作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

詩篇第八十四篇註解

2006年10月12日 | 宗教・文化

詩篇第八十四篇

ギティトの調べにのせて指揮者に。コラの子供たちの賛歌。

どんなに愛されていることか。あなたの幕屋は。万軍の主よ。
主の庭を慕って、私の心は絶え入るばかりです。
生ける神に向かって、私の身と心は喜び歌います。
あなたの祭壇の傍らに、
スズメが宿を見出し、
ツバメが巣を作って雛を育てるように、
万軍の主、私の王、私の神よ。
なんと幸せなことか。あなたの家に住まう人は。
あなたを賛美する彼らは、さらに。セラ
なんと幸せなことか。
あなたの中に力を得、あなたの道を心に見る者は。
涙の谷を過ぎるときも、そこを泉に変え、
初雨もまた祝福となる。
彼らは力強く歩き、シオンで神々の神を見る。
主よ、万軍の神よ、私の祈りを聴いてください。
耳を傾けてください。ヤコブの神よ。セラ
私たちの盾をご覧になり、
あなたが油注がれた者の顔を顧みてください。
まことに、あなたの家の中庭で過ごす一日は、ほかの千日にも優ります。
悪人の天幕に住まうよりは、
私の神の家の門口に立つことを選びます。
まことに、主なる神は太陽にして盾。
主は恵みと誉れをお与えになる。
まっすぐに歩む者に、良いものを拒まれない。
万軍の主よ、
なんと幸せなことか。あなたに信頼する人は。

第八十四篇註解

巡礼のときに歌われたらしい。
ギティトとはハープのような楽器らしく、ガトからダビデが持ってきたとも言われる。
主の宮に旅だつ巡礼者は、主の宮の中庭をあこがれ慕って身も心も絶え入るばかりである。主の住まわれる宮はそれほど人々から愛されている。
その憧れ切なさが募るほど、それはやがて生ける神への出会いを予感して歓喜に代わる。恋する者にこがれるように、巡礼者は切ない憧れを歌う。
スズメやツバメがそこに巣を造るように、巡礼者は主の宮にたどり着き、そこに宿り憩う。主の宮に宿る人は、まして、主を賛美する人はどんなに幸せなことか。なぜなら、彼らは主の中に力の源と巡礼で辿り行くべき平安の道とを心の中に見出しているから。

私たちの生涯も巡礼のようなものである。涙の谷もあれば、苦難の山もある。

しかし、主に信頼する者には、嘆きも苦しみもすべて歓びの泉に変わる。雨も恵みの雨となる。
彼らはますます力強く歩み、ついにシオンで神々の中の神にまみえる。そこで私たちの祈りの聴き入れられることを祈る。

第十節にある「私たちの盾」とか「あなたが油注がれた者」とは誰のことだろうか。巡礼者たちを導き上った指導者か、あるいはダビデのような民族の指導者のことかもしれない。キリスト・イエスと読むこともできる。父なる神が独り子キリスト・イエスを顧みられ、永遠にいとおしまれるように。

木立に囲まれた美しい主の宮の中庭で過ごす一日は、他の所で過ごす千日にも優る喜び。まして荒野の日照りに悪人たちと同じ天幕に住まうぐらいなら、主の家に門番に立っていた方がましである。

主は、大地の恵みの源である太陽と私たちの身を護る盾にたとえられる。
主は、正しくまっすぐな道を歩む者に限りない恵みと誉れをお与えになり、良きものを何一つ拒まれない。主に信頼するものは、なんと幸せなことか。

しかし、旧約の人々がこうして憧れ巡礼で訪れたエルサレムの神殿はすでにイエスの死後、予告どおりに崩壊して今はない。今日では「嘆きの壁」として一部が存在しているばかりである。昔の神殿の麗しい面影はない。
イエスは「この山でもエルサレムでもないところで礼拝するときが来る」(ヨハネ書4:21)と言われ、イエスの宿る、聖霊の宿る私たちの身体こそが神殿とされるようになった。(コリント前書6:19)

そして、人間の手によって造られた幕屋、神殿にではなく、イエスは天に昇られて、そこで永遠の祭司としての位に就かれたのである。

こうして地上の神殿は天上に上げられ、私たちは、この天にある神殿に向けて、地上の巡礼の旅を続けることになる。しかし、たとい、神殿の場所が地上のエルサレムから、天上のエルサレムに遷されたとしても、地上の巡礼者が主の宮の麗しさを憧れ慕う心は変わらない。

 

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