、一気に同じ日に得たという事となり、
それは、まあ、「事実は小説より、奇なり」と言う事となり、「ただ、驚くべきかな」・・・・・ともなるのだけれど、
私は、2007年5月以降は、月刊ギャラリーの連載が終わってしまったうえに、母の容体が、悪くなったので、青山の画廊を訪問をしなくなるので、
それ以降の、青山訪問は、福島瑞穂と、雨宮処凛の対談の日だけなのだ。したがって、同じ日に、朝日新聞が内包をしている秘密を知ったとなれば、又もや、天は存在し、私を、おん見守りくださっているのだと、なる。』
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副題3、『L氏は、朝日新聞の外信部へ勤務をしていて、世界中の赴任地で、スケッチを重ね、それを水彩画として、発表をしていた。絵から判断をしても、上品で、無駄がなく、粗野さや、誇張さとか、乱暴さとは無縁の人だった。私はそのL氏と、国際基督教大学、同窓会展で、知り合った。当時のメンバーは、12人程度であり、一緒に石塚雅彦さんが居た。石塚さんも1960年代のICU卒の典型で、日経新聞の外信部から始まった人で、論説委員までなった人である。かれは、外人記者クラブの理事長まで務めたなんでも、どこでも、トップになるのが、好きの人である。L氏の方はもっと控えめな感じだ。で、石塚氏が、理事長であった、その外人記者クラブのレストランで、グループ展の、準備会をして、望月画廊で、展覧会をするという間柄だった。その会の中で、L氏が一番若くて、その次に私が若かった。
彼は、大勢の前では、絶対に、私に個人的に話しかけてくることはなかった。私は、すでに、瀬島龍三が、ありとあらゆる場面で、妨害をしてくるのを悟っていたので、L氏も、また、何らかの悪意ある事前知識を得ていて、それで、接触してこない可能性はあると、感じて、慇懃無礼な彼の態度を淡々と、許容をしていた。
しかし、2001年か、2002年だったと、うろ覚えで覚えているのだが、渡辺幸子さんが、ものすごいレベルで、いじめてきたのだった。望月画廊の中で、ソファーの上に置いてあった、私のバッグ類を「置き方が汚い」と、半分怒鳴る形で、言いながら、床に手で払い落す現象が起きた。それを私自身も『あれよ!、あれよ!』と、思ってみていたのだが、L氏も同じ部屋に居て、あれよ、あれよと、言う形で、目を満丸くしていたのだった。
私は、渡辺幸子さんが、何で怒っているかがすぐに分かったので、『これは、この会を、辞めるしかないなあ』と、思い当たった。同じ事がL氏に判ったかと言うと、判らないだろう。でも、私は、実際にやめてしまった。で、その数年後、青山で偶然に、再会をした時に、彼が優し気で、親切だったのは、一つには、あの渡辺幸子さんの、おおきないじめによって、その同窓会展から去ってしまった私を、『気の毒だ』とか、『かわいそうだ』と、思ってくれているのだと、感じたものだった。こういう小さな現象でも、神様が、この世を総べているという事を知るのが、私なのだけれど・・・・・
ここで、渡辺幸子さんが、どうして、それほど、強いヒステリー現象を、銀座の画廊と言う晴れの場所の中で、起こしてしまったかを語って置きたい。以前より、深く、真実に触れながら語ろう。
その頃、私は逗子のアトリエで、一人暮らしをしていたので、自由に電話を掛けることができた。鎌倉では、主人が制限するので、ほとんど、電話を交わせない。特に長電話ができない。その当時、私に、向こうからまとわりついてくる人が居た。Fさんという5歳以上年上の女性なのだけれど、父君が戦死したせいか、精神的に不安定なところのある人だった。埼玉に住んで居るのだけれど、夜一人暮らしの私なら、どんな時間帯に電話をかけてもいいと、思っているらしくて、頻繁に、不定愁訴気味の電話がかかって来ていた。一時間以上の長電話なのだけれど、堂々巡りで、同窓会展内部の男性メンバーの悪口を聞かされる。私は、年上の彼女を、どう扱ったら、いいのか、わからず、困ってしまって、より長期間にわたって、その女性と付き合って来ていた、渡辺幸子さんに電話で相談をした。
渡辺さんがどういう風にしたらいいのか、正しく、教えてくれたという記憶はない。ただ、F様が、先に、死ぬという形で、解決を見た。大原麗子が、亡くなった時に、弔辞で、「彼女の長電話には困った」という話が出て、非常によく意味が分かった。
渡辺幸子さんは新制作協会展を中心にして、発表活動を行っている人で、公募団体展固有の、出世をめぐる競争心には、毒されている段階だった。それで、愚痴を聞いてもらえる人(=私)を発見したという形で、私と渡辺幸子さんは、急速に親しくなっていった。こういう話は、条件が同じ人でないと、その真実の意味がなかなか、解らないものだ。
