荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

東洋のマチュピチュへ行く

2015年08月13日 | 散文
ふるさと愛媛に、別子銅山があります。
いや、ありました。
今では、「東洋のマチュピチュ」と銘打って、観光施設となっていますが、大住友グループの根幹を為した銅山です。
元禄3年に発見されて昭和48年に閉山されるまで、海抜1200mから海面下1000mまで、銅の鉱床を追って掘り進めたそうです。
その記念施設へ行きます。

ここは端出場跡です。
現在は「マイントピア本館」として、銅山施設観光のセンターとなっていますが、採掘基地の東平(とうなる)から、2700mのケーブルで採掘した鉱石を受け入れ、生活必需品を送り込んだ場所です。


施設の向かい側には、旧水力発電所が見えます。

両施設の間を流れる国領川に沿って、海抜750mの東平まで行きます。

途中に、現役の吊橋があります。

こんな山間道路を上がって行きます。

見慣れない道路標識があります。


ぐるりと1周した「ループ式道路」とでもいう道を通って、標高を上げて行きます。


しかし、まだまだこんなものではありません。
途中で見た景色です。

走って来た道が、遥か下に見えます。

やっと到着しました。
プラットフォーム(鉱石採取場との間を蒸気機関車が走っていました)跡(現在駐車場)から索道停車場跡を見下ろします。

ここと前出の端出場をケーブルで結んでいたのです。

インクライン跡の石段を下りて行きます。

索道停車場から、ケーブルカーで物資を上げ下げしていた斜面を、今は、220段の階段で結んでいます。
地面は遥か下です。

貯蔵庫跡です。

この施設跡が、「東洋のマチュピチュ」といわれる所以です。

此処に、ピーク時には3800人以上が暮らしていたそうです。


この貯蔵庫を中心に、急峻な斜面に病院や学校や娯楽場などを造って、暮らしていました。
山肌に張り付いた村です。


私が高校生のころまで、生家前の道路を「別子行き」の路線バスが走っていました。
今治からそのバスに乗れば、自宅近くのバス停に着きました。

残念ながら、一度も行ってみようとは思いませんでした。

近隣を歩いてみます。
娯楽場跡です。


保育園跡です。
楕円形のプールが残っています。


配給所跡です。


施設間を坂道と石段で繋いでいます。




病院跡です。

当時の写真がありました。
木造施設であり、また、廃村時に杉の木を植林しているので、当時の面影は殆どありません。

駐車場の上の旧保安本部の様なレンガ造りの建物だけが、当時を偲ばせます。


帰りに見つけた「山根精錬所」の煙突が残っている「エントツ山」へも行ってみました。


牛車道路を上ります。
けっこうキツイ坂です。


煙道跡がありました。


ふもとの湿式精錬所の硫黄を含む煙りを、随分長い煙道で此処まで持ってきて、排出していました。


この近所の生子山は、歴史上の場所でもあります。
南北朝時代の合戦があり、南朝の忠臣越智俊村が阿波の細川頼春と戦いました。
豊臣秀吉の四国征伐の際は、松木三河守が小早川隆影と戦いました。

両方の戦いは越智・松木(いずれも地元に多い苗字です)側が負けていますが、私は両者を知りません。
我がふるさと、奥が深いです。

コメント
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