さて、今は、2月2日の午前二時です。以下の文章の途中に、相当の字数を挿入いたします。そこは、副題A と、名付けておきます。
副題1、『わたくしは蚊が飛んでいるぐらいの小さな出版社を営んでいる。その為には、ISBN番号をもらうために、また、バーコードをもらうために、数年に一度、書類を提出して、資格を更新しないといけない』
あれは、2021年だったと思うのですが、今、書類を確認している暇がないので、2020年の事だったかもしれません。何をするにしても、いじめられる私は、その更新手続きで、散々苦しめられます。オフィスの所在ビルが、変化していたからです。
しかし、タクシーが変なところで、私を下ろしたので仕方がなくて、カナダ大使館の周囲をぐるっと、初めて回って、ひどく広い事や、青山ツィンビルが、初期のタワービルであるからこそ、ものすごく材料が、豪華で、堅牢であることなどを知りました。三菱地所設計・施行ですって。これが、バーコード更新の方で、ISBN番号更新は、お茶の水で、行います。これも、一期前は、神楽坂だったはずで、例の、神楽坂女声合唱団の、練習場だったと、覚えていたら御茶ノ水へ、引っ越していたので、本当に面喰いました。
で、だいたい徹夜する私は、行動を起こすのが、遅くなるし、主人の夕食を準備してから外出するので、お茶の水を歩いている時が、夜の九時ごろでした。で、コロナ禍が、始まっていたせいか。それとも、ショッピングタウンがないせいか、人通りは、ほとんどないという環境下で、道を歩いていたのです。で、お茶の水で降りたのですが、帰りは、どうしてか、水道橋駅に出るという事になりました。夜だから、よくわからなかったのだと思います。
目の前に、ドーンと大変美しいビルが現れました。どこが、美しいかというと道路に面して、ギリシャ式の円柱が六本ぐらい、立って居て、それが、白い石でできていて、かつ、ピカピカに磨き上げられていたからでした。
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副題2、『ギリシャ式円柱のあるビルは、私としては、4つ目として見るのだったが、このビルを最も美しいと感じた』
1960年代の事です。日吉の慶応高校が使っているビルの北玄関に、ギリシャ式円柱が立って居ました。しかし、戦時中の空襲を逃れるために、黒で、迷彩が、施されていて、かつ、コンクリート製だったので、美しいとは、感じませんでした。
1997年にギリシャを訪ねて、アテネのアクロポリスの神殿を見ます。これは、ものすごいもので、本当は大理石でできているはずですが、風化していて、不透明な乳白色になっています。まあ、美しいです。しかし、ここの文章は、その神殿を、模倣した建築物を語る場です。
1999年と2000年にの秋三か月ほど、ニューヨークにいて、郵便局を多用します。すると、中央郵便局に、30本ぐらいギリシャ式円柱が立って居るのを発見しました。その前に石段が10段ぐらいある形で、見事なビルですが、えんちゅうはコンクリート製だったと、覚えています。
その次にいつだったか、青山を歩いていたら、突然に、伊藤忠ビルに出くわします。その入り口に太いギリシャ式円柱が四本ぐらいたっています。赤い色だったので、庵治石という御影石のはずで、非常に高価なものです。しかし、私は、『うーん、そうですか。お金持ちなんですね。瀬島隆三が、特権をひらめかせられるのも、このビルのおかげなのですか?』と、感じただけで、美を、感じたわけではありません。
しかし、これらの体験を経たうえで、水道橋駅そばのビルを見て、驚嘆をしました。6本程度のギリシャ式円柱で、飾られているのですが、それが、真新しい感じで、ピカピカなのです。磨き上げられている石が使われています。大理石を使うのが、ギリシャの本物に近いという形になりますが、大理石は弱いです。だから、地震のある日本で、使われているのは、しろ御影石ではないかなあ?