私も国展や、女流展に、入選し続けて居て、同じ様な、競争心には、さらされていた。しかし二人には決定的な違いがあった。
私は、すでに、国画会で、会員になることはできないと、思い定めており、いかにして逃げ出すかを考えている最中だった。しかし、公募団体展と言うのは、一種のやくざ組織めいたところがあり、足抜けがなかなか、できないのだった。で、スパッとやめる前には、それを外部に出すことはできない話だった。
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副題4のα、『私と渡辺幸子さんは、条件が同じなのだけれど、所属している組織が違うという形で、悩みを打ち明けやすい関係となって居た。また、お互いに、F女史と比較をすると、1990年代は、画家としては脂の乗り切った現役なので、忙しいという事もあって、電話にしても、適切な長さで、話し合って別れるという間柄になって行った。そのうち、年下の私の方が、一種のメンターとしての役目を果たすこととなって行った。
幸子さんは、新制作協会内で、なかなか、出世ができないという項目では、国画会内で会員にはなれそうにもないという私と同じ悩みを持っていたが、私の方はすでに、国画会への出品を止めるつもりになっていたので、次元が違うところに立っていて、渡辺さんのことも、天空から眺めることができて、なだめるという形で、冷静に、分析し、忠告することができる様になっていたのだった。
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副題4のβ、『国画会の審査における、諸問題(主に1990年代に見聞したことで、あって、今の模様は知らないが)・・・・・特に島田章三さんの、性格の悪さからくる緒現象について』
::::::::ここで、二日目に大きな挿入を入れたい。私の方は、その時点で、人には言わないものの、ブロガーとして生きていくとか、文筆業の方へ移行をしていくとか、本を出版するとか、海外研修をするとか、また、油絵だけではなくて、版画も始めるとか、そういう企画を立てていた。それらはすべて、国画会で、いじめられきってしまった、抑圧の結果だったのだ。しかし、国画会でのいじめは、嶋田章三氏が、どこまで、からんでいたかによって、北久里浜から起因する政治が絡んでいるか、政治が絡んでいないかが、微妙にまだ、判断ができない部分なのだけれど、・・・・・特に島田章三が死んでしまったときいている今、真相は闇の中に、行ってしまったのだけれど、・・・・・相当に嫌な思いをしていて、それに関するエピソードも、二冊の本ができるぐらい蒐集してある。
ところで、国画会を、出たいと思った決定的な理由はすでに書いているが、国画会での審査、に、於いて、審査権を持つ、会員たちの、不勉強ぶりが、あまりにも見え見えだったからだ。それは、対私へのそれもあったが、天才的画家、NKさんへの落選措置と言う事で、1995年ごろには、すでに、私には、判ってしまっていた。その陰に島田章三氏の、悪い意味での影響力、という物を感じて居て、したがって、氏の実妹・大沼嘉津江さんについての文章を書き始めているのだった。まだ、そちらは、途中なのだけれど、嶋田章三さんと言うのは、いっしゅの・け・ち・の類なのだ。経済的意味ではなくて、精神性において、言うのだが、ケチと、保身にたけた人だった。で、大きな団体のトップにはふさわしくなくて、それゆえに、国画会においては、種々の問題点が発生していた。
それが、会員の不勉強に繋がって居た。その結果、指原いく子さんの様に、中ボス・山寺重子さんと、使っている色も、形も、そっくりな絵を、10号で、数十点制作し、銀座の某有名画廊で、個展として展開して、次の年に会員になって行くという様な現象が起きている。そして、一方では、NKさんの落選という様な現象も起きる。
私は、1995年には、すでに、この問題について関心を持っていたが、自分は、まだ、会員ではないから、審査会場に居ない人間なので、実際の審査の模様を確認したいと願った。で、既に会員となっている数人出、とても人柄の良いと、感じている人たちに、その当時の審査会場の模様を聞いてみた。そういう事をやり始めたのは、1995年からは、相当な年数が経っていた、時期である。2002年まで、国展に出品をしていたが、そこで、出品を止めて、さらに、数年がたっていた時点だった。
