この文章は、増田忠氏分析の四となります。前報と、時間を空けて申し訳ございませんでした。でもね。結構横道にずれます。それは、お許しくださいませ。私は、書く時の助走期間が必要で、特に難しい問題を書くときはそうなります。そして、1月1日の午前一時まで【増田夫人とうちの母の違いは?・・・母は私に全てを託して空の空となり旅だった・・・増田忠ー4】という総タイトルでしたが、その時点で次の物、さらに、一時間後に、三番目のもの(上)へと変更しました。
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副題1、『母の最期は、東北のお坊さんの入寂と同じであった。または、エリザベス一世と同じであると言うべきか?』
私の母は、老人ホームへ入っていたのですが、92歳10か月目の夏に、「もう、何も食べたくない」という意思表示をして、それから、二か月、子供たちは、胃ろうや、点滴で、栄養補給をすることはやめて、水分だけ与えることにして、母は、水分だけで、生きて行って、二か月後、ほぼ、ミイラ化した状態で亡くなりました。お医者様の診断書では、死因は、「大往生」と、書いてあったそうです。
最後のころの様子ですが、頭蓋骨に茶色くなった皮膚が張り付いているという状態でした。よく昼間見舞いに訪れている妹と弟がお医者さん、及び、老人ホームのスタッフと相談して、点滴で、与える水の量をどうするか、検討をしたそうです。最後の週は、500ccと、定めたそうです。一日に、そうなのか? 一週間で、そうなのかは、知りませんが、。。。。。
これは、威張るために言うのではなくて、たぶん、本当のことだと思うから言うのですが、母がものを食べなくなったころ、不思議な話をしました。よく夜に見舞いに行く私に対して、ベッド上の母が、「ここに妹が居るでしょう?」と、言うのです。同じ部屋に、もう一人、別の人間が居ると、言っているみたいでした。しかし、現実には、母と、私の二人しか、居ないのです。
私は母のその時の、妹と言う語彙が、本当の妹・喜美子を、さすのだと思っていたので、「喜美ちゃんは、この部屋には居ないわよ。もう、帰ったのよ」と、言いました。すると母は「いいえ、違うわよ。喜美ちゃんじゃあなくて、別の妹よ」と言うので、私は、大いにと惑いました。でも、ふとあれを指しているのではないかと、きがついて、「お母さん、もしかしたら流産をした?」と聞きました。私も一回、知らないうちに流産をしていたことがあります。お正月の休みで子供が学校へ行っていないので、病院へ行けませんでした。また、休みが終わっても、まだ、小学校低学年で、早く学校化から帰ってくるので、なかなか病院へ行かれず、ほぼ、一週間も動脈が開いたままに放っておいたので、実際に病院へ行ったときには、病院側から大きな誤解を受けたのです。
お医者様が、・・・・・これほどに、我慢をするとは、私の精神がものすごく強いのだ・・・・・と誤解をして、麻酔をかけないで、掻把(部分的に残っている胎盤等を、子宮壁からはがす手術)を、したので、私はダメージがひどくて、顔色が、緑色になったらしいのです。気持ちも悪いし、むろん立っていられないし、座っていてもさらに寝たいぐらいでした。」で、そばにいた患者さん達が「先生、この人死にそうです」と、騒いでくれて、やっと先生が、事態を正しく把握して、「原因は麻酔をせずに掻把したことに在ります。申し訳ございませんでした」と謝罪をしてくれました。
母も大体似たような経験をしたらしいのですが、場所が、東横線・武蔵小杉だったので、風土上、患者さんが大切にされるところなので、麻酔なしで、掻把するなどと言う乱暴な処置はなかったでしょう。ただ、麻酔が効きすぎるタイプで、それで、死にそうになって、大騒ぎだったそうです。
私の方は、横須賀、京浜急行・横須賀中央駅最寄りの病院でしたので、やっぱり風土上は田舎なのですね。お医者様の方が、上だと、言う認識の風土。だから、麻酔も無しに、掻把されてしまったのです。無論のこと、「これは、流産ですよ。今から掻把します」と、言う説明も無しに、掻把されちゃったのです。出産以上の痛みでした。本当にすごい痛み。で、ショック状態に陥ったのです。精神的にではなくて、肉体的ショック状態です。動脈がひらっきっぱなしの一週間で、大量の赤い赤い、鮮血も失っていたので、それも悪かったのでしょうが。。。
で、そういう自分の経験を思い出しながら、「お母さん、その、流産した、赤ちゃんのことを(今)思い出しているの?」と聞くと、 「違うわよ。ほら、妹が、今、あんたの目の前にいるでしょう?」と言うのです。私は、所謂ぜいもうが、これを言わせているのだと判断をして、それ以上は、質問をせず、無論、反論もせず、黙っていました。
しかし、以前、6冊目の本にそれを入れたと思うのですが、あれが、ターニングポイントだったと思っています。つまり、母は、自分が、娘であり私の妹であると、言ったのです。それは、どういう意味合いを指すかと言うと、『ねえ、ちっちゃん(私を母が呼ぶときの名前)、私は、自分のすべてをあんたに理解してもらったとおもっているから、自分の方は、もう、空も空、何も残っていないのよ。この世に、思い残すことはないわ』と言う事だったと。
この5年ぐらい前に、自宅だと、パソコンの仕事ができない時期があって、外のパソコンを使っていました。ネットカフェで、外のパソコンを使いながら自分のパソコンを充電して、お昼を食べながら錦糸町のジョナサンで、自分のノートパソコンで仕事をしていました。すると、隣の席で、カウンセラーが、企業の、労務担当の、課長と話しているので、「すみません。一時間で、一万円支払いますので(今から16年以上前の相場です。友達がかかったことがあって、そう教えてくれていました)、私の方も、話を聞いていただけませんか?」と、言って相談に乗ってもらいました。
