城南宮の梅
学生時代の頃から数え切れないくらいに、この神宮の前は何度も通過しているはずだけれども、興味も関心もなかったのか、これまで一度も境内の中に入ったことがなかった。
たとえ、どんなに眼前に据えられても、それに興味がなかったり、問題意識がなければ、その人間にとっては存在しないに等しい。それなのに最近になって神社や庭や梅にいくらかでも関心を寄せるようになったというのも、それだけ私も齢を重ねたということかもしれない。
この間から、城南宮の梅が見頃になっていると聞いていたので少し気にはなっていた。寒かったり雨が降ったりしたのに、たまたま今日は比較的に暖かく晴れてもいたので、思い切って訪ねてみることにした。命の残された時間にどんなに見たとしても、指折り数えることができるほどしかない。一年に一度しか咲かないから。
久我橋を通って桂川を渡る。そうして国道一号線を渡ってすぐのところに城南宮はある。今となってはまったく市街地の真中に位置している。
城南宮が創建されたのは、奈良から平安京に遷都された折だから、在原業平や藤原高子の生きた時代である。同じ時代に洛西には、藤原氏の一族の氏神春日大社が分祀され、大原野神社として建立されている。城南宮は平安京の南の地に、国土守護の神社として創建された。
鴨川と桂川が交差しているこのもっとも風光明媚な地に、白河上皇は光源氏の大邸宅、六条院を模して、鳥羽離宮と城南離宮を壮大に造営したという。上皇はそこで舟遊びや競馬、歌会などを催して華麗な王朝文化を花開かせた。城南宮は方除けの大社だから、紫式部や更級日記の菅原孝標の娘なども方違(かたたがえ)などの安全祈願に来たこともあるにちがいない。
この神社の縁起によれば、承久三年(1221年)に後鳥羽上皇は、この離宮に流鏑馬と偽って武士を集め、承久の乱を起こした。さらに慶応四年(1868年)には薩摩藩がこの神社に陣を構え、幕府に大砲を放って、鳥羽・伏見の戦いを始め戊辰戦争の緒が開かれたという。そんな歴史の舞台も、今はもうもちろんその面影はない。
よく晴れた空の下に、神社は明るい日差しを受けていた。この神社も今となれば全く市街地の真中にある。鳥居をくぐり、本殿を拝してのち、順路の標識にしたがって庭を巡る。平日で混んではいなかったけれど、そこそこの花見客、参拝客はあった。
果たして確かに梅の花は盛りで見頃だった。花の一番きれいなときに出くわすのは難しい。ただ花の香りは期待したようにはなかった。かって、この地がこの上なく美しかったときの、山紫水明の面影は、境内のいくつかの庭の中のせせらぎや築山に、その片鱗がかろうじて残されているにすぎない。
今を盛りと咲いているのは梅だけだけれど、庭内にはさまざまな植物が植えられてあるらしい。草木の植わっているらしいところに標識が立てられ、植物の名前と、それにゆかりの源氏物語の一節や和歌が書かれてある。何回かこの庭を訪れれば、日本の古典にゆかりの深い古来の植物にも詳しくなるかもしれない。禊の小川をまたいで、梅が花盛りの春の山の前で何枚か写真をとる。
「平安の庭」の前には春の七草も植わっていた。芹の一茎を摘んで、香りをかいでみる。どんなに小さな川の流れでも、水は心を憩わせる。確か詩篇のなかにもダビデが水際に憩う歌があった。
狭い日本だから庭もささやかなものであるのはやむをえない。まして、市街地に何百ヘクタールもの広大な庭を望めないのは仕方がない。いったん神苑を出て通りを横切って、城南離宮の庭から、室町の庭、さらに桃山の庭とそれぞれの時代の特徴を帯びた庭を眺める。室町の庭の前には抹茶を振舞う社屋があり、池には緋鯉が泳いでいた。その前に紅白梅がきれいに咲いていたので、それも写真に収める。
そんなに広くはない庭園内に実にさまざまな植物が植えられている。今は梅か桃しか眺めることができない。もちろん、桜はまだだ。しかし、藤棚はあったし、カキツバタの池もあった。女郎花を詠った紫式部の和歌を記した標識もあったから、秋になれば、萩や桔梗や女郎花も紅葉と一緒に見られるのだろう。桜かツツジか藤かカキツバタの頃に、もう一度来て見るのもいいと思った。紫式部の天才は実に多くの植物を題材に歌を詠んでいるのに感心した。ふたたび帰り来ぬ時の記憶のために。