私の電話は盗聴をされているので、私が何を考えているかが分かったらしくて、なんと、NHK特集が対私弾圧のために、準備をされた、それは、表向きは、社会は番組の体裁をとっていたが。NKさんをいじめる対象としてあぶり出し、その結果、今は、精神病院に入って居るとされる、Nさんご本人ではなくて、その番組を自宅で見る、私をいじめるという趣旨のモノだった。
鎌田さんは、この間、テレビ東京の、ジパングの、スペシャル二時間番組で、池上彰さんと、同じ立場で、出演をしていた。それは、どれほどに、例の空き家特集があくどいものだったかを証明している。鎌田さんをNHK内に置いておくと、鎌田さんが、出演するたびに、私は、その件を蒸し返すからである。
なお、ここは、画廊るたんに、中島三枝子さんにも波及をしますし、秋山裕徳太子にも、波及していく大問題となりますので、帰宅後、夜に、加筆をいたします。・・・・・と言っておりました。で、夜九時から再開します。この件についても、種々もっと書きたいのですよ。しかし、永田町の、この二か月の騒動へ、なかなか戻ってこられなくなるので、この空き家特集については、また、別の機会に語るか、過去にすでに書いているモノのリンク先を探すかという二手に将来の可能性を、分けて置いて、先に進みます。
ただね。ここで、皆様に問いたいのです。NHKスペシャルを利用して私を弾圧する。「ビビり上がれよ」と、言ってくる。税金に等しい視聴料を取るNHKが、伊藤玄二郎や、雪ノ下の、石川和子、安野智紗、前田清子、小野寺夫人等がやってきている事(それは、私を攻撃している事)ですから防衛のために文章は書きますよ。それは当然の事です。それに対する復讐行為に当たる番組を作り上げ、彼女らと、その背後にいる伊藤玄二郎や、井上ひさしを助けていく。
この女性たちに大原光孝と、渡辺賢司と、最近では、冨澤夫妻も、加えないといけないのですが、そういう一介の、私人たちが過去に行った悪い事を助けるために、土曜日か日曜日の夜九時からという時間帯(プラチナタイムという呼び方もあるでしょう)に、ただ、私、個人をいじめる為の、番組を作るのです。開いた口がふさがらないという程にひどい現象です。
先回のTV東京の【ジパング】が、二時間番組であり、鎌田元NHK記者が登場したので、この杉並区の空き家特集を蒸し返さないといけないなあと考えて居た処、こんしょうでは、渡辺幸子さんについて書く必要が出てきました。朝日新聞の特殊性を語るためです。渡辺幸子さんと言えば、青木繁大賞展、大賞受賞者です。やっと、酒井忠康氏が、何をやっているかを書くチャンスが来ました。杉並区の空き家特集にも、酒井忠康氏が、からんでいる筈で、アイデアを出したり、番組に出演してもらう学芸員を選んだりしてるはずですし、青木繁大賞展の方では、審査員として酒井忠康氏が印刷物にもその名前が出ています。したがって、両方に絡んでいる事となります。こういう深い真実は、今日わかったわけではなくて、10年前からわかって居たのですが、なかなか、書けなかったというわけです。
ところでね。こういう番組を作って私を心理的にきりきり舞いをさせてと言う事が、ぼうりょくではないのでしょうか? 私はたまらなくなって、高橋和さんと言う賢くて性格の良い、しかも、独身でいらっしゃる女流画家に電話を掛けました。すると、高橋和さんは、秋山裕徳太子が、懇意にしている画廊で、頻繁に個展を開く様になりました。きっと、5万円から、10万円と言う安値、もしくはただで、開いてくださいと、頼まれていると思います。和先生は、私からの電話を断らなかったので、そういう果報が舞い込みました。よかったですね。
私ね、大原光孝に、長髪の限りを尽くされて、しかも、無理無理な場所をこじ開けて侵入をされて、私の口と彼の口が、40cmぐらいのところに在ったので、思わず、右腕で、彼の背中をぶちました。すると、彼は、ぎゃあ、ぎゃあ、大声で、「川崎さんが、暴力をふるった」と何度も叫びました。(後注4)彼にそういう風に出られたので、今般の文章のようなことを書き始めているわけです。すると、彼について書いている最中に、パソコンが二台も壊れました。(後注5)それは暴力ではないのでしょうか?
大原光孝に対する私の怒りはすさまじいです。そして石春産業の面々に対しても、です。大原光孝の挑発が行われたのが、6日でした。その、6日には、私に対しては、何も返事をしなかったのに、7日の午前中、大原光孝に対しては、大声で、ご挨拶を交わしていました。
ところが、8日から、現在まで、「こときれました」と、いう程、何も仕事をやっておりません。コンクリートの残渣が入って居る麻袋を20袋程度、残したままです。で、そういう形で、例の重大極まりない悪である、証拠隠滅工事を、・や・ら・な・か・っ・た・ことにしたいのでしょうか? そして裏側から、こっそりと、工事代金を受け取る?