しかし、これは、今思うと、仕込まれた出会いだったと思います。私のノートパソコン、および、私が編集しつつあった書物用ファイルは、microsoft word で、作っていたのですが、そのソフト=アプリを使った、fileには、すべてに隠しファイルというものが、入れ込められていて、インターネットで、つながっていると同じ機能があり、どこで、仕事をしていても、把握をされるのです。で、二時間分の編集が、あっという間に白癬化して、消えてしまったことが何度もありました。今は、ブログで、書いている場合は、防衛と復活ができる様になりました。しかし、ワード単体で、仕事をしているときは、復活ができず、また、入力をし直します。とても大変な人生ですが、それだけ、私の書いているものあ高度なので、人気が出たら大変だと、思っている連中が、これを、やっているのです。まあ、精神的に悪事を考え出す人間と、機械的に破壊を実行する人間は、別ものでしょうが。
そのカウンセラーが、雪の下二丁目の谷戸からは、引っ越した方がいいというので、は、ハーン、敵さんが、いわゆる、回し者として、この人を派遣しましたねと、思った次第です。
でも、その後、ネットで、この人が出てきたので、本物の、有名カウンセラーらしいですよ。誠実そうな人ではありました。
ただ、このエピソードをここで、さらすのは、思いがけない知識をこの人が与えてくれたからでした。それは、母と、私の関係において、長幼の序は、逆転していて、実はわたくしが、母を支えているのだと、言ってくれたからです。私が、実の母にとって、母親みたいなものなのだと、いうことらしいのです。そういえば、銀座で、一種の美術評論をしていた時期にも、「川崎さんって、まるで、お母さんみたい」と言われていました。
そして、これが、増田忠さんと関係があるのです。私は、あの最晩年の増田さんと付き合っていた、1907年ごろ、実は、増田さんの、保護者の役目とか、カウンセラーの役目を果たしていたのでした。
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う、今、2000字消えました。すぐさま、再入力しましょう。クラウドに乗せていなかったので、復活が無理です。うえに書いたとたんに、やられてしまいました。悪い奴ら目!
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副題2、『増田忠さんは、家族の愚痴とか、悪口を言わない人だった。だが、客観的にみていると、もう、一人で、自分を支えきれない段階に達していたのに、子供に救い(=生活の上での同居、または、老人ホームに入れてもらう。費用は、子供が負担をする、という救い)を求めない主義の様だった。私は、それが不思議で、今、この文章を書こうと、取り組んでいる段階だけれど・・・・・
他人の悪口は、平気で言う人だと思う。それは、賢いといえば賢い方法だが、私としては、憤懣やるかたない。
だって、第二期の交際期間では、増田さんは、それこそ、幼児がえりをしたといってよいほどに、私に甘えていたのだから。
例えば増田忠さんの結婚だけれど、義姉と、自分は初婚、相手は子供連れの未亡人としての再婚、などという話は、お子様二人ともに知らなかった話であろう。私は、上の、お子様が結婚をするときに、彼女にだけは、真相を話したらおいおい泣いた。だが「お父様ありがとう」と言ってもらえたのだ・・・・・と、聞いている。
私は、そのエピソードを聞いて、まず、だから、増田さんは息子と同居(同じビル内に住む。生活は、完全に別)を、甘受し、お嬢さんの方には、助けを求めないのだと、理解をした。
もう、腰が、90度曲がっていて、しかも、痛いのだそうだ。それで、金属製の、むき出し型の外階段を三階まで、上がっていくのは、本当に苦しいことだと思う。私の忠さんとの、大人になってから始まった第二期の交際は、こうして、圧倒的なレベルでの、同情心から始まっているので、ほとんど、自分のことはしゃべらず、増田忠さんの言うことを聞いていた。是って。期せずして、最上のカウンセラー役を果たしていたということになる。
しかし、「お金なくなっちゃったのよ。ちえこちゃん、お昼ごちそうして」までは、良い。だけど、室内の写真を見せながら「ちえこちゃん、僕のベッドを整頓しに来て」には、ぎょっとした。
この時より、2年後、ニューヨークで知り合った女性が、自分の部屋に招いてくれたことがある。私は、マンハッタン島以外の地域で、800ドルで、2DKの独立したアパートを借りていたが、彼女は、シェアルームを、マンハッタン島内で、借りていて800$ 出しているとのこと。大変親切な女性だった。が、室内に入ると、ベッドの上に、金属パイプが渡してあって、ピンクのセーターや、カーデガン(ニット類)が、40着程度、かけてあった。「あ、母国に帰った時に売るのだ」と考えたが、増田忠さんの、ベッドは、まさに同じ状態で、ただパイプにかかっている洋服が、ニット類ではなくて、ウールの黒の、ジャケットやら、おズボンだった。それが違うだけだった。でも、マンハッタン島の女性の使用しているベッドは、サイズが大きい。だが、増田さんの部屋のベッドは、小さかった。だから、NYでは、パイプにたくさんの洋服がかかっていても、ベッドに、腰かけるスペースがあった。私と彼女は、だからベッドに座って歓談をした。でも、増田さんのベッドは、きゃしゃな増田さんが、寝るサイズしかなかった。そして、その上に皮のベルトが通ったままのおズボン等が下がっているのだ。これじゃあ、布団と、お洋服の間のスペースが、40~50cmしかない。若い人なら、なんとかなる。だけど、70を越した人は、休憩をしたいのだ。だけど、きっとソファーや、ロッキングチェアを置くスペースなどなくて、ベッドに腰掛けるのが、唯一、休憩をとる場所であろうに、そこに、座れないなんて、なんということだろう。そうか、雨の日など、ずっとベッドに寝ている。それが腰を痛めた原因だろうと思いいたった。母の老人ホームも台所が、ない・・・・という以外はほとんど同じ形式のワンルームだったが、共用のダイニングとリビングがありソファと、90度背を立たせる形の椅子があった。どちらかを選んで、新聞や雑誌を読んだりできるのだった。そこと、自室との往復、おフロ場と、自室との往復。そんな些細なことでも、動きの種類にヴァリエーションができます。そういう運動でも、老人が体を健康に保つのに役立つのです。
どうしたの? 増田さん、日吉のあなたの家は、土地の名義が、ママのものだったのかしら? ママは、遺言書を書いていて、ぼっちゃまに、60%を譲るなどと、書いてあったのかしら。で、お嬢様が20%、ご自分が、20%だったのですか?
