「加賀屋敷の黒板塀と八石教会の竹垣に挟まれた鶯横丁に入り、その先大きく右に曲がると黒板塀に門が三つ並んでいました。」
「・・・そうして三軒のうちを一々調べて、最後に『正岡常規』とある表札を漸く見当てて喜んで戸を押すと、戸に付けてある鈴がチリリンと鳴って、玄関の障子があく前に、必ず主人の咳を聞くであろう。」(虚子)
子規は25歳の時に母と妹律を東京に迎えて根岸に住み、27歳の時にここに転居借家して、終の住み家となります。
「加賀様を大家に持って梅の花」
糸瓜忌に合わせて、子規の生誕150年記念特別展示中です。
子規の命日が9月19日で、誕生日が陰暦9月17日(太陽暦10月14日)なので、このような企画になったのでしょう。
特別展示品とは、子規が明治28年、28歳の時に日清戦争従軍記者として遼東半島に渡る際に、元松山藩の殿様に請うて拝領した仕込み杖です。
まだこの時代は封建社会の気分を色濃く残しており、子規は武士と認められた喜びに溢れていたとのことです。
室内は見学者で一杯なので、早々に庭に下ります。
誰のセンスでしょう、手水鉢に八つ手を浮かべて。
小さなざくろが実を膨らませています。
季節の花です。
「ごてごてと草花植えし小庭かな」
ここ子規の借家は隠居武士の住居でした。
敷地を住居と庭に半々に取った隠居屋敷の代表的造りです。
子規は赤い花が好きで、沢山スケッチを遺しました。
「小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ」
子規の寝室前です。
遺作の糸瓜三句です。
「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「をとといのへちまの水も取らざりき」