銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

トルコ遺跡・モーテルの主人は、帝国ホテル仕込み

2008-11-27 00:00:53 | Weblog
 さて、大道芸人のお話が終わりましたが、ここで、ちょっと、アテネのキリストみたいな青年に関連して思い出したご老人の話をしましょう。

 この人はマーロン・ブランドみたいな感じの男性でした。1980年当時で七十歳を越えているのは確かで、青年の美しさと言うものは全くない人ですが、老人として複雑な人生を送ってきた事を示す人で、普通のトルコ人とは全く異なっておりました。

 それが、深い印象として残っております。今は亡くなっているのではないかと思いますが、エフェソッスの遺跡への入り口に当たる街道沿いにモーテルを経営していたのです。あ、ただ、ここで、きちんとお断りを致しますが、トルコにおけるモーテルとは、純粋に旅人のためのもので、日本で言う最近のモーテル(ラヴ・ホテル)ではありません。


 ところでエフェソッスの遺跡は、ヘレニズム文明のものとしてはすばらしいものです。まだ、パリミラを見ておりませんが、デルフォイ(ギリシャ)や、ペルセポリス(イラン)や、イタリアなどの、遺跡に比べても、残っている建物がたくさんあり、すばらしいところだと思います。ところが、イズミールと言う空港さえある大都会と、クシャダスという地中海クルーズの寄る、大保養地の間にあるのですが、その二つの都会からは相当遠いところにある、エフェソッスを観光資源とするホテルは、1980年当時はなくて、唯、一つ、そのつぶれかけたモーテルがあるだけだったのです。

 プールは何年も水を入れた形跡がなく、何らかの材木や、木のかけらが放り込まれているし、ベッドカバーは臙脂のゴブラン織りの高価なものではあるが、すでにほつれています。最後に決定的に『ここに泊まってしまったなあ。失敗だった』と思ったのは、防音対策がなされておらず、街道をひっきりなしに通る車の騒音でよく眠れなかったことでした。

 でもね。私は明日の朝、早く、エフェソッスへ行かれることの期待に夢を膨らませ、『まあ、いろいろ不満はあるけれど、我慢をしよう』と考えたのです。食堂は外でした。これは、ギリシャから始まってイランなどでもホテルでも、結構取り上げられている形式で雨が少なく、昼間が暑い地帯の文化なのでしょう。

 しかし、ライトも少なければお客も少ない。テーブルの周りはちょうちん風のランタンで照らされているだけなのです。ここにも北欧から来たらしいご夫婦が泊まっていましたが、それ以外のお客はなし。ボーイは、40歳から50歳に見える男性で、その人以外誰も居ないみたいな静かな雰囲気です。

 そして、お料理が出ました。びっくりするほど、小さな(5x6センチの円形で厚さが5ミリぐらい)、牛肉片が、大き目のお皿に乗っています。しかし、ソースは吟味されていておいしい。このお肉にだけは驚きました。

 トルコに入ってから、一流ホテルだけ使っておりました。料理はすべて量が多くて、こってりしています。特にイスタンブールのシェラトンで頼んだ、うなぎのシーザーズサラダなど、ひとかけら食べただけで、『もう、要りません。ごめんなさい』と言うほどのものでした。ただ、どうしてか、その当時はどこでも、サラダにドレッシングと言うものを使わないので、それには困りましたけれど。

 しかし、なかなか満足が出来ませんでした。のちほど、ギリシャなどで(今では民族が同じなので、トルコもほとんど同じ料理のはずです)家庭料理を食べたときは、愚タグ田に紺であって、見掛けは悪いもののおいしいと思いました。しかし、ホテルでは、一種のフレンチを出すのです。だから、そうおいしいとも思いませんでした。

 それに比べると、この幽霊屋敷と見まがう、モーテルの牛肉は、一種のロースト・ビーフらしいのですが、ソースのおいしさたるや、一流中の一流です。こんなに、決め細やかで味のしっかりしたものは、トルコへ入って、10日は過ぎていましhたが、初めて味わうものでした。で、私はボーイに、「オーナーを読んでください。少し、話がしたい」と頼んで、来てもらいました。

 そこで現れたのが、晦渋に満ちた不思議な雰囲気のしかし、トルコ人としては、知性に溢れた顔の紳士でした。牛肉のソースを褒めると「あれは、日本の帝国ホテル仕込です。僕は、進駐軍で、日本へ行き、軍隊を解除(解雇)された後で、帝国ホテル内でシェフとして、働いていたのです」と彼は言います。

 驚きました。トルコの、こんな田舎、(と言うのも、回りにも数キロにわたって、人家が一軒も無くて、向日葵畑と遺跡だけがある地帯なのです)に、ひっそりと暮らしている男性が、世界をまたに駆けた若い日を送った事を知って。

 ロースト・ビーフは最近では、日本でも牛肉が豊富に手に入るので、焼きが薄くて生に近い形で、しかも一切れが大きい形で供されます。だけど、戦後スグの日本だったら、あれだけ、しっかりと熱を通した、しかも小さめのサイズのロースト・ビーフを、帝国ホテルでも出していただろうと、私は納得をしました。彼はその時代(1940~50年)の帝国ホテル風を守っているのです。

 トルコ人は日本人びいきです。でも、実際に日本で暮らした人がここにいて、立派なロースト・ビーフを出しているのにも驚きました。けれどね。どうして、このモーテルは寂れているのでしょうか。それについて、私はもちろん、オーナーには質問をしませんでした。それはね。彼に家族の影が見えなかったからです。この年齢だと、妻、子、孫に、囲まれて、それこそ、顔の似ているマーロン・ブランドの演じたゴッドファーザーではないが、おくの部屋の方に大勢の人の気配があって、明かりがともっているはずなのです。

 それが一切ありません。『どうして、この人は独身を貫いたのだろう』と考えて、ふと、『この人はあのボーイを家族としていて、それで、満足をしているのではないだろうか』と思い当たりました。もちろん二人の間には血縁関係はないと思います。顔も雰囲気も圧倒的にオーナーの方がエリート風で、ボーイは庶民風です。それでも、30年ぐらい前には、どこか、可愛げなところがボーイの方にあって、このボーイを一生家族として引き受けようとオーナーは考えたのでしょう。この想像は検証の余地も無いものです。だけど、その晩、そこで、さまざまなことを考えたことは確かです。
    2008年11月27日    川崎 千恵子(筆名、雨宮 舜)
   
なお、今日の図版は、そのとき、エフェソッスでスケッチしてきたものを、原版が既に売れていて、無いので、私の二冊目の本から採録してみたものです。
 
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私を助けた、春日八郎の『長崎の女(人)』

2008-11-25 16:36:43 | Weblog
 今日は、我が家では、深夜、時間を定めぬ停電があるそうで、書いたり送信したりするのが落ち着きませんので、海外のことではなく、皆様もよくご存知でありましょう、日本のある歌について、述べたいと思います。

 私は、音楽は、『下手の横好きです。ただ、35歳ごろ、それは、ほぼ、30年前のことですが、どうしても、必要があって、PTAの打ち上げ会で歌を歌いました。それはね、何と、春日八郎の『長崎の女(ひと)』だったのですが、カラオケの無い時代で、まあ、テレビからだけ、それを、聞いて知っている、お母様がたから、やんやの喝采を受けたのです。

 裏にさまざまな事情がありました。私はそのとき、PTAの会長だったのですが、それは、園長から任命されたものだったので、お母様方は納得をしていなかったのです。つまり、『川崎さんって、普通の人じゃない。別に私たちより優れている所は、何も無いでしょう。それなのに、なぜ、彼女が会長をやっているの? 車だって運転できないし、私たちを駅まで送迎さえしてくれないじゃないの」と言う不満が重積していました。

 もっとはっきりと真実を言うと、その幼稚園では、24名の先生の夏冬のボーナスをPTAがバザーで稼ぎ出さなくてはならない暗黙のルールがあったのですが、私は、秘かに『それは、変だなあ? 450人も園児が居るのだから、園の授業料(当時で一万円以上)を丁寧に計算すると、絶対にボーナス程度は、授業料から出せるのに』と思っていて、前年度の平役員のときにそれを、意見として、公の席(役員会)で、発表してしまったのです。それが真実だったからこそ、園長先生(故人)は、私を怖れて、一番偉い人として壇上にまつり上げてしまい、意見が言えないようにしてしまったのです。

 前任者は、大変な大金持ちの奥様で、外車で、役員の中の内閣の人、5,6人だけは駅まで送迎するほどの大器でしたから、普通のサラリーマンの奥さんである私は、奉仕の実行・能力の面で劣るわけですから、平役員のお母様がたからの人気が出なくて、散々な思いをしていたのです。

 それで、何か皆さんを楽しませて、打ち上げ会だけは有終の美を飾りたいと考えました。バザーが終わって、打ち上げ会までの数ヶ月は、ものすごく勉強しましたよ。全音楽譜出版社が出している赤い表紙のプロ向けの歌謡曲の楽譜集。同じく青い表紙のフォークソング集。音楽の友社が出している、海外の民謡の類。オペラの名曲アリア集の類。どこか、出版社は忘れたが、最新の映画音楽の楽譜集。

 それらの、楽譜を本箱に立てると、幅が、50センチになるぐらい買ってきて、片っ端からピアノを弾いて、自分で歌えるかどうかを確かめていきました。音域の問題、好き嫌いの問題。それとともに聴いてくださる相手の問題もあります。

 50人居る平役員のお母様の音楽性、好みは種々さまざまでしょう。私は歌謡曲集から、3曲ぐらい、映画音楽から、これまた、3曲ぐらい、そして、オペラアリアから、3曲ぐらいを、最後にフォークソングから3曲ぐらいを選び出して、骨身にしみるほど、何度も練習をして、暗譜をしました。

 ともかく、パフォーマンスと言うのは、絶対に、恥ずかしがっては駄目なのです。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、が、これほど通じる世界も無いでしょう。自意識を捨てないと駄目なのです。

 それは、不思議なことに、私には直感として判っていて、小さい頃から、発表(特に総代として、送辞とか、答辞を読む場合には)上がったことはありません。母が「この子は繊細なのに、何かを人前で発表するときだけは、度胸が据わっている。不思議ねえ」とよく言いましたが、つまり、花伝書で書いてあるような奥義(自意識を捨てよ)は、不思議と判っていたのです。