でも、ともかく日吉の家を売らせておいて、こんな、みじめなスぺースにパパを押し込める‥…不思議な坊ちゃんですねと考えていた。増田さんの言葉が、「セックスしましょうよ」の暗喩だとは無論わかっていたが、そこに頭を割くよりも、老人、特に親に対する子供側の、心理(無理解度の大きさ)にただただ、関心が行っていた。
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副題3、『第一期交際時に、ジャンコクトーの詩【耳】を東横線車中で、教えてもらっていた。・・・・私の耳は、貝の殻、海の響きを懐かしむ・・・・16~18歳までの高校在学中に、東横線車中で増田さんが、教えてくれたこの詩は、1925年出版の堀口大学訳詩集【月下の一群】に出ているそうだ。だが、増田さんが、日本語でそれを語ると、・・・・・あ、この人、フランス語も、知っているのだわ。きっと、フランス語でも、暗唱できるのよ』と思った。それが、1958年から、1961年までの、話で、それ以前、1950年からは、毎晩11時過ぎに、増田さんが、奏でる、グァルネリだと思われる、美しい音色を聞いていた。参った、参った。どうしちゃったの? 増田さんと、思う。かつ、当日は、これは、ジョークだろうから放っておけば、自然に消滅すると、考えていて、返事もしなかった、セックスへのお誘いが、次の日の早朝5時からの長電話になるなどと、どうして、理解ができるだろう。
増田忠さんは、メンターとして、指導をするというタイプではなくて知識を与えるという指導者だったが、目を輝かせながら、吸い取り紙の様に、瞬時に話を理解をして、尊敬のまなざしを向ける私は、自分に喜びをもたらす存在だったと思う。その感謝の気持ちが、その30年後に、大切に、思う気持ちにつながっているのに、どうして、それを壊しちゃうんですか?と、深い深い怒りにかられた。特に次の日の早朝、
灘るっこしくて、ずるい電話をかけてきて、私が暗喩の意味を正確に察しているかどうかを探ろうとされたのには、怒りが、三重ぐらいに膨らんだ。
娘が、お母さんは、切れたら怖いという。それは、彼女が三歳程度の時に、西南隣の五歳の女の子が、幼稚園に通わせてもらえず、毎日我が家に遊びに来たが、親が、かっこうの托卵よろしく、幼稚園の月謝を払いたくないので、私を利用しているというのを見事に察して、私のことを小ばかに仕切っていた。父親は、銀行マンだから、お給料はいいはずなのに、投資資金でも、ためているのか、その子には袋菓子を買って与えていないらしくて常に、五袋ぐらい、準備してある、我が家の引き出しから、袋菓子を盗み出して、勝手に食べてしまう。叱っても、叱っても言うことを聞かない。で、押し入れに隠れて食べている現場を母親を呼んできて見せた。これで、やっと、その子は、よそのおばちゃんをなめたら、とんでもないことになると学習したであろう。そして、娘もお母さんって、すごい決断力があると、三歳にして理解をしたのだった。お母さん=千恵子さんを怒らせたら誰にとっても、とても怖いことになるのだった。
増田さんが子供のころに与えてくれたヴァイオリンの美しい響きをはじめとする、数多い恩恵は、その早朝の長電話で、一期に消え、思いは、逆転した。私は、一時間は我慢をした。が、午前六時になった時に「増田さん、会社に行く息子の朝食を作らないといけないので、ここで、切ります。もうお電話は、よこさないでください」といった。彼には衝撃だったと、思う。で、増田さんは、この第二期の交際が、始まった日と同じく、曲がった腰を、いたわりながら、日吉・常盤台・バス停から、西へ向かう急坂を上って、沢野邸へ向かい、そこに寺沢夫人も呼ばれて、私の悪口を言い合う大会を開いたのだった。そして、それがその20年後に、小田歯科医院の院長先生のいじめに出会い、びっくりして、あれこれ書き始めると、水沢勉・現・葉山の美術館・館長を守るために、ゾフルーザ問題が、まず、メディアで取り上げられ(沢野家は、塩野義製薬勤務である)、その次に、カリタス小通学バス襲撃事件が起きてきた。寺沢家のお嬢様二人が、1970年代カリタスに通学していたからだろう。
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副題4、『私を救うものは、考えることで、それは、文章に落とさないと頭が破裂する。その文章だが、登場人物を実名で、しかも、公開で、書いているのは、そうしないと暗殺されるからである』