ともかく、建築物として、お金がかかっています。そしてきれいです。でね。私は外資系の金融会社だと、思い込んで、どこかに何かが書いていないかと、思いました。ビル本体にな、何のロゴも刻まれていません。で、きょろきょろしていると、隅に角柱が立っていて、東京歯科大学とありました。ところで、ここで、ちょっとお断わりですが、私が、それだけを見て、通り過ぎてしまったらしくてどうも、これは、病院らしいです。特にgoogle mapを見ると、そこは、病院となっています。まあ、病院だと学生を吸い込むビルよりも豪華になる・・・・という形なのかもしれませんが、
まあ、驚きました。主人が手術を受けた、徳洲会の、湘南鎌倉総合病院は、棟によっては内装が、非常にモダンで美しいです。しかし、外観が、こんなに豪華だと、言うわけではありません。夜だったので、周辺に人間が一人もいないということと、照明が煌々と輝いていたのも、美しさをさらに際立たせていたのでしょう。
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副題3、『ここで、話は、一つ飛ぶが、私は名古屋駅構内で、30人程度の、30代の青年がたむろしているのに出会った。ブロガーとして好奇心旺盛だから、どういう集団なのだろうと、疑問に思って、中の一人に問い合わせた。どうして疑問に思ったかというと、みんな美形で、かつ上品で、かつ、衣服や、カバン類が、上等だったからだ。すると青年は、答えて、「歯医者です」といった』
これは、学会があったのだと、思います。そこに、300人から、500人が参加したとして、同じ大学を出た、しかも、上下、5年以内の学生が、集まって、これから、一緒に東京へ帰りましょうというところだったでしょう。
ああ、受験勉強をした人たちなのだろうなあと、思ったのです。それは、突出して背が高い人はいないし、突出して肥満体の人もいなかったことで、わかりました。ただね。歯医者さんというのが、医学部の中でも、お金持ち集団であることはわかりました。もう全員そろって美形なので、お母さんも美女だと推察されるからです。二代目もいるだろうし、三代目もいるだろうと、思いました。そういう形で、美が煮詰まってくるのでしょう。
美術系の大学の学部で、建築学科が、お金も儲かる学部です。デザインもそうかもしれないけれど、建築家の方が安定していると思います。歯学部は、医学系の中でも、突出して、お金持ちなのだと、感じました。名古屋駅構内での、五分間の観察によってです。それが、時制的には、古くて、その次に、水道橋の東京歯科大学病院の、豪華で、美しい建物を見たわけです。で、歯医者さんが、とても、お金持ちだと、言うことは認識しました。
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副題4、『ここで、話は、二つ目として飛ぶが、歯医者さんだったら、女性でも、超、お金持ちになるケースもある』
昔、私のお友達(マダム吉家)の従姉妹日隈(ひぐま)さんが、歯医者さんで、そのご自宅にお招きを受けたことがあります。すると、広い玄関(患者用ではない玄関・・・8畳ぐらい)に、金塊の御用聞きが来ていて、女医さんは、無造作に、「二枚ね」と、注文を出していました。金塊の売買は、二キロが普通なので、現在の貨幣価値に直すと、2000万円になります。しかし、その時は私は、金塊のお値段を知りませんでした。当時は、四キロで、100万円だった可能性もあります。だから、女医さんが『自分がどれほどに、えらい人であるかを、デモンストレーションをしているのだ』とは、まったく、気が付きませんでした。
その時、未就学児童だった、我が子二人もお招きを受けていて、その広い玄関に、我が子のサンダルが、二つ並んでいました。そして、お兄ちゃんの方のサンダルを、歯医者ではない、私の直接の友達の方が見とがめて「どうして、女の子用のサンダルをはかせているの?」と、質問をされました。
