荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

ふるさとの蝉事情

2015年08月14日 | 散文
故郷は温暖な地方です。
夏になると蝉が沢山鳴きます。
今も変わらない光景ですが、ここ十数年の間で様子が変わって来ています。
蝉を初め、昆虫が随分増えて来ました。
蛍も復活しています。
一方で、生態系が変わっています。
蝉に関して言えば、アブラゼミが少なくなりました。
以前はほとんどがアブラゼミでしたが、今はクマゼミに駆逐されています。
この樹に居るのも、全部クマゼミです。


子供の頃は、この美しいクマゼミを捕った者はヒーローでした。
美しくかつ、希少な蝉だったのです。
その「シャオシャオシャオ」という鳴き声から、「シャオ」と呼んでいました。

東京にいるミンミンゼミより一回り大きく、ずんぐりとしていて、真っ黒い身体をしています。
正に「熊」です。
温暖化の影響で、その生息地は静岡県まで北上しているそうです。
そのうち、関東でも見る事ができると思います。
東京オリンピックの頃には居るかも知れません。

さて、先日来島へ行った時に気付きました。
彼の島には殆どクマゼミがいません。
なんと言う蝉でしょうか?この蝉が主流です。

ミンミンゼミとは違うと思います。

そして、アブラゼミが少し居て喜んでいると、思ってもいなかったものを見つけました。

小さなニイニイゼミの抜け殻です。
生家の回りでは、もう見る事はありません。
この蝉は、声も小さくて、地味な存在でした。
活動が鈍くてすぐに捕れますが、誰も採集の対象としていませんでした。
おそらく、他の蝉に駆逐されて、居なくなったものと思います。

注意しながら歩いていると、見つけました!
そして、子供の頃と同じように、簡単に素手で捕れました。

ちょっと感動です。
ここ来島は、ガラパゴス諸島のように、昔ながらの種族が生き残っています。


(余談)
生家の近くに居た蝶です。

なんと言う蝉でしょうか?
羽根の表裏が全く違います。


お墓参りで糸トンボを見ました。
昔、色んな種類の糸トンボが居た小川脇の林道です。
私が子供の頃に、農薬を大量に使う農法が流行って、川を中心に生活していた生き物を絶滅させました。
彼等の復活は望めないのでしょうか。

ツクツクボウシが鳴き始めました。
永かった夏も終わりを迎えます。

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東洋のマチュピチュへ行く

2015年08月13日 | 散文
ふるさと愛媛に、別子銅山があります。
いや、ありました。
今では、「東洋のマチュピチュ」と銘打って、観光施設となっていますが、大住友グループの根幹を為した銅山です。
元禄3年に発見されて昭和48年に閉山されるまで、海抜1200mから海面下1000mまで、銅の鉱床を追って掘り進めたそうです。
その記念施設へ行きます。

ここは端出場跡です。
現在は「マイントピア本館」として、銅山施設観光のセンターとなっていますが、採掘基地の東平(とうなる)から、2700mのケーブルで採掘した鉱石を受け入れ、生活必需品を送り込んだ場所です。