で、今、書いているこのシリーズだが、増田忠さんに対する、復讐のために書いているのではない。私は、考えることが大好きであり、考えることが救いになっていて、どんな被害にあおうとも、平静に、普通の生活を送ることができている。で、考えた結果だが、それは、文章に落としておかないと頭が堂々巡りをして破裂をしてしまう。で、このシリーズも自分の、ストレス解消のために必要な考察の記録である。
この間、用事があって30年前、礫というグループで、一緒に勉強をした、そして、そのころ以降永年にわたって新制作の会員である・馬緤さんに電話をかけた。すると彼女が、「あなた、今、何をしているの? どこで、発表をしているの?」と詰問をしてきた。で、「ブログを書いている」と答えたが、まったく理解がされなかった。で、「川崎千恵子は、ひとかどのアーチストとしては、終わったんだ」と、みなされたと思うが、今は、これで、いい。
:::::::::ここで、次の日に挿入します。私は誰に引っ張ってもらったわけでもなくて、美大を卒業してもいないのに、女流展とか、国展にさらっと入選します。そして、国内外で、9回も個展をしています。CIAに弾圧をされているので、有名人としては、浮上できないのですが、実物を見た、海外の有名人(ニューヨークの二つの美大のFINE・ART学部・部長・教授など)が、皆さん、驚いて刮目をしてくださるので、センスの良い画家・版画家なのです。だが、国画会で、大勢力者島田章三さんの後ろにCIAエージェントが居るのを悟ってしまったし(これは、北久里浜の旧水道山をめぐる大・実質的詐欺事件が関与しています)、銀座で、個展をしようとすると、今度は、野見山暁次さんが、ギャラリー山口に、私が居る時間帯に、千里さんを伴って現れ、「川崎千恵子には、親切にしないで、欲しい」と、私が、帰った途端に、命令してしまうのですから、もう、面倒くさくなって絵画とか、版画の発表をやめてしまったのです。しかし、父が、毎晩油絵を描いていたので、一種の二代目として、あまり、物おじをしないで、上野の公募団体展に入って行ったのですよ。父は、美大卒ではなくて、石油の技術屋だったのです。ただ、日本は、石油が、欲しくてたまらず、中国で、それが、出ないかと、期待をされていたので、普通のサラリーマンより優遇をされていて、戦争に行っても、すぐ帰る事が出来たのでした。で、父が、満鉄、中央試験所時代に、中国の遺跡を油絵で、描いて、安井曾太郎氏に絶賛をされて、新聞記事になったり、ラストエンペラーの宮殿、甘粕大尉(当時、満映理事長)とか、満鉄総裁の部屋を飾っていたのです。で、増田さんが、夜の11時から、ヴァイオリンを弾くのと、まったく、同じ様に、うちでは、父が、夜の11時から、油絵の小品を居間で、描いて居ました。じゅうたんの上に、正座して。(別室は、寒いし、は亜hがそばにいないと、寂しいのでしょうね。男って、子供です。大体において。あ、は、は)で、私はね。自分にアートの才能があるのは疑っていないのです。だけど、本当に、面倒くさいことになって来たし、山口みつ子さんが、そういう傾向の抵抗して、ずっと親切にしてくださったために、殺されてしまったと言う事があり、それが、一番、いやな事であり、アートシーンから身を引いたという形になっています。山口みつ子さんが、自殺したと言う毎日新聞での、文字による報道や、読売新聞の入り口の写真を使って暗喩的に、自殺だとした、それらを、否定するために、このブログを書いていると言ってもいいでしょう。私は、自分一人のために戦っているわけではないです。千里さんと銀座でもし、出会っても、ひるむことはないです。別に喧嘩を仕掛けるわけでもないが、ひるむこともないです。一緒にお茶してもいいですよ。::::::という挿入を入れて、元の文章に戻ります。::::::::
ところで、それなら、非公開で、書けば? とおっしゃる方もいるだろう。だが、すでに六回は、殺されそうになっている。どうしてかというと頭が良いことが、1965年ベイカーさんという イェール大学からの交換留学生に見つけられてしまったからだ。ただ、眉をひそめただけで、彼に一回殺されそうになっている。旧中島飛行機の滑走路で、後ろから、首を絞められてだ。
で、増田さんがどうしてあれほどに変化したのかが、不思議である。で、それを解明する一手段として、・・・・靴下修理のエピソード・・・・・を取り上げよう。これは、すでに一回書いているが、その時とは、まったく違う深みをもって、再度取り上げる。
