銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

5日に下書きとして書き始めた猿島案内を、本日9日に移動をして公開します。理由はNHKが12日に猿島を紹介するからです

2023-08-09 21:29:20 | 政治

 これは、8月5日に書き始めたのですが一回引っ込めています。しかし、NHK BSPの【英雄たちの選択】2023年8月9日・幣原喜重郎編の最後に、別の新しい番組の宣伝がありました。12日に放映をされる予定の番組です。【軍事遺産】と、いうタイトルでしたが、映像を見ると・・猿島・・です。つまり、わたくしのこの下書きを、源泉として、番組を作っています。ですから、これを、9日に公開をしておきます。

 うーん、それは、林真理子について、丁寧に書くことを阻害するために、放映をされるのかもしれません。となると、急に放映がなくなる可能性もあります。日曜美術館では、何度も、予告偏とは、違うものを放映をしていました。ので、12日に放映がないかもしれません。それを、ここで、お断りをしておきます。

 もし、番組がなかったら、わたくしがうそつきだと、なりますね。そうです。わたくしの評判を落とすのに、鎌倉エージェントたちは、必死です。・・・・・林真理子が、お前よりどれほどに偉いのか、よく見ろよ・・・・・と、まだ、生きている井上ひさしが、いいたかったのが、日大アメフト部、大麻所持問題です。ところで、林真理子って、背徳の理事長ですね。自分が偉い人であると、日本国民全体に見せつけるために、母校の不名誉を利用しました。その不名誉って、わたくしに言わせると、作られたものですよ。

 ところで、あの記者会見で彼女を囲むマイクの数が、学長より多く、かつNHKは、説明の際に、「林真理子さんが、林真理子さんが」と、連呼しました。なんとこどもっぽいやり方でしょう。林真理子の動きって、このユキノシタ二丁目三番地と四番地で、過去に行われた悪を、わたくしが開設すると、早速に、その原因者である、安野智紗夫人を先頭に立てて、謀略が起動するのですが、その時、関係する人たちがバカ丸出しなのです。

で、林真理子の記者会見に集ってきた大メディアの勤務者って、非常に難しい入社試験を突破してきたわけでしょう。 だけど、単純そのものです。井上ひさし(まだ、実際には生きていますよ)が、考え出した大装置内の、一つのピースとして、その装置を組み立ててあげているのです。恥ずかしい。

 なお、決定的な証拠をあげましょう。それは記者会見が、8日に行われたことでも、確かなのです。その日、わたくしは、反町の、三室南向きの木造アパートの二階にいました。テレビがないです。だけど、その地域一帯が、高島台といって、戦前からの高級住宅街と、道路一本隔てた、一帯で環境がいいのです。ユキノシタ二丁目で、鶴ケ丘八幡宮様と、地境地主で、ございますと、いったって、下品な主婦たちが下品な話題で、ぺっちゃくちゃ、午後中井戸端会議を開いている・・・・とは、まったく違うのです。でね。落ち着けるから、ブログを書きに行きます。お掃除や、リフォームもするが、ブログを書くのも、大きな目的です。

 5日にニューヨークから一時帰国をした娘一家を囲んで、家族パーティがあったので、その前は、反町に、掃除をしに行っていません。最近、大変疲れやすくなっているので、特別な機会がある場合、その前は、用心しているのです。で、なのか二は、絶対反町に行くはずだと、みなされていました。

 そのうえ、念の入ったことには、6日の日曜日、夜10時25分ごろから、藤田真央のルェツルン音楽祭デビューの放映がありました。それって、一年前のことだから、すでに、プレミアムシアターかどこかで、見ています。しかし、若手、注目株として、三人(他は、沖澤のどか、と、クラウス・マケラ)をまとめて、藤田真央を最後にもってきました。これは、ブログを書かざるを得ません。そして、最近では、一晩で、完成しません。だから、絶対に反町に行き、テレビを見ないはずだと、確信をされて、林真理子をあげに、あげる記者会見が、その日に開かれたのでした。わたくしの生活様式は、観察し抜かれていて、彼らは、利用しぬいています。もし、ライブで、見ていたら、もっと、きっちりした証拠をあげてどれほどに、林真理子が、自分をあげるために、他人を利用したかを語ることができるでしょう。でも、今まで書いたことぐらいで、天は、お許しくださると信じています。

という事情説明を入れて、本章の目的である、軍事遺構に戻ります。

 私は、自分自身が、林真理子とは、違って、テレビに出ることがで来ません。しかし、このわたくしという小さな存在が、日本の政治、世界の政治に、大きな影響力を持っています。

 東芝が、株式を非上場にするために、TOBを、かけるというのも、わたくし狙いです。株、為替、などトリプル安というのも、わたくし狙いです。

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副題1、『私は、1974年から1984年まで、京急北久里浜駅最寄りの丘の上に住んでいたのですが、1970年代は、横須賀中を、観光先として巡りました。その家は鎌倉の家とは違って、車が入る場所で、駐車場も、自宅につくってあり、車を持っていたからです。

 その後、6年目ぐらいからは、信州へなど遠出をするのですが、最初の五年ぐらいは、横須賀探検を、集中的に行いました。横須賀を、探索する事が、十分に面白かったのです。皆様も、実際に、けんぶつにいってごらんになると、軍事遺構は、驚かされるところがたくさんある、見ものです。

 そのころは、第二海堡は、非公開だった(2019年から、ツァーなら解禁)ので、行ったことがありませんが、猿島には、二度くらい行っています。

 見るべき価値のある観光地だと思います。車でいらっしゃったら、そのあとで、観音崎へいらっしゃったらいいでしょう。観音崎は車で行くと、そこも、軍の要衝だった事が判ります。あっちこっちに遺跡があります。

 さて、私達は、横須賀に住んでいたわけですから、観音崎と、猿島は、むろん別の日に日帰りで行っています。しかし、遠くからいらっしゃるのなら、この二つの地域(猿島は、渡航費が、4000円かかりますが、観音崎の諸施設は無料です。)の戦争遺跡を、集中してご覧いただくことを推奨いたします。

 なお、第二海堡は、自由には入れず、大手旅行会社のツァーに参加する形の模様です。丸の内発(はとバス)、横浜駅東口ベイクォーター発(グランツールズム)、横須賀三笠公園発(ローソン観光)などがある模様です。

 これらの旅行は日帰りで、(お昼だけついている、はとバスを除くと、食事なし)で、大体2万円までの、旅費となります。大衆的ないちご狩りなどよりも高いけれど、珍しいものを見ることが出来るでしょう。特に浦賀水道を、往復するたくさんの商船、タンカー、コンテナ船などを、近くで、見るのは、迫力のある眺めです。それは、観音崎からも眺めることが出来ますが、第二海堡からだと、船の形が大きく見えますので、迫力がある筈です。

 ただし、私は、こういう既製品のツァーは、行動制限と時間制限があるので、好みません。もし、初めて、これらの海軍遺構をご覧になるのだったら、まず、猿島へいらっしゃることをお勧めいたします。

 ただし、詳しくチェックすると、今は、猿島も、最初に案内があるそうです。30分ぐらいの、ミニツァー。おせっかいですね。子ども扱いが、あっちこっちで、ひどすぎる。1975年ごろは、ずっと、自由でしたよ。

 もし、電車でいらっしゃるのだったら、猿島と、三笠公園ぐらいしか見学できず、それだけで、日帰り旅行となります。鎌倉へ電車で、いらっしゃるのと、同じ感じで、見学ができます。

 ただし、私は、車でいらっしゃって、観音崎を(特に各種の軍事遺跡を含めて)も、、御覧になる事をお勧めいたします。

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副題2、『ところで、軍事遺構だけをご覧いただくとしても、歩くのに、疲れるので、宿泊をされることを推奨するが、なんと、京急観音崎ホテルが、休業していた。京急は、品川駅前の、パンパシフックホテルを、一時期、GOOと改名し、結局は、閉鎖し、建物を壊した。私は、そのホテルの改装前のロビーが好きで、ひとと待ち合わせによく利用した。立地条件が駅ホームから近いことと、インテリアが、薄い緑色で、シンプルで美しいことと、煎茶セットが、用意されていたからだ。コーフィーとケーキセットよりも、緑茶と、上生菓子のセットの方が、休憩用には、好ましいと、私は、考えている。それをブログに書いたので、閉鎖になったと、思われる。

 そして、閉鎖前の、名前がGOOと、なった時代だけどロビーのインテリアが、真っ黒になっていた。わたくしの意見と反対を、施行する様に、CIAえ-じぇんとが、命令したの、だと、思うが、彼らの、いうことを聞くと、必ず、不幸が押し寄せる。京急は、今、利益が軽減していませんか?

 横浜みなとみらいにも同じ名前のホテル=パンパシフィックホテルを経営していた。息子が、豪華な結婚式をそこで上げたのだけれど、なんと、それも、東急に売り渡した模様である。

 そして、2023-8-6に初めて気が付いたのだが、観音崎ホテルもドーミーインの経営者に渡すそうだ。京急さん? お問い合わせをしますが、儲ける先が電車だけになってしまって、大丈夫なのですか?と、思う。東急とは正反対の生き方だ。

 ところで、この三つのホテルを売り渡したのは、すべて、CIAエージェントの差し金に従ったと、思われる。京急は、私が今、それで、大いに苦しめられている、北久里浜の東の丘に建つ、美麗なマンションの土地、(旧、横須賀市の水道山)が、地積変更届の仕組みを利用して、二千坪ぐらいが、彼(=増山重夫 プラス 瀬島龍三)の手に渡ったのだが、それにも、手を貸しているでしょう。すると、悪魔に魂を売り渡した、ケースが、二重三重に重なってきますよ。

 今、京急の重役を担っている人間たちは、自分たちの退職金が出るまでは、京急は大丈夫だと思っていて、どんどん、どんどん、自分たちの財産を売り渡しているみたいですが、それって、若い世代への一種の背徳行為ですよね。

帝都東京と横須賀軍港を守るために、明治陸軍が東京湾口部に日本で最初に建設した西洋式の砲台群です。
○日本の最重要防御拠点として、旧陸軍が明治10年代~20年代にかけて9つの砲台を建設しました。
○日清戦争、日露戦争のときには戦闘配備につきましたが、幸い実戦で発砲したことはありませんでした。

 さて、この北久里浜の美麗なマンションについては、その建築のいきさつ、に関しては、何度も何度も、書いてきていますが、この章でも、さらにわかりやすく説明をいたします。それは、

 飾り罫線の後から、始まります。

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副題3、『猿島は、人間が案内してくれるらしい。それに、観光地としての整備も、わたくしたち一家が、訪問したころよりも、進んでいるらしい。それは、渡船料に、猿島入島料も含まれているからでもあるらしい。

 しかし、観音崎の方は、入場制限が不可能です。島ではないです。広い敷地に塀を作る費用を、国家予算は出せないらしいですし。それにもし塀を作り門を作っても、その維持管理費が、大変ですね。

@@@@@ここが補筆中の最先端です。


○その後、兵器の進歩や国防方針の変更などによってお役御免となり、多くは大正時代に廃止となりました。
○太平洋戦争の後、県立公園として整備されたため、手つかずの自然のなかに、明治期砲台の遺構が良好に残されています。
つまり、観音崎公園のルーツは、帝国陸軍が日本で最初に造った砲台だったのです!