施設の向かい側には、旧水力発電所が見えます。

両施設の間を流れる国領川に沿って、海抜750mの東平まで行きます。

途中に、現役の吊橋があります。

こんな山間道路を上がって行きます。

見慣れない道路標識があります。


ぐるりと1周した「ループ式道路」とでもいう道を通って、標高を上げて行きます。


しかし、まだまだこんなものではありません。
途中で見た景色です。

走って来た道が、遥か下に見えます。

やっと到着しました。
プラットフォーム(鉱石採取場との間を蒸気機関車が走っていました)跡(現在駐車場)から索道停車場跡を見下ろします。

ここと前出の端出場をケーブルで結んでいたのです。

インクライン跡の石段を下りて行きます。

索道停車場から、ケーブルカーで物資を上げ下げしていた斜面を、今は、220段の階段で結んでいます。
地面は遥か下です。

貯蔵庫跡です。

この施設跡が、「東洋のマチュピチュ」といわれる所以です。

此処に、ピーク時には3800人以上が暮らしていたそうです。


この貯蔵庫を中心に、急峻な斜面に病院や学校や娯楽場などを造って、暮らしていました。
山肌に張り付いた村です。


私が高校生のころまで、生家前の道路を「別子行き」の路線バスが走っていました。
今治からそのバスに乗れば、自宅近くのバス停に着きました。

残念ながら、一度も行ってみようとは思いませんでした。

近隣を歩いてみます。
娯楽場跡です。


保育園跡です。
楕円形のプールが残っています。


配給所跡です。


施設間を坂道と石段で繋いでいます。




病院跡です。

当時の写真がありました。
木造施設であり、また、廃村時に杉の木を植林しているので、当時の面影は殆どありません。

駐車場の上の旧保安本部の様なレンガ造りの建物だけが、当時を偲ばせます。


帰りに見つけた「山根精錬所」の煙突が残っている「エントツ山」へも行ってみました。


牛車道路を上ります。
けっこうキツイ坂です。


煙道跡がありました。


ふもとの湿式精錬所の硫黄を含む煙りを、随分長い煙道で此処まで持ってきて、排出していました。


この近所の生子山は、歴史上の場所でもあります。
南北朝時代の合戦があり、南朝の忠臣越智俊村が阿波の細川頼春と戦いました。
豊臣秀吉の四国征伐の際は、松木三河守が小早川隆影と戦いました。

両方の戦いは越智・松木(いずれも地元に多い苗字です)側が負けていますが、私は両者を知りません。
我がふるさと、奥が深いです。

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来島で村上水軍の痕跡を探す

2015年08月12日 | 散文
前回上陸しなかった来島へ行きます。
それにしても暑いです。
途中の自販機とコンビニでポカリを2本ガブ飲みして港に来ました。
コンビニで買ったおにぎりとお茶を持って来島へ向かいます。


途中造り始めの船を見ながら、わずか5分程で着きます。


船と別れます。
船は小島へ向かいます。


桟橋の向こうに村上神社があります。


先ずは、お参りします。


神社脇に、漁師町らしい石碑がありました。


来島城址・心月庵方向へ行きます。


ひと山がそのまま島になっているので、急な坂です。


心月庵を覗きます。


更に坂を上ります。
鳥居があります。


村上神社の奥の院です。


神社脇の急坂を更に上ります。
頂上が見えました。

ここが来島城址ですが、遺構の様なものはありません。

四方を見ます。
造船所方面です。


来島と陸地(四国も島ですが)の海峡です。


小島との海峡です。
このあたりを総称して、来島海峡です。

潮が流れ始めています。

海を見ながらおにぎりを食べます。


滑りながら山を下りて、村上水軍の桟橋跡の柱穴へ向かいます。

これは郵便受けではなく、ポストです。
随分小さなポストです。

人けがありません。


そこここに廃屋があります。
手前の家屋の玄関にも鎖錠が掛けられています。


終始海を見ながら歩きます。
昔は、此処から漁船を出したのでしょう。

向いは小島です。
来島海峡は、鯛の好漁場です。

この海岸に、柱穴があるそうです。


よく分からないまま、写真を撮って引き揚げます。
とにかく暑いです。
スダレの向こうに隠した様な自販機を見つけました。
スダレをめくってポカリを買い一気飲みしようとしたら、小父さんが、ヤクルトを手にして出て来ました。
やっと人に遭えました。
大きな手に小さなヤクルトが好感が持てます。

以下、私と小父さんの会話です。
「あなたは、村上水軍の子孫ですか?」
「この島に子孫はおらんよ。村上姓の家が無いのに・・・」
「多くの廃屋がありましたが、今、何軒の人が暮らして居るのですか?」
「もう、6軒しかおらんわいねえ」