それも一つの可能性ですが、私ね、別の可能性も考え始めています。三週間も放ってあるその産業廃棄物ごみの袋の山を、見ているうちに、『あれ、石春産業で、誰か死んだのかな?』と、思い始めました。私に対して、大量のいじめをすると、その人間は、必ず死ぬのですよね。天罰を受けて死ぬのです。特にそれを実行している人間が善人だと死ぬのです。それは、この40年間、何人にもわたって照明をされてきている事ですが、・・・・・まあ、明日とか、連休明けを待ちましょう。連休明けに、そのごみを、片づけ始めたら、私の推測が間違っていたと、成ります。まあ、死が訪れるとしたら、社長の弟だという下の人間でしょう。鼻をかんでいるところです。
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ふざけて言っているわけではないのですが、「事切れました」と言う語彙が、ぴったりな、ほどに、急に静まってしまって、しかも、後始末がしていないので、『ほんとうの人間の方が、事切れてしまったのでは、ないかな?』と思うほどです。石春産業が、もし、私のブログを読んで居たら、・・・・・私に対して、ひどい事をやる人間には、天から死が賜るのだ・・・・・と、知っていた、となり、しかも、自分達の真上に、その天罰が落ちたとなれば、恐れおののいて、すべてを、放ったらかしにして、逃げるのもありでしょう。そうなると、小野寺夫人と、大原光孝が後始末をしないといけませんね。でも、この工事で、一番助かるのは、安野夫妻と、前田清子さんだから、その三人も手伝う、必要はあるでしょう。(後注6を参照してください)
本当にうるさい、工事音を上げてコンクリートをはがしていたのです。その葉がしたついでに、我が家のアジサイ畑を、土の畑問い形で、復活させれば、相当に、悪さは、相殺されるのですが、石春は、言う事を聞かず、小野寺夫人も白井達雄さんも言う事を聞かず、従って、白井達雄・小野寺夫人が、まあ、天罰を招いたとなるのですが、でも、死んではいないと、考えておきましょう。本当になんで、言う事を聞かなかったのでしょうね。将来、それは、質さないといけません。元の状態に戻してはいけないという理由は、何も、無いのですよ。
死んだと、いう、嘘を、見せつけて、私が死んだというブログを書いた後で、あっかんべーという為に、工事が中断しているのかもしれませんしね。特にこの一行を書いたら、パソコンが大荒れに荒れたので、こちらが正しい予想なのかもしれませんね。彼らは、非常に悪辣だから、何を考え出すか? 知れたものじゃあ、ありません。
ただ、伊藤玄二郎と仲良しになると、あなたが、善人だったら、災難と衰運が訪れると、それは、申しあげておきましょう。
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副題4のαの続き、
さて、ここで、渡辺幸子さんに戻ります。
もう一つ二人の間には、大きな違いがあって、こちらが心理的には、上に立つこととなって居た。それは、私は制作の途中では誰の批判も仰がない。出来上がったら、批判を乞う。しかし、渡辺幸子さんの方は、湘南地方ではアマゾネス軍団と言われて有名だった田沢茂教室に所属をしており、いちいち田沢先生に描き方の指導を仰いでいた。この田沢茂と言う人物だが、美大を出て居ないのに、新制作協会の、会員になったので、推して知るべしである、というような嫌味な智恵の働く人であった。悪智恵というか、なんというか、心理学的知恵を駆使する人物だった。
そして、全員が160cm以上という戦中戦後でも、いいものを食べて育ったであろう、裕福な実家を持ち、夫も、高給取りである、奥様方を、指導して、そのレッスン料を、自分の生活費のメインにしている人だったから、「グループから、メンバーが去らない様にする」という事が大切であり、そのための工夫をあれこれ、行っている人だった。で、グループの中で、燦然と輝く美女でもあり、性格が硬くて、一種のアイスウーマンでもある、桜井陽子さんを、お姫様役に仕立て上げ、渡辺幸子さんをシンデレラ役(つまり、叱られ役)に仕立て上げて居た。桜井さんの方は、武蔵野美大出身なので、同窓会で、悪口を言われたら大変だし。
で、叱られ役として使っているわけだから、常に叱る事が大切なので、朝令暮改と言うか、前回、言われた注意と、今回言われる注意が異なっていることもあり、それが幸子さんにとっての悩みの種だった。
そこが、私がメンター的立場になって行った所以なのだけれど、いつも、「「そこ(=田沢教室)を出なさい」と、忠告をしていた。しかし、私が明確にそういう事、そして上手に立っていると見える事に対して、彼女は、不満を抱いていた可能性はある。それが、あの、すさまじいヒステリーの発動をもたらしたのだと、思うのだけれど、それは、25%程度の原因であって、75%ほどは、「私(川崎千恵子)の方が、彼女を裏切ったのだ」と、彼女が誤解をした事に在った。