私は内心で、『あれ、子供用のサンダルに、男の子用、サンダルと、女の子用サンダルの区別があるのかしら?』と、思いました。でも、そういわれてみると、ひもが細くて、六本ぐらい重なっている上に、かかとが高いデザインなので、確かに、女の子用だったかもしれません。
で、そのころの私は、自分が貧乏だとは、思っていませんでした。それに、今の様に弾圧を受けているわけでもないので、まったく無防備で自分の発言が、どういう効果を発するかということを、顧慮するということがありませんでした。で、こう答えました。「あのね、下の子に使えるから、女の子用を買ったのよ」と。二人は、1歳七か月の差で、生まれているからです。
これは、旧神奈川県立近代美術館本館の職員用玄関前で、現在では【鎌倉殿の13人】特別展が開かれる、鶴岡八幡宮文華館・付属カフェが建って居る場所です。中央が私で、左右が子供です。右の男の子には、白い男の子用の靴を履かせているし、左の女の子は、赤い女の子用の靴を履かせています。
歯医者さんの私邸で、サンダルについて質問を受けたのは、この写真より半年前か、または、半年後の夏だったと思います。
で、倹約の思想から、おさがりを使いたいと、思って、両方の子に、女の子用サンダルをはかせていたわけですが、私の友達と、その従姉妹の女医さんは、顔を見合わせて、「ありえない」と言いました。
私はこの時は別にダメージは受けませんでした。だって、女医さん(特に歯医者さん)と張り合っても仕方がないですから。尚、女医さんの名誉のために言うと、2000万円というのは、今の金の高さが反映しているので、1970年代は、十分の一のお値段だったと思います。だから御用聞きにひょ、ひょいと、注文を出す、そういう軽い買い物だったはずです。
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これ以降、副題Cまでは、2日目に入れる挿入です。
副題A、『これは、差別的発言ではない。政治的発言なのだ。つまり、1980年ごろには、すでに、私と関係がある人を大出世させ、私の方を取り残していくという手法がすでに始まっていたのだった。
というのも、鶴見の短大の保育科を出ていて、母であること、とか、主婦であることの意義を説いていたマダム吉家が、35歳ぐらいにして突然に同人誌に、作品(小説? または、評論)を、発表して、日本ペンクラブの会員になったと聞いて、私は、キツネに鼻をつままれた様な気分に陥った』という挿入を入れて、初稿に戻ろう。一部繰り返しになるが、それは、言いにくいことだから、逡巡があったので、そうなってしまう。お許しいただきたい。
ところで、これは、言いたくなかったことですが、このマダム吉家が、ヒロシマに引っ越して、そこで、30代のうちに日本ペンクラブの会員になっています。彼女は、鶴見の短大の、保育科を出た人で、専業主婦の大切さを説いていたので、文筆業へ入ったということが不思議でした。
鴨居の東本郷住宅時代のママ友ですが、ご主人が外語大卒なので、国際基督教大学の優秀さ(特に、1960年代)を知っていて、私を立ててくれていました。圧倒的に、上においてくれました。しかし、内実を言うと、彼女に私は支配をされていたのです。
::::::::ここが、この鎌倉雪の下における、安野夫人と前田夫人との関係の分析に役立った経験です。表に見えることと、内実は、違うケースがあるのです。::::::::
しかし、ヒロシマから、「日本ペンクラブの会員になったのよ」と、言う電話をもらったときに、
CIAエージェントたちのやり方を知ったのです。私と知り合いである限り、出世できる。そして、私を置いてけぼりにすることで、私を悲しませ。早くノイローゼにさせて、つぶしていこうとする、そういうCIAの黒い仕組みに気が付き始めます。マダム吉家は、その最初の例だったかもしれないのです。
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副題B、『経験が、その後の、生き方を決める。私が、鎌倉雪の下に引っ越してきたときに、絶対に、ご近所づきあいをしないと決めたのも、その15年ぐらい前に、‥‥リアルな世界での、行動様式においては、・・・・・吉家夫人に、支配をされていた・・・・・ことが大きい。毎日、5時間以上、我が家で、一緒に過ごしていた。
