駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

断捨離はどのように

2013年06月09日 | 小考

               

 一時、断捨離という言葉をよく目にした。要らない物は捨てると言うことらしいが、ああそうかと要る物まで捨ててしまった人もいると思う。

 本家?から、ちゃうちゃう物への執着を捨てることですと叱られそうだが、私くらいの歳になると物への執着はさほどでない人が多いと思う。物が捨てられないのは、いつかは使うんではないかという勿体ない感覚と思い出の縁という気持ちのせいで、執着とは少し違うだろう。

 まあ、勿体ない感覚の方は確かに思い切って断ち、捨てて空間を生み出した方が良いことも多いと同意したい。しかし、思い出の縁の方は断ちがたいものも多く、おいそれとは捨てられないと今は思っている。記憶というものは失われることはないのだけれど、いつの間にか錆び埃が着いて薄暮から暗闇の中へと仕舞い込まれてしまう。何かの縁がないことには思い出されることもなく、黄泉の世界まで持ち込まれていってしまう。

 あんまり本が多いので、学生の時に読んだ医学書を何十冊も引っ越しの時に捨ててしまった。後で、捨てたのは本ではなく、記憶だったのだと気が付いて後悔している。昔、読んだ本を読むと、読んだ時考えたこと読んで憶えたことを思い出すことができる。もう半世紀近い昔の医学知識などと言わないで欲しい。捨てがたく残しておいた沖中重雄の黄ばんだ内科診断学の本を開いて、痛感することだ。

 実際には物よりも情報の断捨離というか取捨選択が、重要に思う。芸能界情報には疎くネットの見出し以上の知識はない。昼食の時職員が見ている笑っていいともをお相伴しているが、タモリしか分からないことも多い。開業医には世間知も必要と言う向きもあるが、お前はそればっかりと嘯いている。

 孔子様は耳順と言われたようだが、私の場合、好きにさせて貰いますと言う方がよろしおす。

 

コメント (6)
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