・この歴史的意義が認められ、平成28年4月25日、「日本遺産」に認定されました。
・タイトルは「鎮守府横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」です。構成文化財の一つとして観音崎・走水地区の砲台群が含まれています。

 

なぜ、猿島や、観音崎の砲台跡などをご覧いただきたいと、思うかというと、・・・・・これを作った人たちって、所謂朝鮮からの徴用工だろうなあと、思うからです。・・・・・今、在日と呼ばれている人たちの内で、自分のお金で、ビジネスチャンスを求めて、日本へわたってきた人も無論いるわけです。そういう人たちは、戦後、パチンコ店とか、焼き肉店のチェーン店などを展開して、大富豪に成って行ったわけです。

 しかし、それらの人は、最初から、大阪とか、東京などの都会に住んだでしょう。一方、横須賀に住んでいた在日の人とは、植民地支配下の一種の奴隷として、日本に連れてこられた、人達です。

 第二回帆を作ったのは、明治25年から、25年間をかけて、作ったそうですから、第二次世界大戦とは、関係が無い可能性があります。そうなるとそれを作ったのは、日本人労働者となります。まだ、戦争が始まっていないので、日本人の男性で、兵隊にとられている人が少なかったと、みなされるからです。

 ところが、猿島については、いつできたかのウィキペディアが、見つからないのです。

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 彼は、そこがまだ、山林だったころに、175坪ぐらいの土地を買ったのだが、その後、京急にインフラ整備をさせた。山全体をいろは坂で、車が通れる場所とし、京急池田分譲地を開発した。かつ、京急北久里浜駅まで、降りる階段道(急げば五分で降りられる)を作ったうえで、それを、実質二千坪にまで、増やしたのだった。こういうことはすべて書類で、保存してあったのに、いつの間にか盗まれている。(多分、2007年の事)その上、父と母の結婚式の写真他、父が石油開発専門のサラリーマン(満鉄調査部中央試験所勤務)ながら油絵が上手なので、新聞種になって、信教のラストエンペラーの宮殿、及び、満州映画理事長、甘粕大尉の理事長室、満鉄総裁室などを飾っていた。そういう事を書いた新聞記事の切り抜きもすべて、盗まれている。ところで、国会図書館にはあると思っていたら、マイクロフィルム化を口実に、文化面を、保存していなかった。。しかも、私が国会図書館に行くたびにパトカーなど、警察車両が待機して居る。ある朝など、徹夜で、外(主に、新橋)で、パソコンを打って、朝六時に、国会図書館まで、地下鉄で行ったことがある。すると、だーれもいない国会図書館、東側の道路に、機動隊運搬用バス(ただし、運転手だけ乗務)が、二台停まっていた。本当に誰も通っていないのに、機動隊用バスが居た。私を脅かすために‥・・・但し、私は、そんなものには脅かされず、ただ、ただ、日本の警察とは、CIAエージェントの家来であるという真実をつかんだ。

 1960年代まで、京急北久里浜駅は、生田駅という名前だった。それが、北久里浜という、目立つ名前に、変更になり、京急には珍しいタイプの駅前ロータリーが整備されていることとなったのも、益山一派の、地積変更届の準備が始まったからだった。で、京急側で、彼に協力したのはAという頭文字で始まる人物だと、思う。ただ。一度も顔合わせをしたことが無いので、実名は伏せておく。でも、京急社内資料を見ることが出来たら、私の考えは当たっているだろう。

 次に横須賀市だった。ごく最近、わかったのだが、長年副市長を務めていた、杉本俊一・正子夫妻は、私が知る限り、1974年には、すでに建っていた敷地、45坪、建坪27坪ぐらいの家を、只で、提供してもらっていたのだった。それは、法務局にも登記されておらず、ゼンリンの、地図にも載っていない家だった。その後1978年に益山重夫一派の悪事(=地積変更届)が完成すると、急に道路一本隔てた、2000坪程度の空き地に、ただ、一軒(敷地80坪、建坪50坪程度の宮大工が、竣工したとも思われる)の豪邸を建てて引っ越して行った。1980年ごろの話である。

 私は、ヨーロッパの歴史を見ても、事件の影に悪女ありと、思うのだけれど、(例えば、ナポレオン一世のお后、ジョセフィーヌなど典型的だが)杉本家の細君、正子夫人も、驚くべき悪女である。まだ、ほとんど書いて居ないが、前報に出て来る北村充子さんに「川崎さんをいじめなさいね」と、提案したのは、正子さんであろう。

 また、根岸小学校、広報委員長の、大沼嘉津江さんと、正子さんと、私との、三角関係において、大量の軍資金(横須賀市の税金による予算)を、島田章三氏に流れる様に手配をしたのも、正子さんの助言によるものだと、私は考えて居る。大沼嘉津江さんが、島田章三の実妹だからだ。

 ところで、私は、北村充子さんの悪口もさんざん聴いた(前報、後註1)が、むろん、大沼嘉津江さんの悪口も聞いた。

 

 

 

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NHKが12日に猿島を案内する模様です、で、日吉軍事遺構を、もう一回ここにコピペします

2023-08-09 21:01:06 | 政治

 昨日は、林真理子について書き始めました。で書くべきことの十分の一も書いていない段階で、すさまじい復讐をリアルな世界で受けました。お金を、一千万円ぐらい損をすると、いう攻撃を受けました。で、それで、まいっているはずだから、さらに重層的にいじめてやれっと、いう形で、平木伸明さんが、また、攻撃をしてきています。

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副題1、『林真理子の記者会見について書くと、わたくしは、莫大な、時間がかかるテーマに入りそうになっている。時田史郎君が社長をしていた福音館に勤務していた、ミスターHTの、ご長男が、いわゆる引きこもりであり、それについて私は渾身の一文を書いている。過去に・・・・・ただ、ニュースになる様な殺人事件とは関係がないので、みつけにくい。

しかし、それが、出来が良かったからこそ、まだ、生きている井上ひさしが、林真理子に、小説【8050】を書かせて、大ヒット作(?)とした。

そのいきさつを丁寧に丁寧に書きたくなってしまったからだ。

だが、それは、大変な時間がかかるので、ほかのことを書きたい。というのも、

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日大アメフト部大麻問題は、林真理子をアゲアゲするために、作られたニュースです。

2023-08-09 02:42:48 | 政治

 私は、8日の夜8時から、林真理子の記者会見を見た結果のブログを書き始めました。真っ向から、取り組んだのですが、あほらしくなって、途中で書きやめ、そして、公開もやめました。一回引っ込めます。

 しかし、2,3日中に完成して、公開へもっていくつもりはありません。

 何があほらしいかというと、これは、また、いまだ、実際には、生きている井上ひさしが、工作したニュースだからです目的は・・・・・林真理子がとても偉いのだ・・・・・と、一般国民、及び、私に見せつけることでした。

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 最近、どこかで、林真理子が、「私のおしゃれ指数が上がった」と言っていました。それが、2023-8-8の記者会見の伏線でした。「前より、ぐっと、きれいになっている私を見て‥・・・」というのが、彼女の本意です。

 彼女は母校愛など、小指の先ほどもありません。

 でも、悪びれもしていないのは、立派な目的があると、井上ひさしなどから、直接説明を受けているからです。それは、1999年秋から、対抗馬として、取り上げられている、彼女の敵、私を弾圧するのに役立つのだ‥・・・と聞かされているからです。意義があると、考えて居るのでしょう。

 私はね。8月の歌舞伎座、第三部の三階席(安い)を、予約して買いました。でね。、もしかすると、その日、一回の桟敷席(高い)に林真理子が、出席するのではないかと、思うほどです。

 または、市瀬紀美子さん(ゲームソフトメーカーの創業者・夫人・・・・・彼女自身も仕事上の収入がある大金もち)が現れて、また、また、威張り返すのかな?

 と、それは、心配しています。実現したら、それは、ブログに書きます。

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 もう二つほど、伏線がありました。イサムノグチ特集が、NHK BS1で、5日、9時から放映をされたことです。解説者として、水沢勉さんが、登場しました。井上ひさしたちが、『お前、水沢勉に捨てられて悲しいだろう」と言いたかったわけです。

 捨てられてッて、恋愛ではないのですよ。私の方が、12歳かな? 年上です。ただ、メールエッセーの送り手と、感想を書いてくださる人としての、関係でした。

 しかし、6冊目の、本が郵便では届かない事を発見して、葉山に住んでいる人々に、自宅まで、送り届けるために、歩いていたのです。

 その時に、イトーピア(羽田空港の逆噴射機長が住んでいたことで有名。普通の住宅地より、当時で、2000万円、今だったら、3000万円は高い家が建ち並んでいる一帯)に住んでいる時田史郎君(元福音館社長、私とは、横浜国立大学付属中学の同期生、たぶん2年時と三年時は、クラスも一緒だった)が、車で、逗子駅まで、送ってくれなかったのです。彼は、のちにがんで亡くなります。(嘘じゃアないでしょうね? いろいろな友人が、急にばたばたと、亡くなっていきますので、ちょっと、疑います。)

 で、2010年には、すでに、癌が悪かったのかもしれません。ただし、その日は、11月3日の文化の日で、お子様の車が来ていて、駐車場には三台停まっていたし、お孫さん達も大はしゃぎだったから、末期症状とは、とても思えず、彼本人にか、奥様にか、送ってもらえないことが不思議でした。イトーピアから逗子駅までって、本当に不便なのです。バスが、一時間に一本しかなくて、ロータリーには、コンビニも、カフェもなくて、公衆トイレもないのですから。

 みぞれが降っている寒い日で、トイレに行きたくて、拷問を受けたみたいな日でした。

 さて、その十日後ぐらいでした。そのころ、私はスマホの、GPS機能を恐れて、持ち歩かない日だったし、昼間は、ブログを書いて居て、それが、終わってから、家事をして、そして、外出すると、いう態勢だったので、夜遅く、葉山について道を歩いていたのです。

 目的は、水沢氏のお宅を訪ねて、郵便受けに、6冊目の、本を入れて帰る事でした。前から、そうしていたし、ベルは押さないつもりでした。

 それから、同級生でもない水沢氏に、または、奥様に駅まで、車で、送ってもらう事は、考えて居ませんでした。

 というのも水沢市の住んでいる、処は、町名も違っていて、イトーピアよりもずっと駅に近いのです。イトーピアと逗子駅までの距離の、四分の一ぐらいです。それと、30分に一本、バス(葉山の美術館へ行く路線バス)が通っています。それとタクシーも通るのでした。

 三ケ浜の美術館の更に南に秋谷と、言う町名の地域があり、そこが別荘地帯として、最近、開発されています。で、そこに住む富裕層がタクシーで、逗子駅から帰るのです。2000円近くかかると思うけれど、早く帰りたい人は、バスを待たないで、タクシーを利用するでしょう。で、秋谷からの帰りのタクシーがバス通りを通るので、それをバス停で、捕まえれば、いいのです。

 水沢勉氏のお宅は、6冊も刊行した自分の本のすべてを届けています。最初は、郵送で、4冊目からは、郵便がおかしいので、ご自宅までね。ベルは押しません。ただ、郵便受けに入れて帰るのです。そして、同じ町内の、5分ほど、西より(=海より)に、横浜・鴨居・時代のママ友も住んでいるのでした。

 ところが、以前の訪問では、昼間だったのです。自宅で、地図を確認して、ちゃんと到達できました。さすが、水沢氏のお宅、実家がお金持ちだし、ご本人は、美術の専門家ですから、非常にユニークな白いお宅でした。ほーっと、思いながら、ベルを押さずに帰ったのです。