彼女は、その後、お子さんを二人とも医者にした。坊ちゃんの方は、脳外科か、心臓外科のはずで、花形中の花形ドクターになった。外科はもともと体力がいるが、そのうえ、神経を使いぬく科目の医者になったわけだから、坊ちゃんも、すこぶる付きで体力があり、それは、母親譲りだと、思う。
二人だけで、毎日午後、一緒に過ごした。で、子供たちが、全部我が家に集まった。吉家家の、子供と我が家だけというよりも、そのグループ、全員の子供が、何時間かは、我が家にいた。子供は好きな方だ。だが、子供たちだって、団地の庭だけで、5時間を過ごすことはできない飽きてしまう。したがって、ときどきは家に戻ってくる。そうすると、子供を見守りながら…‥ときどきは注意をする必要も出てきた。そして、非常に内容の濃い会話を、吉家夫人とかわすのだ。それは、からだが特別弱い私にとっては、疲労困憊する、毎日だった。この生活の40年後ぐらいに、主人が私に、「お前は、人をあしらうことができないから駄目なんだ。だから、疲れるのだ」といった。
1970年代初めのあの頃、もし、吉家夫人に、「お茶会は、週に二回にしましょうよ」とか、「週に二階は、お宅で、遊ぶのでいい?」とか、定案出来たらよかった。私は、自分の事はバカではないと思っている。しかしそれ故にこそ、相手の立場とか、相手の心理状態を考えてしまう。
結局他人とは、本当に理解しあうのは、難しい。したがって、離合集散が、自由な、遠くの人以外は、仲良くしない方がいい。ともっく、他人というのは、なかなか、相いれないところがあるのだ。というのも、しかし、生きていくために、他人と、強い結びつきがあった方が、いい境遇もあり、または、そういう時期もあるという事、そこのすり合わせができるかどうかなのだけれど、私は、7歳まで、一人っ子として育っているし、小学校に、入学するまで、ご近所というものがなかった。船橋市の塚田と、言うところに、東京の人が疎開用住宅を建てている地域だったので、すべての家が、広い敷地を持っていて、しかも、三軒しか家がなかったのだから。で、子供時代、友達と喧嘩をしたことも、兄弟げんかをしたこともなかった。それで、自己主張ができない子ども、から、そのまま、自己主張ができない大人になってしまっていたのだった。
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副題C、『1960年代の分譲マンションとは、まだ、そこでの、暮らしにすべての人が慣れない時代だった。総戸数200戸というのは、グループとか派閥とかができやすい。そして、引っ越してくる前の、生活ぶりをみんなお互いに知らないわけだから、ここで、頭一つ抜け出して、エリートとして、他者に君臨をしたいと、思う人も出てくるわけで、私だけが、苦しんでいるわけではなくて、ほかにも苦しんでいた人は、多かったと思う。5~8歳ぐらい、年上の主婦で、お世話好きで、いいとこ育ちだと、一目で、わかる奥様が、ノイローゼになったとも聞いた。あの頃のマンション暮らしでは、無理もないと、思う。
で、私も、ここで、暮らしていく限り、吉家夫人と絶交をしたら、絶対にダメだと、わかっていながら、吉家夫人が、時間、体力、そのほかで、私を全面支配をしていることについては、疲れ切っていて、早くここを抜け出したいと思っていて、実家に愚痴を言いに行った。すると、実家が助けてくれて、北久里浜に、30代のサラリーマン家庭だと、絶対に建てられない程度の、すてきな注文住宅を、建てて引っ越すことになった。
この家が、すてきすぎたので、北久里浜の、同じ高さの住宅団地(池田分譲地)に住んでいた、10歳ぐらい年上の、幼稚園の先生に、娘がいじめられることとなって、本当に往生をした。2月生まれなので、まだ、三歳の時から、担任にいじめられたこととなる。