 でも、言葉を読むのは、大丈夫なんですが、歌を歌うのはさすがに緊張して、高校時代までは音楽の試験は、怖くて、怖くて、まったく、駄目でした。人前では、歌えなかったのです。ただ、コーラスなどで目立たない形で歌うときは、目の前に座っているお友達から、「声がよいのねえ。知らなかった」といわれたりして、のびのび歌えれば、声がよく出ることは、自覚をしていたのです。

 それでね。打ち上げ会は、豪華な宴会場で、豪勢な食事がでて、プロのギター弾きも呼ばれておりました。繰り返しますが、まだ、カラオケの無い時代です。だから、プロのギター弾きと言う職業があったのです。
 私は、最初は、フランクシナトラのマイ・ウエイを歌いました。それは、そのときの私の気分にはぴったりだったの「ですが、これは、何にも受けませんでした。お母様方も、プロのギター弾きも、会場に居るほとんど誰も、この曲を知らなかったのです。

 で、『今日は駄目だ。目的は果たせなかった』と思いながら、静かに食事を皆さんと一緒に目立たないように、とっていると、もう一度チャンスが訪れました。今度は私は下座のマイクを握り、間にお母様方をすべて、包み込む形になりました。上座にはさっきのギター弾きがマイクの前に居ます。「これから、春日八郎の『長崎の女(人)』を歌います」というと、ギター弾きは、知っている曲ですから大喜び、ジャンじゃか・じゃんじゃんと前奏をはじめ、私も声量はない人ですが、マイクを使うので、堂々と歌えました。

 お客様が乗っているのが、見えたら、二番から、ギター弾きがデュエットとして、伴奏者としての自分の役割を忘れて、主役として、大声で歌い始めました。それで、私は、三番は彼の独唱へすべてを任せ、各・間にある、コーラス部分(これが、私の35歳当時の、音域にぴったりだったのです)を伸びやかに歌い、彼のサポート役へ、回りました。

 三番までが終わったら、やんやの拍手、・・・・・帰途も、私は、なでるように、自分の体を若いお母様がたから、」触られながら、「川崎さんがね。なんで、PTAの会長を遣っていたか、やっとわけがわかった。川崎さんって、普通の人と全然ちがうんだもの。だから、会長に選ばれたのね」と、口々に言ってもらえました。なんと、ほっとしたでしょう。・・・・シンプルにして明るく(ハ長調です)、しかも情感も充分にある、・・・・・この『長崎の女(人)』が、大きくも、私の名誉挽回に役立ってくれました。

 その後、東大を出ている親戚のひとに、このエピソードを話したら、「え、ちっちゃん(私の幼名)は、演歌を歌うの?」とびっくりされましたが(30年以上前のことですが)、私は音楽の領域に関しては、偏見を持っておりません。当時も今も、クラシックも演歌も、良い歌は大好きです。しかし、全部の曲を歌えるわけではなくて、やはり、自分向きの歌と言うのはあります。そして、今は忙しくて、音楽の練習は一切遣っておりません。本を作ることに打ち込んでおります。

 ただ、66歳の今でも歌おうと思ったら、歌えます。自然に歌っております。
    2008年11月25日    川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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パリでアヴェマリアを歌う、大道芸人(?)

2008-11-24 23:58:05 | Weblog
 さて、今日書きます話題は、私が直接見聞きしたものではありません。NHKのハイビジョンか、衛星放送で見た番組内に登場した美形で、美声のソプラノが、一種の心理療法として、パリの地下鉄内で、グノー編曲、バッハ原曲のアヴェマリアを、歌う映像を見たとき、考えたさまざまなことです。

 この人はコンセルヴァトワールを、出ているそうです。才能としては一流の女性です。しかし、何らかの挫折があって、引きこもり状態になり、それを、克服するためにお医者さんに勧められて、地下鉄で、アヴェマリアを歌うという設定です。

 これは大変特殊なケースです。40代になった人で、音楽の才能豊かな人、特に高等教育を受けている人はピアノなどを教えることで、収入があるので、大道芸人までは遣らないのです。この女性もご自分の意思で、地下鉄駅内で歌っているわけではないので、違和感が一杯ありました。

 しかし、それでも、今日、この話題を取り上げるのは、二つの面で、話をしたいからです。私は、グノーのアヴェマリアが、大好きです。人生の、50歳代のテーマソングだったほどです。小さい頃はシューベルトのアヴェマリアの方が華麗だし、美しいと思っておりました。しかし、年齢を重ねるに付け、こちらの方が、なんとも、しっくり来るのです。ゆったりしていて、優しくて、マリア様の母性そのものを、感じさせます。

 だから、その繊細きわまりない、美形のソプラノが、この曲を駅構内で歌う歌として選んだことには納得をしました。セミクラシックや映画音楽を含めれば、大衆に受けるだろう歌とは、何百とあるはずです。その何百の中で、これを選んだ彼女は音楽家として、特にオペラ向けの舞台声優としては、まだ、有名ではないが、本質的には既に立派な音楽家だと感じた点です。

 でもね、本質的に才能があるのに、どうして、ブレイクを出来ないのか? これは、本当に不思議なことですが・・・・・ここでは、触れないでおきましょう。

~~~~~~~~~~~

 ただ、ここでは、既に大成功をした芸術家として、その名声を確立している、フジコ・へミングさんの若い日の挫折の話を添えたいと思います。彼女が母親から期待をこめてヨーロッパに送り込まれ、最初の大チャンスとして、カラヤンがコンサートを企画してくれた日がありました。しかし、その演奏会の直前に彼女は突発性難聴に犯され、そのコンサートをキャンセルせざるを得なくなるのです。

 それで、一回諦めて、日本へ帰国するのですが、たまたま、芸大奏楽堂でのリサイタル、前後をNHKがドキュメンタリーとして放映して、それが、感動を与える番組だったお陰で、あっという間に、大ブレイクへと繋がっていくのです。

 このフジコさんのケースと上に上げたパリのソプラノ歌手の、挫折とは似ている話のような記憶が有ります。チャンスがありそうな、ときに、どうしてか、緊張が高まりすぎて、うまくそれを捉えられない。

 そうなんです。そこが、大矛盾なのですが、良い作品を生み出す、または、演奏家なら演奏する、そのためには繊細である必要があるが、繊細であると、世間を渡っていく事が難しくなるのです。そして、その繊細さとは母との関係で、生み出される場合が多い。私も今では相当面の皮が厚くなりましたが、こういう、緊張感と言うのはものすごくよく判る人間です。

 さて、直近(Latest)のチャイコフスキーコンクールのヴァイオリン部門で優勝した神尾真由子さんは、不思議なほど、度胸が据わっている人物です。NHKが数々の番組を制作したので、それがわかりました。彼女がどうしてそうなったのかは、それは、今は、判りませんが、多分、ご家庭内で、伸びやかに育てられた普通の生活(子どもとして)の積み重ねがあったからでしょう。
  では、今日はこれで。
   2008年11月25日      川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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アテネで出会った現代のキリスト

2008-11-24 01:20:37 | Weblog
 さて、そのブランド店の集積しているアテネでも、もっとも新しい雰囲気の街(通り)に誰も人がおらず、ただ、美しいギターの音色だけが響いているわけですから、私は、興味深々で、進入していきました。すると、その通りのお店には、階段が数段上がる形式になっているのもあり、その店と他の店との境目に、柱が使ってあって、その柱が出っ張っているお店もあったのです。

 ギター弾きは、その柱の陰に隠れていました。お店が作っている階段に、腰を下ろして、ひざに抱えたギターの弦を見つめ、私が近づいても顔を上げようともしません。私は、二メートルほど離れて、彼の右側の階段の、少し段が下がったところに座りました。すると彼の顔を見上げるような形になります。

 スタイルとしてはアフロヘアーで、大昔の桑名正博みたいなスタイルですが、顔の優しげで、上品なことには、はっとするほどのものがありました。私はさすがにいつもの程度の、100円から200円程度のお金ではなく、ギリシャコインで、ほぼ、500円に当たるものを出し、「お願いだから、一緒に歌わせてくださらない」といいました。

 その曲は私がよく知っている曲だったのです。1980年代にNHKが「ギター教室」と言う番組を放送して、大人気になったのですが、母がそれにはまり、そのときから、本格的に町の教室にも通い始め、当時で、10万円を越えるギターを買って、ひたすら練習をしていました。母の事をとてもえらいと思って尊敬をするのは、このときに、既に50台だったということと、父との間に小さい亀裂があって、母が大変な心情にあったという二つの側面からです。父と母はその後、和解をして、母は献身的な看病をして20年前に父を見送りました。

 しかし、そんな母の危機を慰めたのが、ギターの音色だったのです。ギターと言うのは、本当にしみじみと心にしみてくる、一番人間の体に近い、音量と音色を持つ楽器です。夫婦の危機と言うのはどこのご家庭でもあるのです。特にこのごろは、すべての人が長生きになったので、却って、50歳を越えてから、危機が訪れたりします。しかし、子供側から見ると、そこを両親が克服して耐えてくれるのと、そこで、分裂してしまうのでは、その後、相当な違いがあります。だから、こそ、『母は偉かったなあ。何にも愚痴を言わないで、ただ、ギターに没入することでそれを、耐えたのだから』と、尊敬、置くあたわずなのです。

 その後、夫婦仲が回復してからは、母は女学校時代にやっていたお琴に戻りました。三味線を弾くお友達を招いて、よく合奏をしており、ギターは押入れにしまわれたままになっております。ちょっとでも、弾いていないと、弦に当たる指が痛いし、左手の指使いと、右手の指使いがそれぞれ違うので、なかなか難しい楽器ですから。

 私は、母からギターを借りてちょっとおさらいをしてみて、『うわ、難しい。ピアノの方が全然楽だわ』と思い、諦めて練習を、止めてしまいました。ただ、ギターを遣ると、和音の勉強にはなります。コードが付いている楽譜をピアノでも、勝手に弾き語りができるようになります。それは、クラシック奏法でも、フォーク(アコースティック)でもエレキでも、ともかく、ギターと言う楽器をマスターすることで得られる大副産物でしょう。それと、やはり、値段によって、弦のあたりも違うし、音色も全く違うことも知りました。ヴァイオリンほどではないけれど、名器と言うのは高いのでしょうね。

 さて、25歳ごろの思い出から離れて、56歳だったそのアテネの夜に戻ります。母の練習を結婚直前、三年間、聞き続けたので、彼が弾いていたのは、本当によく知っている曲でした。ので、声がスムーズに出ました。また、私の声も、その残響豊かな環境のお陰で、無理をしないでも、よく通ったともいえるのでしょう。

 そして、一番よかったことは、その青年が、慎ましやかな性格で、優しい雰囲気を持って、伴奏してくれるのを、信頼しきって歌えたことなのです。彼とは英語で話したのですが、それほど、おしゃべりが好きでもなさそうなので、そこまで、私は声には出しませんでしたが、『これこそ、音楽の純粋な楽しみの、現場だ』と感じました。

 私はもう一回、500円程度のコインをだして、歌わせてもらいました。とても、楽しくて美しい空間が再度、出現しました。本当は、四回でも五回でも、同じ事をやりたいぐらいでした。でも、相手の控えめな態度を見て、『強要は、よくない』し、『過剰もよくない』と思い、それ以上のお金を出すのは止めて、少し、話をしたのです。

 「どうして、あなたは、こんな、誰も居ないところで弾いているのですか? もっと人の多いところで弾いたらよいのに」というと、「僕はただ、弾いている事が楽しいのです。だから人がいないほうがよいのです」と答えます。私はそれには、一瞬驚いたものの、先ほど来感じていた、この青年の慎ましやかさが証明されるような気がして、ただ、「そお」といったきり、少し、黙り込みました。その上で、「これってロドリゲス作曲なのよね。知っている?」と言いますと、かれは、「そうですか、知りませんでした。僕、この一曲しか弾けないのです」と言うのです。で、私が「じゃあ、楽譜から勉強したのではないの?」と聞くと「そうです。耳から覚えました」と彼は言います。

 私は本当にびっくりしました。ギターと言うのは、楽譜集に、数曲が、一緒に入っているもので、一曲マスターできると、すぐ別の曲に挑戦したくなるものなのです。だから、この青年程度の力量を持っていれば、すぐ、数曲は弾けるようになるのです。でも、楽譜集からではなくて、耳から、好きゆえにマスターしたとしたら、それは、この一曲だけしか弾けないということもありうるだろうし、『それほど、耳がよいと言うことはすごいことだ』と私は内心で、驚嘆しました。主旋律はともかくとして、伴奏部分もきちんと正しく出来ていましたから。

 でね、実はこのエピソードは一回AOLのメルマガで書き、そのときは、『この青年のように才能に恵まれながら、環境に恵まれない青年は気の毒だ』とテーマをそこに主に置いて書いたのです。と言うのもクラシック音楽の世界で伸びるためには、すさまじく高額な、学費がかかるのを知っておりましたから。それはニューヨークの地下鉄内で、クラシックの歌を歌っていたアフリカンの青年と同じ、趣旨で考えたことです。二つのエピソードの間には、四年の時差があって、アテネの方が先に出遭った現象でしたが・・・・・

