バッハの教会カンタータ第91、92、93番、ブランデンブルグ協奏曲、ヨハネ受難曲を聴く。
バッハの教会カンタータは、宗教詩と音楽を通じて、キリスト教の思想と感情を民衆の心の奥深くに刻みつける。今日では、特にわが国ではバッハなどは主にコンサートや音楽会で聴くが、バッハ自身は教会堂専属の作曲家として、毎日曜日ごとのミサや祝祭日に民衆が聴く音楽のために精力的に作曲した。彼の音楽は人間の情感を掘り下げ、切り開き、そこにキリスト教の思想を類まれな旋律でもって教化し続ける。この職人の芸術では音楽が言葉を支え、もっとも抽象的で原始的な「言葉」として、さらに根源から人間の情感を揺り動かす。そこには確固たる文化の様式がある。民族はこうした文化によって育まれるのだ。バッハの芸術もキリスト教なくしては生まれなかった。
キリスト教はもちろん普遍的な宗教である。キリスト教の神は人類の神であるから。しかし、それがどのように民族に受け入れられるかは、その民族の特殊性に従わざるをえない。日本独自のキリスト教神学やキリスト教芸術があって当然である。滝廉太郎の音楽や波多野精一氏らの哲学は、近代日本のキリスト教受容史の一つの足跡だと思う。
詩人、高村光太郎がブランデンブルグ協奏曲を聴きながら、十月三十一日に作った詩がある。
「ブランデンブルグ」
岩手の山山に秋の日がくれかかる。
完全無欠な天上的な
うらうらとした一八〇度の横道に
底の知れない時間の累積。
純粋無雑な太陽が
バッハのように展開した
今日十月三十一日をおれは見た。
「ブランデンブルグ」の底鳴りする
岩手の山におれは棲む。
山口山は雑木山。
雑木が一度にもみじして
金茶白緑雌黄の黄、
夜明けの霜から夕もや青く澱むまで、
おれは三間四方の小屋にゐて
伐木丁丁の音をきく。
山の水を井戸に汲み、
屋根に落ちる栗を焼いて
朝は一ぱいの茶をたてる。
三畝の畑に草は生えても
大根はいびきをかいて育ち、
葱白菜に日はけむり、
権現南蛮の実が赤い。
啄木は柱をたたき
山兎はくりやをのぞく。
けつきよく黄大癡が南山の草廬、
王摩詰が詩中の天地だ。
秋の日ざしは隅まで明るく、
あのフウグのように時間は追ひかけ
時々うしろへ小もどりして
又無限のくりかえしを無邪気にやる。
バッハの無意味、
平均率の絶対形式。
高くちかく清く親しく、無量のあふれ流れるもの、
あたたかく時にをかしく、
山口山の林間に鳴り、
北上平野の展望にとどろき、
現世の次元を突変させる。
おれは自己流謫のこの山に根を張つて
おれの錬金術を究尽する。
おれは半文明の都会と手を切つて
この辺陬を太極とする。
おれは近代精神の網の目から
あの天上の音に聴かう。
おれは白髪童子となつて
日本本州の東北隅
北緯三九度東経一四一度の地点から
電離層の高みづたいに
響き合ふものと響き合はう。
バッハは面倒くさい岐路を持たず、
何でも食つて丈夫ででかく、
今日の秋の日のやうなまんまんたる
天然力の理法に応へて
あの「ブランデンブルグ」をぞくぞく書いた。
バッハの蒼の立ちこめる
岩手の山山がとつぷりくれた。
おれはこれから稗飯だ。
Bach - Richter, Conciertos de Brandenburgo 1-6, BWV 1046-1051