恵まれた育ちであるということが、時にはマイナスになる。茨城県で、美しいお顔で、うつくしいドレスを着て、ピアノを弾いていたお嬢さんが自殺をした。地元の教育委員会に、調査を依頼しても真相がわからなかったので、両親は、文部科学省に、上訴(直訴)した。それで、ニュース化して、ご両親と、お嬢さんの動画が、NHKテレビ画面に出てきた。それで、私はすぐ納得をした。これでは、受け持ちの先生が、この母親に嫉妬するでしょう」と。この、子供の親の学歴や、職種、収入に対して、受け持ちの先生が嫉妬して、子供をいじめる例は、あまた見てきた。ところが、教育員会ほかの組織が、真相を明らかにしないので、世に出てこないだけだ。ところで、娘のケースだけれど、先生の方には、やがて、一般人が、声高に、噂をする恥をかくこととなった。それが、二うも、先生を襲った。それで、私は、勧善懲悪という・・なた・・を神様が振るうのを知ったのだ。
しかし、当時は、十分に高かったマンションを買ってのち、たった、四年以内に、一戸建ての注文住宅を60坪の敷地に建てたので、鴨居の周辺の人たちをひどく驚かせた。
で、今思うと、吉家さんが、自分の従姉妹・日隈先生(女性だが、歯医者さんである)の、自宅へ一緒に行きましょうと誘ってくれて、日隈先生が、患者用とは別の、6畳程度の広さのある、内玄関で御用聞きとして訪ねてきた、金塊業者に「二枚ね」と軽く言って金塊二キロを二枚買うのをわざと、見せつけられたのかもしれない。偶然だったかもしれないし、策略だったかもしれない。
私は、自分が、経済的に、恵まれていると、他人の嫉妬を浴びてしまうということには、1999年とか、2000年ににゅーよーくへ行って、自分より若い、日本人女性に嫉妬されるまでは、ほとんど、気が付いていなかった。ニューヨークに住むと、元日本人でも、表現がとても派手になるので、見事にその流れに気が付いた。
この日隈医院訪問の、三年後ぐらいに、吉家夫人が、日本ペンクラブ会員になったと聞くと、その後ろに、すでに、CIAエージェントがうごめいていたかもしれないのだ。だって、彼女は、毎朝げんかんで、キスをしてからご主人を送り出すと、言っていた。
彼女は、世の中の風潮に逆らって、主婦として、母親として、何が必要なのかを私に力説していたのだった。マスコミの風潮としては、短大卒よりも、四年制大学卒が上で、保育科よりも、英文科に入る方が偏差値がたかいはずで、上であるし、専業主婦よりも、子供を保育所に預けて、仕事をしている女性の方が上だと、言う考えが主流だった時代だ。それが、上位の女性の、信条となっていた時期に、全く違うことを、吉家夫人は、主張をしていた。
そして、彼女が小さいころ、手塩にかけて育てた、お子様二人は、健康で、お父さんが、医者ではないのに、医者になった。坊やの方は医者の中でもエリートであろう、脳外科医になったと聞いている。
なお、私が、子供は絶対に自分の手で育てるべきだと、主張するのは、吉家夫人の影響ではない。自分自身の体験から言っている。今、世の中に、蔓延している、引きこもり、そして、無職である男性は、未就学児期に、母親に育てられてはおらず、保育所で、育っているはずだ。
保育所がなぜいけないかというと、いわゆる経験値が、足りなくなるからだ。ドラゴンクエストで、経験値がたまっていく。あれを、実生活上でも、同じだと、考えてほしい。別にパンダを見せに上野に、連れて行ったり、カイル君のピアノ演奏会に、言って、はつらつとした作曲行動を見せる必要はない。または、ライオンキングを見せに連れて行きなさいと、言っているわけではない。そうじゃあなくて、毎日の、普通の生活の中で、学ぶことがあるのだ。「幼稚園で、英語を教えたりするのを、いいことだ。それをあなたも、やらせなさい」と、言っているわけでもない。幼稚園なんてお友達を作るのが、第一の仕事であって、何も教え込んで、くれない場所だと、考えた方がいい.それで、いいのだ。帰ってからの自由遊びが大切なのだから。
