本郷の静かな住宅街の一角で、新築住宅が完成しました。
まもなく新しい住人が入居するのでしょうね。何も知らなければ通り過ぎる風景です。
ここには、喫茶「ユーミン」が在りました。
「ユーミン」を覚えている年配者及び街角ウォッチャーに報告します。その経緯は、こちらです。
そして、静かに忘れ去られていきます。もう報告することは無いと思います。
本郷の静かな住宅街の一角で、新築住宅が完成しました。
まもなく新しい住人が入居するのでしょうね。何も知らなければ通り過ぎる風景です。
ここには、喫茶「ユーミン」が在りました。
「ユーミン」を覚えている年配者及び街角ウォッチャーに報告します。その経緯は、こちらです。
そして、静かに忘れ去られていきます。もう報告することは無いと思います。
次に、新聞記事にある「提灯屋 吉野屋商店」を探します。
スマホのナビが教えてくれます。この路地の先みたいです。
エッ?!あのビル??新聞の写真から、和風の店舗を想像していました。
1階の玄関です。現在の提灯屋の姿です。記事の内容です。「この店の3代目(当時42歳)は、火災の危険が刻一刻迫る中、率先身を挺して防火の一線に立つ。特に、倉庫の屋根に飛び火するのを見るや、飛ぶ鳥のごとく屋上に上がって消し止めた。」
「吉野屋は安政元年創業で、手描きの江戸提灯の老舗だ。歌舞伎座地下の木挽町広場にある大提灯も吉野屋の仕事だ。」
へえ~、時代は変わるんだね、と見上げました。
続いて、記事にある「旧和泉町ポンプ所」を探します。左上の写真です。
ですが、スマホのナビの案内の場所にそれらしい建物が在りません。久しぶりに、ナビを持っていても彷徨いました。・・・ひょっとしてこれか?
工事フェンスに覆われた物件が在ります。
これだ!!「解体工事のお知らせ」が貼られています。
解体されるんじゃないか!!
この人に頼んで中を覗かせてもらいました。
新聞の写真の雰囲気があります。新聞記事です。「住民たちを大きく助けたのが震災の前年に完成、2017年まで稼働した旧和泉町ポンプ所だ。消火用の水が足りなくなる中、住民たちは、地区にあったポンプ製造会社のガソリンポンプを借り受け、そのホースをポンプ所に入れ、下水を汲み出して消化に使ったのだ。」
記事は続くが全てを読んでいないというか、読んでいても3ヶ月超前の記事の内容を詳細に覚えている訳がありません。
「れんが造りの歴史ある建物が残る旧和泉町ポンプ所は、震災時の数少ない遺構だが、老朽化によって間もなく取り壊される。跡地には区の子育て支援施設などが建てられる予定だ。」
この人は「保育園ができるみたい」と言っていました。いやいや、重い腰を上げなければ見逃すところでした。すんでの所でその片鱗を確認できた次第です。
やっぱり思いついたらすぐに行動しなければならない、と改めて思いました。何より、体が動く時間は残り少ないのだから・・・。
もう3ヶ月超前の新聞スクラップです。近頃思い立っても腰が上がりません。活動制限を余儀なくされたコロナ禍が拍車をかけました。老化の典型的な症状です。やっと、記事の場所を探しに行きました。
記事の地図が頼りです。先ず、神田川の万世橋へ行きます。
万世橋から眺める神田川です。
橋の袂に「肉の万世」が在ります。
秋葉原の街です。
この界隈がこんなに無惨に焼失しました。死者・行方不明者10万人以上を出した関東大震災から今年で100年だそうです。奇跡を起こした町の跡を探しに来ました。
現在の秋葉原駅前です。
新聞記事にある「和泉公園に立つ『防火守護地』の碑」を探します。千代田区立和泉小学校の隣です。
校門の向こうのビルが校舎です。都会の小学校らしいです。
ここです。
正に都会の公園です。
石碑が有りました。
読みます。「この付近一帯は大正12年9月1日関東大震災のときに町の人が一致協力して防火に努めたので出火をまぬがれました。その町名は次のとおりであります。云々」
そして、新聞記事にこう続きます。「昼食の時間帯に発生した大震災は大きな揺れの後に各地で火災が発生、被害をさらに大きくした。焼土の中に家並みが残った和泉町、佐久間町などの光景に人々は驚きの目を向けたという。」
「地震発生後、各方面から迫る火災に住民たちはバケツリレーなどで必死に抵抗した。長時間にわたる消火活動で住民の疲労は深かった。そんな中、発生から丸一日たった2日午後3時ごろ、最大の火災がすさまじい勢いでのしかかってきた。数百名の住人は二列縦隊をつくって七個の井戸から汲み上げた水をバケツで手送りし、全力をあげて消化に努めた。午後11時ごろには完全に食い止めることに成功、約1600戸が焼土の中で焼け残った。記録は『焼け残りは全て住民の努力によるもので、消防署は防火活動に全く従事していない。』と記している。」
