
3.桜井漆器と月賦販売
桜井は漆器の町であり、それからきた月賦販売発祥の地であります。


漆器の起源については正確な記録はありませんが、文化・文政の頃であるといわれています。

当時、みの、笠、木ろう等を行商中の桜井の人が紀州黒江の漆器業者から漆器行商をすすめられ仏具を仕入れて帰った所、信心深いこの地方の人に好評を得たのが始まりといわれ、やがて、黒江物を九州方面にも行商するようになりました。

「春は唐津、秋は漆器」と言われるように春の上り船では唐津、伊万里で仕入れた陶磁器を中国地方や紀州方面にも売り、秋の下り船では、漆器を九州に運んだのが「椀船」の起こりといわれています。


桜井漆器の製造は文政末期から始められ、天保の初めに月原久四郎氏が重箱の最もいたみやすい四隅に串指法を考案し、同時期に西条から蒔絵師茂平が来住し、にわかに桜井漆器の名を高めました。

最盛期は、大正年代で職人も300人以上になり、品質向上に努めた為国内はもとより中国にも輸出されていました。
戦後は、安価な化学製品におされ、一時は生産も減りましたが、世の中が、おちつくにつれ、地域や業者間で伝統の地場産業を振興させようと努力しています。

販売方法は明治10年以前は、帆船を使って長期沿岸行商で現金取引きだったのが、明治末期頃は、帆船で長期陸上行商にて掛け売り、春秋の農業収穫期に集金する二期集金法とする。
大正期には、トラックの機動性を利用して、見本陳列しながら行商し販売方法も、5~6か月の月賦集金法を日本で初めて実施する。

これが桜井が月賦販売の発祥地といわれるゆえんである。
<筆者>
現在、国道196号線沿いに「桜井漆器会館」を造り、製作工程の公開と漆器製品の販売を行っています。