その自由遊びの中で、子供の本当の姿が現れる。さてそれをどうするか。そこから先が、親子の、真実に必要な時間なのだ。どういう風に叱るか、どういう風に抑えるか、または、抑えないのか? 試行錯誤を続けながら、自由遊びを続けさせる。
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そして、どうして、ここで、これを記載するかというと、小田歯科医院の院長先生が、たった、二つしか椅子の無い、六畳程度の、小さな、診察室で、待合室が、四畳半程度の、小さな規模で(しかし、花に満ち溢れた、美しいクリニックですが)、赤ひげ先生として、お金儲けもせず、慕われていらしたのに、突然に、歯科医師会会長選挙の参謀という要職に就き、どうも、それとバーター取引で、私を、隠微にいじめる様になったのではないかと、推察されるところがあるからです。
そして、そういう流れは、1965年の秋、ICUキャンパス内で、後ろから首を絞められて殺されそうになったことに端を発しているのでした。誰がやったかというと金髪碧眼のエール大学からの、交換留学生、ベイカーさんです。
なぜ、そんなことをされたかというと、ベイカーさんが「僕は、三鷹警察署の署長と親しいから、なんとか、棺とか、と、日本語で、言ったので、どうして、純粋アメリカ人エリートが、三鷹警察署所長と親しいのだろうと、思って、その疑問が顔に出たらしいのです。それで、ベイカーさんは、自分の本当の姿を知ってしまった、私を殺そうとして、何度も失敗をしているので、心理的作戦に変更していると思われます。そういう事です。
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副題5、『ここで、話は、三つ目として飛ぶが、私は、歯科医師会会長選挙について調べる必要が出てきた。しかし、その内情については、一般人には公開をされていない。それで、どうしようかなあと、考えあぐねて、歴代歯科医師会会長と、言う項目をグーグルで、探し当てた。
その結果、目的を達成したのだけれど、その、歴代会長を、並べたエクセルの表の次に、添え書きがあった。
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これまでの歴代会長は、東京歯科大学、日本歯科大学、大阪歯科大学、日本大学歯学部の、いわゆる伝統校(旧制歯科医学専門学校)からのみ輩出されている。
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あ、そうか、うちの父も、秋田鉱専(石油科卒)と言って、石油元売り会社に入ると、ホワイトカラーとして、技術指導に当たる立場なのだけれど、なるほど、戦前から設立されている歯科大卒でないと、歯科医師会会長にはなれないのですか。そうか、そうかと、納得をする思いがあった。あの例の金塊の女医さんは、戦後設立された歯科大の出身だと、思う。神奈川県でも、二つ歯科大が、戦後できているが、全国廿浦浦に、多数の歯科大が、設立されたと思う。だけど、歯科医師会会長を選出できるのは、上の四校だけで、小田先生は、東京歯科大の出身だ。だから、エリート中のエリートだった。
ここで、やっと、今シリーズとして書いている、カリタス小通学バス襲撃事件に戻ってくる。それは、私に言わせると、水沢勉、現葉山近代美術館館長と、小田歯科医院の院長先生と、沢野夫人を守るために起こされたのだが、
特に小田先生が、心理的にえぐるという形でいじめてこられたのは、そして、それを書くことが、非常にヘヴィーで、つらかったのだが、歯科医師会会長選挙を、一般人が、読める範囲で、グーグルで調べるだけで、小田先生に、関するミステリーが、さらに解けてくるのだった。
