JR田端駅の近くにある赤紙仁王尊前の道路を西に進みます。
私好みの商店街がありました。
ちょっと田端銀座をひやかします。
八幡坂通りを登って行くと八幡宮が見えます。
その西隣に大龍寺がありました。
門前には「子規居士墓所」の石柱が建っています。
墓地の奥に、西日を受けて子規の墓が佇んでいます。
背後には、この墓地唯一の竹藪が小さく配されています。
右に母八重の、左には正岡家累世の墓があります。
おそらく妹律は左の墓に眠っているのでしょう。
子規はいつまでも、この二人に支えられているのですね。
更に左には石碑があります。
糸瓜と竹に飾られた石碑は、根岸の子規庵のようです。
石碑には有名な文章が書かれています。
「正岡常規又ノ名ハ虎之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス父隼太郎松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十円」
新しい卒塔婆がありました。
先月の命日供養のものでしょうか。
少し暑く感じる西日に背中を照らされて、誰も訪れないのを幸い、墓前に暫くしゃがみ込んでいました。
同じ墓地に、人間国宝の陶芸家板谷波山のお墓がありました。
光溢れる初秋の午後の情景です。
私好みの商店街がありました。
ちょっと田端銀座をひやかします。
八幡坂通りを登って行くと八幡宮が見えます。
その西隣に大龍寺がありました。
門前には「子規居士墓所」の石柱が建っています。
墓地の奥に、西日を受けて子規の墓が佇んでいます。
背後には、この墓地唯一の竹藪が小さく配されています。
右に母八重の、左には正岡家累世の墓があります。
おそらく妹律は左の墓に眠っているのでしょう。
子規はいつまでも、この二人に支えられているのですね。
更に左には石碑があります。
糸瓜と竹に飾られた石碑は、根岸の子規庵のようです。
石碑には有名な文章が書かれています。
「正岡常規又ノ名ハ虎之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス父隼太郎松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十円」
新しい卒塔婆がありました。
先月の命日供養のものでしょうか。
少し暑く感じる西日に背中を照らされて、誰も訪れないのを幸い、墓前に暫くしゃがみ込んでいました。
同じ墓地に、人間国宝の陶芸家板谷波山のお墓がありました。
光溢れる初秋の午後の情景です。
おじゃまして、涙した記憶が・・。
田端に
眠っておられるんですね。
律さんも、一緒。
よかった・・。
・・はなこころ