私の母は、父の会社の経理を担当していたので、ものすごく忙しいので、常にお手伝いさんを雇っていた。だんだん、見つけるのが、上手になっていたのだが、一番最初は、家を建ててくれた大工さんの紹介で、元全日本クラスのバレーボール選手が静岡県からやってきた。彼女は、離婚経験済みで、母とは、5歳程度しか差がなかった。そして、自分の子供もいるらしかった。だが、新聞に載るぐらいの選手だから、東京で、富裕な暮らしをするのにあこがれていたらしい。で、母を追い出して、父と結婚しようと考えていた。私はたまらず、父に、「こういうことだから、あの人をやめさせて」と頼んだ。父は、鼻を長くして、彼女の媚に、悦に入っていたが、私の方を選んでくれた。
このころ母は、女医さんに、紹介してもらうという方法をまだ、思いつかなかったので、我が家から、100mぐらいの近傍に住んでいる、奥さん=Nサンを雇った。
このNさんは、現在の朝ドラの主役、福来スズ子さんの実家と同じく、銭湯を戦時中まで経営していた。蒲田だったという話だ。しかし、戦争で、焼けてしまった。
この章のサブテーマは、実は、戦争だ。我が家も、大きな被害を敗戦によって受けているのだが、増田家も、戦争の、被害を被っている一家だった。増田忠さんに諦観がある模様だとすでに言っているが、それは、中島飛行機の、消滅とか、忠さんの兄の死とかが絡んでくる。我が家にもものすごい被害が襲っているのだが、今、それに取り組むと、100万字必要で、この章が、終わらなくなるので、ただ、我が家も大きな被害を被ったと、だけ、言っておこう。
さて、そのお風呂屋さんの奥さんだが、夫が、働いていなかった。男が、元お風呂屋という商売をやめて、すでに、40代後半だとなると、再就職口はない。しかも、昔は、日銭が入るお金持ちだったので、今更、建設現場で、人夫(=ニンプと発音する。今の作業員のこと。当時は、こう呼んだ)として働くなど、できないプライドもあった。で、奥さんは、急に貧乏になったので、仕方がなく、お手伝いさんを始めたのだった。で、スズ子さんの母親=水川あさみとは、違って、でっぷりとした、林真理子スタイルで、肝っ玉母さん風であり、如何にも庶民的だった。ぐわっ、は、は、と、大口を開けて笑う様なタイプだった。
ところで、この人を雇ったら、突然に増田夫人が乗り出してきて、「うちにも来てください」と頼んだらしい。で、この人は、週に四日、我が家で、週に三日は増田家で、働くことになった。前のお手伝いさんは、静岡県から来ていたし、24時間泊まり込みだったので、増田夫人は手を出さなかったが、今度の奥さんは、100mぐらいの、近傍に住んでいるので、町内会は、違ったが、すぐ、手を出すことができるのだった。
ある日のこと、この奥さんが我が家に来て、こういった。お茶のみ会の、時間だったと思う。「ね、ね、奥さん。増田さんちって、とっても変わっているのよ。小さな黒板があってね。そこに、パパがね、・・・・ママ、靴下の修理をしてください・・・・って書いているの。そして、そばの壁に穴の開いた靴下が画鋲で、とめて下がっているの。・・・・ぐわっ、は、は」と。そう。お風呂屋さんを経営していた家族だ。大家族。そして、家族間の協力と連携は、日常茶飯事の、必要事項だった。だから、黒板にメモを書いて、連絡しあうなんて、彼女にとっては奇異なことだった。だけど、その話を聞いた母は、すぐさま、その家に飛んで行ってNさんの妹と交渉をした、「あなた、すみませんが、我が家に来てくださいませんか? お姉さんの方は、増田さん専任にして」と。で、そういう風に変更になった。
母は、今でいうプライバシーの保護という観点で、二つの家で同じ、お手伝いさんを雇うことの危険性に気が付いたのだった。
ここまでは、今まで、書いてきた。しかし、本日は、二つほど、新しい考察を加えよう。
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副題5、『増田夫人とは、どういうコネを使ったのかは知らないが、表向きは、編入制度のない学芸大学付属小学校へ、お嬢さんを編入させた。それは、私が、横浜国立大学附属中学校へ、ほかの受験生に、50点の差をつけて、一番で、合格したということが、当時は、人口五千人ぐらいの日吉の街で、大評判になった年のことだったと思う。特にご自分宅の私塾で、私に受験勉強を教えてくれたM夫人は大得意で日吉台小学校の担任の先生(石川先生、私の担任ではなかった)に教えたと推察される。石川先生は日吉駅前の薬局のお嬢様で、日吉地区代表で、市会議員に打って出るさまな方だから、人脈が広くて、私は、日吉の街でいささかの有名人であった。一方「パパは、二眼レフで、運動会へ、向かうそこのご長女様と、二歳上の私を一緒に写真にとってくれたほどで、それほど、強く、差別をしなかったが、増田夫人の、対抗意識は、相当なものだった
