中部砲台跡を後にして北部砲台跡へ向かいます。
時々海が見える散策路です。向こうは馬島です。
装備は軽砲ですが、中部砲台跡と同等の施設が在ります。
この先が中心部です。
繁った草木の向こうに、僅かに煉瓦造りの発電所跡が見えます。
前回8年前に訪問したときには内部に入れました。荒廃が進んでいます。
北部砲台の中心部に向かいます。
中部砲台跡を後にして北部砲台跡へ向かいます。
時々海が見える散策路です。向こうは馬島です。
装備は軽砲ですが、中部砲台跡と同等の施設が在ります。
この先が中心部です。
繁った草木の向こうに、僅かに煉瓦造りの発電所跡が見えます。
前回8年前に訪問したときには内部に入れました。荒廃が進んでいます。
北部砲台の中心部に向かいます。
司令塔跡展望台に上がりました。360度見渡せます。
木が繁って良く分かりませんが、切り立った崖です。
来島海峡の説明です。
順潮時と逆潮時の航路が違います。
あの丸テーブルで幹部が作戦を練っていたのでしょうか?
しまなみ海道と来島海峡大橋です。
360度の展望です。
あの半島状の場所が先日行った大角鼻です。愛媛本土北端の地です。あそこの岩場には「メートル立標」と呼ばれた石柱が置かれて、砲台と敵艦隊との距離、方向を測定する訓練を行っていました。...展望台とはいえ全体的に見晴らしが悪いです。もう少し木々の枝打ちをして欲しいのもですが、国立公園だけに、地元の人が勝手に手を入れられないのでしょうね。
戻ります。
途中で砲座跡を見下ろします。
目を上げると来島海峡です。
狭くて急な石段です。しっかり造っています。
踊り場にもイノシシの痕跡です。
振り返ります。
上がります。
頂上に上がります。今は展望台になっています。
浅草今半脇に、久しぶりの横断幕が張られました。
「下町七夕まつり」です。
コロナ明けで4年ぶりの催行です。すぐ傍の浅草寺を中心に、インバウンド需要が復活しています。指を咥えて見ている商人は居ません。商機到来です。
かっぱ橋商店街の祭りです。
さあ!準備完了ですが、外国人も日本人も集まっていません。ちょっと寂しいぞ⁉
各所にカッパの像が有ります。
商店街のやや西に、「かっぱ寺」が在ります。曹源寺です。
門を入るとすぐ右手にカッパの像が有ります。
奥に進むと、夫婦カッパが有ります。
伝承が残っています。
その「かっぱ河太郎」はこちらで金ピカで祀られています。かっぱ橋道具街の一角です。
ちょっと面白い伝承はこちら。
芸予要塞跡をちょっとだけ離れて、地元の祭りの記事です。
軒先で待機しています。客が買った朝顔を配送する人たちです。
この人出です!コロナ禍でもこの祭りは催行していたのでしょうか?私は4年ぶりの訪問です。
農村で育った私には、2千円が高いのです。朝顔は、田舎ではそこら中に蔓延っています。だから買う気にならないのですが、祭り好きは雰囲気を味わいにやって来ます。「お父さん買ってってよ!」って声を掛けられて、「お前の父親じゃないわい!」と思いながら。
一般的に、祭りは集客と売上を伸ばしたくて金土日に実行しますが、誇り高い江戸の朝顔売りは、毎年7月の6·7·8日に催行します。そこはずっとブレません。
屋台の裏から、新たな鉢植えが搬入されます。コロナ明けで賑わっています。
車道側からも見ます。
ここが「恐れ入り谷の鬼子母神」です。
この中には入りません。高齢者はコロナ9波が怖いです。
さて、言問通りの反対側です。待ちに待った祭りの屋台が並んでいます。
冷やかして歩きます。祭りらしい光景です。
一通り両方の屋台を覗いて祭りを堪能しました。昭和通りとの交差点の歩道にこんな石碑が立っています。
「入谷朝顔発祥之地」です。入谷の朝顔が有名になったのは古くありません。明治になってからです。寺院の鉢植えが始まりと聞いています。その後10数軒の植木屋がそれぞれ500〜600坪の土地で、軒を連ねて作ったとか。今そんな土地はありません。
もう一つは「入谷乾山窯元之碑」です。「いりやけんざん」は、琳派の創始者尾形光琳の弟「尾形乾山」が入谷に窯を開きその作品が「入谷乾山」と呼ばれたものです。
それらの面影は全くありませんが、こうして文化を伝え、祭りを継承しています。東京下町は素敵です。
9日10日は「浅草ほうずき市」です。四万六千日の縁日です。ほうずき市が終わると東京の梅雨が明けると言われています。
中部・北部砲台跡へ向かいます。椿の散策路を行きます。
さっきの弾薬庫跡の防壁です。
何処もかしこもイノシシの痕跡です。こういった景色にだいぶん慣れました。
10数年前までこの小さな島にイノシシは居なかったと思います。それが愛媛県本土で増えたイノシシが、海を泳いでやって来たそうです。野生は生命力に溢れています。
時々しまなみ海道が見えます。
中部砲台跡へ行きます。
到着しました。一番整然としている場所です。
芸予要塞の施設跡で、一番好きな場所です。