「柱穴らしいものを見て来ましたが、人工のものではなく、自然にできたように思うんです・・・」

「ほう、あんたもそう思う?ワシも自然の穴やと思うんよ。岩の柔らかい場所に小石が入って、波で撹拌されたら、穴ができるやろ」
「やっぱりそう思う人もいますか?」
「あんたやワシみたいな変わりもんが、100人に3・4人おらい。ほやけど、偉い学者さんがそう言うんよ。お陰で観光客がよう来るよ。
広島大学とか長崎大学の学生や、こないだなんかあんた、ハーバードを卒業して東大におるいう人も来ての。
ほやけど、あの穴は違うと思うぞ。第一、あがな所に桟橋造ったて、干潮になったら船は岩の上に乗り上げてしもて、にっちもさっちもいかんのぞ・・・」

そろそろ帰る事にします。
船が「プー」と乗船を確認する汽笛を発してやって来ました。

随分静かな島です。
結局、見学者というか、上陸者は私一人でした。


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西新橋3丁目の人気店

2015年08月11日 | 散文
いつも行列ができていて、ずっと気になっていた店があります。
7・8年まえに一度だけ行ってみて、行列の長さに諦めた経験があります。

最近TVで紹介されました。
よし!今度は昼食時間を外して行ってみよう。
運よく雨(行列が少ないと思う)で、更に13時過ぎです。

あれ!?
並んでいます。
傘をさして並んでいます。
サラリーマンとOLの姿が目に付きます。
昼休みは終わっているのに・・・。

隣りのカレー屋さん等の商売の邪魔にならないよう、路地を出入りする車両の邪魔にならないように、合羽を着た従業員が、行列の整理をして、行ったり来たりしています。

向こうの角を曲がった所が店の入り口です。
まだまだ長い行列が続きます。

退屈なので、虎ノ門ヒルズを眺めたり、行列整理の従業員を眺めたり、サラリーマンの会話を聴いたりしながら、雨の中を1時間強並びました。



店での滞在時間は15分くらい。
流れ作業のように、注文して、トレイに乗った器を持って、商品を受け取って、水を汲んで、テーブルに持って行って食べます。
椅子席はありません。
ドーナツ状のテーブルで、隣の人と肩を触れ合いながら、20人ぐらいの客と一緒に立ち食いしました。
食べ終わったら、器を従業員に手渡しで返します。
終わった席に次の客が自分の器を持って、食べに来ます。
時々店員から「詰めてください」と指導があります。
味は美味しかったです。
変わった味の蕎麦です。

14時半頃に店を出ると、まだ行列が続いていました。

店内は薄暗いです。
蕎麦屋という雰囲気は全くありません。
食べている後からあとから客が店内でも行列を作るものですから、落ち着いて食べられません。慌ただしいです。
でも、経験した事の無い味です。
上記の状態を耐える覚悟ができれば大丈夫です。

愛宕神社の参道前にあります。

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宮島さん

2015年08月10日 | 散文
綱敷天満宮の敷地内に、厳島神社の分社があります。
子供の頃、夏休みに「宮島さん」と言うお祭が開催されていました。

浜茶屋の女将さんと息子さんから、今日やるよ、と教えられました。

祭りの雰囲気があります。

宮島さんとは、男の子が生まれると麦わらで子供の名前を書いた船を作って、海に流す行事です。

子供の健やかなる成長を願って、小学校に入学するまで行います。
「宮島さん」イコール「厳島神社」は海運の神様です。
ここは漁師町であり、漆器の海運の町であるところから始まった行事だろうと思います。

