さて、大道芸人のお話が終わりましたが、ここで、ちょっと、アテネのキリストみたいな青年に関連して思い出したご老人の話をしましょう。
この人はマーロン・ブランドみたいな感じの男性でした。1980年当時で七十歳を越えているのは確かで、青年の美しさと言うものは全くない人ですが、老人として複雑な人生を送ってきた事を示す人で、普通のトルコ人とは全く異なっておりました。
それが、深い印象として残っております。今は亡くなっているのではないかと思いますが、エフェソッスの遺跡への入り口に当たる街道沿いにモーテルを経営していたのです。あ、ただ、ここで、きちんとお断りを致しますが、トルコにおけるモーテルとは、純粋に旅人のためのもので、日本で言う最近のモーテル(ラヴ・ホテル)ではありません。
ところでエフェソッスの遺跡は、ヘレニズム文明のものとしてはすばらしいものです。まだ、パリミラを見ておりませんが、デルフォイ(ギリシャ)や、ペルセポリス(イラン)や、イタリアなどの、遺跡に比べても、残っている建物がたくさんあり、すばらしいところだと思います。ところが、イズミールと言う空港さえある大都会と、クシャダスという地中海クルーズの寄る、大保養地の間にあるのですが、その二つの都会からは相当遠いところにある、エフェソッスを観光資源とするホテルは、1980年当時はなくて、唯、一つ、そのつぶれかけたモーテルがあるだけだったのです。
プールは何年も水を入れた形跡がなく、何らかの材木や、木のかけらが放り込まれているし、ベッドカバーは臙脂のゴブラン織りの高価なものではあるが、すでにほつれています。最後に決定的に『ここに泊まってしまったなあ。失敗だった』と思ったのは、防音対策がなされておらず、街道をひっきりなしに通る車の騒音でよく眠れなかったことでした。
でもね。私は明日の朝、早く、エフェソッスへ行かれることの期待に夢を膨らませ、『まあ、いろいろ不満はあるけれど、我慢をしよう』と考えたのです。食堂は外でした。これは、ギリシャから始まってイランなどでもホテルでも、結構取り上げられている形式で雨が少なく、昼間が暑い地帯の文化なのでしょう。
しかし、ライトも少なければお客も少ない。テーブルの周りはちょうちん風のランタンで照らされているだけなのです。ここにも北欧から来たらしいご夫婦が泊まっていましたが、それ以外のお客はなし。ボーイは、40歳から50歳に見える男性で、その人以外誰も居ないみたいな静かな雰囲気です。
そして、お料理が出ました。びっくりするほど、小さな(5x6センチの円形で厚さが5ミリぐらい)、牛肉片が、大き目のお皿に乗っています。しかし、ソースは吟味されていておいしい。このお肉にだけは驚きました。
トルコに入ってから、一流ホテルだけ使っておりました。料理はすべて量が多くて、こってりしています。特にイスタンブールのシェラトンで頼んだ、うなぎのシーザーズサラダなど、ひとかけら食べただけで、『もう、要りません。ごめんなさい』と言うほどのものでした。ただ、どうしてか、その当時はどこでも、サラダにドレッシングと言うものを使わないので、それには困りましたけれど。
しかし、なかなか満足が出来ませんでした。のちほど、ギリシャなどで(今では民族が同じなので、トルコもほとんど同じ料理のはずです)家庭料理を食べたときは、愚タグ田に紺であって、見掛けは悪いもののおいしいと思いました。しかし、ホテルでは、一種のフレンチを出すのです。だから、そうおいしいとも思いませんでした。
それに比べると、この幽霊屋敷と見まがう、モーテルの牛肉は、一種のロースト・ビーフらしいのですが、ソースのおいしさたるや、一流中の一流です。こんなに、決め細やかで味のしっかりしたものは、トルコへ入って、10日は過ぎていましhたが、初めて味わうものでした。で、私はボーイに、「オーナーを読んでください。少し、話がしたい」と頼んで、来てもらいました。
そこで現れたのが、晦渋に満ちた不思議な雰囲気のしかし、トルコ人としては、知性に溢れた顔の紳士でした。牛肉のソースを褒めると「あれは、日本の帝国ホテル仕込です。僕は、進駐軍で、日本へ行き、軍隊を解除(解雇)された後で、帝国ホテル内でシェフとして、働いていたのです」と彼は言います。