 ところが、2010年の、11月10日(だいたいそのくらいの日時だった)の夜に限って、お宅が判らなくなってしまったのです。バス停で、おりました。そこから、東へ向かって、小道を使って、丘を登っていくのですが、その距離がどれくらいだったか? それが判らなくなって、不安になってしまいました。途中で、十字路を渡っただろうか、それとも渡らなかっただろうか? バスを降りた若い女性がそばを通ったので、「水沢さんのお宅は、どこでしょう?」と、質問をしても、彼女は知らなかったのです。それはイトーピアとか日吉のときわ台町内会とは、違うところです。大規模開発住宅街だと、移転してきた時期が同じなので、ちゃんとした名簿が作られるので、100戸か、200戸だと、有名な人が住んでいる家は、覚えるものです。葉山の美術館・館長のご自宅をご近所人間が、知らないのだ‥・・・と、それは、ひどく驚きました。

 ともかく、私は全く困ってしまって、バス通りに戻りました。そこに大きな布団やさんがあるのには、バスを降りた時に気が付いていたのです。ただし、2023年の今は閉店しているもようです。

 私は、2003年ごろまでは、奥様と親しく電話を交わし、電話番号も覚えていたのですが、2004年か2005年から関係が切れていて、電話番号さえ、覚えておりませんでした。で、布団やさんの電話帳で、調べてもらって、布団やさんから、電話をかけました。

 「あの、自著を持参したのですが、おうちが判らなくなってしまいました。今、バス停傍の布団やさんで、電話を貸してもらってかけています。ここから、お宅までは、どういう風にいくのでしょうか?」と、、質問をすると、

 奥さまが、「いらしてもらうと困ります。今、私は忙しくて、あなたを駅まで、送っていくことが出来ませんので」と、言われました。ものすごく驚きました、ずっと、親切な方でした。ただし、この夜に、車で駅まで、送ってもらおうとは、私の方は、思っていません。そして、家が判らなくなったので、布団やで、電話を借りています。お宅には、どういう風にいくのでしたっけ?」と、事情も説明してあります。しかし、奥様は、頭っから、私が、駅まで、車で、送ってもらう事を期待していると、考えておられるのでした。

 水沢勉氏夫妻と私との関係は、時田史郎君夫妻との関係とは、違うのです。私はそんなこと=駅までの、車での送迎はみじんも期待していません。ところが、そういう反応を受けると、・・・・・奥様には、それを問い合わせはしませんでしたが・・・・・

 その一週間前の、11月3日に、とても悲しい思いをした時田夫妻との邂逅が、水沢夫妻に伝わっているのだとわかりました。だから、水沢夫人は、私が車で、送ってもらえるものだと、考えて居ると、そう受け取られたのです。私は時田家の玄関で、そんな依頼はしていません。でも、傘も持って居ない状況で、屋根のないロータリーで、トイレに行きたくて、まるで、拷問を受けている様だとは、感じました。

 それが尾行者の観察によって、時田夫妻に伝わっていて、時田夫妻は、『悪かった』と思うのではなくて、「彼女が来ると、必ず、車で、駅まで、送ってほしいという筈ですよ」と、水沢夫妻に伝えたのでした。私が根っからの、欲深な人でもあるかの如く伝えていたのでした。私は北久里浜で、恐ろしいずるさ内包する数々の事案を見聞してきています。

 私は鎌倉の、東と、南の窓から他人の家が、一軒も見えない環境に引っ越してくるにあたってライターとしての修行に役立つ家だと、考えて引っ越してきたのです。そして、その北久里浜の事件は、元海軍参謀の謀略として、まとめるにあたって、最高の題材でした。それをパソコンで書いて居るので、敵は、すべてを知っているのでした。

 そして、海軍参謀、益山重夫氏と、陸軍中野学校で、知り合い親友になったと、聞いている元陸軍参謀、瀬島龍三は、表の顔は、伊藤忠のトップですが、裏の顔は、CIAエージェント日本代表というぐらいの席に座っている人間で、心理学を駆使して、私を殺そうと考えて居る手合いです。

 メールのやり取りで、仲が良かった、水沢勉氏との間を切ることが、大きなダメージを与えたはずだと、考える伊藤玄二郎や、井上ひさしは、林真理子記者会見の、3日前に、それをNHK BS1に持ち込んだのです。

 途中ですが午前五時になったので寝ます。

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藤田真央と、リッカルドシャイーの縁、そして、井口愛子 → 野島稔 → 藤田真央の・・・愛の連携劇

2023-08-07 00:08:09 | 音楽
 今は、8日の、午前9時から、12時まで、補筆をしました。どうか、よろしく。
 
副題1、『藤田真央と、リッカルド・シャイーの縁』
 
 今、ルツェルン音楽祭2022年8月13日にKKLホールで、行われたリッカルドシャイー指揮、藤田真央演奏のラフマニノフピアノ協奏曲第二番をNHK ETVで聞いています。
 藤田真央とシャイーは、その五か月前の三月に初めて顔合わせをして、シャイーが、真央にほれ込んで、シャイーの方からルツェルン音楽祭への招待が、おこなわれ、たった五か月の準備で、この演奏会が、実現をしました。それが、二重三重に、劇的な裏話を含んでいるのでした。シャイーは、単純に、ゲォルギエフの代役を務めて、その日に初めて真央と出会ったそうです。その代役ですが、ゲオルギエフが病気にでもなったのかしら?と、いぶかしく思った私は、ゲオルギエフの項目を引きました。ググりました。
 すると、病気が原因ではなくて、ウクライナ侵攻と関係があるのでした。ゲオルギエフは、昔からプーチンと仲が良かったそうです。で、2月にウクライナ侵攻が始まっても、プーチンに対して批判的な発言をしないのだそうです。それを嫌がった、有名な劇場での予約がほとんどキャンセルになったそうです。藤田真央は、したがって、ウクライナ侵攻のおかげで、シャイーに認められたという結果になったのでした。
 
 NHKは、そのゲォルギエフの、急な交代劇が、政治によるものだとは、言いませんでした。だから、病気による休演だと思っていた私は、google 検索の結果にひどく驚いたのです。しかし、ゲオルギエフが、沈黙しているのは、仕方がない事でしょう。ロシアと、プーチンは、秘密警察を握っています。ゲォルギエフは、有名人であり、影響力が強いだけに、何かを発言して、プーチンににらまれたら、命も危ない状況があるのだと、思います。
 
 藤田真央は、2022年の、初めに恩師、野島稔を失っています。私は子供のいなかった野島稔が、真央ちゃんを見守っていて、彼に、いろいろな祝福を天から、送っていると考えて居ます。(蛇足1へ)今日聞いたその演奏会と同じ2022年に、ヴェルビエ音楽祭での、5夜の、モーツァルトのソナタ演奏会を始め、カーネギーホールでの、ホール側主催の演奏会、そして、ルツェルン音楽祭での、2023年9月4日の独奏会と、目白押しです。
 
 野島稔は、同じく子供のいなかった井口愛子に、深く、深く、愛されていました。そして、井口愛子・野島稔・藤田真央と、日本のピアノ演奏の、良き潮流が、今、花開いているのです。(蛇足2へ)ああ、奇縁、.でも、天の采配の必然だったのでしょう。
 
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副題2,『ラフマニノフのピアノ協奏曲、第二番は、私にとって、人生すべての段階において、二番目の愛・聴・曲である。雲居佐和子先生(芸大出身)の夏休みの宿題が、始まりだった』
 
 私は、1955年四月に、横浜国立大学付属中学に入学します。本牧・立野の丘に、校舎があったそのころは、横浜一有名な、中学でした。でね、音楽は、芸大卒の先生が、連続して教えていらっしゃったのでした。
 
 そのころの中学生って結構大人であり、かつ、民主主義教育の結果、先生方をからかう、数え歌を作っていました。私は今、80歳で、1955年には、12歳か、13歳でした。で、最も若い先生も大学卒業後に、就職なさっておられるわけで、22歳以上ですから、現在、90歳を超えておられると思います。
 で、皆さん、亡くなっていると思うので、それを公開させてくださいませ。
 いちー、は、石井のがんもどき(先生は、ニキビの跡が、40歳でも残っている様な皮膚をした方だったからです)
に-は、西川うまっつら(西川先生は、教育大学≒筑波大学の卒業生で、中学の教師になるのは、もったいない方だったそうです。でも、原弘道・校長先生が、三顧の礼を尽くして、お迎えしていた優秀な数学教師でした。うまっつらなどと、呼ぶのは失礼極まりないのですが、清潔な性格の方だったので、生徒たちは、おそれを知らなかったのでした。この先生が、1955年に入試に、二進法を出されたので、私だけが解くことが出来て、入学式総代を務めることになりました。感謝してもしきれない先生です。のちに神奈川県立広陵高校へ転職されました。尚、英語の先生、小丸先生も感謝しています。大変充実した授業をなさる方で、私が今でも外人に、発音がきれいですねと、言われるのは小丸先生のおかげです。
 で、三(さん)は、佐藤の禿げ頭 (年齢が、高かったのです。でも、国語の先生で、私の作文をガリ版で摺ってみんな=100人に読む様に勧めてくださいました。恩は深いです。
 四(しー)は、白井の白井権八・・・・いや、白井という名字の先生に、歌舞伎の色悪で、有名な、白井権八を充てるなどと歌舞伎通の生徒が居たのですね。原三渓のお孫さんなども、通学していたと思いますので、今の中学生とは、比較にならないほど、教養は深かったのです。
 五つ、井田倉、鬼面冠者・・・・いたくら先生は、赤い皮膚をしておられて、かつ脂性だったのです。それに生徒の親が気に入らないと、ホームルームで、その子だけをとりあげてを、ねっちこねっちこ、いじめられるという、怖いところもありました。だから、鬼面冠者などと、言う恐ろしいあだ名がついていたのです。いやあ、先輩方の感性おそるべし・・・・
 で、数え歌の6~8は、抜かします。
 そして、そして、音楽の先生、雲居先生です。
 九つ、雲居の天平美人で、・・・・・その数え歌は終わるのでした。
 雲居先生は肌の色が真っ白でした。そして、ふっくらとした、お顔でした。だから、日本史の教科書に出て来る天平美人にそっくりだったのです。
 そして、体格が性格に通じるのか、とてもやさしい方でした。
 
 この先生が、夏休みの宿題として、クラシック音楽を聴いて、好きな曲を選び、感想文を書いて居らっしゃいと、言うのを出されました。1955年って、映画ジャイアンツもまだできていないころで、ロックとか、カントリーなどというのは、音楽の中には入らないと思われていた時代です。また、歌唱にかんしては、まだ、よいレコードが手に入らなかったのか? NHKは、クラシック音楽の放送に関して器楽曲を専門に流していました。
 で、実は、雲居先生は、「古典派の作曲家の作品を聴いて」という制限をかけておられたそうです。
 でもまだ、13歳だった私は、古典派が、誰を意味するのかを知りませんでした。バッハとか、ハイドンを指すのですが、それを頭に入れていませんでした。
 
 でね。・・・・・ものすごい長時間がかかる宿題だわ。でも、難しい課題をこなしてこそ、自分の勉強になるし、私は、、そういう難しい課題が好きなのです・・・・・と、考えて、取り組み始めました。1950年代のNHKラジオは、AKとBKがあってBKに主にクラシック音楽番組があって、一日に、四時間は、クラシック音楽を聴いて過ごしました。聴けば聴くほど、楽になるし、明瞭に好きな曲と、嫌いな曲が分かれて来て、その宿題は、大変楽しいものとなりました。全部で、1500時間以上は、聴いたと思います。
 
