そうしたクラスの組織面での研究とともに、民主主義の精神的な、倫理的な教育訓練をも研究改善し実施してゆく必要がある。
たとえば、「民主主義手帳」(名前は何でもよいし、冊子の形式でもよい)を作成して配布し、生徒たち一人一人に持たせることである。その中に、学校生活のあり方や民主主義の倫理観などの基本的な事項を記載し、ホームルームの時間などに、常時活用できるようにしてゆくのである。戦前は「教育勅語」などがその機能を果たしていたが、今日に至るまで、それに代わる確固とした倫理基準が学校現場で生徒たちに教えられていないことが問題なのである。
「教育勅語」に代わるべき倫理観とは何か。それは「民主主義の倫理観」である。そうした問題意識が、首相や文部(科学)大臣、教育委員長などに必要ではないだろうか。
それとも「民主主義の倫理」など聞いたこともないか。
個人の尊厳とは何か、基本的人権とは何か。なぜそれは尊重されなければならないか、具体的な学校生活の状況のなかで教えてゆかなければならない。現状ははなはだ不十分だから、問題を防ぎきれない。オーム真理教事件などは、現在の日本の学校教育の失敗の象徴ではなかったか。
その他にも、法律や規則は遵守すべきこと、多数決には従うこと、しかし、少数意見も尊重されて、意見を無理に変える必要はないことなど、そうした民主主義の精神と倫理についての基本的な概念を生徒たちに教えて行くことである。そうして学級や学校を民主主義教育の現場にしてゆく必要がある。
また、具体的な教科の内容や教材などについての学習上の問題の把握と改善や、体育祭・文化祭などのクラス運営の問題などについても、子供たち自身の民主主義的なクラス運営によって、できうる限り自主的に解決してゆくための教育訓練も必要である。クラス会議の議長や書記の選出や議事録の取り方、文書管理の仕方など、会議の運営の仕方を教え訓練して、クラス運営の技術などについて基本的な事項を説明し、それを常に生徒と教師に携帯させて活用して、教育訓練してゆくことである。
そうしたクラス運営のための基本的な知識や技術も「民主主義手帳」に記録して、日常的に民主主義の精神倫理とその活用の技術をクラスの現場で教えてゆく必要がある。
ホームルームなどのクラス全体会議で、クラス内で起きている問題を、もし北海道の滝川中や福岡の筑前市の三輪中の生徒たちに起きているような「いじめ」があれば、それをクラスの問題として、生徒自身に自発的、自主的に発言させ、常にどんな問題であってもクラス内の出来事は隠すことなく問題提起でき「情報公開」できる雰囲気をつくり、同時に、クラス全体の力でクラス内の問題を自主的に解決してゆく訓練に日常的に取り組んでゆくことだ。
そうした教育訓練の必要を学校教育関係者、文部科学省職員、さらには安部首相や伊吹文部科学省大臣などが切実な問題意識としてもち、そうした民主主義教育の研究こそを実行して、その恩恵を生徒たちにもたらすようにすべきである。
安部内閣は教育改革を重要な課題として取り上げ、教育改革諮問会議をも立ち上げている。しかし、率直な感想としては、おそらくこれらの陣容では改革の実は挙がらず、今度もせいぜいお茶を濁すだけに終わるのではないだろうか。