驚きました。トルコの、こんな田舎、(と言うのも、回りにも数キロにわたって、人家が一軒も無くて、向日葵畑と遺跡だけがある地帯なのです)に、ひっそりと暮らしている男性が、世界をまたに駆けた若い日を送った事を知って。
ロースト・ビーフは最近では、日本でも牛肉が豊富に手に入るので、焼きが薄くて生に近い形で、しかも一切れが大きい形で供されます。だけど、戦後スグの日本だったら、あれだけ、しっかりと熱を通した、しかも小さめのサイズのロースト・ビーフを、帝国ホテルでも出していただろうと、私は納得をしました。彼はその時代(1940~50年)の帝国ホテル風を守っているのです。
トルコ人は日本人びいきです。でも、実際に日本で暮らした人がここにいて、立派なロースト・ビーフを出しているのにも驚きました。けれどね。どうして、このモーテルは寂れているのでしょうか。それについて、私はもちろん、オーナーには質問をしませんでした。それはね。彼に家族の影が見えなかったからです。この年齢だと、妻、子、孫に、囲まれて、それこそ、顔の似ているマーロン・ブランドの演じたゴッドファーザーではないが、おくの部屋の方に大勢の人の気配があって、明かりがともっているはずなのです。
それが一切ありません。『どうして、この人は独身を貫いたのだろう』と考えて、ふと、『この人はあのボーイを家族としていて、それで、満足をしているのではないだろうか』と思い当たりました。もちろん二人の間には血縁関係はないと思います。顔も雰囲気も圧倒的にオーナーの方がエリート風で、ボーイは庶民風です。それでも、30年ぐらい前には、どこか、可愛げなところがボーイの方にあって、このボーイを一生家族として引き受けようとオーナーは考えたのでしょう。この想像は検証の余地も無いものです。だけど、その晩、そこで、さまざまなことを考えたことは確かです。
2008年11月27日 川崎 千恵子(筆名、雨宮 舜)
なお、今日の図版は、そのとき、エフェソッスでスケッチしてきたものを、原版が既に売れていて、無いので、私の二冊目の本から採録してみたものです。
この人はマーロン・ブランドみたいな感じの男性でした。1980年当時で七十歳を越えているのは確かで、青年の美しさと言うものは全くない人ですが、老人として複雑な人生を送ってきた事を示す人で、普通のトルコ人とは全く異なっておりました。
それが、深い印象として残っております。今は亡くなっているのではないかと思いますが、エフェソッスの遺跡への入り口に当たる街道沿いにモーテルを経営していたのです。あ、ただ、ここで、きちんとお断りを致しますが、トルコにおけるモーテルとは、純粋に旅人のためのもので、日本で言う最近のモーテル(ラヴ・ホテル)ではありません。
ところでエフェソッスの遺跡は、ヘレニズム文明のものとしてはすばらしいものです。まだ、パリミラを見ておりませんが、デルフォイ(ギリシャ)や、ペルセポリス(イラン)や、イタリアなどの、遺跡に比べても、残っている建物がたくさんあり、すばらしいところだと思います。ところが、イズミールと言う空港さえある大都会と、クシャダスという地中海クルーズの寄る、大保養地の間にあるのですが、その二つの都会からは相当遠いところにある、エフェソッスを観光資源とするホテルは、1980年当時はなくて、唯、一つ、そのつぶれかけたモーテルがあるだけだったのです。
プールは何年も水を入れた形跡がなく、何らかの材木や、木のかけらが放り込まれているし、ベッドカバーは臙脂のゴブラン織りの高価なものではあるが、すでにほつれています。最後に決定的に『ここに泊まってしまったなあ。失敗だった』と思ったのは、防音対策がなされておらず、街道をひっきりなしに通る車の騒音でよく眠れなかったことでした。
でもね。私は明日の朝、早く、エフェソッスへ行かれることの期待に夢を膨らませ、『まあ、いろいろ不満はあるけれど、我慢をしよう』と考えたのです。食堂は外でした。これは、ギリシャから始まってイランなどでもホテルでも、結構取り上げられている形式で雨が少なく、昼間が暑い地帯の文化なのでしょう。