 そして二曲選びました。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番と、シューベルトの即興曲、142番の第三曲アンダンテを、選びました。シューベルトの即興曲とはだいたい8曲があり、それは、結構独立していて、私は、その後、全八曲を好きになるのです。だが、全八曲の感想文は書けません。かといって、142の三アンダンテは、ちょっと、聞きには単純なのです。で、感想文が「とてもやさしい感じで、心が洗われます」と、言う風に単純になるのでした。で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番の方を宿題の課題曲として選びました。
 
 それを提出するときに、新堀真知子さんが、近づいて来て、『何を書いたの?』と、いう感じでのぞき込んできました。そして、大きな声で、「ああら、いやだ。この子ったら、ロマン派を選んでいるわ」と、言いました。
 
 新堀真知子さんは、当時、日吉に住んでいて、毎日私の家に迎えに来てくれて、一緒に一時間かけて、東横線、市電と乗り継いで、学校へ通う仲でした。しかも、木曜日には、ファミリエルコーラスというのがそちらのお宅で、夜に、開催されていて、私は、そこにも、参加をしていました。だから、学校一深い、友人だと思っているのに、そんな、からかいを受けて、ショックでした。
 
 しかし、彼女は、のちに芸大楽理科を卒業して、ヨーロッパで、フライブルク大学(ドイツ)の音楽大学の教授になりました。
 だから、中学一年生にして、音楽の知識は、抜群に豊富だったのです。
 
 そして、実は、彼女は、一方で、大変恵まれた、幸福な人でありながら、一方で、不幸な人だったのでした。母親がおばさんだったからです。で、その母親=おばさんという人は、意地悪ではありません。ただ、ものすごく強い意志を持って、長女である真知子さんを、クラシック界の有名なピアニストにしようと思っていました。
 日吉あたりの一戸建てに住んでいる人は、どこの家でも、子供が一流の人物になる事を願っています。
 でも、新堀さんのお母さん(のちに新堀智朝という天台宗のお坊さんにもなる方だが)は、
 大きな信念をもって、敗戦国日本で、一流の人物になるのには、これからは、芸術の世界であり、クラシック音楽でなら、ヨーロッパに伍していかれると、思っていた人でした。
 先祖に陸奥宗光か、小村寿太郎級の外交官がいるのではないかと思います。だから、長女に託す希望も遠大だったのです。
 
 それはいいのですが、お母さんには、「芸大が、一番」という思いがあったのです。しかし、桐朋学園を創始した井口基成に真知子さんは、一時期、習っていたので、芸大付属高校に入学するのが不利だと、言う事が噂として、判ってきたのでした。そのころが、中一だったのではないかしら。芸大付属高校を受験するつもりだなどとは、友達であるはずの私にも言えないでしょう。でも、クラシック音楽の世界にある、汚いものにすでに、触れてしまって、真知子さンは、相当に、傷ついていたのでしt。
 
 もちろん、お母さんは、本当のお子さんである7歳年下の妹さんの時代には、考えを変えて、都立高校に通わせて、その後、直接にヨーロッパの音大に入れます。そして、お姉さんよりもずっと楽に、こちらもヨーロッパの有名音大の教授になりました。二人のお父さんは、東大卒です。だから、二人とも頭は抜群にいいのでした。
 
 今ね、この桐朋と、芸大の確執を書いた部分を読みたくて、読みかけの本を探したら、見つかりません。
 
 いろいろなものが盗まれていますが、データが必要なものが盗まれるのは、しょっちゅうです。深い怒りに、狩られています。それなのに、本日6日も二階の裸電球(オレンジ色)を、カーテンを開けて、見せつけて、威圧してきた平木伸明さんと、同じくオレンジ色の玄関灯をつけて脅かしてきた、前田清子さんは、こういう泥棒ちゃんと、仲良しの一味なのです。でも、私のブログを丁寧には、読んでいないらしくて、泥棒ちゃんの、見方をして、脅かし続けてきているのでした。
 
今、読みかけの本とは、
『鍵盤の天皇 井口基成とその血族』(中丸美繪、中央公論新社)です。それを、30分もかけて、探したらありませんでした。で、7日、横浜駅西口の、有隣堂で探したら、「売価は3000円で、今は、在庫がない」と、言う話でした。困るねえ。泥棒は、私のライター生活を邪魔するために、これから、これを利用するはずだと、思う資料を盗んでいくのです。何冊も書物が盗まれています。
 
 鍵を持って居る泥棒は、四種類います。警察が、二種類いて、ご近所様が二軒います。ただ、この書物が盗まれたのがいつだったかは、気が付いたのが、本日(2023年8月7日)ですが、その前の三か月、頁を開いて居ないので、特定ができません。
 
 ともかく、新堀真知子さんは、30歳ごろまで、散々な苦労をします。桐朋と芸大の対立があった時代だからです。そして、「お母さん、私もう、努力をするのはいやよ」と言えない立場だから、大変だったのでしょう。
 
 亡くなってしまった、真知子さんの実の母の妹だったのです。戦時中、と、戦後は、女性も大勢亡くなったのですよ。栄養状態が悪かったり、まだ、抗生物質などが、流通していなかったからです。男性は、むろん多数戦死しました。だから、残されたパートナーが、亡くなったパートナーのきょうだいと、結婚するケースは、多かったのでした。
 
 ただ、ただ、お母さんの、固い決意が、重荷として、真知子さんにのしかかっていたのでしょう。
それが、こと音楽に関しては、自分より弱い立場の、私に向かって、爆発したのでした。
 楽しそうに見えた、ファミリエルコーラスも、すべて、真知子さんの、音楽性を涵養するためだったのです。しかし、その準備のために伴奏用楽譜を、見なければならない真知子さんは、本当は、「お母さん、あれ、もう、やめて。負担だから」と、言いたかったのかもしれません。
 
 私自身が完璧な親だったとは言えません。また、私の親が完璧な親だったとも言えません。ただ、完璧なお母さまみたいに見えた。新堀智朝さんが、思いがけずもでしょうが、長期にわたって、真知子さんにストレスを与えていたのでした。優しくて、上品な方でしたよ。でも、真知子さんにとっては、反抗ができない母だったのです。「井口先生を見つけてきたのも、・・おかあちゃま・・(時にはおかあたまと、幼児語で、呼んでいた・・・・・。エリートで、優秀そのものだったお母さん。に、その次は、井口先生と別れて、芸大系の先生につきなさいと、命令されたのでしょう。真知子さんは、おかあ・たま・の、希望通り、動いていたのです。
 
 私は、「わーい、間違えている。ロマン派の作曲家なんて選んじゃって」という真知子さんに、ひどく傷つきながらも、あまりに長時間かけた、レポートを引っ込めるのが、つらくてたまりませんでした。1500時間以上かけて選んだラフマニノフの、ピアノ協奏曲二番です。で、その騒ぎの五分後ぐらいに、入室していらっしゃった、雲居先生に、恐る恐るレポートを提出し、「先生、古典派が、なんであるかを知らなかったので、間違えちゃいました」と、言いました。すると先生は、表題の、『ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番』というものをちらっとご覧になった後で、「ああ、いいわよ」とおっしゃいました。にっこりと笑いながら。
 
 そうです。ふっくらとして色白な、天平美人そのものの笑顔で、にっこりと笑ってくださったのです。
 その時に、私は雲居先生の、愛のバリアーに包まれたと思いました。前から知っていました。雲居先生が、目立たない形ですが、かわいがってくださっているのを、以前からひそかに知っていました。だが、本当に明瞭に愛されていると、感じたのは1955年の9月の第一週の、間違えた宿題を、提出した日です。
 
 母からも与えられた事のない、深い、深い愛というもの・・・・・それを、その日も、空気の様に感じました。実は恥ずかしがって、人前では一人では、歌えないものの、天与の美声を持って居ると、私は、いろいろな人から、言われていて、それは、集団の中では、発揮され、先生には届いていたのです。「ああ、いいわよ」という短いお答えの中に、「本当にかわいがられている」と言う事を感じました。ありがたいことでした。
 
 新堀真知子さんには、このこと以外で、いじめられたことは、有りません。そして、彼女とは忘れがたい思い出がほかにもあります。
 
 真知子さんが、本当のお母さん(もう、なくなっていて、リアルな世界では、絶対に会えないのに、)に、抽象的な世界では、会いたがっていた事を、証明するエピソードです。
 
 ある日、真知子さんと、二人だけで、彼女の勉強部屋(四畳半の洋室だった)にいた時に、真知子さんが、机の引き出しから、白い紙に包まれたルビーを取り出しました。色は薄かったです。しかし大きさは、10カラット以上はありました。豪華な大きさでした。彼女は、私に声を潜めて、「これ、お母さんにもらったの」と言いました。その時に、『なんで声を潜めるのかしら?』と思いました。お母さんは、4mぐらい離れた居間にいました。間にドアがありました。ただ、『なんで、これを私に見せることを、秘密にしないといけないの?』とは思いました。
 
 今、思うと、当時の、私は、まだ鈍感な人でした。真知子さんには、お母さんが二人いて、今のお母さんは、本当のお母さんの妹であると、知ったのは、50歳を過ぎてからだったと思います。ドイツとの、航空便(薄いレターペーパーに手書きで、文字を書いた時代だった手紙)のやり取りで、初めて知ったのです。
 
 それほどに、真知子さんのお母さんとは、完璧な人でした。育児の上での、一大方針として、姉から、預かった娘を、ヨーロッパ人に伍していかれる一流の演奏家にするのだという強い意志が、ある人でした。そして、それが真知子さんに、言うに言われぬストレスを与えていたのでした。
 
 戦時中の、金属類供出・命令によってでしょう。ルビーは、裸でした。指輪としてのわっか(周りの金属)がない、裸の石でした。「これねえ。亡くなった方の、母からの形見なの」と、でも、私に、言ってくれれば、事情は、正しく分かったでしょう。彼女は、ただ「母からもらったの」といった以外は、何も説明をしなかったのです。ドアがあり、絶対に聞こえないはずの、今のおかあ・たま・に、遠慮をしているのでした。
 
(蛇足1へ)
 私は、一人のスターとして、藤田真央が、現れる以前から、野島稔が大好きでした。TVではない、生の演奏会も、4回は、行っています。桐朋高校在学中に、日本音楽コンクールに一位になった野島稔は、日曜日のN響アワーで、1970年代には、ベートーヴェンなどをよく弾いていたのです。当時は太っていて、汗を前後左右に飛び散らせながら、熱演をしていました。私より三歳か四歳年下です。東京音大の学長になるなどと、言う人生が、野島稔の最終局面だなんて、とても不思議なこと・・・・・というほどに、純粋な音楽の使途です。政治的な野心など無い人です。たまたま、東京音大の前学長に、学生から「弓の販売に関して先生には疑惑がある」と、言う訴えが起きて、新聞沙汰にまで、いたって辞任となり、次期学長を選挙で決めることになって、野島稔が選ばれたのです。が、不思議なことに野島学長の時代に、東京音大は大発展をします。結果、名学長となったのでした。不思議、不思議。無欲の人への天からの贈り物だったでしょう。
 新堀真知子さんのお母さんは、芸大一辺倒でしたが、4歳年下の野島稔の両親は、井口愛子先生を、離れず、従って、野島は、大学は桐朋を卒業しています。
 井口家で、ピアノを習い始めた真知子さんは、結局、芸大高校が不合格だったうえに、芸大の方も、二度不合格になっています。桐朋と芸大の確執の結果でしょう。でも、1950年代の新堀智朝(お母さま)さんにとっては、国立でも武蔵野でも桐朋でも、駄目だったのです。絶対に芸大でなければならないと、言う思いがあったのです。
 だから、芸大に、三度挑戦しています。一方野島稔は、大学入学に関して、すなおなコースを選んでいます。真知子さんのお母さんが、実際には、叔母だったので、長女を育てるにあたって、気張りすぎていたのです。真知子さんは、フライブルクで、実質婚をしていたのですが、それを、公開することはありませんでした。それも智朝さんに対する遠慮だった様な気がします。
 