この話、続きます。
あれっ!?と立ち止まりました。
数年前に、静岡の銀行が違法な融資を行ってシェアハウスを建設させたものの入居者が集まらず、融資の返却ができなくなって、多くの所有者が倒産自己破産した事件がありました。
多くの物件は第三者が安く買い取って、名前を変えてシェアハウスを継続しています。この名前が残っているのは、当該事業の成功事例と言えるでしょう。
こんな住宅街に在ります。
近くにこんな、江東区の支援事業事務所が在りました。木密度が高い地域です。
そこには砂町銀座商店街が在ります。
真夏日の昼下りです。
こんなシールが貼られていました。
「ボム用心」って何だろう?爆破予告だろうか?色合いも不気味です。
京成立石駅前「呑んべ横丁」です。
これ以上繁栄することは無いだろう呑んべ横丁に、「ボム用心」は不気味です。
いつも覗いて通ります。
あれっ!?店頭に飾られてい仮面が有りません。
あの壁には店主の仮面と、店主が肖像権を買ったという女性の仮面を不気味に飾っていました。「棒と仮面」と書いた紙が貼られています。商売替えしたのではなく、扱い商品を増やしたようです。しかも、表現的には「棒」が前面に出て「仮面」が従のようです。
少しだけ、仮面が有ります。
ふうん、、、通り過ぎました。
下町人情キラキラ橘商店街のアーチ前です。
小さなスペースです。休憩所のようです。棒が転がっています。
...これもあの店主の作品だろうか?
開店当初の「仮面屋おもて」の記事はこちら。
説明板が有ります。
今は集合住宅になっています。「常磐会」は、伊予松山藩の後も愛媛県教育委員会が育英事業を引き継いで、確か、昭和の時代(平成の時代かも)まで寄宿舎でした。
その前に、数年前に改修された坂が在ります。樋口一葉が住んだ菊坂下に続く坂です。
見上げます。
更に降りて行きます。菊坂は本郷の坂下です。更に、地の底に降りていく感じです。
振り返って見上げます。
石段を降りても下り坂です。百日紅が咲き始めた路地です。
菊坂下は地の底です。樋口一葉が使った井戸だけでなく、ここにも井戸が有ります。
地の底は水資源が豊富です。
薄暗い井戸の路地を振り返ります。
菊坂下の通りに出ます。宮沢賢治も住んだ、樋口一葉の井戸に続く路地です。
菊坂に上がりました。
陽が射すと、街頭の銅製の傘が、キラキラ光る路地です。
樋口一葉の井戸上路地の鏑木門を出ました。
急坂は「鐙坂」です。
急坂なので石垣を多用した住居です。ちょっと好いです。
鐙坂を見下ろします。
最近、坂の途中のこの路地が気になっています。
すぐに行き止まりになる袋小路です。
三軒長屋の手前二軒はもう住んで居ません。
振り返ります。
家庭菜園の路地でもあります。
見下ろす菊坂下の甍です。
結構長い梅雨です。東京は空梅雨ですが。そうだ! あそこへ行こう! とやって来ました。
今日の目的は、この石段です。
苔を観に来ました。が、やっぱり雨に濡れた石段でなければつまらないですね。梅雨の風情に乏しいです。
自転車散策なので、雨降りは敬遠してしまいます。
雨に濡れたこの一角が絵になると思っています。
石段上から眺めます。
梅雨時の雨の日がお勧めなんですが、どなたか行きませんか?
大相撲名古屋場所が始まっています。両国駅前が寂しいです。
国技館周辺も寂しいです。
見所が沢山ある今場所です。先ず、白桜鵬が遠藤と並ぶ、昭和以降最速で新入幕を果たしました(遠藤って凄かったんですね)。四股名は、師匠白鵬に「桜」が加わります。強そうです。先々は、「伯鵬(はくほう)」の名乗りもあるそうです。大器です。他には豪ノ山、湘南乃海が新入幕です。活躍が楽しみです。
国技館のポスターです。だいたい優勝しそうな力士をモデルにしますが、相撲協会でも優勝力士を特定し辛いようです。モデルになっている貴景勝は休場しています。
陸奥部屋の霧馬山改め霧島が新大関です。新大関の初日から休場です。それって、来場所いきなりのカド番にならないか?それに、せっかく盛り上がっている場所前の期待が、両大関休場じゃあ、肩すかしみたいな場所の始まりです。 でも、4日めから出てきて勝ったぞ!頑張れ!! 今場所は、大栄翔、豊昇龍、若元春の3人が大関取りに挑みます。今場所一番の見どころです。
看板の字が気になりました。師匠が自分の「霧島」を弟子に譲りました。そうなると、この「元」は「前」とすべきかな?「ちゃんこ霧島」も、現役大関が経営しているのかまぎわらしい、、?