私は、子供心に、増田夫人が非常に勝ち気で、我が家に対抗心を持っていることに気が付いいてた。実は、このことは長らく秘めていたことだったが、事実だろう。増田夫人は、人間として、未成熟で、わがままなところがあったと思う。それが、どうして、そういう風になるかというと、原節子に似た美女であったということと、実家がお金持ちだということが、そういう彼女を作っていたと思う。これは、ほかのケース(副題5の、サブタイトルで、書いた通り)でも、うかがえることだった。
今は海外駐在員というのが多い。中学生とか、高校生で、海外派遣をされると、日本の大学受験に不利となるので、親は若いうちに出掛ける。で、「子供が、いったん付属小学校へ入った後で、三年と、四年だけは、ニュ-ヨークにいました。五年で、帰国しました。だから、編入させてください」と、いえば、編入させてくれると思う。だけど、増田家は、海外にいたわけではない。そして小学校の段階での編入は明文化は、されていない制度だ。どういうことが裏であったかというと、増田夫人の知人か、親せきに、付属小で、PTA三役を過去にやった人がいて、校長先生と懇意だったりしたら、可能なことかもしれない。
でも、国立の施設でこういう特例が認められるのは、いやなことだと思う。東大への推薦制度も、その一つで、それが、政治的に利用をされえ居るので、日本が暗くなっている一要因だと思う。お嬢さんは、のちに慶応大学に入るのだから、頭がいい。普通の形で、私立中学受験をしても大丈夫だと思う。だけど、増田夫妻のどちらかの過去に、中学受験時に、不合格があったと仮定すると、こういう風な用心をする可能性もある。増田夫人は、神戸の人だから、神戸女学院が最高ランクの入学先だとなる。でも、そこがダメだった過去があれば、ああいう用心をする可能性はある。
増田夫人は、この編入の前、もっと、お嬢さんが小さかった時に、刺しゅう入りのブラウスを着せて婦人之友のグラビアに載せていた。すべて、「我が家は、上流で、ございます」という示威だったと思う。ただ、増田夫人ががんで亡くなる前に支配していた主婦の数は、五人にも、満たなかったと思う。それが、この雪ノ下二丁目の、前田清子さん、安野智紗夫人をトップとする支配とは、異なるところだった。理由は、さらに、上を行く賢い主婦がいたということに尽きる。派閥とか支配とか、上下関係とかからは、自由でいたいと考えている人もいたということ。「
そして、誠実さの問題だ。お手伝いのNさんが、小さな黒板に書いてあったパパからの伝言「ママ、靴下を修理しておいてください」というのを見つけてしまったのは、ひとつには、パパに注目をしていなくて、黒板の命令をすぐさま実行をしなかったので、10時に来るお手伝いさんに、見つけられてしまったということ。それは夫に対して、不誠実だと、いうこととなる。
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副題6、『しかし、2023年の今、私は、もっと、違うことに気が付いてしまった。実は、増田夫妻は、音声を出す言葉で連携が取れないほど、仲が悪かったのではないかという説である。
それを私は、戦争のせいだと思うのだ。戦争で、兄が亡くなったと仮定しよう。戦死ではなくて、結核などの病死としても、あの頃は、栄養が足りない時期で、かつ、結核に効く薬が、まだ、無かったので、バタバタと、知的な感じの青年(今でいうお宅系とか、草食系という男子)が、死んでいったのだった。
で、これは、もう書いたと思うのだけれど、公開されているブログの中では、見つけられないので、裏から消された文章があったので、そこの部分かもしれない。だから、もう一回書いて行こう。増田さんは、それをお子様にも言っていなかったらしいが、実は、奥様は、初婚の人ではなくて、兄のお嫁さんで、既に、お嬢さんが居た女性だった。
増田さんは、諦観の人だったと、私はどこかで書いている。お見合い結婚だけだったあの頃、増田忠さんは、、自分は、結核を、患っているから、釣り書き(身上書)にそれを書く限り、良い家の、良質なお嬢様とは、結婚が出来ないだろうと思っておられた様な気がする。
義姉(=勝ち気で、我が家をライバル視していた奥様)の方は、あの時代だと、良家のお嬢様で、女子大などを出て居ないとなると、良い職業につくのは、無理で、したがって、慶応でのサラリーマンである忠さんなら、いいわ、良かったというところだろう。増田夫人は、原節子似の美貌の人である。そして、実家は、お金持ちで、有力者である。忠さんにとっても、理想の相手に見えただろう。
しかし、結婚とは、いろいろな側面を伴うものだ。特にセックスの側面で‥‥もし、増田夫人が前の夫の方が肌合いが合うと、感じて、それを、つい態度で、表現してしまったら、どうだろう?