 我が家からは、5分ぐらい日吉駅から遠いところに真知子さん住んでいて、迎えに来た彼女と、毎朝、一緒に東横線と、横浜市電を使って登校していました。しかし、「遠いところにレッスンに行くので」と先生に断って、真知子さんは毎日早退していたので、下校時は、私は、一人でした。その頃の話は、聞いたことがないので(毎週木曜日の夜、コーラスを彼女の家で、行っていたが、ピアノレッスンの感想は、その雑談時にも、聞いたことがありません)、あまり楽しくなったのではないかと、推察しています。一方、野島稔は、帰宅時に、たくさんの頂き物の菓子折りを「持って帰りなさい」と、言われて、かわいがられていたのでした。京浜急行新大津駅から、横須賀線鎌倉駅までは、小学生では、大変な遠路だったと思いますが、同じころ、真知子さんは、東京へ通っていたのです。
 
(蛇足2へ)
本日藤田真央に関する、ねっと情報を見ていて、野島先生との出会いに、ついて、藤田真央自身が語っている部分が、文字化としては、あまりでてきていないので、記憶に基づいて語りたいと思います。
 
詳しく言うと、小学校時代から、藤田真央と、野島稔は、知り合っているのです。各種コンクールの審査員として。
で、東京音大のエクサレント(特別奨学生)として選ばれたのですが、入学後、どの先生につくかを決める、演奏会で、真央は、失敗してしまったそうです。
 
 これって、楽天家の藤田真央が、時には、タカを、くくってしまう、そういう現象のあらわれでしょう。そうなのです。あまり、苦労をしていない彼は、「なんとか、なるさ。僕って、すでに、有名人だもの。小学生時代から演奏会をしているのだからね」と、言う心理があったと、思います。そういう油断とか、なめてしまう点を含めて、こせこせとは、評価しなかった、野島稔は、全教授がしかめっ面をする中で、「僕が引き受けます」とおっしゃったそうです。ほかの先生は、「うわ、この子、調子に乗って、天狗になっている。これは、指導が難しいですね」と、考えた中で、野島さんだけは、『確かに、指導は、難しいかもしれないけれど、この子には、よいところがある』と、信じて、「引き受けます」とおっしゃったのです。それ以来の愛ある、師弟関係です。
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日吉台軍事遺構・・・・・宮城(=江戸城)空襲喪失1945-5-24~25の時、昭和天皇は、何をお考えだったのかな?

2023-08-06 02:12:39 | 政治

 夕方六時に以下の文章を、終点に到着とさせました。 誤変換が残っていると思うので、それは、後で、直します。

私は、日吉から、結婚によって、1968年に、引っ越してしまうのです。しかし、両親が居ることと、母に、幼い子供を預けて、歯医者さんに行っていたことから、その後、2017年ごろまで、日吉をたびたび訪問することとなります。

副題1、『日吉の局番は、044であった。また、町の規模にそぐわぬりっぱな電電公社のビルがあった。で、それも、第二次大戦中の大日本帝国海軍の影響であったと、10年ぐらい前に、気が付いてくる』

 10年ぐらい前に気が付いたのですが、日吉に、地下壕があり、それが、中原街道の東側、武蔵小杉あたりまで、ぽつぽつと伸びていて、元、軍事施設だったと、言う新聞記事にです。

 今、グーグル検索をかけると、毎日、24時間公開をしているそうで、普通の人がそれを見ることが出来る模様です。

 今、この件であれこれ、調べて居ると、「親からの伝言だけど、昔、横浜駅の西側で、道路を掘り返して、電話線を埋め込んでいた。日吉と、横須賀鎮守府を結ぶ電話線だった模様」と、書いて在りました。

 昔の電話って、有線だったのです。大日本帝国海軍司令部って、麹町区霞が関にあったそうで、そこから、横須賀への電話線は、すでに、既設だった模様ですが、新しい電話線を大量に敷く必要があったのでした。

 そういえば、日吉の局番044は川崎とは別物で、独立していたのです。ある時期から、横浜市の市外局番、045に統一をされました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『ところで、この一文を書くにあたって、横須賀市の猿島軍事遺構とか、観音崎軍事遺構をご覧になる事をお勧めしたいと書いて居た。それは、自然と軍事遺構が一体となっている、美しいレンガ造りの、洞門がある。それは、どうも、明治時代から、作り始めていて、戦争が無い時期に作っていたので、建築にあたって、時間、及び、金銭的に、余裕を持って居たとみなすことが出来る。で、栃木県の大谷石の採掘跡と同じ様に、テレビ番組の収録に利用をされたりしている。そこも不思議な空間だが猿島も、非常に不思議なムードを持って居るので、もし鎌倉に日帰りで、よくいらっしゃる人があるのだったら、五回に一回は猿島にいらっしゃった方がいいとお勧めしたい』

 ところで、電車で、いらっしゃる場合は、猿島を見物するだけで、時間を使い切ってしまうと、思うけれど、車でいらっしゃったら、観音崎の軍事遺構も御覧になったらいい。ミサイルと、核弾頭の、時代に、大砲を撃っていた砲台を見るのも、歴史を学ぶこととなる。と、私は思う。

 その際にオプションとして、稲川会二代目組長石井某の、お城みたいな、お屋敷を西側の丘の上に見ることとなる。

 それをご覧になると、今話題となっている、ビッグモーターの社長もほとんどやくざに近いのだと、理解なさることだろう。ある個人の家に大量のコンクリートで、防壁を作る。その発想が、見事に同じなのだ。デザインは違っても発想が同じなのだ。よほど、復讐を恐れているのだと、見える。それほど、社員の正当な労働報酬を巻き上げて、自分の富としたのだった。やくざの方は、町の商店街から、みかじめ料というのを取っていると、聞いている。

 また、防衛大学校も、その西側の丘の上にある。もし、ホーム頁を開いて、文化祭とか体育祭と、あなたが車で、観音崎に、いらっしゃる日が、重なると、一般人でも中に入れる。車ならとても簡単だ。防衛大学校は、今、あれに荒れているそうだが、50年前に見た棒倒しは、迫力があった。青年たちのエネルギーを感じたものだった。

 こういうことは観光案内書には書いて居ないが、住んでいたからこそ、発見した事であり、皆様にもお伝えして置きたいと、思う。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 副題3、『日吉の軍事遺構は、訪問をしたことが無いのだけれど、今、見ると、写真等が、ネットに掲載されていて、人々の感想が多数載っている。私が、その写真を見て、感じたことは、・・・・・コンクリートでできているなあ。是では、猿島よりも、見かけが汚い・・・・・と言う事だった。』

 コンクリートで、作っていると言う事は、猿島よりも、急造の工事だった事が判る。大日本帝国海軍司令部は、麹町区霞が関にあったのだが、それが、空襲に逢う事を恐れて、日吉の慶応普通部(旧制中学)の校舎とか、大蔵専門学校(のちに慶応の理工学部となる)の校舎を借りていたらしいのだが、

 日吉には、丘陵地帯と、田んぼ地域が、混在していて、丘陵地を、横穴を掘って、洞窟を作ることが容易だったと、推察され、それで、帝国海軍司令部は、日吉の丘陵地に、南側、もしくは、東側の平坦地(戦前は、田んぼ。または、畑だったと推察される)から、横穴を掘っていったのだった。

 これは、地上戦が展開した沖縄の、塹壕(人々が自決したとか聞いている)とは、違って、人口の手が加えらえれている壕である。ところで、この以降群を、労働者として誰が作ったのかが大問題なのだけれど、その前に、東京の、皇居が焼けたのかどうかが、私には、問題になって来る。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『皇居というのが、江戸城無血開城後の、徳川幕府が、使用していた建物を使っていたのだと、推察しているが、それが、どういう風に消えたのかは、長年私にとっては、疑問の対象だった。

 特に、新宮殿が落成して、披露をされたニュースを見て、長和殿(エリザベス女王をお迎えした、晩餐会が開かれた部屋)とか、各国代表と、二国間で懇談をされる石橋の間とかが、ニュースに出てくるたびに、不思議なことだと、考えて居た。その新宮殿とは、準備を重ねたうえで、1968年以降披露をされ、使われる様になったと、考えて居る。

:::::::::ここで、或るニュースをコピペして置こう。

皇居新宮殿が完成

記事番号:02786
年月:1968年11月

35年の閣議で決定され、39年6月に着工された新宮殿が14日に落成式を挙げた。鉄骨鉄筋コンクリート造り、地上二階地下一部二階建て、高床式の正殿を中心とする床総面積22,949平方メートル、造園費を含めた総工費130億円(建物坪当り110万円余)。

登録日: 2014年04月14日  ::::::::::::

 こういう記事を見ても、古い江戸城がどうなったのかの疑問は消えなかった。

 ところが、2023年8月6日、つまり本日、とうとう、真実に到達した。中央区のホーム頁に、数値が明らかになっている空襲の記録が残っていたのだった。

1945年5月24日 東京にB29の大空襲、皇居炎上(5月24日から5月25日の空襲で都区内の大半焼失)

昭和20年(1945)5月24日は、東京の山の手地域と空襲で焼け残った町全体を目標として、525機のB29が渋谷・世田谷・杉並・目黒・大森・品川地域を爆撃した。さらに、翌日の25日深夜には、まだ焼夷弾による被害を受けていない東京の残存地域を目標として、470機が高性能焼夷弾3000トンを投下した。被害は、山の手方面を中心に南多摩・北多摩にまでくまなく及んだ。

****************

 いや、本当にびっくりした。1945年3月10日に東京東北部の、いわゆる下町に、空襲があり、10万人が死んだと言う事は知っていた。

 しかし、中央区の高台(いわゆる山の手)も、空襲の被害に出会い、皇居(当時は宮城と呼んでいた)も喪失していたとは、知らなかった。

 中央区のサイトで、皇居も消失したことを知り、その後、

https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/ というサイトも見つけ、東京への空襲の実態を知った。

 早乙女勝元という作家が1945年3月10日の悲惨さを、訴えているので、下町の空襲は、知っていたが、それ以外は、知らなかったのだ。

 父が、賞に位の時に、東京見物に連れて行ってくれたのだけど、、霞が関、日比谷、大手町を、散策したので、空襲の影響は、見たことが無かった。

 空襲の影響というと、横浜中区、関内牧場と、言う呼び名を覚えている。今の長者町を中心に、あたりは、建物は、一切、焼け焦げて残渣しか残っていない上に、金網で、接収地帯であることが明記されていたので、その惨状は、しっかりと覚えている。しかし、東京と同じく、もっとも高級な地域は、空襲に逢っていなかった。ホテルニューグランドを中心とした、山下町一体と、元街や、中華街、馬車道、住吉町、あたりは、空襲に出会っていなかった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『昭和天皇という方は、1945年5月24日と、25日に行われた東京大空襲の、被害を目の当たりになさったのに、と言う事は、同義として、ご自分の住居が空襲で燃え、中央区、銀座あたりまで、消失し、炎が、東京の空を真っ赤に染めたのにもかかわらず、終戦(敗戦)を宣言なさらなかった。どういう事だろうと、私は推測しかねる。天皇ご一家だけれども、平成天皇ご夫妻(幼名、明仁殿下)と、令和天皇ご夫妻(幼名、徳仁殿下)は、問題があっても、小さいと感じるけれど、昭和天皇は、どういうお考えを、この空襲に対して、お持ちだったのだろうか?