さて、地方場所になると両国の周辺が寂しくなります。春日野部屋です。相撲取りが歩いていないし、何より自転車の放列がありません。
大所帯だけに寂しいです。
出羽海部屋も同様の景色です。この部屋はいつも玄関が開いています。地方場所で閉まると寂しいです。
ここの玄関戸はこんなに頑丈そうなんですね!?
やって来ました伊勢ヶ濱部屋です。
先場所休場明けの照ノ富士が、復帰即優勝しました。14勝の立派な成績でした。すみません。私は休場明けなんだから10勝で良し、なんて言っていました。他の力士との力量差を見せつけられると共に、彼の精進に改めて敬服しました。
私の優勝候補はもちろん照ノ富士ですが、3日目で、雑で強引な取り口で2敗して、足取りがおかしい?腰を痛めたみたいです⁈ で、4日めに休場しました。嗚呼、回復すれば良いけど、、、
優勝力士予想は、朝乃山に替えようかな。。。
浅草ほうずき市です。2日目の訪問です。
お昼時なので混雑していません。
4年ぶりの開催なので、昨日は随分と売れたと思います。表情に余裕があります。
食べ物屋台も出て、お祭り気分満載です。
昨日今日と、今年初めての猛暑日です。
四万六千日の縁日です。縁日にお詣りしたら、四万六千日分のご利益があるそうです。・・・それって、1日の参拝でそれだけの効果が得られるのは有り難いことだけど、四万六千回分のお賽銭が必要じゃないのだろうか?
だからってわけじゃないけど、お詣りしません。祭り好きですが、あまり信心深くありません。
隣の浅草神社の夏詣が賑わっています。
さあ、ほうずき市が終わったら、東京の梅雨が明けます。猛暑日が続くのだろうか?
渡船は一路波止浜港に向かいます。
海から造船所を眺めます。
複数の造船会社がここに在ります。日本一の生産台数の場所です。
着桟しました。小島から僅か10分の船旅でした。
誰も乗りません。25分後の出発です。
それまで船を繋ぎます。こんな仕事も好いなあ。
芸予要塞跡訪問記でした。お付き合いありがとうございました。
馬島から渡船がやって来ました。時間どおりです。
乗船を確認するために、「プ〜!」と汽笛を鳴らします。手を挙げて乗船の意思を告げます。前回と同じです。変わらない日常が続いています。
船がやって来ます。
乗客は私だけです。来島海峡は急流だけど通過する船が多いです。
来島へ向かいます。
汽笛を鳴らします。
船が近づきます。乗客が居ます。
村上神社です。今度は時間を沢山取って、来島、小島、馬島の三島を散策したいです。馬島はしまなみ海道から自転車で行っても良いです。
乗客は1人です。釣り客です。私は何度かこの渡船に乗っていますが、乗客が3人を超えたことが無いです。朝夕は混むのだろうか?運航廃止にはならないですよね?島の住民が困るからね。
波止浜の造船所が目の前です。
北部砲台跡から海岸道路に降ります。
潮が流れています。
海岸道路を港へ行きます。
急流です。
花の名前を知りません。
小島漁港です。防波堤の向こう側が小島港です。
数軒の住民が暮らしています。
馬島です。あそこから渡船が来ます。
振り返る北部司令塔跡です。結局誰にも遭いませんでした。山中の兵舎跡なんかで出遭ったら、寧ろ怖いか?
この次は展望台に上がりたいです。
北部砲台跡です。
探照灯台跡は行けなし、見ることもできません。前回訪問時と同様です。
展望台へ行こうと思いました。
土で石段が塞がれています。今回は上がれません。長梅雨の影響でしょうか?
イノシシの足跡が有ります。彼らのせいでしょうか?
見上げる展望台の方向です。小規模ですが、中部司令塔と同様の施設が在ります。大島側の風景が綺麗に見えるのになあ。
戻ります。要塞跡全般に、前回8年前の訪問時と比べて荒廃が進んでいます。特に北部砲台跡周辺が顕著です。
海岸道路を行きます。
前回訪問時の北部司令塔跡(展望台)の記事はこちらを参照ください。