日が落ちると、三々五々、船を持って来ます。


お払いを受けます。

浜茶屋の若夫婦も来ました。

船に蝋燭が点ります。


海へ運びます。


父親は船を持って海へ入ります。

無事に対岸にある広島の宮島さんに着くよう、できる限り遠くまで、泳いで運びます(実際に藁船が瀬戸内海を横断するのは不可能です)。

父親の手を離れた船が漂っています。

家族は、海から帰って来た父親と一緒に、船が見えなくなるまで見送ります。

左に朱く見えるのは満月です。
きっと、大潮の夜に行われる祭りなのでしょう。
子供の頃の賑わいは全くありませんが、親の愛を感じる好いお祭りです。
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故郷でー2

2015年08月09日 | 散文
更に海岸を走ります。

こんな所にも国分寺の案内板があります。

「椀船の港」の石碑があります。

椀とは漆器の代表的な製品のお椀のことで、ここでいうのは漆器を運ぶ船のことです。
一寸法師が乗った舟ではありません。
この地は漆器の製造販売で栄えた町です。

ここから舟で、主に九州へ行商に出ました。その記念碑です。

ほんの少し海岸寄りに、「衣干岩」なる石碑がありました。

菅原道真公が太宰府に流される途中、この海岸に上がって、濡れた着物を干した岩らしいです。
雑草と灌木で岩が見えませんが・・・。
明治33年に建てられたと記載されていますが、全く知りませんでした。
ここの近くの保育園に通っていたにもかかわらず、です。
前回帰省時の南北朝時代の話といい、ホントに故郷の歴史を知りません・・・。

廃屋がありました。

ここは子供の頃海水浴で賑わっていました。
そのリゾート施設の一部のようです。

ん!?
この景色に見覚えがあります。

入って行きます。

やっぱりそうです。
この水槽を覚えています。


この納涼席を覚えています。


この海岸を覚えています。

でも、飛び込み台がありません。


写真を撮っていたら、浜茶屋の人が出て来たので聴いてみました。
やっぱりそうです。
40数年振りの訪問です。
問わず語りに、先日FC今治の岡田さんがここでBBQをして、海で遊んで帰ったとのこと。
岡田さん、有名人です。

見たところ、浜茶屋の人の親が私の同世代の年格好です。
彼が女将さんである母親を呼んでくれました。仕事中なのに・・・。
この人は彼の妹さんです。

女将さんは、私の老幼友達で神社総代の彼と同級生でした。
当然、1歳違いなので、私の同級生の消息も良く知っていました。

弾む話しの中で、今日(8/1の話です)「宮島さん」がある、と教えて貰いました。
息子さんが作った、孫の舟です。


宮島さんでの再会を約束して、更に走ります。
ほんの少し行った所に、お台場跡の石碑がありました。

東京湾のお台場と同じく、ペリー来航後に造られたものです。
松山藩が造ったとのこと。今治藩ではないんですね。
台場を造ったものの大砲が無かったので、大砲に模して、お寺の鐘を横に設置したとか。
なんだか微笑ましい。

綱敷天満宮です。


敷地内にある、浜茶屋の女将さんに教えて貰った、「割賦販売発祥地」の石碑です。

初めて確認できました。
この他、紀州や伊万里の商人及び廻船問屋連中が奉納した常夜灯など、多くの商売関係者の奉納品があります。
私の記憶ではただの田舎町ですが、随分栄えた町だったようです。