~~~~~~

 しかし、今回同じエピソードをグーブログで、書きなおすにあたり、ブログは、未知の人も読むわけなので、正確である必要があると思い、曲目と作曲者の名前を調べなおしました。ギターの名曲として『アランフェス協奏曲』と、『アルハンブラ宮殿の思い出』の二つが有名で、そのどちらかであるのは確かでしたが、それを、正確に知りたいと考えたのです。すると、彼が弾いていたのは、『アルハンブラ宮殿の思い出』の方で、それは、ロドリゲスではなくて、タレガ作曲なのでした。昔は、タ―レガとか、タレーガと書いたりしたこともあると思いますが、ともかく、ロドリゲスではなかったのです。

 私は、11年後の今にして、あらためて彼の優しさを感じました。彼は、本当は、知っていたのではないかしら。これが、タレガ作曲であることを。だけど、私の様子を見れば、遠来の客であることはわかります。そして、その声を聞けば、私もまた、彼と同じような性格の、結構恥じらいも知る人間である事が、判ったのでしょう。それで、私に恥を掻かせたくなくて、「僕は、作曲者を知りません」といったのではないかしら。

 私は50センチぐらいの高さで、彼を見上げる感じで会話を交わしていたのですが、今思い出しても、その顔は、ギリシャでも、他の国でも、見たことの無いような優しい顔でした。上品で、・・・・・それは、最後の晩餐の絵の、キリストの画像に、普通の服を着せた、現代の青年のように見えました。
  2008年11月24日            川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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アテネの大道芸人―1

2008-11-22 16:19:57 | Weblog
 『一体、このブログはいつになったら、パリに戻れるのだろうか』と自分でもいぶかしく、思いますが、明後日だけは一回ほど、パリに戻ります。しかし、また、ニューヨークに戻り、地下鉄の話に入りましょう。地下鉄内で拾ったエピソードのうち、最上級のものをまだ、お話していません。

 ところで、今日は分岐も分岐して、ギリシャのアテネに突然飛びます。私は一回だけ、イタリアを夫婦で参加する団体旅行をしたのですが、後は、夫婦、もしくは一人の個人旅行で、海外旅行は、すべてを済ませております。ギリシャも四拍五日の独り旅行です。アテネとデルフォイだけを訪ねる目的で、特にアテネを知りたいと思って出かけました。日本から直接行くと、最初は、くたくたなのですが、パリから行ったので(後注一)、時差がすっかり解消しています。

 しかも、飛行機がパリからだとほぼ、三時間ぐらいで、エコノミック症候群にかかっている暇もない、夕方につきますし、滑走路侵入の前に、低空を旋回し青い海に数々の大型ヨットがクルージングをしているのを、眺めおろします。そんな、段階を経れば、ギリシャ観光への期待はいやがうえにも高まりました。

 機中の日本人学者から、教えてもらった、日本人経営のプチホテルに宿を取ると、すぐ、食事に出かけました。ホテルの隣に、床が土間なのだけれど、スペースだけは馬鹿に広くて、道路を挟んで二つの食事スペースがほぼ100坪ぐらい展開している地味目のレストランがありました。

 食事はバットに入っている既に出来ている16種類の料理から選ぶ形式です。料理もインテリアも見栄えは汚い。しかし、独りで食べることの気兼ねが無いのが、一番です。私はその広い、しかし閑散としているレストランで、『向こうの方にいるのは、デンマーク人だろう』などと、背の高い金髪のカップルを眺めたりしながら、大き目のピーマンの肉詰めなどをたべて、おなかを一杯にして、市街地探索へ出かけました。

 車の入らない幅が、1,5メートルぐらいの道路の両側に、溢れるほどのお土産を飾った小さなお店がずらっと、続いています。ちょっとした十字路には、小さな、しかし、本格的なレストランがたくさんあって、それこそ、メリナ・メルクーりの『日曜日は駄目よ』の世界で(いや、古いですが、あの音楽が素敵でわすれられない映画です)、恋人同士、夫婦どうして、仲間同士が延々何時間も夜の十二時過ぎだって、ワイン片手におしゃべりしまくっているのです。ドアーのふちは緑のペンキで塗られ、そこに大き目の赤の格子のテーブルかけがかかっていたりして。

 『あたった。予測は当たったわ。私がこういう社交が華麗に展開している
場所で、独り食事をするのは、つらいから、さっきのレストランが最高、明日もあさってもあそこを利用しましょうと思いました。

(ここで、後注一に入りますが、この旅行は文化庁の在外研修生で、パリへ行っていたときに、先生がスペイン旅行をなさるとのことで、「その間は工房を使わないで欲しい。僕は君の技量や性格を知らないから」と仰ったのです。それは、当然ですね。もし、机の中の書類を探るような人へ、留守中に何時にはいってもよいと言う形で、鍵をあげてしまったら先生の方が、大変ですね。

 だから、すぐ納得をして、この何も版画のシゴトが出来ない期間の間に、西欧文明の根源たるギリシャを見たいと思ったのです。そのときより、20年弱前に行った。トルコにもヘレニズム文明遺跡(エフェソッスなど)はあります。だがギリシャのものを見たいと思ったのです。

 なお、これらの旅行にはもちろん私費を使いました。当時、版画、特にヘイター方式用のローラー46万円を買ったのを含めて、私費を、200万円ほど、国費とは別に、余計に使いました。びっくりされるかもしれませんが、当時の私は、お金持ちだったのです。この私がねえ。・・・・あ、は、は、・・・・・と、ここでは、力なく、笑っておきましょう。・・・・・)

 さて、アテネの地図がまだ、しっかりとは頭に入ってはおりませんが、この賑やか極まりない低地の中央にミ(メ)トロポリス大聖堂があるのです。聖堂前の広場には、そんな真夜中には、ほとんど、人がおりません。そこだけは唯一の環境として静かなのです。ただ、後ろ側からは先ほどまで歩いていた雑踏の喧騒が、うわあーんと、まるで、大浴場に入ったときのように聞こえてきます。

 しかし、その灰色の音に混じって、銀のようにたえなるギターの音が聞こえてきました。どこからだろうと思いました。ミトロポリス大聖堂の向かって右側は、私のプチホテルや、地元民もしくはバックパッカー向けのレストランがある、やや、寂れた地域です。

 『そっちじゃあないわね』と判断して左側に回ると、きれいなアーケード街がありました。看板を見ると、ヴィトンとか、シャネルとかいう名前が見えて、日本で言う銀座、もしくは表参道と言うわけです。真ん中の道路は車が入らない形式のようで、しかも大理石です。上はアクリルの、透明な、屋根がついております。

 すごくきれいな空間です。しかし、お店は、すべてパイプ型のシャッターを下ろし、人は誰もいないのです。通行人も無論居ません。そして、大道芸人の姿も見えません。でも、道路の大理石、そして、両側のお店が多用しているガラス類、天井のアクリルのアーケード、それらのすべてがあいまって、ギターの音量をあげ反響も効果高くしていて、素晴しい音色として、私には聞こえるのでした。