 ポツダムで、「こういう形で、あなたが、以降、処理をするのだったら、戦争終結を認める」という宣言が、発せられたのは、7月26日だった。だが、それに対して、鈴木貫太郎内閣は、無視をしたので、広島に、8月6日、長崎に、9日に、原爆が落とされた。長崎は、少し、性能が違うと言われているが?

 5月24日と、25日の東京大空襲は、ほとんど、ニュースとなることが無い。NHKニュースが、記念日としての、人々の集会を、報道したこともない。

 私は、もし、昭和天皇一家、及びごきょうだい一族がお堀内の、宮城にいらっしゃって江戸幕府以来の、高価な金箔張りのふすま等が、燃えて行くのをご覧になったうえで平気であり、何も動かれなかったというのが、もし本当なら、不思議極まりないのだ。

 これから先は、例の見てきた様な嘘を言いの一つだけど天皇ご一家、及び、天皇ご一族は、すでに、那須御用邸、もしくは、葉山御用邸に避難あそばされており、5月24日と、25日の大空襲については、何の、情報もご存じなかったと、も、言える‥・・・のではないかと、感じている。

 だからと言って、ポツダム宣言受諾を遅らせてしまい、広島と、長崎に原爆が落とされた責任から、昭和天皇が逃げることはできないと、思う。今、広島慰霊祭などが、大きくNHKで、報道をされているが、日本人の一人一人が、

 戦争によって受けた被害は、広島、長崎の人人だけが、顕彰をされて、国家予算で、原爆症を直してもらえる事で、終わるとは思えない。

 現代社会は、矛盾だらけだ。私は、ウクライナ戦争をNHKが、報道をするたびに、あの戦争で、武器製造業者は、儲けるのだろうなあ。5月24日と、25日は、ウクライナ戦争、特にプリゴジンの発言云々などは、報道をしないで、東京大空襲についての、報道をするべきだと、思っている。現代史を正しく、若者が学ぶことは必要だと、思っているし。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題6、『ここで、日吉台遺構にやっと戻る。私が、注目するのは、そのコンクリート製の長くて広い壕を掘ったのがだれか?ということだ。

 それは、当時は、日本支配下の植民地だった、朝鮮半島からの、強制執行で、連れてこられた、労働者だったのでは無いかと、思っている。

 それで、これから先は、具体的に、ある男の子と、その両親と、その一家、一族の、繁栄と没落を書いていきたい。ちょっと、小室圭さんにもつながっていくので、なかなか、大きなことだと、言わせていただきたい。

 私は、日吉台小学校を、1955年に卒業をしているのだが、五年と六年の時期に同級生として、花村君という男の子がいて、乱暴で、クラス中が迷惑をしていた。私自身は、女の子だったので、彼から、狙われて、ぶたれたり、叩かれたりしたことはないのだけれど、同級生で、頭が良くて、顔が、きれいな男の子が狙われて、しつこく、いじめられていたし、それが原因だったか、転校していったので、花村君の事は、大きな印象に残っている。

 ところで、これから先に書くことは、前報で登場する、北村充子さんが、1985年の夏にわざわざ、京急堀ノ内駅近くの自宅へ私を呼び、したたかにいじめた事を、機縁として語っている。彼女は音楽については、知識と才能があるが、文章を書くと言う事については、何も知らない。だから、自分が行ったことが、どれほどに、大きく発展をしていくかを知らない。彼女を出発点として、小室圭君 X 眞子様の結婚の真実にも触れて行く。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題7,『花村君というのは、現在、ニチモコーポラス1号棟から、五号棟までが、建っている、地域に住んでいた。ニチモコーポラスは、築50年だと聞く。その年数で、現代史上のいろいろな事が判って来る』

 在日の出自を持つ人たちの内で、自分の資金をもって、ビジネスチャンスを求めて来日した人もあるだろうと、私は言っています。花村組の社長とは、そういう人の一人だったと、推察しています。で、戦前から、日本人を正妻として手広く事業を行っていました。仕事は、土木建築業・・・・・で、日吉の軍事遺構を、掘る作業員を手配していたと、考えます。だから、日吉の、軍事遺構を掘った人たちは、強制連行組ではなくて、ミスター花村が、半島より、募集してきた、男性たちだったのではないかと、推察しています。

 とても頭がいいので、線路際の田圃を、2000坪ぐらい買ったのだと、推察しています。戦後すぐだったか、戦時中だったか、戦前だったかは知りません。そこは、日吉によくある低地でした。花村氏が、買ったころは田んぼだったと、推察しています。私の父が、東急の分譲地を、戦後1950年ごろ勝った際に、一坪600円で、ひと区画、100坪が、6万円だったと言っていました。(なお、2019年に売るころ、それは、一億円を超えていました)

 その土地は、花村君の家よりも駅からの距離は、三倍ぐらいの遠さがあり、通勤のためには価値が低い土地でした。が、丘の上のひな壇だったので、ひと区画、5万円から、6万円で、売り出されていたのです。比較すると、花村氏が、買った土地は、低い場所だったので、駅から徒歩五分でしたが、2千坪で、5万円ぐらいだったと思います。

 ニチモコープラスは、日吉駅から、徒歩五分以内なので、賃貸やら、売り出し用物件が出ていて、築50年と、書いてあります。すると、ミスター花村が、自分の事業を終わらせ、ニチモにその土地を売ったのが、1970年ごろだと、なります。花村君の母親は、継母でしたが、すでに、1954年ごろに、50代だったので、父親も、60代に達していたと、推察され、ニチモに、その土地を売ったころには、すでに、75歳を超えていたと、推察されます。

 しかし、高齢ゆえに事業をたたんだと、言いうよりは、花村君がやくざ組織に入り、かつ殺されてしまったと、言われる年が、そのころだったのではないかしら。1970年というと、私が、28歳です。やくざに入って、殺されてしまったと言う花村君も、28歳。なんだか、当たっている様な気がしてきます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題8,『花村君の不幸とは、継母が、自分の地位を守る為に、「この子は、自分が育てます」と、旦那さんに宣言した日から、始まったと、私は、考えて居る。継母は、日本人なので、書類を作ったりすることが出来て、ミスター花村の事業展開に、相当に貢献したと、考えられる。役所の許可が、必要な仕事も(し尿処理業など)手広く、かつ、数多くやっていたからだ。でも、ミスター花村は、金持ち男性の例にもれず、どこかの繁華街で、遊んでいたので、新しい女性との間に、子供が出来た。ミスター花村は、当然、糟糠の妻を離婚して、この新しい女性と彼女の生んだ男の子といっしょのあたらしい婚姻関係に入りたいと、願ったはずだ。ただ、1942年生まれの花村君は、戦時中に生まれたお子様なので、彼の継母(日本人妻)は、自分がどれほどにミスター花村を助けているかと言う事を強調し、

 かつ、子供は、自分が育てますと、宣言をしたのだろう。何がどう違うのかは、説明ができないが、私にも、すぐ、花村夫人が、”だめ、お母さんだ”とは、わかった。週に三回ぐらい学校に来て、担任の先生と話し合うのだけれど、それは、歌舞伎を見物に行きますと、同じ類のミセス花村の趣味であって、花村君をかわいいと思うからすることではなかった。

 結局、花村組が消えていったのは、後継者が、やくざになって殺されたと言う事がショックとなり、事業を継承していく意欲を社長が失ったのだと思う。

 私は前報で、捜査対象となるべきで、逮捕されるべきなのに、逮捕されない悪人、または、悪女が居ると、言っている。それを発言した裏には、飯島愛が居たのだけれど、この花村家の悲劇を見ていると、妻(日本人)が、一番悪女だと、なる。

 花村君は、見事にも自分とは、正反対の位置にいるお子さんをいじめていた。・・・・・社宅に住んでいるけれど、お父さんは、東大卒で、三菱重工勤務、お母さんはきっと東京女子大卒でしょう・・・・・と、そういう感じの、顔のきれいな男の子を捕まえては、殴ったり、たたいたりしていたのだった。

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副題10、『小室圭君が、突然に浮上した時に、いろいろな、情報も付随して出て来た。中に母方の祖父が、日吉の製缶工場に努めていたというのが出て来た。私は、日吉という街を相当に広く散歩をしているつもりがある。日吉には、東西に細長い二つの丘があって、それが、東では、慶応大学あたりで、突然、切れているし、西では、サンヴァリエという公団住宅が建っているあたりで、突然すとんと、落ちている。その二つの丘の間は、昔は田んぼだった。今は、すべて、住宅街になっている。その田んぼの中に、大塚製靴の工場があって、時々開放して、靴を安く販売してくれると、言ううわさがあった。

 しかし、それ以外に工場などないと、思う。製缶工場など昔からなかった。で、それこそ、花村組の庭を、見た、お母さんが、誤解したのだと、推察している。花村組は、社長が、2000坪を買ったのだと、推察している。が、二千坪に建物は一棟だけだから、広い庭があって、そこに使用済みの一斗缶が、山積みになっていた。1950年代というのは、プラスチックというものが無かったので、液体を入れて運ぶのは、食料用油も灯油類などの、燃料系(石油系)も、一斗缶に入れて運んだのだった。その使用済みのものが大量に花村組の庭に置いてあった。

 それを見た幼い日の小室君の母が、誤解をしたのではないかなあ? 花村組は、1970年までは、活発に事業展開をしていたと仮定すると、時制も合致して来る。

 私は、小室圭君とは、皇室を、壊していくために選ばれた、男子だと、思っていて、困ったことだと思うけれど、女子高育ちで、男性に対して、免疫のない眞子様は、小室君の、ちょっかいに、まいってしまったのだから、二人は結婚をした方がいい。あそこで、別れさせるのは、良くない。しかし、眞子様が、将来離婚をしたいと願う日もやって来る可能性がある。そうしたら、自分の心に従って、行動なさったらいい。

 私には、皇室を守ろうなどという義務は、負わせないで、いただきたい。もう、自分の事で、精いっぱいだ。

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瑠奈容疑者は、唇に障害があったかな?