同じく、敷地内にある保育園です。

私はここの卒園生です。

ここが地元のブロガーが紹介していたお寺です。
浜茶屋で場所を教えて貰いました。

ここは蓮の花が綺麗との事ですが、もうシーズンを過ぎていました。

その代わり、と言っては何ですが、この松の枝振りが見事です。

浮世絵に、こんな風に円くなった松が描かれていましたよね。

さて、次回は「宮島さん」の報告をします。






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佃島から・・・ -4

2015年08月08日 | 散文
佃島から隅田川越えに、聖路加ビルが見えます。
マンション群とはまた違った、新旧共存の姿です。
堤防上から聖路加病院を望みます。



佃小橋からの景色です。



佃小橋から隅田川へ向かう風景です。



波除稲荷脇の広場からも。



佃煮屋/田中屋の店頭からも、このように見ることができます。



船溜まりからもこのように。



住吉神社例大祭の準備風景。



隅田川岸から、住吉神社の鳥居と並んで。



鳥居脇から堤防越しに。



鳥居から佃煮屋方面を見ます。

佃島の報告はこの辺で・・・。
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故郷でー1

2015年08月07日 | 散文
7月末から帰省しています。
帰省に際してタブレットを買いました。
初めて使います。予想どおり悪戦苦闘しています。

友人と呑んだ後、松山駅発最終の急行にのります。


約30分で今治に着きます。


バリーさんが迎えてくれました。


帰省に際して、予定していた散策がありますが、先ずは近所の散策から。

太平記の寺「瀬田薬師」へは行きません。

「桜井漆器会館」へもいきません。


道の駅「湯ノ浦温泉」へも行きません




地元で最近話題らしい孫兵衛作(地名です)のうどん屋で先ずは腹ごしらえします。

お客さんは、私以外はみんな常連というか顔見知りのようで、プライベートな話題で盛り上っていました。

うどん屋の前の道をひと山越えて、海岸へ出ます。
虎が鼻海岸です。

昔から海に突き出した岩が虎の鼻に見える、と言われていますが、どうでしょう?

海岸沿いに走ります。
公園になっていました。


ここは塩田でした。

雨が少ない土地柄、造塩業が盛んでした。
施設が取り壊されて50年経って雑木林になって、今度また何かを造るようです。
こちらはソーラー発電所になっています。


海岸が整備されています。


隣にサッカー場があります。

地元で話題の、元ワールドカップ日本代表監督岡田武史氏がオーナーである、FC今治のホームグラウンドです。

更にふるさと散策は続きます。



















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佃島から・・・ -3

2015年08月06日 | 散文
漁師街だけあって、隅田川から運河を引き入れて船溜まりを造っています。

その真ん中を佃小橋が掛かっています。

橋からマンション群を見ます。









運河の南端です。

月島側が終点になります。

隅田川堤上遊歩道兼公園のあるトイレです。

粋でしょう?

松尾芭蕉も来ています。
当時は隅田川を大川と呼んでいました。

芭蕉庵から徒歩1時間くらいの距離です。
当時の交通事情からすると、近所でしょう。

隅田川の堤防脇に佃島渡船の碑が佇んで、今も街を見ています。





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佃島から・・・ -2

2015年08月04日 | 散文
佃島の産業として、佃煮屋があります。


3軒の老舗があります。












その佃煮の元となる漁業の街でもあって、好い感じの民家があります。



その中に、屋号を持つ家が幾つかあります。
徳川家康と一緒に江戸に来た家の誇りを感じます。





木工職人の店です。
お箸などを売っています。

けっこう高価です。

彼らの氏神様は住吉神社ですが、島内には佃天台地蔵があります。



民家の間の狭い路地を入って行きます。



狭い参道を進むにつれて、ありがたさを感じてきます。



屋根の上には銀杏の葉っぱが掛かっています。



大きな銀杏の木の奥に、地蔵尊が祀られています。



参道は、民家の間を東西に貫通しています。
西に出た所に、波除稲荷神社があります。

改めて、漁師さんの街であることが理解できます。

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佃島から・・・ -1

2015年08月02日 | 散文
外から見るとマンション群が目につきますが、そもそも佃島は古い街です。

島内に入ると、昔の文化の中で生活を営んでいる様子が分かります。
そして、新旧のバランスが取れている街です。

民家の屋根の上にマンション群があります。



駄菓子屋です。



小さな路地の景色です。



隅田川堤防からマンション群を望みます。



島内には数か所に、現役の井戸があります。
特にこの井戸は新旧の共存を見ることができます。



この辺りは、佃小橋に近い所で、木造建築が少ない地域です。

それでも、マンション群とは違った雰囲気があります。






佃島の中から、マンション群を見てみました。

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