 これは、どういうことなのかしら。不思議でなりません。私は謎を解くためにその誰も居ないアーケードの中に入っていきました。
  この項は長くなりますので、明日へと、続くとさせてくださいませ。
       2008年11月22日       雨宮舜(本名川崎千恵子)

尚、最後になりましたが、いつもより、一時間半ほど、早めに更新しています。日本時間23時以降にご覧になる方は、この下に、昨日発信したクラシックを目指すアフリカンの青年大道芸人を励ました話がありますので、どうかそれも宜しく。
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クラシックの専門の大道芸人を励ます

2008-11-22 00:58:23 | Weblog
 さてね、歌の力量と言う意味で言えば、2003年の夏、個展のために出かけたニューヨーク第一日目にして地下鉄で出会ったアフリカン(黒人系)の青年の方に、軍配が上がります。早朝一回出かけて二回目として出かけた午後の話です。日本の満員電車とは違いますが、立っている人もいるぐらいの込みようで、多分路線は、私がよく慣れているFラインだったでしょう。

 地下鉄に乗った途端に彼に出遭ったのです。遠くの方から良く響く、カウンター・テナーに近い高音でクラシックを歌って来ました。で、近づいて来ると、いかにも私をめがけて、お金を貰いたそうにします。それは、私は自分自身がセミ・クラシックの歌が好きで、それで、先ず彼の方を、注目をしたし、その上、『彼は声がいいなあ。大道芸人にしておくのはもったいないなあ』と、こちらが心の中で思ったからでしょう。

 それで、相手も、私が好意を持っていると信じて、こちらに、近づいてきて、そして、私がちゃんと、お金を用意して、彼が手に持っている帽子か何かに入れようとした、まさに、その時に、とても高尚なことを言い始めたのです。音楽を学ぶ・建・前・に近い事を言いました。それで私は、内心で、『彼は誇りが高い人間なのだなあ』とは、気がつきましたが、それは帽子を目の前に差し出している行為そのものとは矛盾するものですから、あれっ』と思って、「貴方、お金は要らないの?」って聞いてしまったのです。極く単純に。すると、かれも、「いえ、要ります」って、極く単純に答えました。。
 
 その途端、「かわいそうな事を聞いてしまった」と言う気がしました。本当は言いたくない事を、我が子に近い年齢の彼に言わせてしまって・・・・・私はそのとき、六十一歳であり、こどもは、三十を越えていたと思います。ですから目の前で立っていて、帽子を差し出している青年が、背が高い大人に既になっているとして、体格はそうであれ、心の中を考えれば、彼は、私の子どもと、言っていい年齢なのです。

 私はすぐ猛反省をして、彼を慰めたくて、その為に一節歌ったのですよ。地下鉄の中で、椅子に座ったまま。曲はベートーヴェンの交響曲第六番(田園)の一節・・・・・どうしてか、今は、と言うか、最近ずっと、その軽やかなメロディーが体の中で、浮かんで、浮かんで、どうしようもないのです。
 
 これは、別に、ニューヨークの個展が決まるずっと前からですから、とても不思議ですが、大体の日常が、きっと喜びに満ちているのでしょうね。最近はどんな時でも、きっと、喜びに満ちているのでしょう。派手な事が何にも無くても。
 
 それを、座席に座っているにしては、また、練習を全然、事前にしていないにしては、大きな声で歌ったものですから、電車中がびっくりです。でも、軽蔑はされなかったので、ご安心下さい。目的が『彼を慰めたかった』と言う事ですから、こう言う時は大体神の支援が有って、うまく行くのです。そして、もちろんお金も上げました。

 彼は確かに慰められて自信をつけたようです。次の駅で、少年三人組のグループが乗って来たのですが、彼は自分の方の先有(占有?)権を主張して場をゆずりませんでした。これは、普通なら数の力関係で、この少年達に圧倒をされ、すごすごと引き下がる所でしょうから。この三人の少年達の事はデジャブーが有ります。ラジカセを大音量でかけて踊るのですが、中に一人、特別年も体も小さい子が含まれているのが、特徴です。
 
 さて、電車を降りようとしたら、例の青年が、特別にボリュームを上げて歌ってくれました。彼は、『自分が、相当能力は高い人間だ』と言う事を、クラシック好きな私に示したかったのです。細身の体にしては、大音量でしたが、もう大舞台に進出するのは無理でしょう。こう言う、すれすれの才能を持ちながら、環境のせいで、花開かなかった青年は、可哀相で仕方が有りません。

~~~~~~~~~~
 最後に少し付け加えさせてください。上の話は、五年前の出来事です。その後、私の人生にもいろいろな事が訪れていて、最近のテーマ曲は、この田園の一節ではなく、別の曲になってきています。

 それと、自分を離れて、彼について言えば、人生の成功と、不成功の境目ですが・・・・・、それに関して、生まれや環境も確かに影響があります。・・・・・彼に学費がなくて、才能はあるのに、上へ進めなかったのなら、お気の毒です。

 しかし、何事も覚悟なのです。大道芸人をするなら、大道芸人をすると、覚悟することです。そして、他の大道芸人たちみたいに、それなりに、一流になり、その路線を自分のシマとして独占するぐらいの覚悟を持つべきです。

 それが、いやなら、他のアルバイトをして、音楽はあくまでも趣味として、教会の聖歌隊で歌うなどで、声や、自分の気配そのものを汚さないことです。どちらかに、覚悟を決めて腰を据えなければなりません。難しいことだし、彼の日常生活を知らないのに、あれこれを、ここで、言うわけにもいきませんが、あそこで、彼がどんなに、立派な演説をしても、近所に座っていたニューヨーク在住の人々が、彼に学資を出してくれる可能性はなく、自分が惨めになるだけでしょう。

 それよりも、さっと、明るく歌って、「すごいわね。上手ね」と言う賞賛の気配を、電車内の乗客から貰ったほうが、愛される歌い手となれるし、将来、人に見出されて舞台に立った後でも、その愛嬌ある態度が、役に立つと思うのです。

 私自身は大道芸人ではないのですが、人への感謝の目的等で、よく歌います。ただし、必ず、二分以内にとどめるとか、さまざまな工夫をして、相手との、コミュニケーションがよく取れているかどうかは、いつも考えながら、歌います。
  2003年のことを、2008年に書く。川崎千恵子(ペンネーム、雨宮舜)
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盲目のアコーディオン弾き(インNY)

2008-11-21 01:09:10 | Weblog
 実はNラインには、一人必ず乗ってくる大道芸人が居ました。右上の絵は少し、童話の挿絵っぽくなっていますが、初老の男性で、盲目であることの厳しさゆえに、顔が少し悲しげでした。でも、しっかりした体格で、声量もあるのです。

 しかし、クラシックの専門家向けの本の中で、チラッと読んだ事があるのですが、やはり、大道芸をやっていると、歌と言うか、音楽が荒れるのは確かです。彼は、私が好きな曲目を歌う人で、だから、こそ、それがよく判りました。
 何度も繰り返すようですが、Nラインはアストリアと言って、ギリシャ系の人が多く、それゆえに、オペラ好きで、(マリア・カラスの影響)イタリアの古民謡、カンツォーネ、オペラ・アリアなどを、彼は歌うのです。彼が一番よく歌ったのは、カタリ(邦題・つれない心)です。これは、私も大好きな歌ゆえに、彼が、崩しすぎているのがよく判りました。

 だけど、彼は、盲目なのです。それに、アコーディオンは相当大きくて、重いですね。胸の前に抱えて、そして、どちらかの腕に、白い杖を掛けている。電車は走っています。バランスをとるのが非常に難しい。
 私は、彼の事を気の毒だなあと思い、出会えば必ず、クォーター(25セント硬貨)を、2,3枚、(大体、50~100円の感じ)用意して、彼が近所に来たら、自分から立ち上がって、彼のポケットに入れてあげることにしました。

 でも、生活がかかっているゆえか、彼は、前回のべた、裸のカウボーイよりはぐっとやつれて見えましたね。

~~~~~~~

 ユニオンスクエアーのような大きな駅の構内、もちろん、タイムズスクエアーもそうですが、そういうところに居る人たちは、これから、売り出そうとする専門家の若手が多くて、惨めさが無くて、それだけ、上手です。でもね、パリでよく見た、駅「構内で、単純に座って、目の前にお皿を置いているロマの親子というわけではない。そこが、大道芸人たちの誇り高きところだし、また、人は人、自分は自分として、他人の自由を許すニューヨークの地下鉄内だからこそ、この大道芸が、電車内でも、生きているのでしょう。