屋根は落ちています。
唯一の出入り口に生えた大木が、時の流れを教えます。
右手の兵舎跡は、
前回も見つけられませんでした。益々藪化しています。足元が泥濘んでいます。イノシシが居るかも知れません。
中部・北部砲台跡へ向かいます。
山道に入ってすぐです。
イノシシの痕跡に出逢いました。
コンクリートでない場所を掘り返しています。民家のすぐ傍です。生々しいです。不気味です。私一人なので散策を止めようかと思いました。でも、次の機会はいつ訪れるか分かりません。機会があったとしてもイノシシは益々増えていると思います。「ええい、イノシシは夜行性だ!」 と声にして、行くことにしました。
「発電所・南部砲台跡」方向へ向かいます。
得難い梅雨の晴れ間です。小島の芸予要塞跡へ行きます。帰郷して行きたかった場所の一つです。
「お〜い!待ってくれ〜!乗せてくれ〜!」もやい綱を解いた渡船に飛び乗りました。迷惑そうな顔をされましたがそこは船も承知しています。次の船は1時間後です。乗客は私が乗って3人です。建造中の船の間を渡船は進みます。
複数の造船会社がこの一角に集まっています。
最初の寄港地の来島です。村上水軍の1流、「来島村上」の本拠地です。ん?右から山のような物を積んだ船が来ます。
おお?!建造中の船の一部を造船所に運んでいます。私も初めて見る光景です。
部品(?)は船の後部に見えます。凄い物を見ました。
最初の寄港地は来島です。
村上神社です。
上下船者は誰も居ません。着桟しないで渡船は次の島へ向かいます。
小島です。あそこに芸予要塞跡が在ります。明治政府はバルチック艦隊の襲来に備えて、左端の小山に探照灯、2番めの小山に南部砲台、中央部に中部砲台と司令部、左端に北部砲台を築き、全島を要塞化しました。海上版「坂の上の雲」です。
しまなみ海道の来島海峡大橋を見ながら行きます。
来島海峡です。まだ潮は動いていません。灯台の向こうに半島状に見えるのは先日訪問した「大角鼻」です。愛媛本土最北端の地です。
小島の中央部に集落と港が在ります。
私ともう1人が下船しました。もう1人の客は釣り客です。
船はもう1人を最終寄港地の馬島に運びます。
さあ、私は芸予要塞跡を散策します。
今治城の石垣の上に出ました。西側の景色です。
子供達が元気に活動しています。ご多分に漏れず少子化の影響で、近くの小学校が廃校になっています。
南に移動します。
正面に、太平記の舞台の世田山・笠松山連山が靄っています。
見下ろします。高いです。柵が無いので怖いです。
東へ移動します。
ライトアップの設備が有ります。
北を振り返ります。吹上稲荷神社の朱鳥居が鮮やかです。白壁に映えます。
見上げます。
来年また来ますね。
梅雨時の訪問です。
巨石の石垣ですが、これは当時の物ではありません。昭和55年に再建されたものです。
鉄(くろがね)御門です。
ここにも説明板が有ります。
門を潜ります。
城造りの名手と謳われた藤堂高虎像です。
今治城建設の縄張り姿です。
天守閣です。
これも再建された物です。
説明板が有ります。「・・・藤堂高虎公は家康に信任され慶長13年伊勢の津に国替え増封されたが、天守閣は公が家康から丹波亀山の築城を命じられた時献じて亀山城に移築した。・・・」亀山城は現在宗教団体の所有となっていると聞いています。
藤堂高虎の後の今治は、家康の異父甥、於大の方の孫が転封して、子孫が明治まで治めました。
天守閣へ行きます。
数年前に、今治藩主の2代と5代以降の墓及び7代の墓石の在り処を教えて貰いに学芸員を訪ねた事が有りました。今では時々、教えてもらった深川の霊巌寺に見に行っています。
この話、続きます。
再び故郷の振り返り記事です。暫く続きます。
今治城は日本有数の水城です。
海水を引き込んでいます。
水城ならではの美しさです。
さて、海水はここから出入りしています。
振り向くと水路が有ります。道路を渡ります。
ちょうど今引き潮です。
音を立てて海に注ぎます。
そこには「さくら門橋」が在りました。「堀に海水を取り入れる場所で通称『呑吐・ドンド』という。この奥を流れる水路に架けられた橋の名前である。」
...昔近くに呑吐樋(ドンドビ)というバス停が有りました。
お堀に戻ります。
こんな看板が有りました。初めて気付きました。ここは釣り禁止です。
この橋は「恵比寿小池町一号橋」と言うそうです。
これも初めて気付きました。
小学生の見学のようです。整然と座って説明を聞いて居ます。
ここは5月の初め、天皇陛下が見学に訪れた荒川ロックゲートです。説明している人は陛下にも説明したのかも知れません。その時のエピソードも紹介しているのかも知れません。大人も真剣に聞いて居ます。
面白かったのは、私が写真を撮っているのに気付いた、多分先生が、慌てて生徒達を撮った事です。卒業アルバムに思い出の行事写真が欠けるところでした。良い事をしたような?