2023-08-04 16:28:26 | 政治

 すみません。前報、

逮捕されるべき人間が逮捕されない・犯罪捜査の不思議さ + 先生が生徒と結婚をする時

2023-08-02 21:46:18 | 政治

 に大量の誤変換が残っておりました。長時間、そのママにしておいて、申し訳ございませんでした。4日の午後五時半に修正しました。

 

副題1,『北海道の事件は、分析不可能なところがあります。ところがね。ふと、気が付いたことがあるのです。それは、お母さんの画像が、全く出てこない。それと、瑠奈容疑者の画像が、おんなじ物ばかり出て来る。もし瑠奈容疑者者に障害が有ったら、それが、最も目立たない写真を公開して、それ以外の写真は隠すと、言う手法がとられると思う。特にお父さんが、共産党員だから、報道に際して、CIAの保護があるし。

 ‥・・・この二つから、瑠奈容疑者が、上あごに、障害があったのではないかと、急に気が付きました。間違っているかもしれません。

 ただ、この事件が起きた時、最初のころに、・・・・・・家族間に支配関係があるのではないか・・・・・と、言う報道がありました。あの三人家族の中で誰が一番で、誰が支配をしているのか? という場合、もし、それが、親だったら、わざわざ、そういう言い方はしないでしょう。親が子供を支配するのは、普通の事ですから。毒親問題は、かまびすしいです。

 ただ、その番組関係者は、奥歯にものが挟まった様な言い方をしました。

 が、それは、瑠奈容疑者が女王様で、しかも、彼女に、口唇蓋裂という障害がある事を知っていて、・・・・但し、それを言上げすると、番組関係者に非難がごうごうと、迫ってくる可能性があるので、・・・・・奥歯にものが挟まった様な言い方になった可能性があります。

 父親は娘がかわいいですね。フロイトが言う通りです。その上、障害があるとなあると、特に大切に甘やかせて育てた。したがって、女王様中の女王様になってしまって、彼女の言う事は、どうしても、聞かナイトならないと、言う事になっていた‥・・・と、仮定すると、少し、つじつまが合ってきます。

 また、この障害が、お父さんの親戚、(5親等か、6親等ぐらい遠い親戚でもいいが)に、出ていて、それを、お母さんが、お嬢さんが生まれてから聞いた・・・・・となると、

 お母さんがお父さんを恨んだ可能性があります。黙っていたことを、ずるいと言って、恨んだり、バカにした可能性があります。それゆえに、お母さんは、働かなくなった。と、したら、また、また、つじつまが合ってきます。お母さんは、まともには、家事をしなくなった‥・・・という可能性があります。で、これが、悪循環の始まりでしょう。

 

 だけど、こう言う分析は、私が瑠奈容疑者の、顔写真を見ているうちに、ふと、気が付いたことですが、まだ、全くの想像の段階なので、NHK テレビニュースが、私が正しかったと、報道する可能性は、少ないです。

 特に身体的な障害が原因だったと、言う事は、TVニュースの世界ではタブーなのでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2,『夜、九時ごろ、またしてもふとという感じで気が付いた。ひろこ夫人にも同じ障害があったかもしれない・・・・・と言う事。そうなると、お母さんの絶望は、実存主義的なものになり、夫への恨みなどとは、関係が無くなる。しかし、だからこそ、絶望は、深くなった‥・・・と、解釈もできる。

 そして、首なし死体となった男性と、瑠奈容疑者との間のトラブルもまた、その障害が原因だったら、あの一家三人は、その詳細な、いきさつを、外部には出さないと思う。

 あまりにも苦しい事、あまりにも悲しい事。あまりにも嫌なことは、ひとは、口の上らせないのだ。

 で、トラブルを、私が想像して、言葉にしてみよう。女装をしてディスコに出入りしていた、被害者は、或る時、瑠奈さんに対して、「あんたは、みつくちだからね。普通、男は、用心して近寄ってこないよ。遺伝性があると、言われているからね。だけど、そこを俺は怖がらないで、あんたを抱いた。で、あんたは、俺によって、女になったのだよ」と、言う様なセリフを吐いたと、仮定しましょう。

 その時に瑠奈容疑者は、喧嘩へとは、持って行っていません。だって、防御創が無かったそうですから、女装男は、全く警戒していなかったわけです。小学校時代は、からかって来た男の子に馬乗りになって、「カッターで刺すよ」といったそうですが、大人になって、非常に美しい面立ちへと、成長して、それなりに、好意を寄せられることもあったであろう、瑠奈容疑者は、高いプライドを抱く様になって、喧嘩へとは、持って行っていません。

 だけど、もしこの私の想像が、当たっていたらですが、瑠奈容疑者と、その両親の怒りは、深い深いものだったと思います。で、父親が、一緒になって、買い物をしたというのも、よく、わかりますね。

 そして、この私の想像が当たっていたら、三人は、それを警察では、けっして、口にはしないと思います。プライドがあるもの、自分の劣等感を、外へは出さないでしょう。だから動機については、永遠にわからないとなるでしょう。

 そして、加害者=瑠奈容疑者一家三人は、事件直前までは、被害者であったと、言うケースとなりますね。女装をしてディスコで踊ると、言う被害者は、お調子に乗り過ぎていた可能性があります。快楽ばかり追っていて、人生とか、人間に対して考察をすることを怠っていたのでしょう。で、「あなたの人生は、ここで、終わりが来ましたよ」と、神様に宣言された可能性は、感じます。

  誰かがね、どうして警察を通さなかったんだろう? と言っていました。だけど、もしお嬢さんに脣が割れて居ると言う障害があったら、警察に任せていても、相手に対する刑罰が軽いはずだとお父さんが考えた可能性は強いです。中学校社会のいじめ、小学校、社会のいじめ、全部加害者は逃げおうせているでしょ。大人社会も同じで、この女装男は ウーン ぼくは大した事言っていませんよ。と言って逃げる可能性が大です。実刑はつかないで執行猶予3年位で終わりじゃないかしら。それがわかっているからこういう犯罪に乗り出したとそう考えます。被害者にも原因があったと言うことです。

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逮捕されるべき人間が逮捕されない・犯罪捜査の不思議さ + 先生が生徒と結婚をする時

2023-08-02 21:46:18 | 政治

 この一文には、誤変換が、10か所以上、残っていました。すみませんでした。4日の午後五時半に直しました。

副題1,『私は最近、セックスに関する文章を立て続けに書いています。読者の中には目を背ける方もありやと思いますが、全部、まじめな問題へ向かって行く途中経過として、必要なお話です。

 さて、わたくしは、NHKのメインニュースとMSNと、いうサイトが、紹介する(他メディアからの転載)情報だけしか普段接していません。

 すると、大きなニュースの続報が出ないことがあり、やきもきします。そのうちの一つ、ずっと、やきもきしていた事件の、判決を、13年目にして、初めて知り、ほっと納得をしました。

 ・・教師夫殺害事件・・という、google 検索で、やっと見つけた、仙台市の数学教師撲殺事件です。

情報源は、friday digital というもので著者は、小野一光氏です。アーカイブス番号は、

https://friday.kodansha.co.jp/article/105663  です。

 この事件を知らない方のために、わたくしが知っていることを申し上げますと、

56歳の夫(高校教師)が、庭で、金属バットで、殴られて死亡しました。この夫は、その数か月前にも、同じけがをして、退院したその日に二度目として襲われて、二度目は、死に至ったのです。妻は44歳で、愛人は38歳、撲殺の実行犯は、愛人が、家来として、実行犯に仕立てた男で、それが、27歳です。

 このアーカイブスを読むと、事情は、わたくしが当時、新聞記事で、読んだのとは、相当違う部分もある模様ですが、新聞が報道をしたのをもとに語らせてください。

 夫婦の結びつきは、先生と生徒の関係で、子供(娘)が、います。子供は、一人ではないかもしれない。夫婦の年の差は、12歳です。妻が16歳の時に夫は、28歳でした。なるほどねえと、思います。その当時は、好きだと、言い合っていたのに、その28年後、妻は夫を殺しました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、「先生と生徒の結婚とは、わたくしは、1980年に、横須賀市立根岸小学校PTAコーラス指導者、北村充(みつ)子さんのケースを、うわさ話として聞いた。その後、わたくしは、1984年に、鎌倉へ引っ越すのだが、1985年の夏に電話で、わざわざ、北村家の、応接間に呼ばれて、したたかないじめを受けた。これは、好悪の感情に基づくものではなくて、

 1978年に顕在化した、横須賀市の水道山をめぐる、実質的、大詐欺事件(ただし、書類じょうは、地積変更届というものを利用しているので、犯罪としては立証できない)の影響下での、政治的な動きなのだ。だから、はっきりと、実名で、表記する。

 横須賀で、知り合った女性のうち、処世術の権化としての悪女二人あげるとすれば、のちに、横須賀市の副市長に、夫、杉本俊一氏がなっていく、(これも無論、大詐欺事件と関係がある出世である)奥様正子さんと、この充子さんが、双璧をなすと、思う。

 横須賀市には米軍基地がある。そこに思いやり予算が下りる。また、自衛隊基地がある。そこにも国家予算が下りるはずだ。また、日産自動車他の、生産工場が多数ある。したがって、市の予算が潤沢なので、女性の活動に対する支援も活発でコーラスの、コンクールがある。東京から一流音楽評論家を複数、招いて、審査員として、立ってもらって、コンクールが行われる。

 横須賀市立根岸小学校は、トップテン以内に入る常連である。他チームの指導者が、たいていは、音大出身者であるのに、高卒の、みつ子さんが指導をして、常に、上位を占めるというわけで、彼女は、鼻高々である。わたくしのことなんか、虫けら扱いで、威張っている。

 ところが、この地域に昔から住んでいる人に言わせると、「みつこさんって、在日なのよ。(だから、下層階級の出身なの。・・・・・ただし、ここは、発音をされないセリフである)でもね、中学の時に、先生になついて、結局、結婚へ持って行ったの。それ以来、ああ、いう感じで、偉い人になったのよ」と、いううわさ話となる。

 神奈川県とは、丘陵地帯が開発されて、寄せ集めの、地域社会が出来上がった地域となる。そこで新たに形成された、コミュニティが、マンションにしろ、戸建てにしろ、50戸以内だと、人々は、気を使って、お互いに深い接触を避ける。

 なお、今、住んでいる鶴岡八幡宮の、地境にあたる地帯など、実働15軒なのだけれど、最初期に、マウンティングを、気にする、安野智紗夫人が、毎日井戸端会議を開いて、ご近所住人のプライバシーを探りぬいたので、見事な上下関係ができてしまっていて、鎌倉市内とも思えないほどの田舎である。町内会も、うぐいす村という。見事に名は、体を表している。

 悪貨は、良貨を駆逐するのだ。お金がある人は、みんな引っ越していった。わたくしは、39年間に、14回の引っ越しを目撃している。というわけで、武蔵小杉当たりのタワマンだって、いろいろあるでしょうと、わたくしは想像しているのだが、横須賀の様な、古いコミュニティでも、「抜け駆けをする人は、許さないわよ」と、いう意味で、人々は、お互いに、監視をしあっているのだった。たとえば、「子供をフェリスの、(大学ではなくて)、中学に入れました」などというと、結局は、ほかの町へ、引っ越していく。抜け駆けを許さない人たちの悪口が、猛然と降り注いで、来るからだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3,『東京圏の、国立大学の付属高校に、高校一年の時に転入しようとすると、中学時代オール5でないと無理だと思う。この間、筑波大駒場の文化祭がNHKで、放映をされたが、筑駒は、40%が東大へ、進学するそうだ』

 フェリスへ合格しただけで、引っ越していかないといけなくなったというのは、横須賀の話だったが、鎌倉でも同じ。もし、公立おなり中学の在校生が、国立大学の付属高校に、入ったら、大きな噂になる。「お茶大の、付属に受験したい」と、言い出しただけで、先生方から、大変ないじめを受けたと、あるママ友から聞いた。

 ところで、1986年の二月に安野家の、玄関先で、石川和子さんが、「国立大学付属高校ご入学おめでとうございます」と、大声で、わたくしに聞かせる様に言っていた。

 これが、概念が全く違うのだ。国立大学の付属高校からは、ほぼ、85%が四年制の大学へ進学する。安野家の、次男は、四年制の大学には進学していない。しかも、(安野夫妻には、ひどい攻撃を受けているので、ここまではっきりと書くが)、安野家の次男には、通信簿に、1と、2しかないと、いうことで、有名なあだ名がついていたのだった。おいちに、おいちにのあひるさんという。卒業式の時に、A4サイズの紙一枚に進学先が明記されている紙をもらったが、もちろん、筑駒もないし、茗荷谷もないし、学芸大学付属もなかった。ああ、やはり、うそをついていたのですねと、思うがそれは、1084年、引っ越してきて直後から、わかっている彼女特有の(なんというか言うに言われない、無知からくる威張り方というのがあって、)嘘には、接してきているので、驚かなかったが・・・・・