 日本では、秋葉原とか上野とか、それから、若者が路上ライブを遣る、場所、は、決まっていますね。だけど、電車の中をはいかいする大道芸人は居ません。
 ところで、路線の持つ、カラーと言うのは確かにあって、Nラインと言うのは中流の勤労者が多く居るところです。30歳以上の家族もち、・・・・・だから、この盲目のアコーディオン弾きが似合いましたし、生きていけました。と、私は思うのです。
~~~~~~~~

 たとえば、Fラインと言うのがあります。これは、ロングアイランド島の、北部からマンハッタン島へ入って、今度は、また、そこを抜けて、ロングアイランド島の南部に入り、ブルックリンへ入っていく路線です。

 その路線の先の方、新しく開けたブルックリンは、結構、高級な住宅街なのです。それで、同じFラインでも、キャナルスト・スリート以南に出没する二人組みのディキシー・ジャズ・バンドは、陽気で、洋服もきれいです。アルト・サックスと、ヴァイオリンだったか、ギターだったか、ドラムだったかは忘れちゃいましたが、タータンチェックの、半ズボンがよく似合う二人組みのアフリカンでした。のっぽさんと、背の低い人のコンビでね。

 私はつかれている日は、よく、キャナル・ストリートで、反対の、ホームに間違えて入ってしまって、北へ行くつもりが南に行ってしまい、それで、よく、この二人組みに出会ったのです。彼らはちゃんとわかっている。そちらの電車に乗る人が、会社で言えば、課長クラス以上の白人だという事が。北へ向かうと、課長さんや、部長さんは居ないのでしょう。人々のカーストによる、すみわけが進んでいて、それを、きちんと理解して、この二人組みの大道芸人は、仕事をしているのでした。

 こちらの二人組みの方がたくましそうで、それで、よく観察すると、二、三駅通過するうちに先頭から、最後まで往復してしまって、ホームで、いったん降りて次の電車を待つみたいですよ。こうすれば、次から次へと新しい乗客に出会えますので、何年も同じ路線で、仕事が続けられるわけです。

 別にやくざが管理しているとは思わないけれど、彼らなりに、自分の陣地(いわゆるシマ)がある模様です。

        2008年11月21日        川崎 千恵子
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裸のカウ・ボーイ(NY,タイムズスクエアーで)

2008-11-19 13:44:33 | Weblog
 さて、本当は別の不動産屋の記述へと入って行きたいのですが、(それは、後でこれを、一冊の本となすときの利便性を考えると、一種の編集を行いながら描くとして、大項目を設定すると、今は、不動産屋についてまとめたほうが良いでしょうから)
 しかし、アストリアの記述について、忘れられないのは、Nラインのあれこれです。それで、地下鉄内のあれこれにも入って行きたい思いも浮かびます。

 そこで、えい・やっと、さいころを投げて、地下鉄についての記述に入ることに致しました。古い思い出、新しい記述、・・・・・これから、気分が変るまで、ニューヨークの地下鉄内で、見聞した事を書かせてくださいませ。

 その一つが大道芸人についてのあれこれなのですが、今日は地下鉄ではなくて、太陽の下で活躍している、日本のテレビにも登場した人を、最初に取り上げます。

 ブロードウエイ(42丁目のタイムス・スクエア辺りで、一番ブロードウエイとしては、賑やかなところ)に用事があって出かけていた日の事です。日曜日なので、歩行者天国になった辺り一帯、人出が一杯です。中に裸のカウボーイと言う青年が居ました。

 彼の衣装ですが、とても立派なカウボーイハットと、鋲の装飾ががちがち付いた、白いカウボーイブーツで、両肩には刺青が入っています。しかし、それ以外の衣装はなし。ギターを抱えて歌っているのですが、それ以外の衣装はなし。

 もちろん盛り上がった(ふ、ふ、ふ)股間だけは、白いパンツで隠しています。でもね、それが例の大量生産の、なんと言う事の無い、メリヤスの白いパンツなのです。縫い目がとても目立つあれね。そして、小さくて盛り上がったお尻には、NAKED COWBOY(裸のカウボーイ)と赤や黒のマジックで、そのパンツにじかに、書いてあります。

 通る人達の反応は、別に驚きもしないし、また気の毒な事に、さして大仰には、注目もしません。 私ですが、私は別に驚きもしません。いろんなものを既に見て生きていますから。平家物語ではないが、観るべきほどの、物は見つ(見果てた)です。
 が、日本だったら、『わいせつ物陳列の咎で、警察沙汰になるだろうな』とは、内心で苦笑しながら、思いました。日本と海外の違いを常に、考えます。

 ただ、彼は白人としての、その立派な鼻や、そして思いがけずも可愛らしい整った顔立ち、又、筋肉が良く目立つNAKED(裸の)体などから見て、お金が目的ではなく、パフォーマンスをして、人に見て貰う事が目的でしょう。すれっからしではないと見えました。

 だから、惨めさとか、気の毒な感じが無いのです。もし、一流の芸人になる事を目指して、これをやっているのなら、根性は立派です。でもね、惜しむらくは歌が下手ですね。天は二物を与えずで、外見の良い彼の歌は平凡でした。声量も小さい。

 これは、1999年、2000年、2002での見聞のうちの一こまで、
私の最初の本、『主婦が個展をする・・・・・しかもニューヨークで』の中の、49~50頁にかけて書いた、小さなエピソードです。

 上の本は、2003年に作ったのですが、タイトルは下品ですね。それは、自覚をしています。でも、一冊目としては思いがけないほど、きれいで上品な上製本(ハードカバーのこと)として出来上がり、中身も字ばかりですが、詩集みたいだといわれたものです。

 たった、400冊でしたが、書評も頂き、読了をなさってくださった大勢の方に「面白かった」といわれ、私がその後、勇んで、本作りに乗り出す、第一歩となりました。このブログを開いてくださっておられる方が、AOLのメルマガと、もし、共通する場合は、この一冊目の本の事をすでに、ご存知かもしれません

 が・・・・・それでしたら、ごめんなさいね。・・・・・老人がよく繰り返すという(?)思い出の一つとして聞いていただければ幸いです。

 なお、この後で、どこかのテレビ局が、この同じ人(だと、私が思う)を取材して、映像として日本で流しました。そのときに感じたのですが、かれは、ぐっと、中年じみていて、(しかし、お金は儲かっているとの報道でしたが)びっくりしました。ブーツが既に薄汚れていて、全く雰囲気が異なっていました。が、自信だけは、まんまんのようでした。ういういしさと、自信とは、なかなか、両立しがたいもののようです。

 私が、この人に気がついたときは、まったくの青年と言う感じで、ブーツなども真っ白でした。その後、歌も上手になったのかしら? それを願います。

 最後に追伸として、08-19日のヤフー(トップ)ニュースで、『ユニクロがこの同じ場所で、下着を無料で配った』と出ていました。(既に消えていますが過去記事をお探しになったら、または、ユニクロの頁を開かれたら出ているかしら?)

 それも、とても』遊び心のある遣り方で。つまり、サーモグラフィーをお客さんの体に当てて、「あなたの体は、ここが冷えていますよ」といった後で、自販機型のボックスに入っている、お人形のような動作をするひとから、下着を貰うんですって。

 抜群のアイデアですね。『ただで、ものを貰うということの恥ずかしさ』を乗り越えさせる、抜群のアイデアです。誰が思いついたのだろう。こういう人(広告会社の人か、社員かは、私には、わかりませんが)は、顕彰されるべきです。
   2008年11月19日          川崎 千恵子

尚、写真はとても地味なものですが、窓の外と内側の、野の花の競演です。
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アストリアの陽気な不動産屋で、物件を取り逃がす

2008-11-18 17:20:50 | Weblog
 今日は大変はやっていた不動産屋の話に入ります。その前にすこし、地理的な状況の説明をさせてください。ニューヨーク州とはハドソン川の河口に開けた地域で、もっとも賑やかな部分はマンハッタン島と、いう、南北に細長い一種の川中島にあり、その東側に大きなロングアイランド島というのがあります。西側に州の名前がことなる、ニュージャージー州があります。

 前回のべた、フォレストヒルズと言うのは、そのロングアイランド島を東西にものさしを当てれば、ラフに言って、西側から10分の一ぐらいのところで、マンハッタンまで電車で、30分強、または、40分ぐらいかなあ。ともかく、自宅から歩いて出て、都心の会社まで、合計一時間で行かれる場所です。

 だから、古くから住宅街として開けたところなのです。ニュージャージー州の方は、都心へは距離的にはより遠いと思いますので、その後の交通(車社会の到来)の発展で開けたように推察をしております。

 フォレストヒルズから見れば、南西に当たるブルックリンについては、後でよく判ってくるのですが、この1999年の最初の訪問のときには、スパイク・リー監督の映画(ちょっとタイトルを覚えていないが)を観た影響で、『怖い場所』と言う偏見を含む先入観があり、そこは、選びたくなくて、フォレストヒルズからは、北西に当たる、アストリアを、訪ねてみることにしました。

 その周辺の駅、特にNライン(地下鉄の名前、日本で言えば、東西線とか言う名前の一つ。古い狭い車両の路線が数字で、新しい広い車両の路線がアルファベット)のディトマス・アストリアは、結構賑やかな街です。

 その駅傍に何軒かの不動産屋がありますが、たまたま、入ったところが、ニューヨークでであった、最高に賑やかで元気の良いお店でした。後で、別のお店にも数軒入ってみるのですが、ここほど、お客の多いところ、そして、明るくて陽気なお店を見たことがありません。

 (この年の最後に次の年にも来る予定だからとか、次の年に実際に、こちらに来て、別のお店を訪ねたこともあるのですが)、 

 社長さんの雰囲気が、昔の言葉で言えばフィガロ(親切で、明るく気働きが活発な、オペラの主人公)で、お客さんが、待つ時間を楽しくするために、ベンチが二つもおいてあり、そこにVOGUEなどの簡単に読める雑誌がたくさんおいてありました。まるで美容院です。

 しかもお客さんがそれに気がつかないと、自分で入り口までやってきて、それを、読むように薦めます。

 彼は統括者であり、他にレベルの違う、社員が、5人居るので、よほど高額の物権しか動かさないのでしょう。そしてそこでは、入り口に近い、前の方の小さな机で可愛いい、今どきの美形の女の子が、受付を兼ねて、担当者を割り振っておりました。

 私はナンバーツーの席に座り、(それは、上得意と社員たちが、みなしてくれたことを示しています)コンクリート製のマンションの三階の一室で、950ドルの物件があるといわれ、案内してくれることになりました。彼が車を使わなかったので、これは、駅からの至近距離にある物件で、本当はとても、良い話だったのです。