渡辺幸子さんは、同窓会展の、直前に、「私ね、忙しいので、本当は、あれ、辞めたいのよ。(だって、新制作で偉くなっていくためには、何の役にも立たないからね)・・・・・ただし、カッコ内は、語られず・・・・・でね、鎌倉(美術家協会展)に出したものをあっちにも出すつもりよ」と、言いました。私はそれを聞いて、ふん、ふんとただ、頷いておりました。別に悪い事でもないです。二つの展示会場にくるお客さんが、別の面子なので、失礼には当たりません。
しかし、その時もまだ、国画会の、国展の搬入日より、数か月前だったので、自分の方は、国画会用に準備した、100号S(正方形)を出すつもりだという件については、何も言いませんでした。本当です。尚、100号Sと言うのは、163cm平方という大きさの画面です。
今は知りませんが、当時は、国画会での私に対する、いじめが、すさまじかったのです。もし、国展に、絵を出さない形になりながら、銀座で、個展をするなどと言う形を取ったら、吉原から逃げ出したソープ嬢まがいの扱いを受けかねない程、縛りがきつかったのです。ですから、幸子さんには何も説明をしませんでしたが、国展は、絶対に今年から出品を止めようと考えておりました。で,そちら向きに準備した100号正方形を、望月画廊に出すことに、内心で、決めておりました。唯その大きさの作品を出したという事を裏切りだと、幸子さんは受けとったのです。理由を説明すると、その12人のメンバーは素人の集まりであり、私と幸子さんだけがプロですから、皆さん、小品を出します。私だって、その一回前までは、小品を出していました。その中で突出して大きな作品を出したので、だ。「あら、いやだ。プロの世界向けの作品を、ここに、出すなんって、それって裏切りでしょう?」と、幸子さんは、受け取ったのでしょう。
しかし、これは、過渡期特有の、現象だったのです。公募団体展を明確にやめることにすれば、もう大作は、描かないで、いいのですが、過渡期だと、会員でもないと、五点ぐらいは、準備しないといけないので、作品が、余るわけです。それを、望月画廊に出しただけであって、裏切るとか、出し抜くという気持ちは、こっちには何もないのです。ただ、渡辺幸子さんが、事前に、「あそこは、もう、重荷なので、本当は、辞めたいのよ。だから、軽い二番煎じの作品を出すわ」と言った発言に、自分で縛られていて、・・・・・
私が、そのすきに乗じて、一番に成ろうとしている・・・・・と、誤解をした・・・・・ので・・・・・激怒したのでした。勝手に一人で、怒り出したのです。
その時に使った絵は下記のものです。喧騒と競争の世界である国画会から出ようとしている心映えを顕している静謐さがあって、自分でも好きなものの一つであり、ある意味で、とても出来が良いので、幸子さんが、川崎千恵子は、自分に勝とうとしていると、誤解をしたとも、言えます。 でも、そういう誤解をわかってしまったので、『これは、一緒には、やれないなあ』と、思いました。で、国画会の国展に出すのを止めた後では、私にとっては画廊に出す場所として大切だった、大学同窓会展を辞めたのです。「あそこって、もう辞めたい」と言っていた幸子さんが残って、『あそこも大切だなあ』と、思っている私の方が、去ったのでした。悲・喜・劇・でした。
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客観的に言って、その会場内では、私の絵の方が優れていたと、思いますよ。今、このグーブログのウィンドー内では、写真のサイズがどうしても、大きくならないのですが、この絵のマチエール(絵の表面=絵肌と訳されている)って、ものすごく複雑なのですよ。私は、内心で、「幸子さんが、あれほど、激怒したのは、私の絵が良かったからでしょうね」と、思ったので、彼女自身の感情の暴発については、さしてダメージは受けませんでした。
でも、渡辺幸子さんが大喧嘩を私に仕掛けてきたので、敵さんたちにとっては、『これは、良いライバルが生まれたぞ。こっちを持ち上げれば彼女(=雨宮舜=本名、川崎千恵子)は、悲しんで、ノイローゼになるさ』と、思い到ったらしくて、青木繁大賞展の大賞を彼女は獲得し、100万円の賞金と、ガレリア・グラフィカでの、個展をする権利を得ます。それは二つ合わせると、200万円程度のメリットでした。一方の私は新品と中古を合わせて、18台ぐらいパソコンが壊されるという形・他で、200万円は、優に超える損失を出しています。
それに後日に知ったのですが、この青木繁大賞展の大賞を得たという勲章二歩って、彼女は、実際には卒業をしていない、国際基督教大学を卒業したことにしてもらってます。のね。す。私立だから、中退でも、卒業扱いしていいのでしょう。でも、それって、寮に入って暮らす生活費も合わせると、二年から三年分で、1000万円ぐらい得をしたという事となりますよね。ああ、さじ加減一つです。石塚雅彦さんのね。その後ろには伊藤玄二郎が居るわけですが・・・・・今、学長が女性だし、図書館学を学んだ人だから、弱いのですよね。男性には。でも、強者の恣意が通る処は、明朗性にかけて来るので、非常にまずいと思いますけれど・・・・・
でも、そういう事って、日本では、嫌われる形だと、思う。ルールがあいまいな大学となって、大学の品格が落ちると、思うけれど、と、私が、いっても、単なる妬みととられるでしょうね。苦笑。だから、この件には今まで触れませんでしたけれど。ただし、彼女が何故、中退をせねばならなかったかは、語りません。ここでもね。それを語ると、私の品格が落ちるから。