あるときに小田先生に、出身大学を聞いてしまったことがある。私は東大に勤務していた時に、地下鉄丸ノ内線で、すぐ隣の駅に在る、医科歯科大学に治療に通ったことがある。国立大学で、入学の偏差値は高い。ただ、技術は、だめだった。まだ、大学院だからかもしれないが、幅3ミリぐらいの、金属の輪で、歯茎を挟んだまま、一時間以上、治療を続けられたので、その痛さに、仰天して、二度と行かない。痛い、痛いと、言ったのだが、その輪は、ゴム膜を、歯の周りにモモンガの被膜みたいに、張り付ける作業をするためのもので、先生には、私の、歯茎が見えなかったのだ。ゴム膜をはずすと、金属の輪で削り取られてしまった歯茎が現れたので、先生は、謝罪をしてくださったが、あの痛さは、忘れられない。だけど、お品は、よい。本当に上品な方だった。
小田先生は、その医科歯科大学の大学院生と、比較すると、上品さと、技術力の高さと、インフォームドコンセントの丁寧さで、バランスが取れていて、群を抜いて上にいる歯医者さんだった。
で、東京歯科大の卒業だから、歯科医師会会長選挙の参謀を務められたのだ。だけど、そこを私は誤解をしていた部分があって、しかも、それをブログ化しているので、ここで、訂正をしておきたい。
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副題6、『小田歯科医院は、院長先生が2022年現在、80歳を超えておられるし、大腸がんを患っておられるので、最近では、診療時間が非常に短かった。週に三日、しかも、午前7時から、午前11時までだけ。でも、去年まで、グーグル検索で、情報が大量に出てきていたのに、本日は、70本のうち、三本だけだ。それも、住所と電話番号だけである。また、予約はラインで、と、あった。ちょっと、心配をしている。おやめになったのではないかと思って。だけど、書きたいと思っていたことは、書いておこう。
ある時期の診療中、外部から、頻繁に電話がかかってきて、しかも先生本人が対応をされる。普通の患者からの電話、または、技工士などからの、電話だったら、衛生士か、同じく資格のある奥様が対応される。で、どうして院長先生が、電話に出るのだろうと思って、けげんな顔をしていると、「今、歯科医師会会長選挙の最中で、僕は参謀をしているのです」とおっしゃった。そのワンクールの治療中の別の日に、「僕が推していた候補は、だめだったのです」と、おっしゃった。
私はその時に、先生が推していらっした候補は、医科歯科大学などを卒業した、清貧の人で、あかひげ先生と、言ってよい小田先生が、押す方だけに、金権候補には、負けたのでしょうねと、考えた。
しかし、ここ、2,3日、この選挙について小田先生が、お話にならなかったことがわかるかもしれないと、思って、グーグル検索をしているうちに、自分が考えていたことが間違っていた子かもしれないと思いなおした。というのも、
歯科医師会会長は、
これまでの歴代会長は、東京歯科大学、日本歯科大学、大阪歯科大学、日本大学歯学部の、いわゆる伝統校(旧制歯科医学専門学校)からのみ輩出されている。
しかも、小田先生は、東京歯科大学卒である。学歴不詳の、二人を除くと、23名残る・歴代会長のうち、東京歯科大卒は、8名で、断然トップの回数、任命されている。しかも、1991年以来、会長についていない。それでは、東京歯科大卒の、小田先生が、母校の名誉を守るために、戦いに挑んだのだろうか? うーん、わからなくなった。
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副題7、『小田先生の行動には、二重性があったかな?』
つまり、歯科医師会の悪弊を、改革するために、身を挺されたのだったら、普段の小田先生と整合性がある。しかし、・・・・・本当に、まさかとは思うが、・・・・・
どこかから、頼まれておられないだろうか? 「ここで、ちょっとひと働きしてください。ご褒美は、東京歯科大学の教授の椅子です。(なお、小田先生は、教授職にふさわしい人材ではある。立派な方だ)しかし、その代わりに、やっていただきたいことがあります。それは、川崎千恵子に、お宅のお孫さんの、中学受験の話をしていただきたいのです。特に鎌倉学園の部分を強調して、伝えてください」と、頼まれて、おられないだろうか?
人口肛門にしたうえで、それを、普通の大腸を使う方向に、直すべき、再、手術ができるものだろうか?