 部屋は北向きでしたが、それは、まるで海(ロングアイランド海峡)が見えそうな環境で、しかもインテリアも抜群でした。白いじゅうたん、白いソフトな皮でできた、ふわふわの二人がけようのソファーと最新式のテレビがあり。

 私はこのとき、現金を、950ドルかける三倍ぐらいほどは、持っておりませんでした。ほら、前に、夜、襲われたでしょう。それを、気にしていて、カードも、現金も持たない主義だったのです。

 それに、ちょっと躊躇した理由は、『この部屋で、絵を描く事はできない。じゅうたんが白くて毛足が長いので、上等すぎるからこそ、無理だ』と考えたのではないでしょうか。

 ともかく、私はその社員にお礼を言い、「今日は決めないけれど、とても、よい物件だと思う」とは答えました。それとともに、「ここら辺りは南欧の感じがするわね」といったのです。彼は何も答えませんでしたが、それは、当たっていて、実はここは、マリア・カラスなどを生んだ、ギリシャ系移民の多い町だったのでした。

 さて、私は、その日に再訪することはなく油断をしてしまって、2、3日間を空けてしまいました。大学院入学とかそのほか、いろいろあったのです。そして、二度目としてそこを訪れたときに、例の若手社員の前に、若い二人連れの日本女性が居て、私は直感として、同じ物件を紹介している事を知りました。

 私は大変に勘が鋭いといわれるのですが、その自分の勘を信じて、『これは、自分が先に見せてもらったものだから、もしかしたら、自分にも権利はあるのではないかしら。今日はお金を用意してきているし』と、考え、社長さんに直訴しました。

 「社長さん、お隣の社員さんは。今は、忙しいみたいです。だから、この間、彼が見せてくれた物件を、今日、私に契約をさせてくださいませんか?」と。すると社長さんは、「僕は、売買が専門で、賃貸は扱わないのです」といいました。私はますます、不安になりました。あの親切な社長が、こうまで、融通を利かせないのはおかしいなあと思って。

 その通りだったのです。目の前で、その若くてスマートな日本人女性二人組みに、油揚げをさらわれてしまいました。社長さんは、若い女性たちの方が、長期逗留が見込めると見たのでしょう。それに彼女たちにとっても、独り大体五万円強ですから、充分に払える金額なのでしょう。

 ただ、今のように日本も不況になると、この若い二人のように、いかにも『親のお金で、ニューヨークへ住んでいます』という感じのお嬢さん方は、少なくなるでしょうが。その頃は、こういう感じの若い日本人女性が一杯居たのです。
 
 私はもともと、何事も処理の早い人間です。それが、このときから輪をかけて、即断即決の人となりました。それは、あの美しいアパートが本当に良い物件だったと、心から思い、逃してしまったことへの、残念な気持ちが強かったからでしょう。 
      2008年11月18日          川崎 千恵子
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ニューヨーク、フォレスト・ヒルズの不動産屋

2008-11-17 10:25:47 | Weblog
 さて、日本に居て、電話やファックスで交渉のできた、最初の間借り場所が、自分には向かないと判断した私は、まず、不動産屋を探しました。日本人経営の大きな会社に行ったのかなあ? だけど、そこで、交渉した覚えが一切無いのは、「2000ドル以上の物件しか扱いません」といわれたからではないかしら。つまり駐在員として滞在するひと向けの物件なら、25万円以上の高価なアパートか、一戸建てが用意された時代でしょう。

 こちとらは、独り暮らしの現代アーチスト、そんなに、お金を掛ける気持ちはなく、これは、自分で探さなくてはならないと感じました。最初のおうちは一部屋で、800ドルでした。(10年前の1999年)のこと。ここで、現地のタブロイド版が登場します。広告を見ると、ニュージャージー以外では、フォレスト・ヒルズと言うところの物件が多いのです。

 そこへ、先ず、行って見ました。すると、木立が家を覆うほど、大きく育った古い住宅街があって、一棟が日本で言えば、50~70坪の半地下付き(と言うのは実際には三階建てということ)の住宅が、一戸が、だいたい、80~100坪ぐらいの空きスペース(つまり、花も庭木も塀もない庭のこと)を持つという形で連なっているところへ出ました。一種の別天地でした。日本では見たこともない環境でした。やや暗いが超がつくほど、静かです。

 『もしかしたら、こういうところで、最初にニューヨークへ来た時代の、五嶋節さんは暮らしたのではないかしら』と、想像をしました。私も借りたいなあと考えましたが、どこにも不動産屋が見つかりません。

 そこをずんずん歩いていくと、一種の別天地からは抜け出して、大きな通りに出て、その通り沿いに、いろいろなお店がある、まあ、ニューヨーク州としては普通の感じの場所に出ました。そこは、もしかしたら、運動公園などもあり、テニス場があることで、有名な場所ではないかしら? もしかしたら、そのテニス場は例の、四大大会の場所だったりして。違うかな? 私にはテニスをニューヨークでしている暇はありませんでしたが、ちょっと、そんな感じを受けました。

 ともかく、そこに一軒の不動産屋を見つけ、そこに入ると、赤毛の、そして、きわめてきちんとした感じの、若いセールスマンが居て、ある物件に車で案内してあげるといいます。車は赤の小型車だが、新品で、BMVか、アウディか、ともかくかっこよいもの。

 物件は、環境としては先ほどの、暗い森よりは、明るい自然に恵まれていて、木もまだ幹が太くなく、庭も先ほどの別天地よりも、広いおうちでしたが、難点があったのです。
 半地下なのに、一部屋しか使えなくて、しかも800ドルです。そこに家具がおいていないので、それをそろえるとなると、三ヶ月ですから、無駄なお金がかかります。
 しかも、キッチンやら、トイレがあったかどうかも不確かなほど、クールな空間でした。グレーの床が石の室内インテリアで、じゅうたんも何にも無い部屋。それこそ、ハンマースホイの絵の現代版と言う感じ。

 これは、寒々しすぎるし、値段が高すぎると直感をしました。このセールスマンも私をもののわからない、アジア人のおばさんと見て、ぼったくったと思います。半地下でしかも一部屋しか使えないのなら、当時なら、300ドル以下が相場だったでしょう。もし、私が白人の学生なら、その程度の、値段だったはずです。

 私は人になめられ易い人間ですが、最終的には騙されることはなくて、すぐ、これは断りました。するとその人は急に不親切になって、さきほどの、道路まで送ってもらった後は、車から放り出されました。

 その地点は、全く知らない場所でしたが、『さきほどの駅まで戻るのは、遠すぎる。きっとどこかに、別の地下鉄の駅があるはずよ』と考え、夕方の散歩をしているご夫婦に尋ねました。すると、ご親切にも「そこまで、送ってあげる」と仰います。

 そして、駅傍まで達すると、とても高給な喫茶店でグレープジュースをご馳走になりました。それこそ、ガラスのコップを使っていて、日本の喫茶店の感じ程度に、きちんとしているところです。

 その奥様は日本人ではないものの、アジア系で、ご主人は白人でした。なにか、翻訳などの、知的なシゴトをしていらっしゃるご夫婦のようでした。これほどの、親切をしてもらったのは、私が、その道々、自分が今置かれている状態をお話したので、(一種の)苦労をしているとご覧になったからでしょう。

 フォレスト・ヒルズは、この後も、三回ぐらい訪ねます。そして、未知の人にも、既知の人(それは、日本から紹介状を持っていった人)にも大変親切にしてもらいました。自然環境のよい中で、慎ましく生きている、上品な人たちの住む町のようです。

     2008年11月17日               川崎 千恵子
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映画『荒馬と女』の撮影秘話から学ぶこと

2008-11-16 19:49:40 | Weblog
 今日、申し上げることは、マリリン・モンローとアーサー・ミラーの本質を探るために役立った、テレビ・ドキュメンタリーから学び取ったことです。しかし、残念なことに、その番組のタイトルを忘れました。で、皆様におかれましては、『荒馬(あらうま)と女』か、この映画の原題『Misfit』で、探索をしていただきたいのですが、今のところ、インターネット上では、何も情報が開示されておらず、NHKへお問い合わせになるのが、一番の近道かもしれません。

 私にとって、この映画が公開されたときは、劇場で観る気はありませんでした。勤めていて忙しかったので、娯楽としては、宇野重吉と滝沢修が名優として引っ張っていた、民芸の芝居を観る程度だったのです。そして、新聞の批評も芳しくありませんでした。

 それほど、評判がよくなかったのは、そちらの番組を見ると理由がよく判ります。Misfit とは、「不適合者」と訳されているみたいですが、この場合は、性格が合わない人たちとか、生活が合わない人たち、とか、考えが合わない人たちと、普通の言葉で語ったほうが良いでしょう。

 アーサー・ミラーがものすごく頭の良い人だったとして、既に重荷になっていたマリリンを、振り払うために、『あなたは、本当は、野生的な肉体派が似合うんだ。僕よりも』と言う事を言いたくて、この映画の脚本を書いたのではないかと思うほどの、筋なのです。

 マリリンの役は、離婚をした後で、数人の男性たちと知り合い、彼らと一緒に、野生馬狩りに出かける女性です。そして、野生馬狩りを、野蛮なことだとして、クラーク・ゲーブルに抗議をするのですが、結局は、クラーク・ゲーブルの、ある種の気高い(つまり、簡単には言えない、野蛮さの問題のこと)精神性に支配されるという結果らしいです。

 そのドキュメンタリー番組が出来た本当の目的は、クラーク・ゲーブルの役以上の気高さを視聴者に知らしめ、彼がこの映画で、どれほど、疲労を重ね、その原因はマリリンの精神的な不安定に有ったと、結論付けることではなかっかたと、私は考えるほど、その映画撮影中のマリリンは、不安定で、よく遅刻したりして、撮影の予定がめちゃくちゃになったそうです。映画とは大勢の人で作る、総合芸術ですから、ある独りの役者が、(簡単な言葉で言えば)わがままだと、みんなが振り回されるわけです。

 でもね、その番組を見た結果、私が、得た感想は、確かにクラークゲーブルは素敵ですし、本当に立派な役目をこの映画で果たしたのですが、マリリンのかわいそうさも、同じ程度、感じさせられたのです。マリリンはひたすら研究し、勉強する人ですが、基本的な部分で、自信のない人で、誰かに支えてもらわないと、生きていかれない人でした。
 女優ですし、主役ですから、仕事上、撮影現場に入れば、監督や撮影監督他のスタッフとの、共同生活はあるわけですが、脚本家である・夫・アーサー・ミラーとの共同生活はなくなるわけです。

 それだけでも、不安定になっていたのに、演技上、いろいろ迷いが出て、困難も出て、それを、ミラーに相談したいのですが、ミラーは、既に、『そうそうは応じられない。僕は忙しい』という姿勢だったみたいですし、それゆえに、マリリンが、今の言葉で言えば切れて、離婚に至るわけです。