増田夫人は学校の偏差値という意味では、お成績は良かったと思う。だけど、苦労知らずの、お嬢様特有の、自分勝手なところはあった。増田家は、忠さんの好みだと思うのだけれど、ケヤキとか、シラカバなどの背が高くなる落葉樹を植えていた。そして、植木屋さんを雇っていなかった。だから、秋から冬にかけて、落ち葉がひどかった。雨水を流す側溝は、当時は増田家側だけあって、蓋がない形式だった。母は、おお手伝いさんが、帰った後で、竹ぼうきで、たびたびそこを掃除していた。で、母が掃除をしているところから、増田夫人が編み物をしている部屋までは、6mぐらいの距離だったと思う。増田家は、日吉の家もコンクリート製(リフォーム後の話)だったから、音は、聞こえないと仮定しても、母の姿は見える筈だった。二人は、増田夫人が癌で、入院してしまう前まで、40年近く、隣の人として、暮らしたのだけれど、その間、増田夫人が、自宅の葉っぱを片づけたことがないそうだ。
ここで、上に書いた、お菓子を盗み食いをするお嬢さんの話に戻る。その母親なのだが、上の、男の子は、かわいいらしい。男の子の方は、二年間(当時の平均)ちゃんと幼稚園に通わせた。そして、男の子の友達の母親とはママともとして、一緒にお買い物に行ったり、自宅にあげて、お茶したりして交際をしている。にこにこしながら、我が家の居間から丸見えの、南側の道路を使って、買い物に出かけている。私は毎日、毎日、その家の五歳のお嬢ちゃん(お金をけちるために幼稚園に入れてもらっていない)の面倒を見ている。特にお菓子を盗み食いされるのには、本当に困った。最初に気が付いたのは、二人が、全く音を出さない時間がある事だった。会話がない。どうしたんだろう?と思うと、主人の事務用机の下に、隠れて、袋菓子を食べていいる時間帯だったのだ。で、夜になって気が付いたのだけれど、そこに、ビスケットのかけらが、落ちていた。
私が特にイライラしたのは、彼女が、毎日お礼に来ないのに、お兄ちゃんの友達のママ友とは、にこにこしながら、楽しく楽しく午後過ごしているからだった。本当に腹が立った。だから、ある日、押し入れ下の段の、客布団の間に、挟まって、例のごとく、お菓子を盗み食いをしている、午前、9時半ごろ、母親を招いて、現場を見せた。お嬢ちゃんは、震えあがっていた。これを無記名で書いていた。と言うのも、全く同い年の子供を持って居る8050ママに、こういう事を相談したかった。と言うのも私は、ご近所に悪口を言わないのだが、上滝夫人は、ご近所に悪口を垂れ流していて、私が大損をしているからだった。しかし、8050ママは、「あら、私はね。ご近所付き合いはしないの。だから、愚痴を言う必要はないのよ」と言った。私は、「えっ、そんなことで、子供は育たないわよ。何を威張っているのよ。私に、協力しなさい」と言いたかったが、8050ママは、成果主義の人で、社会的に地位が高い女性で給料も高くもらっている人しか尊敬をしなかった。そう、相手に、子供が居なくても、<<<オックスフォード出版会に勤めています。訪問すると、港区内の特に有名レストランで、ランチをおごってくれます>>>という形で暮らしている葉っぱちゃんにしか、相談をしないのだった。
上滝夫人に戻る。私が人生で、もっとも、迷惑をかけられて、イライラさせられた女性が、上滝夫人だった。で、これをメルマガか、ブログで書いたので、さっそくCIAエージェントは、彼女たち一家に飛びついた。で、お父さんが、勤務していたときわ相互銀行(当時の名前・・・・現在は、東日本銀行と改名している)を横浜銀行と合併をさせ、コンコルディア銀行と名前を変更させたのだった。これは、横浜銀行にとっては、大損だったと思う。
横浜銀行とは、神奈川県の住民にとって、大変便利な銀行で、三菱UFJ銀行よりも支店が多い。例えば横須賀市だが、三菱の方は、たった、一行であるが、横浜銀行は、6支店ある。だけど、鎌倉支店を見る限り、規模を縮小している。一階の広いスペースを、接客用に使い、三菱UFJ銀行と、ほぼ同等だったのに、今では、三階にスペースを写して、かつ、縮小させてしまった。裏駅(=西口の事)に在ったATMも閉鎖させた。
上滝夫人の、あのとんでもない、他人を利用するだけ利用して悪口を言っている悪辣さが、
そして、さらに、上滝家を保護するためにたぶん、部下である、遠藤某を我が家の西隣に住まわせたうえで、そこのお嬢さんを養老孟子先生ご夫妻と、川合良一ご夫妻の仲人で、妙本寺へ、お嫁入りさせた。この件は、もう書いているので、後で、リンク先が、見つかったら、ここに置こう。
そして、上滝夫人は、幼保無償化という政府の施策を招いた。これだが、このことによって、幼児教育は、ビジネスと化した。国庫から垂れ流される、お金を使うほどに楽な商売はないからだ。で、商売として、幼児教育を行う子供園が増えたので、送迎バスの中に置き去りにされた子供が、運転している経営トップの注意も引かず、担任の注意も引かないと、言うダブルの不注意で、熱射病で、死ぬと言う様なことが起きるのだった。
ここで、午前二時半になりました。元旦の準備をしないといけないので、中断します。
だが、ちよこレート遊びとは、この上滝家が、私に意地悪をするために、特に大・実質的詐欺事件の際に、昼間行ったものです。
しかし、その後、2012年過ぎに前田家が、孫を使って、二度か三度、夜行い。それに引き続いて、関本家が、子供を使って、同じく夜行いました。まったく安全なことをやっていると思っているでしょう。だが、あれは、上滝家が、私に恥をかかされたから、我が家の子供を阻害してやろうとして始めた事です。したがって、前田家は、子供園の送迎バスに取り込野されて亡くなった、お子様方の事件に、1%ぐらい関与しているという事になり、関本家は、一階なので、0.5%関与しているという事になります。