まさか、まさかと思うが、待合室での、いじめ方とか(患者として、治療室へ入れる、方式が全く異なってきた)、トイレの、コンセントを、ガムテープでふさいであった日々(これは、東京都の図書館が、やっていた時期がある、対・私用、いじめだったが)
口内炎ができても、以前のようにケナログという軟膏の処方を出してくださらない。抗生物質が、耐性菌を作るから駄目だそうだ。だけど、それは、私から見ると、対わたくしいじめの薬事法改正だった。
そして、これが、最も重要なことなのだが、「仕方がない。自宅にある古いケナログの、使いかけのチューブを絞り出して使おうと、思い直して、自宅の薬箱を探すと、一本もなかった。ここで、CIAエージェントたちと小田先生が、連結してしまった。
其れゆえに、あのしつこく、繰り返された、お孫さんの、私立中学受験成功の話は、私の心の中を無残にもえぐる攻撃だったということとなる。
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副題8,『今は、大分に、隠棲してるという吉家夫人と電話を交わす機会があった。彼女は、日田の山林地主のお嬢さんなので、広い敷地に、立派な家を建てて、楽しくご主人と、田舎暮らしをしていると見えた。ただ、田舎暮らしといっても、そこは、高級住宅街であって、彼女は、ご近所から、今では、おお奥様と、呼ばれているそうである。「奥様ではないのよ。おお奥様なのよ。ほ、ほ、ほ」という感じだった。
その理由だが、お子様を二人とも、医者にしたからだそうだ。その件だけど、これは、裏口入学ではないと、思う。実力だと、思う。しかし、もし、うちの子が、私立中学受験時に、わざと、裏から、不合格とされなかったら、
今の職業的立場よりも出世していると思う。というか、給料が高くもらえていただろう。
ここで、小田先生が、お孫さんの、中学受験の成功をしつこく、しつこく何度も、繰り返されたことに意味が出てくる。
そして、それは、やがて、ゾフルーザ問題へと発展をし、さらに、カリタス小、通学バス襲撃事件へと発展をしていくのだった。
すみませんが、ここで、本日は、お別れとさせてくださいませ。大切なもの(実印、マイナンバーカード、証券会社の、現金出納ができるカード三社分、貸金庫の鍵、三つ、貸金庫に出入りできるカードが三枚 えい)が一週間、行方不明だったこの一週間は、私は、ストレスで、疲れ切ってます。
普通の日には、この番組をあまり聞かないのです。だけど、本日は、他の番組がないと、感じたし、録画番組も、たまたま、なかったので、ここにチャンネルを合わせました。大変幸せな時間を過ごしました。プレミアムシアターが演劇だったのも、この番組を聞いた、理由でした。
アレッサンドロ・タヴェルナとは、日本には、まったくしられていないピアニストだそうです。この続きは、ブログとして書きます。野で、それをお読みいただきたいと、思います。どうかよろしく。
普通の日には、この番組をあまり聴かないのです。79歳なので、交響曲を聞くのが苦痛になってきているからです。だけど、本日は、他の番組がないと、感じたし、録画番組も、たまたま、レコーダーを取り換えたために、貯蓄が無かったので、ここにチャンネルを合わせました。
大変幸せな時間を過ごしました。プレミアムシアターが演劇だったのも、この番組を聞いた、理由でした。すみません。演劇は、時々、NHK BSPの、プレミアムシアターを録画してみるだけですが、最近では、時間が無くて、ほどんどみられません。私が覚えているリアルな世界(舞台)での、俳優は杉村春子と、太地喜和子、佐藤オリエ程度です。しかし、それらの舞台でも、主役よりわき役に目が行きました。ただし、今では、それらは、結婚前の体験であり、プログラムが無いので、わき役が、どういう名前だったかをしっかりとは憶えておりません。恐れ入ります。
ピアニスト、アレッサンドロ・タヴェルナとは、日本には、まったくしられていないピアニストだそうです。
ただ、素晴らしかったです。池袋に、聞きに来ていた聴衆は、皆さん、それを理解なさったと、思います。大変な拍手でした。アンコール曲は、10分以上の長さだったと思いますが、N饗のメンバーは、時ッと付き合ってあげていました。この続きは、ブログとして書きます。ので、それをお読みいただきたいと、思います。どうかよろしく。22-1-10の、午後という日付けで書きます。
章の、原文を今、推敲・加筆をいたしました。で、次の節を加えております。良かったら、是も、お読みいただきたいです。
この文章に二週間後に加筆をします。ホールで、午前二時過ぎに結果発表がありました。その時、ホール固有の構内放送として、「ツィンマーマンが何とか・・・・・」というのがうっすらと、聞こえました。で、それは、NHKがしゃべっている事ではないので、うっすらと、聞こえただけですが、有名なツィンマーマンが、今回の審査委員長だった、可能性があります。
NHKテレビは、ショパンコンクールで、特番を作るのだったら、そういうところをきちんと日本語で放映してほしいです。日本人が審査員だと、教えてくれるのでしょうが、日本人が審査員として含まれていなくても、17人全部の名前を教えてほしいです。