 そして、その後のマリリンは、女優としてよりも、別の側面で有名になっていくわけです。つまり、ケネディ大統領の愛人だったと言われる話です。そして、この映画のクランクアップ、一年半後、死亡します。

 でも、私としては、そのときまで謙虚で純真なところも有ったマリリンが、この映画の撮影を通じて壊れた、(これは、精神の病を得たということではなくて、人格が変化して、よく言えば図太くなった、悪く言えば、悪い性格になった)と推察されることが重要なのです。

 ひとりの、知性高く、シゴト上も優れた男性との誠実な愛ある生活は、マリリンにとって、本当に大切なものだったけれど、それが、相手(ミラー)側の潜在的な要望で、壊れたというのは、元々、自信の少ないタイプだったマリリンを決定的な、破壊へ追い込んだと、私は推察するのです。

 だからこそ、時の人気大統領と言う、アメリカ社会で、最もカースト的に高い男性との仲を、急速に成長をさせた。一種の補償作用として、ミラーよりも立派な男性としてケネディ大統領を考えた。しかし、それが、彼女に幸せをもたらしたわけではない。

 そのドキュメンタリー番組に重みがあるのは、そのマリリンの死の前に、クラーク・ゲーブルが死亡しているし、モンゴメリー・クリフトもその後、死亡しているし(その順番は確かではないが)、悲惨な運命を関係者全員にもたらした事が、独特の意味があると、言うことで、非常に丁寧に当時の、人間関係の、ぎすぎすぶりと、お互いがお互いに、欲求不満を抱きあう、日常を、白黒画面(それは、映画そのものが、カラーではなかったのだろうか?)と、いまだ生存中の関係者の、丁寧なインタビューで連ねて行きます。

 その番組そのものへの解釈は、これにとどまりませんが、ここでは、『セールスマンの死』から始まって、アーサー・ミラーへ言及する事が目的の、一連の文章なので、この程度でお許しくださいませ。
   2008年11月16日        川崎 千恵子
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『アーサー・ミラーとマリリン・モンロー』

2008-11-15 10:32:45 | Weblog
 テネシー・ウィリアムズの『欲望と言う名の電車』もすごい映画です。これは、私はテレビで見ました。劇場ではない。そして、そのときの私の年齢からして、非常に感動しました。公開時、(それは少女期だった)に劇場で見た、映画『セールスマンの死」とは、違って、全編を理解する事ができたのです。

 そして、あの『風と共に去りぬ』では、わがままで華やかな主人公を演じたヴィヴィアン・リーがこれほど、すさまじい汚れ役をやること。それから、その後、精神を病んだとか、言われていること。・・・・・などにも大変な衝撃を受け、ヴィヴィアン・リーの自伝を読みました。ヴィヴィアン・リーも、幼い頃から、修道院経営の学校に入れられて、親の愛が少なかった事を知り、親子の関係とはすべての基本を作るものだと感じました。

 ヴィヴィアンの場合は、両親の側に、特別愛が少なかったというよりも、植民地に住んでいるという特別な事情があって、本国イギリスの学校へ入れたいという善意からの選択だった模様ですが、普通に育てたほうが、本人には幸せだったでしょう。

 マリリン・モンローもそうです。どういう事情からかははっきりとは公開をされていないものの、小さい頃不幸だったことは確かです。その欠落感のコンペンセーション(補償作用)として、マリリン・モンローは勉強好きな女性となりました。一種の努力家で、とても頭の良い女性です。

 彼女がセックス・シンボルといわれて有名になったのは、スカートが、地下鉄の風でまくれ上がるシーンからでしょう。でもあれは、単に映画の一場面であり、美空ひばりや宮沢りえと同じで、貪欲なまでに、勉強をしようとしていた女性です。演技者として女優として、またはエンターテイナーとして、向上しようとして、一生、努力を続けた女性です。そして稀代のスターとなる人には、すべて、気品と言うか、品格の高さがあります。どんなに、セックスシンボルと言われようが、思いがけないキュートさとか、かわいらしさとか、そして、怜悧なところも、マリリンは持っていたのでしょう。

 そのために、既にハリウッド(西海岸)の有名女優になっているにもかかわらず、ニューヨーク(東海岸)のアクターズ・ステュディオと言う、演劇学校に入ります。そして、このタイムズスクエアー辺りで活躍をしている、ア-サ-・ミラーと知り合い結婚をします。

 その二人の結婚生活を、二人の親友であったといわれる、写真家、サム・ショウが捕らえており、それは、写真としてもマリリン・モンロー研究資料としても絶品らしいです。

 私は今、インターネット(goo 映画)で、その2、3枚を見ましたが、言われている通りです。特にアーサー・ミラー(1915~2005)が、その私生活を明かしておりません。それは、戯曲を書くから、そこで、人間についての発言があるので、それで、充分だという考えがあり、また、物書きとしての業として、警戒心もあったのでしょう。

 ですから、アーサー・ミラーの人間性研究に関して、その写真は役に立つと思います。

 しかし、実はもう一本、忘れられない番組が、昔NHKで、放映をされました。映画『荒馬と女』の舞台裏をドキュメンタリーとして、制作した番組です。すごかったのですが、それは、明日語らせてくださいませ。
  2008年11月15日これを書く、送るのは、17日  川崎 千恵子
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トニー賞の『セールスマンの死』を観る(1999)

2008-11-15 00:06:10 | Weblog
 このタイムズスクエアー近辺の西のはずれに、ユージン・オニール劇場と言う演劇専門らしい劇場があり、『セールスマンの死』をやっているというポスターが貼ってありました。滞在の最後のころには、それがトニー賞を得たという情報もそこに、貼ってあったと思います。

 私にとって、この戯曲に接するのは三度目です。重くて暗い戯曲ですが、『二度過去に接しているから、筋は分かっているし、せっかくの機会だし、トニー賞受賞なんだから、観てみるか』という感じで例のごとく、当日券を買って入りました。

 一番最初に接したのは、日本で字幕付きの映画です。少女時代で、母と一緒に見たのかなあ。父もそこにいたのかなあ? 

 ともかく、筋としてはアメリカの中流家庭の、父親の自殺の話です。
 その父はずっと、(保険?)のセールスをしてきて、定年が近い年齢。働きづめで来たのに、息子たちが自分の思い通りの出世と言うか、成長をしてくれなくて、不満があり、それが原因ともなって、こどもや、妻とも仲良しではありません。

 そこへもって来て、些細なことから、女性問題を起こしてしまい、なおさらのことと言う形で、家族から見放されます。それでなのか、それとも家のローンの問題が重荷だったのか、詳しいことは忘れましたが、自らに保険を掛けて、自動車事故を起こし、自殺をするのです。お金を作るために。今は自殺では保険がおりないのかしら。くわしく研究したことはありませんが。

 映画には、母がものすごく感動していたような記憶があります。私のほうはまだ、人生の本当の苦しみには、それほど、出会っていない時期で、完全にはこれを理解することはできませんでした。ただ、一点だけ、最後の、墓場の埋葬のシーンだけを強烈に覚えていて、『これが、本当の人間性を表現しているものなんだろうなあ』と、子供心に、感じ入ったところがあります。

 それは、妻が「どうして、お父さんが死ななければいけなかったのか、わからないわ」と言ったときに、その冷たさが、女の本質を表しているような気がしてぞっとしたことです。

 あの女優さんはきっと名女優だったのでしょう。この戯曲はほとんど、お父さんが出ずっぱりの主役で、お母さんは、それほど、重要な人物ではないのに、この最後のシーンで、お父さんが、いまだに、家族から理解をされていない孤独な人であるという悲劇を、強烈に観客に知らしめたのです。

。。。。。。。。。
 ここで、挿入ですが、妻の役は、このときの映画では、ミルレッド・ダンノックと言う人のようです。goo 映画の情報から得ました。演劇の方は何度も繰り返し上演をされているようで、この1999年のものも、私宅で、プログラムがどこにあるかがわからないので、俳優陣を正確にここに、記すことは出来ません。お許しください。
。。。。。。。。。

 元の映画にこの文章を戻しますが、本当に、すごい。すごい女優さんです。アメリカ人としては、細身の人で、上品だけど、血の通っていないような、普通の人なんだけれど、どちらかといえば怜悧な人であるという感じ(だから、お父さんはなおさら、追い詰められた)をすごくうまく出していました。

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 次に大学一年の時に、英語の副教材の一つとして読みました。勉強として、読んだので、感動と言うわけでもなかったのですが、それでも、父親の悲劇と言うのはわかって(泣いたかどうかは、40年以上も前なので、忘れたけれど)、『お父さんって大変なのだなあ』と思い、少しは自分の父へも歩み寄ったものです。

 若い娘って言うのは、結構、父親に批判的ですよ。一時期、『お父さんの靴下だけを、洗濯機に入れないとか、箸でつまむとか、別に洗うとか言う』のが、日本では巷で大話題になったものですし。それが私の中では変化してきて、『お父さんの本質って大変なのだなあ』と、新しく思い始めるきっかけとなった映画でした。

 そして、この1999年の本場の演劇。疲れました。オペラを見るのとはまるで違います。

 ただ、そのころ、57歳でしたから、ちょうど主人公一家と似た年齢に自分が差し掛かっており、子育て
 (特に思春期とか、大学受験とか、就職の問題とかを、考えるのは、親は自分で動くことが出来ず、ただ、待つ時間が多いので、却って心理的には大変です)
 の大変さを、知っていましたから、この演劇に表れている、父と子の疎外の問題は、以前の若い頃よりは圧倒的に理解できる問題となっておりました。

 アーサー・ミラーってご自分のお子さんは無いはずなので、どこからこの発想を得たのかしら。ご自分の父を反映しているのかなあ。

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 さて、自分の問題から離れて、ちょっと評論的に言いますと、この1999年はアメリカにはほとんど問題がなく、(つまり、現在のサブプライムローン破綻も、株の暴落もなく、世界政治とのかかわりも、自信を持っていた時代であり、あのテロにも出遭っていないときです)、この戯曲の暗さとはかけ離れた時勢でありました。

 だから却って、この暗い戯曲の、人気が出ている感じもしました。なんとなく、名作リヴァイバルをみるという感じで、劇場全体が華やかでした。