今、あの上滝家のお嬢さんから、毎日、毎日、お菓子を盗み食いされた時代から、50年(正確には、48年)後です。私は、良く、神様はいらっしゃると、言っています。浜銀・鎌倉支店を見ていると、経営上、もうけが少なくなったのだろうと、感じています。浜銀は、彼ら悪人たちに協力しすぎです。上滝夫人の行った悪から始まっていることに協力をし過ぎです。被害は、鎌倉支店だけに、終わらないかもしれませんよ。早急に改善しないと。
それから関本夫人に言いたいです。だれが、あなたに「こういう事をやりなさい」とチヨコレート遊びを、命令しましたか? 夜、子供を遊ばせる。それに、千代子レート遊びなんて言う、小学校低学年までが、興味を持つことを、もう、大きなお宅のお子様にやらせるなどと言う、異様なことを命令された際には、
もしそれを、実行すると、必ず、雨宮舜(本名 川崎千恵子)に、ブログで、詳細に描かれるのだと、ちゃんと覚えてくださいね。
前田清子さんの方は、使ったのは、孫です。一緒に、この雪の下の山には、住んでいない。だから、まだ、通園バスに取り残されて、熱射病で、亡くなったお子様たちの、無念の、思いの、影響力は、関本家よりも、少ないかもしれない。その上、前田清子さんにやられた事の総体があまりに大きくて、そこから、出来した損害もあまりに、巨額なので、私には、彼女に注意するつもりは、もうありません。・・・・おやりなさいよ。勝手にね。なんでもご自由にね。でも、神様の采配が、何時、顕現するかは、わかりませんよ・・・・・と、だけ、言っておこう。
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副題7、『増田夫人が、自分の家の崖に付属している側溝を、私の母が、掃除したり、そこや、道路に、散らばっている、落ち葉をかき集めたりしているのを、気が付いて居ながらも、何も感謝の挨拶をしなかったのは、私の母を相当にいらいらさせたと思うが、
ここで、なぜ、増田夫人が、道路掃除をしないし、母がしていても感謝をしなかったのかを、考えてみよう。』
私が、推察する一つの理由は、増田夫人は、道路掃除など、庶民とか、人夫とか、女中のやる仕事で、自分は、そういう階級の出自ではないから、やらないで、いいのだ‥・・・と、考えて居たと思う。だけど、それって、頭が固形化しているという事だ。やはり、現実に添ってほしい。誰か他人に助けてもらったら、お礼は、言うべきだと思う。
で、後年、増田夫人が亡くなってから、この件を、私に向かって、母が笑いながらも愚痴った際に、私は、自分の考えて居ることについては、何も言わなかった。だって、母を女中程度の階級の人間だと、増田夫人がさげすんでいることが分かったので、母がかわいそうだったからだ。
だけど、晩年に至るにつれて、母の方が圧倒的に金持ちになっていく。海外旅行は、自由にできるし、お土産には、上等な生地(ジャワ更紗とか、サリー用の絹地)とか、宝石を、娘に買ってきていた。忙しいので、洋服を手作りしている暇はなかったが、娘や、自分には、日本橋の高島屋か三越で、好き放題の既製服を買ってくれたし、自分に対しては、銀座小松で、白生地(ちりめん)を、いったん買ってきて、で、生地を買って洋裁師に作らせたり、既製服のいいものを買ってくれていた。年末には、段ボールにリンゴ、東京でしか買えないお菓子類を詰めて、山口県に送っていた。だんだん日本全国が、均一化して、リンゴの、富士が、山口県でも、自由に買えるのだと、わかって以来、海外旅行に一緒に行った、横浜スカーフ捺染会社の社長(女性から、何十枚ものスカーフや、ハンカチーフを買って、それを、歳暮やお中元として送っていた。お手伝いさんは、1980年代までは、使っていたと思う。毎日月曜日から、土曜日まで。
どうしてこれほど、裕福だったかと言うと、母は、経理の仕事の合間に、息抜きとして、短波放送を聴きにながら株式投資をしていた。父親が、大正期に既に、山口高商を出て居たし、兄も同じで、おじは長崎高商を出て居たので、数字に明るかった。方眼紙を横に二等分した、グラフを、50枚ぐらい、作って、二冊のファイルに、閉じていて、自分でチャートを書き込んでいた。パソコンが普及すると、自分で、チャートを書くのではなくて、パソコンをいじりながら、株式投資をしていた。
母は、「私がね。もし大根一本腐らせたとしても、その間、頭を使うと、100万円は違うのよ」とよく言っていた。原資は、父からもらう給料だったが、生活費は、父の方の給料だけで、まかない、自分の給料は、すべて、株に注いでいた模様だ。で、配当金が、お小遣いだった模様。
だが、私が逗子で、一人暮らしをしたりすると、離婚になるのを心配して「お金がある事が、幸せを招くとは限らないわね」と言っていた。しかし、私が鎌倉に帰えると、非常に安心して、私を、上に置くようになったのだった。考え方の上で、だけだけど。お金に関しては、私は、母には足元にも及ばない。ただ、母からあまりにも多くの物(指輪など)をもらったので、着るものとか、宝石に関しては、欲望がわかないのだ。そういう、物質的に後に残るもの、特に高いものを買いたいとは思わない。
さて、こういうことを言うのは失礼だが、増田夫人のお金持ちぶりは、やがて途絶えていく。たぶん、親が富裕な人で、お小遣いを、たくさんくれる存在だったと思うのだが、その親が亡くなったのだと思われる。1950年代は、お手伝いさんを雇っていたのだけれど、それは、三年と続かなかった。うちは、母が忙しくて、雇っているのだから、母が、経理の仕事を続けている限り、お手伝いさんは、雇い続けていた。そして、父が会社を閉鎖したら、お手伝いさんを雇うのを、やめたのだけれど、父が、寝たきりになってしまった後で、
すみません。これまた続くのですが、元旦の午前中は書けません。