しかし、本日も疲労困憊です。で、この続きの作業(遂行と加筆)は、明日、29日にするとさせてくださいませ。
ただ、リンク先だけは、準備いたしました。
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副題5、『月刊ギャラリ-編集長の行動を通じて、私はダブルのいじめを受けることとなる。そして、笠間美術館館長、長谷川智恵子女史が、「障害児は、出産前検診をして、堕胎をさせましょう。そうすれば、茨城県予算が削減できます」と、発言をする事によって、四重奏目の、いじめを受けることとなる。また、2010年4月5日から10日までの個展は、画廊のオーナーからその日へ、ずらしてくれと、要請があったのだが、同じ週に、山本容子展を、栗田さんが、ぶつけてきたので、それを勘案すると、6重奏、又は、7重奏での、いじめを受けた事となる。』
実は大原光孝関連の、ブログ内で、私が、月刊ギャラリーの連載を止めさせられたのは、電話でも知らされず、メールでも知らされなかったと言っています。冷酷無比なやり方でした。
しかし、その数か月前に、編集長は、以下の如く、癒しと救いを求めるメールを送ってきているのです。短くまとめると、「僕は今、熊本に来ています。浜田知明を取材する為です。しかし、すっぽかされました。忙しい中、飛行機でやってきているのに、すっぽかされました。駅前の通りに出て、居酒屋を見つけて入って居ます。馬刺しを肴にして一杯やっています」
このメールから、私は三つの事、または、四つの事を語らないといけなくなります。今、確実にわかって居ることは、こういう風に、あとで、役立てたい、重要なメールが来るたびにパソコンが壊れるという事です。
重要な人物から心のこもった優しさに満ちたメールをもらっています。そのたびにパソコンが壊れます。それにつれて、その前後に書いた、メルマガ用エッセイも、失われます。また、悪意に満ちたメールが来た時もパソコンが、壊れます。保坂涼子さん(現在は航子と言う名前で、活動中)が、101行にわたる罵りメールを、36回も繰り返して送ってきた時も、パソコンが壊れました。
ところで、これを書いて、数十分、他の用事をしていたらさっそく、山ノ下から、異様なサイレンの音が響いてきました。こちらの損失を書くと、弱みとみなされて、更に重合的に、攻撃をされます。だから、自分に関する真実を、書けません。特に被害については、書けません。
しかし、本日は、そういう攻撃を含めて、彼等、鎌倉エージェントの悪人ぶりをすべて書いて行きましょう。開発チエさんが、動員されていじめてきたことがあります。七通に分けたメールで、ののしってきたのですが、3通目からは文字化けしました。私はこう考えております。彼等CIAエージェントは、盗聴、盗撮、ハッキングによって、知り得た私の過去のうち「最低だ」と、考える事項だけを、開発さんに、事前に伝えて、私を攻撃をさせた。で、開発さんは、私を低能で、道徳観もない、最低の人間だと、思いながら攻撃をして来たのだけれど、実際の私は、一種の宗教者としての対応をするので、彼女は却って、自分が負けたと、感じてしまいパニクってしまったのだ。こういう例は、他にも数多いので、私には開発チエさんの心の流れは、手に取る様に判るのだった。で、彼らCIAエージェントたちはこの時もパソコンを壊した。
二つ目として、言おう。浜田知明は、この時に、88歳だった。キャンセルの理由が体調不良だと、しても、その12年後の、今現在、100歳で、健康だと言われている。したがって、このお断わり現象は、自然な事ではなくて、裏から指し金があったと、思われる。誰が動いたの? 酒井忠康氏? それとも、水沢勉氏? それとも、シベリアつながりで、宮崎進氏?
私は、身がよじれる様に、つらかった。これは、私が原因だと、思ったから。今なら、裏側もかたった上で、慰めるとは、思うが、当時は、隔靴掻痒の感じがある慰め方をした。しかし、相手の携帯に、瞬時に届いたかどうかは、判らない。
ところで、私はこのころは、美術評論家として人気があった。したがって、ある人から、「まるで、お母さんみたい」と、言われていた。で、その甘えてくる対象がすでに、50歳を超えている、現在の自分の上司である、編集長である事には驚いたが、彼が、浜田知明に思いがけない断りを受けて、その侮辱の、さなかの、切なさの中で、私に、メールを呉れたことは、そういう私の真実の姿の象徴のように思えて、ひそかにうれしかった。
人は何かの善をなす。そして、何かの悪をもなす。最後には、ものすごい侮辱を与えられて、終わったが、内心では、許している。
ここで、四時間前は、この人の、奥様の話、それから、水沢勉氏の話、および、水沢夫人との、エピソードを走馬燈の様に思い出し、書き表すつもりだった。しかし、体力と相談すると書き抜く力が、本日は無い。