 今でも、この戯曲を演じられているかどうかを、私は知りませんが、今年あたりにこれを、やったら、あまりに身につまされる事態になり、かえって人気が出ないかもしれませんね。

 普段版画工房だけで、アメリカ人に接していると、そのオープンな性格の明るさのみを感じますが、暗い苦しいアメリカ人の、もう一つの、真実の姿が、この戯曲では、表現をされております。時代設定は、1945年以前に設定をされているのでしょう。戯曲が発表をされたのは、1949年のようですが。まだ、ヨーロッパに対して、優越をしているという自信がなかった、謙虚な時代の、アメリカ社会のお話だと思います。
   2008年11月14日の早朝に書き、送るのは、15日。川崎千恵子
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ニューヨーク最初の二週間で、学んだこと。

2008-11-13 01:09:47 | Weblog
 今日は最初にちょっとお断りを致しますが、いつもより、2時間早く更新をしております。いつも、もし、日本時間の22時から、24時半ごろまでに覗いてくださる方が、おられましたら、この下に、八番街の騎乗警官と言うのがあり、今日のはそれの続きです。 

・・・・・・・・・・

 タイトルをこう付けると、何を選んだらよいかしらと言うほど、たくさんの事を学びましたが、ここは、その最初のアパートでの、他者との会話から学んだことを、お話をさせてくださいませ。

 そこには、間借り人として、素敵な若い女性が居ました。日本で、大手企業の社長をしている人のお嬢さんでした。が、全く甘えたところがなく、お掃除もぱきぱきするし、ニューヨークでも、ちゃんとした会社に勤めている人でした。彼女が「私は、髪の毛が落ちているのが、一番嫌いなのよ」と言うのを聞いたときに、本腰をいれてお掃除をするお嬢さんだなあと、感じ入ったたものです。その後、・・・・・

 その人と、一晩話し合った事があるのですが、『どうして、ニューヨークに来たかと言うと、日本の若い男性に失望しているからだ』とのことでした。『日本で、優秀だと認められている若い男の人は、実は、覇気が無い人が多い』そうです。それは、『受験競争などを、経てきているので、どうしてもそうなるのだろうなあ』と、私は考えました。

 豊かな日本、そして、母親の力が・・・(ママゴンとか、言われて)・・・家庭の中で強かった時代の話です。10年前の話ですから。彼女はとても落ち着いた美しい人で、背も高かったので、『アメリカ人と結婚をしたい』というその希望が、既に、かなえられているだろうと、今の私は思います。

 さて、問題は大家夫人でした。彼女は、こんな小さなお子さんがあるのに、テレビゲームなどをしているので、育児放棄をしているかのように見えました。でないと、坊ちゃんが、これほど、私になつく理由がわかりません。

 まあ、私はこんな文章を書いているので、インテリぶっていると見られるのか、よく「お子さんがあるといっても、お母さんに育ててもらったのでしょう?」などと言われるのですが、違う違う、ちゃんと、布オムツの時代に、核家族で子育てをしています。ほぼ、40年近く前のことですが、小さなこどもと、猫は大好きです。

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 ところで、ここで、突然の挿入ですが、今日、Yahoo Japan のアースプロジェクトと言う頁で、片山右京さんのインタビューがあり、その中の猫談義は、面白いです。私もその通りだと思う猫のある部分の本質が書いてあります。
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 さて、本文の続きに戻りますと、
 特に仲間のお母さんから「長い手綱で、育てているね」といわれたこともあるほど、子供が小さいころは、子どもオンリーで、すべてのご近所のお子さんがうちに集まる一種の保育所状態でした。

 がみがみ言わないで、自由に遊ばせながら、常にじっとみんなを、注意深く、見ている、母親でした。危険が無いようにとか、悪い事をしないようにとか。でも、がみがみと叱らないためには、非常に労力が居るのです。疲労困憊しますよ。そして、歯を悪くしました。だけど、その経験があるから、その家の子どもと、猫にはなつかれ切りました。

 私はよっぽどの事が無いと、相手に強く出る事ができません。この動き回る盛りの二歳の赤ちゃんが、帰宅すると同時にずっと、私についてきて、「遊んで頂戴」と言う、感じには参ったけれど、すぐ「これは、止めてください」と奥さんに言うのはやめて、どうしてこうなるのかを婉曲に聞いていきました。

 するとね。短編小説が書けるぐらい、いろいろな理由が重複していることがわかったのです。が、そのうち、『これは、奥さんの責任ではないだろうなあ』と、思う理由が一つだけあり、それだけを、ここに書きましょう。

 それは、奥さんの実家の、『実のお母さんが、偏愛の人だった』と言うことです。妹さんばかり可愛がったそうです。それで、妹さんは家事も上手で、「この前、ニューヨークにお母さんと一緒に遊びに来たが、この家全部、隅々まできれいにして帰ってくれたのよ」と、彼女が言ったときに、大きな謎が解けたのです。

 妹さんの方はお母さんとの関係が蜜で、しかもお母さんが好きですね。だから、お母さんの遣ることは小さい頃からじっと見ているし、それを、尊敬しているから、お母さんのやっていることも好きになるし、身につくのです。で、家事が上手な普通のお嬢さんに育ちあがりました。

 でも、ご長女であったこちらの奥さんは、何も実母に反抗をしないけれど、深く傷ついていて、それを、挽回するために、ブロードウエイで、ブレイクすることを願って、このニューヨークへきたのに、思いがけないタイミングでお子さんができて、自由を奪われた感じがしているのでした。

 頭が良くて、自己分析もちゃんとできる人でした。才能もあったのでしょう。でも、まだ若くて、実体験として、今、本当は、何をやるべきなのかを、ちゃんと、把握できていないのでした。それに、実家が大変なお金持ちらしくて、それも、彼女に、危機意識を与えない状況を、つくり出しているのです。

 『そうなのか、それで、やっと理由がわかった。だけど、それなら、このお子さんに、私が、なつかれることは、永遠に続くな』と思った私は、その家を出ることに決めたのです。並の覚悟で、ニューヨークへきているわけではありません。時間は非常に貴重だったのです。      
       2008年11月14日             川崎 千恵子
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八番街の、騎乗警官

2008-11-13 00:06:55 | Weblog
 そのお宅のシステムは、台所とお風呂場(トイとも洗面所つき)を共有し、三つあるベッドルームをそれぞれ、大家さん夫婦と、間借り人二人が使うというシステムでした。ビルはワンフロアーが、40~50坪ぐらいの広いもので、これ以外として、居間とか、未使用のスペースが広く取ってあったのです。

 大家さんは若くて、お子さんが、2歳程度。このお子さんに、私は、なつかれすぎて、全く普通の生活が出来ないので、やがて、この家を去ることになるのですが、それでも、初めてニューヨークに来たわけですから、この家でもいろいろ、感動することはありました。

 その一つが朝早く、下の方から、騎馬警官のぱかぱかというひづめの音がする事です。マンハッタンの中心といえども、早朝は人も車も動きません。私は予定していた、PRATT
INSTITUTEが単なる版画工房ではなくて、大学だったので、びっくり仰天するのですが、そこに無事入学できて、(日本で大学を卒業しているので、大学院へ入学できて)、気分は真っ青な空みたいなものです。朝は早くから起きました。どうしてか、暖房器具と、ガラスのテーブルとベッドしか置いていなくて、窓にカーテンが無いので、余計早起きになります。

 最初は、『え、こんなビル街の真ん中に、だれか、馬好きが居るの? どこに繋いでいるんだろう』と驚いたのですが、何日目かに、窓を開けて下を見下ろすと、ちょっとクラシックな、しかもきちんとした制服をきた警官が、ぱかぱかと、一頭の馬に乗り、ゆっくりと通り過ぎていったのです。『へえ、早朝は、この広い道路を、騎馬警官がパトロールするんだ』と驚きました。
パリでの懐かしい音は、深夜酔っ払いが、何かを叫びながら通り過ぎることと、早朝、道路を洗っていく、清掃車の散水の音です。しかし、マンハッタンの真ん中でひづめの音に起こされるとは夢にも思いませんでした。

しかし、夜はなかなかです。私は大学院へ入学できた喜びに、その8番街と、42丁目の交差するところにある、ATMブースによる向かったのです。そして、2600ドルを学費としておろしました。(52万円ぐらい) 一万円札と言うのが出てこないので、100万円にも達しないお金ですが、分厚いのです。

そして、広いブースからガラス戸をあけて出た途端、ホームレスの人に、「お金を恵んでください」といわれたのです。今でもその人の顔を覚えております。優しい顔をしたアフリカンの50代はじめのひとでした。だけど、こちらが持っている金額が金額です。アメリカは小切手社会だから、この分厚い札束は目立ちます。その上、大家さんから、気をつけるように何度も注意されていますから、私はびっくりして、20ドル札(3000円ぐらい)を一枚上げて、そこを落ち着いて去ることなど、思いつかず、パーッと走って、42丁目に逃げ込みました。

42丁目のそこら辺りはやや暗いんですが、でも、その先にあの明るいタイムズスクエアーがあるわけですから、そこへ向かって走ったのです。すると前方にたくましい男性と、女性のカップルが見えました。それで、二人にかくかくしかじかと言うと、「じゃあ、送ってあげましょう」と言ってくれて、そこから、ぐるっと、一ブロックほど回って、自分の住まいまで送ってもらいました。その間、7分ぐらいですが、私はお礼のつもりで、『どうして、また、どういう目的で、この大金を持っているか』を話しましたら、その男性が、「僕は、彫刻家です」と、知らせてくれました。

『あ、そうか。だから、たくましい人なんだ』と思ったことです。でも、このエピソードは10年前のお話です。今の私はもっと、静かな人間で、人間の運命とか、幸、不幸について、いろいろ考えておりますから、あのホームレスを悪い人だったなどとは、全く思っておりません。

『誰もが、今その人がおかれている状況に応じた行動を、とるのだ』ということが判ってきているからです。今の私だったら、落ち着いて、あの「お金をください」といった男性に、20ドル札を一枚上げることができるでしょう。でも、あの時はできなかったのです。 
なお、今日の図版は、その次の年に摺った版画の一部分です。マンハッタンと直接の関係はありませんが、ニューヨークで摺ったものなので、ここに置きましょう。
 2008年11月13日            川崎 千恵子
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