青い空とわたし

青い空の日  白い雲の帆船をみていると

どこかへ どこまでも Harmonyと

走っていきたくなります

アンチふれあいスキー旅を終えて

2020年03月16日 21時42分34秒 | 同上 (スキー)

3月13日(金)

青い空の下での春スキーを大いに楽しんだ翌日。

 

▲ 今日も晴れだ。

きょうはどうする?

毎年のパターンでは、横手山・熊の湯ゲレンデでの翌日は、焼額山・奥志賀ゲレンデへ移動する。そこでロングコースを楽しんで、ランチは皇室ご用達のホテルグランフェニックスで優雅に。というのが、ここ数年のお決まり。

「焼額山・奥志賀で今シーズン最後の滑りだ」2019.4.5

しかし、今年はやりたくない。

あそこでは、8人定員、6人定員のゴンドラに乗って頂上へ行く。

ゴンドラは、コロナ防止原則の①閉鎖空間②他者と近距離③言葉を発する に適合する空間だ。で、スキー場も現在は上記定員を半分にしてゴンドラを運行している。しかしなあ、定員を半分に制限しているといっても・・ぼかあそこまで気にしながらは乗りたくない。今年はスキップ

 

▲ 朝食を、ゆっくり取った。

BS1で国際放送を見ているとヨーロッパ・米国でコロナ感染爆発が起き始めた。画像にもチラッと出ているが ”STATE OF EMERGENCY"(非常事態)だとよ。てーへんだ。

そうはいうもの、滑らなければ何もすることはないわけで、1時間ほどBS1で「太陽王のベルサイユ 幻の宮殿再発見」というドキュメンタリーを見ていた。ベルサイユ宮殿でルイ14世とその家臣団2000千人がどのように生活していたかの再現は興味深かった。今なら宮殿は一大クラスターになっていただろう。(エリザベス女王達が避難移動したウインザー城は200名)

 

さあ、志賀高原を出発だ。

▲ 道は完全にドライで全く走行に問題なし。

長いトレーラーを牽引して上ってくるキャンパーとすれ違った。冬場にトレラーで志賀高原を上ってくるなんて危険すぎたが・・暖冬の極みだ。

 

▲ 道の駅・北信州やまのうちに到着

横手山の駐車場(標高1700m)では、FFヒーターが中途で稼働停止してしまった。

標高が高いところではべバストFFヒーターは停止することがあるとは聞いていたので、平地に降りて試してみようと思った。(3年前も同じ駐車場で、中途停止。今の新しいFFヒーターに替えたのだが)

 

▲ 送風はあるが、やはり点火せずで暖気を排出には至らなかった。

 

 

▲ 夜間寝る時は、電子レンジで4分半チンしてから使うこの湯たんぽ2個でしのげたが。

暖房設備がなければ、冬場にキャンカーでサバイバルするのはしんどい。来月下旬まで待たなくてはいけないが、キャンピングカーランドに点検予約を入れた。

 

ここの道の駅では、蕎麦がおいしいのだが・・今回はスキップ。ていうか、今回はトイレも含めて、道の駅にはまったく立ち入らず

天気予報は、土日はあまりよくないし。良かったら、スキーのあとは近くの山に登ろうかと思っていたのだが。FFヒーターも動かないと、日中もキャンカーライフを楽しみずらいしなあ。・・ もう、帰ろう。高速に乗って、一回だけPAにトイレ小用で寄って、自宅へ直帰した。15時半着。昼食をクルマで取ることもできたが、遅くなっても家で食べることを選んだ。

結局、ホーム・スイート・ホームで軟弱だ、やっぱし(笑)。

 

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ふれあいは濃厚接触? 考

ヨーロッパで一気にコロナ感染者が増えた理由のひとつに、彼らの文化習慣があろう。

つまり、他者と交わす日常挨拶が、アジア人なら他者と距離を置いてのお辞儀が一般的だが、西洋人は握手はもとよりハグしたりキスをする濃厚接触の挨拶習慣となる。

 

昨晩だったか、11時からのNHKラジオ深夜便で、フランスからの現地日本人女性の現地レポートがあってクルマで聞いていた。

フランス在住の外国人なら一度は戸惑うフランス式あいさつ、ビズ ( La bise )があります。ビズとはお互いの頰を合わせにチュッ、チュッとキス(の真似ごと)をするフランス式のあいさつのことです。

フランス内でも、チュッの真似事を左右に何回やるかは地域によって異なり、交互に4回もする地域もあるとか。それが、今般のコロナ感染でやれなくなってしまって。互いに気まずく、落ち着かなくなるそうだ。それで編み出したのが、互いに肩をぶつけあったり、または互いの靴を軽く擦り合わせたりする人が出てきているとか(笑)。

ビズの社会的機能は、「敵意は持ってませんよ、むしろ好意ですよ」の相互確認だろう。ヨーロッパでも特にフランスは伝統的に個人主義の国だ。しかし個人中心に生きるのではあるが、もとより他者との交流なしには生きることはできない。個人利益むき出しでは「万人の万人に対する闘争」(ホッブズ)になってしまう。それゆえ倫理・法律等の「社会契約」を結んで個人間の調和を図るという考え方がある。ビズ接触は日常的な「社会契約」の実行で、ヨーロッパでは必要な行為だ

個人意識がそれほど強くない日本では、挨拶としてチュッ、チュッやる社会的必要はない。お辞儀して、互いに最低限の儀礼は守りますよと相互確認すればよい。そのあとは、無言の行為を通して、お互いの親しい感情を深めていく。その情愛を深める行為を「ふれあい」と呼ぶのでは。

「ふれあい」は、ある程度の肉体的接触を契機にして、むしろ感情レベルでの交流感・一体感を目指す・意味するウイキペディアによれば、1970年代から「ふれあい」が広く使われるようになったという。比較的新しい言葉なのだ。使い方としては、「ふれあいを求める」とか「ふれあいの〇〇」だ。ボクは、中村雅敏が「ふれあい」1974年を歌って広めたと思っている。あの頃は、学生運動で相互不信が高まった時に、連帯ではなくて「交流による相互信頼が欲しい」と端的にアピールしたのだ。

つまり「ふれあい」は物理的接触を意味するより本来的には感情的交流を意味し、コロナ感染とは無縁だということ(笑)。

応用問題として、今回のコロナパンデミックを契機に、これからの社会はますます情報型・非接触型へと変容スピードを上げていくだろう。 その場合(心の)ふれあいみたいなものはどう担保されるのだろうか? (ご清聴ありがとうございました・笑)

 

ふれあい 中村雅俊