しかし、ライトも少なければお客も少ない。テーブルの周りはちょうちん風のランタンで照らされているだけなのです。ここにも北欧から来たらしいご夫婦が泊まっていましたが、それ以外のお客はなし。ボーイは、40歳から50歳に見える男性で、その人以外誰も居ないみたいな静かな雰囲気です。
そして、お料理が出ました。びっくりするほど、小さな(5x6センチの円形で厚さが5ミリぐらい)、牛肉片が、大き目のお皿に乗っています。しかし、ソースは吟味されていておいしい。このお肉にだけは驚きました。
トルコに入ってから、一流ホテルだけ使っておりました。料理はすべて量が多くて、こってりしています。特にイスタンブールのシェラトンで頼んだ、うなぎのシーザーズサラダなど、ひとかけら食べただけで、『もう、要りません。ごめんなさい』と言うほどのものでした。ただ、どうしてか、その当時はどこでも、サラダにドレッシングと言うものを使わないので、それには困りましたけれど。
しかし、なかなか満足が出来ませんでした。のちほど、ギリシャなどで(今では民族が同じなので、トルコもほとんど同じ料理のはずです)家庭料理を食べたときは、愚タグ田に紺であって、見掛けは悪いもののおいしいと思いました。しかし、ホテルでは、一種のフレンチを出すのです。だから、そうおいしいとも思いませんでした。
それに比べると、この幽霊屋敷と見まがう、モーテルの牛肉は、一種のロースト・ビーフらしいのですが、ソースのおいしさたるや、一流中の一流です。こんなに、決め細やかで味のしっかりしたものは、トルコへ入って、10日は過ぎていましhたが、初めて味わうものでした。で、私はボーイに、「オーナーを読んでください。少し、話がしたい」と頼んで、来てもらいました。
そこで現れたのが、晦渋に満ちた不思議な雰囲気のしかし、トルコ人としては、知性に溢れた顔の紳士でした。牛肉のソースを褒めると「あれは、日本の帝国ホテル仕込です。僕は、進駐軍で、日本へ行き、軍隊を解除(解雇)された後で、帝国ホテル内でシェフとして、働いていたのです」と彼は言います。
驚きました。トルコの、こんな田舎、(と言うのも、回りにも数キロにわたって、人家が一軒も無くて、向日葵畑と遺跡だけがある地帯なのです)に、ひっそりと暮らしている男性が、世界をまたに駆けた若い日を送った事を知って。
ロースト・ビーフは最近では、日本でも牛肉が豊富に手に入るので、焼きが薄くて生に近い形で、しかも一切れが大きい形で供されます。だけど、戦後スグの日本だったら、あれだけ、しっかりと熱を通した、しかも小さめのサイズのロースト・ビーフを、帝国ホテルでも出していただろうと、私は納得をしました。彼はその時代(1940~50年)の帝国ホテル風を守っているのです。
トルコ人は日本人びいきです。でも、実際に日本で暮らした人がここにいて、立派なロースト・ビーフを出しているのにも驚きました。けれどね。どうして、このモーテルは寂れているのでしょうか。それについて、私はもちろん、オーナーには質問をしませんでした。それはね。彼に家族の影が見えなかったからです。この年齢だと、妻、子、孫に、囲まれて、それこそ、顔の似ているマーロン・ブランドの演じたゴッドファーザーではないが、おくの部屋の方に大勢の人の気配があって、明かりがともっているはずなのです。
それが一切ありません。『どうして、この人は独身を貫いたのだろう』と考えて、ふと、『この人はあのボーイを家族としていて、それで、満足をしているのではないだろうか』と思い当たりました。もちろん二人の間には血縁関係はないと思います。顔も雰囲気も圧倒的にオーナーの方がエリート風で、ボーイは庶民風です。それでも、30年ぐらい前には、どこか、可愛げなところがボーイの方にあって、このボーイを一生家族として引き受けようとオーナーは考えたのでしょう。この想像は検証の余地も無いものです。だけど、その晩、そこで、さまざまなことを考えたことは確かです。
2008年11月27日 川崎 千恵子(筆名、雨宮 舜)
なお、今日の図版は、そのとき、エフェソッスでスケッチしてきたものを、原版が既に売れていて、無いので、私の二冊目の本から採録してみたものです。