で、馬刺しの話だけで、本日は終わろう。しかし、ある時期まで、仲良くして居て、急に何の連絡もなく連載が途絶えたのは、非常に失礼であり、その後、息子の職さえ奪われたことを加味させると、裏側に、CIAエージェントたちのすさまじい悪意があったと、見做さないといけない。だけど、北久里浜の土地の、騒動は、彼等の方が100%悪い。そして、鎌倉雪ノ下の土地の騒動も、彼等の方が悪い。
そして、この2018年の、4月6日にすさまじい、勢いで、また、また、大原光孝から、攻撃を受けた。
だから、是だけは語らないといけない。栗田玲子さんを中心とすると、酒井忠康氏、渡辺幸子さんが、弾圧者として機能している。
シロタ画廊さんを中心として考えると、こちらにも、酒井忠康氏、および、渡辺幸子さんが関与して居て、そして、柄沢斉と、石塚雅彦さんと、水沢勉氏と、大原光孝が、関与している。
ここに登場する人物たちの中で、特に子供っぽい未熟な人としてあげられるのは、大原光孝と、渡辺幸子さんだ。そして、最も激しい悪女は栗田玲子さんだ。そして、男性として大人だけど、悪人度が強いのは、伊藤玄二郎である。そして、もっとも、卑怯な存在は、伊藤玄二郎である。そういう歴史の中で、渡辺幸子さんは、大金を手にしている。たんにガレリアグラフィカを、利用できる200万円だけではない。彼女は国際基督教大学を、二年時か、一年時に退学をしている。でも、今は、卒業をした事となっている。
すべては匙加減である。
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副題6、『一番つらかったのは、本多隆彦さん(編集長)が、私に対しては、電話でも告げず、メールでも告げずに、連載を切って来たのに、ちょうどそのころ、渡辺幸子さんを、訪問をして、美術系作家、特に青木繁大賞展の、大賞を取った優秀な作家、または、ガレリアグラフィカで、華やかな個展を開く優秀な作家と、して、取材をして記事にしたのを目にした時だった。
私は、2007年五月に、連載がないのを発見して驚愕をした。しかし、何らかの特集の為に頁が足りなくなったので、私に対して甘えきっている編集長は、次にでも回すつもりなのだろうと、思って、引き続き、雑誌の定期購読を続けていた。
そして、渡辺幸子さんへの特集記事を見つけたのだった。そして、当時は、気楽に信じて、その二階の常設展を、見に行って居た、ガレリアグラフィカの二階で、私、栗田玲子さん、そして、酒井忠康氏、そして、後から、息せき切って駆け付けた渡辺幸子さんの四人が同時刻に一堂に会しては、さすがに事態を、正しく、把握できる様になった。性善説は、鎌倉エージェントとその周辺でうろうろしている人物たちには当てはまらないのだ。
この2007年から、2017年まで、ずっと苦難が続いている。そして、新たなライバルとして仕立て上げられて、目の前に現れたのが瓜南直子さんだった。ここで、瓜南直子さんについて書いた大量の文章の裏側を語ると、私は彼女の実物に一度もあったことがない。それに学校が同じだという事もない。で、この章で、登場した人物たちと比較をすると、縁がずっと薄くなり、文章化しやすいのだ。で、彼女についてあれこれを書いた。しかし、本日の文章の方が時制的には過去に当たり、 この手の悲しみや屈辱を、内部に抱えているからこそ、ああいう書き方で、瓜南直子を分析することとなった。
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副題7、『やっと青山に戻れることとなった。私は、大いなる悲しみを、内部に抱えながら、それでも、さりげなく、毎日を生きて居た。そして、magmagと言うサイトが、知らせて来る雨宮処凛と、福島瑞穂の対談が企画されているという、日本ペンクラブのシンポジウムに出ようとして、渋谷駅から、宮益坂を上がって行った。そして、青山の国連大学の前で、紳士中の紳士であり、朝日新聞外信部に、勤務していた、L氏と出会ったのだ。偶然にだと思う。しかし、私は午前中に、講演者のうち、福島瑞穂さんについて、ネットサーフィンをしている。司会者の松本侑子さんについては、著書を読んだことがあって、知っている雨宮処凛については、私がパソコンをも使って文章を書き始めた、1999年ごろから急に這い上がって来た有名人だと、思っているので、軽く処理すると、何と、元、右翼少女だそうだ。ただ、ただ、驚き入った。しかし、もっと驚いたのは、福島瑞穂さんだ。彼女には在日の出自があると、書いてある。
というわけで、青山ウィメンズクラブに入ってからも、それが、正しかったことを、福島瑞穂さん自身から、うえつけられる事となる。青山ウィメンズクラブとは、都が運営する、施設(小ホール)なのだけれど、誰かが、相続税代わりに、寄付をした土地でも、使っていると、考えられるところがあって、設計図に、いささかの無理が強いられている。入り口が舞台の右側一か所しかないのだ。で、シンポジウムが始まってから、入場する私は、当然の如く、最前列に座る事となる。
しかし、遅れて入って居るのだから、真ん中まで、進むわけにもいかないので、右側から、5つ目ぐらいの席に座った。すると、斜め前、7mぐらいのところに、一メートルぐらいの高さで、福島瑞穂さんが、座って居て、私の方を、ずっと、睨み続けた。