 8月に引っ越してきて、9月に入ってから直後のことだったと思うが、上にあげた中二の次男さんに友達が来たそうだ。で、まったく付き合っていない我が家のベルを押して、「お紅茶を出したいのですが、お砂糖がないのです。貸してくださいませんか?」ですって。

 この時、瞬時に、「前から、本当の母親ではないと思っていたがやっぱりね」と、感じた。本当の母親だと、2歳ごろから、自分の子供は、自分にとっては大切だが、他人にとっては、「別にー」という存在だから、自分の子供のことで、他人を煩わせるのは、御法度なのだ。それが、上は、高三の子供がいるというのにまだわかっていない。

 彼女は、自分が嘘をついていると、いう認識すらないと思う。お砂糖が、ひとさじもないというのも嘘だと思う。鎌倉マダムを自認しているのに、お砂糖が、ひとさじもないなんて言うのは、主婦として大失格だ。それに、どうしても欲しかったら、駅まで、ひとっ走り行って帰ってきたら手に入る。また、学校の先生が家庭訪問をしているわけでもない。自分の子供のお友達が来たぐらいで、どうして、緑茶で、おせんべいぐらいで、済ませられないのだろう。応用力がなさすぎだ。

 私は、瞬時に彼女の訪問の、本当の目的が判明した。彼女にとって、井戸端会議の運営は、命といってよいほどに大切なものなのだ。それで、彼女がトップボス化している仕組みだから、上手に運営したい。上下関係を構築するためには、全員が参加しないとうまくいかない。ところが、わたくしは、一切参加しない。それで、気になって仕方がない。で、彼女の、お気の毒なボリュームの脳みそによれば、「あの人は気が弱いので、すでに確立している井戸端会議に入れないのだ」となっていると思う。だから、きっかけを作るという意味で、お砂糖を借りに来たのだった。今の私だったら、こういったかもしれない。「あなたねえ。わたくしはね。横須賀で、470人も子供が通っている幼稚園の、PTA会長をしてきたの。で、女の人のことは、足の小指の先まで、わかっています。あなたの井戸端会議の意味も無論分かっています。で、参加したくないんです。だから、こんな小細工を私に対して、行わないで、どうしても、借りたいのなら、普段井戸端会議で、べちゃべ茶と、しゃべりあっている石川和子さんか、前田清子さんに借りればいいでしょう。渡辺夫人でもいいし、中谷夫人だっていいでしょう。ともかく、わたくしはお砂糖の貸し借りなんて、いうお付き合いは、致しません。特にあなたとはね」と。

 本当にバカは死ななきゃ治らないです。北久里浜だって、こんなことを言いに来るご近所様はいません。こういうウソに相手が引っかかるだろうと、思うのが、信じられない。あなたね。わたくしはね。お茶大付属高校出身ですよ。その前は、1950年代は、横浜一名門校だった、横浜国立大学付属中学、入学式総代、卒業式総代ですよ。あなたね。ここに引っ越してくる前に、どういう環境に住んでいたのですか?

 彼女って客観性をもつとか、自己を斜め上から眺めると、いうことが一切できないらしくて、自分が嘘をついているということすら、わからないらしくて、まあ、自信満々で、39年間を過ごしてきたみたいです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『要潤演じるところの東大教授は、実際には、後妻として、生徒を迎えていた。それが、9年間連れ添った、前妻がなくなってから、たった二か月だったので、大いなる非難を浴びた。

 ここで、横須賀市立、根岸小学校、PTAコーラスの指導者、北村みつ子さんの、うわさ話に戻ります。彼女は、1950年代に、中学時代の恩師に、モーションをかけて、結婚をしたのです。が、それが、彼女が階級的階段を上る、きっかけとなったと、噂をされたわけです。

 ところで、朝ドラでは、女中が、要潤夫人に冷たく当たる様子が出ていました。脚本家は、詳しい説明を一切していませんが、実は、前妻が、なくなって(1878年10月)から、たった二か月以内に、再婚をしています。野合の結婚(つまり、恋愛で、既成事実、例えば、妊娠などが発覚をした)ということではなくて、鳩山和夫・春子夫妻の媒酌による、正式な結婚ですが、

 前の奥様がなくなってから直後ということで、世間から指弾をされます。濁世という新聞小説が、書かれたそうです。スキャンダル小説です。その時、矢田部良吉教授は、36歳で、奥様は、18歳だったそうです。その後教授は、東大の、任官を非職(つまり、性格には失格したと言う事かな?)ということとなります。39歳でです。ただし、その後、高等師範学校(現在の筑波大)の教授となり、かつ、校長となります。

 その後、お茶大付属高校の校長になります。ただし、明治21年からです。わたくしは、創設時の校長かと思って、朝ドラが間違っていると、書きました。後註1,

 ただし、お茶大付属高校の、卒業名簿の中の、歴代校長の、所に、矢田部良吉という名前がないのです。

 上の欄に書いてある、生徒との結婚が、差し障っていて,略した年表には、そのお名前が、記されていない模様です。また、1988年ごろから、東大教授は、非職(どういうことか? ともかく、普通の東大教授ではない)となり、1991年には、退官となっています。

 これは、菊池大麓氏との確執が、原因だとか、人望がなかったとか、いわれていますが、確実なことは、わたくしには、わかりません。

 しかし、牧野富太郎博士側から見れば、「ざまあみろ、わたくしに意地悪をするからですよ」ということになると思います。

 しかし、こと結婚という意味では、牧野博士の方にも、いろいろ、怪しいところはあるのです。しかし、ここでは、それには触れずに先へ進みます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『北村みつ子さんが、女として、一族のうちで、特別に輝いてきたので、妹さんが、欲望をむき出しにする様になった』

 「一将、功なって、万骨枯る」という言葉があります。北村充子さんは、合唱指導者として、一週間に一回、50人ぐらいの、30代~40代の女性を指導するわけです。で、人間として輝いてきました。別に和光で、買ってきたお洋服を着ているというわけでもなくて、髪だって、普通の主婦らしいヘアスタイルです。ただし、いつも輝いている。明るくて、華やかです。声も、すごくきれいですしね、しかし、妹さんが、悪い影響を受けました。

 妹さんのご主人というのは大工さんだという評判でした。が、左官職だったのかもしれません。のちに、川崎市で、左官職をしていた保見死刑囚が、故郷へ、Uターンして、金峰という限界集落で、暮らし始めた時に、事件を起こしました。

 しかし、わたくしは、保見は、自分の名前を貸しただけで、実際には、殺人専門集団が、五人を惨殺したと、見ています。ところで、一時期行方不明だった、保見の自宅が何度もテレビニュースに出ました。すると、保見って、セメントで、造形した、いろいろな立体を家の周辺に飾っているのです。それと、北村充子さんの妹の夫は、とてもよく似ていました。北久里浜に建っている家なので、保見の家ほど、敷地が広くないので、セメントの彫刻は、数としては、より少ないのですが、庭全体の様子は、そっくりでした。

 でね、きたむらみつ子さんの、妹さんは、そういう素朴な旦那さんを捨てて、離婚をしてしまいました。旦那さんは、子供をかわいがる優しい性格の人だったと思います。白セメントで、彫刻をつくるのは難しいのですよ。それを、あれだけ丁寧に数多く作っていたのは、子供を楽しませるためだったでしょう。

 ところで、妹さんの方ですが、離婚をしても根城が北久里浜にあったらしくて、わたくしは、駅周辺で、彼女を何度も見かける事となりました。彼女は特技がないので、お姉さんほど、輝かしいオーラがありません。その代わり、超ド級のおしゃれをしていました。

 パン屋さんだったかなあ。ある個人経営者のお店で働いているうちに、そこの主人の愛人になっちゃったのだと聞きました。だから、お給料以外の収入もあるのでしょう。まるで、ベルばらの主人公になったみたいな、おしゃれでした。ポリエステル製花柄の、ロングドレスワンピースで、スタイルは、プリンセスラインという形。ハイヒールを履いて、本当にタレントみたいでした。しかし、彼女のお子さんふたりと旦那が住んでいる家は、北久里浜の駅そばにあります。(今は、無くなっている)勤務先のパン屋も、そこから、500mいないです。ええ?、こんなところで、そんなかっこうをしていたら、お子様方と、会うでしょうに。お子様は、中学生です。大丈夫かしら?と、思いました。あれから、40年は経っています。お子様方は、独立したでしょう。でも旦那さんは、どうした? そして、彼女自身がどうなったか?

 愛人は、85歳を過ぎているでしょうから、彼女に、ひとつきに、25万から、30万円のお金を出してやるほどの、稼ぎが、あるでしょうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5,『ここで、講談社、編集部次長・・・・京都大学卒、の朴鐘顕被告が、四人の子供を育てていた奥様、かなこ夫人を殺したと、いう事件の最高裁差し戻し判決が、2022年12月9日に出たことへ、入りたいと思いますが、ここでは、それの詳細には、敷衍しません。終わらなくなってしまうから。

 しかし、ニュースウォッチを、13分も占拠したニュースで、在日の大組織を動員して、この事件を迷宮入りにさせるつもりなのだと分かったと、申し上げさせてくださいませ。 

最高裁も、伊藤玄二郎たちの言うなり判決を出すのです。わたくしが、むかし、この件を相当詳しくブログ化しているので、それを、わたくしの方が、間違っていると、させるために、差戻にしたのだと、思います。この件は、将来、また詳しく語ります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題6、『ここで、仙台の、44歳の、夫を殺害した教師妻に戻ります。12歳の年の差を乗り越えて、仲良しの夫婦として、結婚をして、娘が、高校生です。娘は英語塾に通います。事件前、三年ぐらいは、平和だったと思いますよ。

 娘は、先生がすごく素敵な人だと、いいました。で、母親は、塾の先生を見に行きます。そして、どっちが誘ったのかは知りませんが、塾の先生38歳と、6歳年上の母親が、相思相愛になります。そして、自宅に塾の教師を呼び、一緒に買い物に出かけたりしていました。もちろん、セックスをした後でしょうね。ご近所にその仲良しぶりを、目撃をされています。

 さて、事件が起きた当時、新聞を読んでいただけでは、塾の教師が逮捕されたという記事には、気が付きませんでした。で、わたくしは、すごく不思議に思いました。この事件では、金属バットを振ったのは、その塾の教師に洗脳状態にされていた若者ですが、そちらは、逮捕をされたと出ているのに、塾の教師の方は、逮捕されたと、いう記事が出ませんでした。

 そして、わたくしは、その事件後、13年間、ずっと、その男が逮捕されていないと、思いこんでいました。それが、本日の総タイトル

逮捕されるべき人間が逮捕されない・犯罪捜査の不思議さ

に結実しました。その不思議さを、表す言葉です。

 しかし、2023年8月2日の午後、フライデーデジタルを、読んでいて、一審判決が出ているのに気が付きました。妻には、11年、実行犯には、18年、

 そして塾講師には23年の判決が下っています。彼は、被害者に、保険金をかけていたそうです。ただし、この男だけは、判定が、確定していません。控訴しているからです。

 さあてね。わたくしは、こちら仙台の夫殺しには、納得しています。

しかし、本当に長い間。納得をしていなかったのは、少女コンクリート詰め殺人事件で、ただ一人加害者側に女性がいたと、いうことで、その女性が、逮捕をされないことだったのです。

 しかし、ある時に、それが、飯島愛らしいと、いう報道に気が付きました。彼女は、その真実に気が付いた、マネージャーに脅かされていたそうです。それが、彼女の死の真相だそうです。なるほど。

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