その視線が、対談相手の雨宮処凛から、急に移動をしたので、処凛さんが、おろおろするほどだった。
私は今になってこう思う。福島瑞穂さんと言うのは、18,9歳から全く進歩して居ない、人間だと。その頃、要領がいいと、大量の暗記を含み、しかも多分野にわたる、東大受験用の勉強が可能だ。いったん東大へ入ってしまえば、特権と信用が手に入る。これは、東大以外の大学を卒業しても手に入らない特権であって、それにやがて安住をしてしまう。その上、みずほさんは、在日の出自がある存在で、かつ、東大卒で、かつ、弁護士だ。これはなおさらにちやほやされるだろう。したがって、進歩が停まってしまった人間だ。
だって、彼女が私をにらみつけるなど、私から言わせれば愚の骨頂であり、バカそのものだった。もし、自分が在日の出自がないのに、私が、ネットサーフィンをして、間違った結果を、入手したと仮定しても、それは、無視して置けばいい。
しかも、午前中、私がパソコンで、調べて居た内容を、ハッキングによって、知り得た人物、この際は、井上ひさしだと、思われるが、から、注入をされていて、それで、こちらをにらんでくるとしたら、自分が、ハッカーと同類項であり、一種の道義的な犯罪者と、与している事となる。
どうして、そんなことがわからないの? この人って、バカではないですか?と、思った。今般の、大騒ぎにおいても、2018年4月20日の黒いドレスで、襟がV字形に深くえぐれているものを、着て、これは、Me too運動に連動しています。などと言うのは、徹底的に、おふざけでしかない。却って誘っていると、言えるだろう。今、野党、六党が、国会審議を休んでいるが、二日連続して休んだので、私の観測がますます、当たる様に成って来た。つまり、出席してしまうと、ますます、瑕疵が目に付くようになるから休めと、井上ひさしあたりが命令をしている可能性を感じる。福島瑞穂を見ていると、これが、ためにするニュースであって、半分以上が、謀略の要素でおおわれていることがわかるのだった。(後注7)
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副題8、『元朝日新聞外信部所属、L氏との会話の方が、時間的には先だった。それなのに、どうして後に置いたかと言うと、。あまりにも明瞭に福島瑞穂が、CIAエージェントの、パペット(=お人形さん)であることがその日、判ったので、もしかしたら、L氏もまた、石塚さん等に、勧められて、その場所に居た可能性が出てきたからだった。彼はその大理石の巨塔で、若い人に教えているというのに、周りに、若い人が、侍って居なかったからだ。それは、不思議だった。だが、そこまで疑うと、きりがないので、偶然に出会ったという事にしておこう。若い人たちは先に帰ったのだけれど、彼一人は、お茶をしていたと、言う事にしておこう。大切なことは、その日、初めて目が合うという形で、会話を交わしたという事だった。とても短いものだったけれど、親愛の情に満ちていた』
私は、よく神様の話をする。青山で、数年ぶりに、元お仲間だったL氏に出会って、かつてなかったみたいに、お互いの、眼を見つめながら、短い会話を交わした時に、私は渡辺幸子さんの、嫉妬に基づいて、去らなければならなかった、国際基督教大学同窓会展での、悲しみを癒されたのだから。
なつかしさという物を、満足させてくれる、良い会話だったのにもかかわらず、私は、やはり、とんでもない事を彼の会話から発見してしまうのだった。申し訳ないとも思う。自分があまりにも頭がいい事が。(苦笑)
だけど、丁寧に、かつ正確に、その時の会話を再現して行こう。それが、今般の、財務相のセクハラ記者の存在と、福田事務次官の辞任への、解明につながると、思うからだ。
私・・・・「あら、こんなところで会うなんて?」
L氏・・・・「ええ、僕は、今は、朝日を退職しましてね。ここで教えているんですよ」
私・・・・「えっ、国連大学で教えているのですか?」(びっくりして、私の小さい眼が大きくなってしまう。でも、彼なら、その能力はあると、思い、リタイア後に、いい仕事に就いたことを知って、こちらもうれしくなる)
L氏・・・・「それと、朝日の若い記者連中にも教えているのですよ」
私・・・・「本当? で、何を教えているのですか?」
L氏、・・・・「記事の書き方です」
「ここで、徹夜明けの身が持なくなりました、続きは明日書きます」と、言って、置きながら、27日には加筆をしなかったわけです。でも、凄く深い読み解きが必要な処なので、土曜日、28日の夜に書きます。皆様は、ここに、大きな秘密が隠れていることをお分かりですか? 私は、長年の、朝日新聞ウォッチャーにして、しかも朝日新聞を、批判をする者です。40年以上前から、批判をし始めて居て、しかも、中学生時代から、新聞部・部員でした。専門の会社が、活字を拾って、印刷してくれる本格的なものでした。だから、『これは、まずいなあ』と、判ったわけです。そこの詳細は、土曜日の夜に書きます。
後注1、
井上ひさしからの、激しい私への復讐に、協力をするNHKnews。美人局と言う語彙は消えたのか? そして朝日新聞とは? 2018-04-25 00:43:36 | 政治
後注4、